(投稿者:Cet)
※この作品はMaid世界との関連性が非常に薄いです。強いて言うならば私の脳内でほんの少しの関連付けがされているくらいです。
暗い森の中を歩く
里枝は下駄箱に入っていた白い封筒を見つけて、少しばかり固まって、それから手にとってみせた。周囲をきょろきょろと見回して、誰もいないことを確認すると、それの口を開けてみた。糊付けはしていなかった。
一枚の便箋には、お世辞にも綺麗とは言えない文字でこう書いてあった。
明日の放課後学校の屋上に来てほしい
記名はなく、何の目的を持って書かれた物なのかがイマイチ判然としない、正直不気味にすら思えるものだった。里枝はそれをどうしようかと迷い、結局学校指定のバッグにそれを入れて、帰路に就いた。
太陽はとっくに傾いていて、町を茜色に染めている。影法師が長く伸びた。
どこかでアブラゼミが鳴いている。
夏用のセーラー服を翻して、リズムを変えながら歩いた。時折駆け足にもなる。
気持ちがどこか浮ついていた。とはいってもそれは高揚とは違うもので、どちらかといえば不安定さを覚えるものだ。
要するに不安なのだ。
彼女は汗を掻いてしまうのにもかまけず走り始める、とにかく家へと帰りたかった。
今家には母と弟がいるだろう。母は晩御飯の支度、弟はテレビを見るかゲームをしているかのどちらかだ。早く日常に合流したい一心で彼女は走った。
「ただいまー」
マンションの一室の玄関扉を開けるなり彼女は言った。
「おかえり、今日は早かったね」
「走ってきちゃった」
二人の子供がいて、しかも年長の自分はもう高校生だというのに若々しさを感じさせる母がキッチンから玄関までやってくる。
「どうしたの?」
よほど蒼白な顔色でもしていたのか、母の方から尋ねてきた。
「分かんない、何となく。汗掻いちゃった」
「ま、いいわ。もうご飯できるからね」
母はそう言ってにこりと笑った。本当のところ、下駄箱に入っていた手紙が次第に不気味に思えてきたのだが、こちらとしても母親をわざわざ心配させることはない、そう思うことにした。
「ただいま和樹」
「おかえり」
弟はリビングの絨毯の上に寝転がってテレビゲームの真っ最中である。返事もどこか上の空だ。
「宿題終わった?」
「うん」
たまにはお姉さんらしく言ってみようと意気込んで、この返答だった。
「偉いなぁ」
「何か悪いことしてるみたいじゃん」
少しだけ不機嫌そうな顔をした弟がこちらを振り返った。
「そんなことないよ、偉い偉い」
「変な姉ちゃん」
やっぱり変かなぁ、と心の中で一人ごちる。
それから晩御飯になった。ダイニングキッチンのテーブルの上に並んだ食事を三人で食べた。テレビを見ながらの、家族団欒である。
「お父さん今日遅いかな」
「特に何も言ってないから、大丈夫じゃない?」
意味があるのかないのか分からない会話も、中々いいものだ。
その後は、お風呂に入り、今日の分の宿題をする。そうして眠る。
夢を見た気がしたけど、朝になったらすっかり忘れていた。
「いってきまーすっ」
いってらっしゃい、と母と父との声がかかる。今日の父はゆっくりと朝ごはんを食べていた。
そんな父に対して少しだけからかいを入れると、父は笑いながらおはようと言った。
自分もおはようと返す。いつもと少し違った会話は気分を新鮮にしてくれた。
「おっはよう!」
肩をばしっと叩かれるのも、案外悪くないかもしれない。
「おはよう、和美。今日も豪快だね」
「微妙に褒めてないでしょ」
「そんなことないよ」
嘘、とわざとらしい詰問口調で質してくる少女に、ごめんごめん。と謝るのだって、悪くない。
「全く、朝から純情な少女の心を抉ろうとするなんて」
「私ってひどい女だね」
「いやそこまでは言ってないって」
ちょっと困った顔をしてくれるのも、結構いいものだ。
「冗談だよ冗談」
そう言うと、和美の表情は緩んだ。
「こっちだって冗談だよ、ところで今日の数学の宿題やってきた?」
「うん、和美は?」
「まさかしてきたと思う?」
苦笑いをするほかない。
「昼休みに教えるよ」
「まあただ写すよりはその方がいいか」
里枝は少なくとも突っ込み役ではなかったので、ちょっと返しに困ってしまった。もう、とだけ呟いた。
「起立、礼」
「お願いします」
一時間目の授業で、いつものように里枝は号令をかけた。
お願いします、と先生に対しクラスメイト達は復唱っぽく応える。いつも通りだけど、里枝は少しだけ緊張していた。
今日の放課後、どうしようか、行くべきか、行かないべきか。
そんなことを考えているばかりで、授業は瞬く間に過ぎていった。
昼休みになって、仲の良い女子達と机を囲む。その中には当然和美の姿もある。
「何か今日の里枝には元気が足りない」
ふと切り出した女子の一言に、和美が応える。
「シニカルさはいつもの通りだったけどね」
「どういうこと?」
「いや何時もどおりじゃない? ってこと」
「そ、そうだよっ」
と慌てるそぶりを見せてしまって、里枝に視線が集中する。
「里枝、遂に恋をしたのか」
「違うからね」
まさか言い当てられるはずもないが、女子の典型的な悩みの方に集中してくれた。
「里枝はいつ恋をするのか」
「何なら私達が色々教えるよ」
「違うってば」
里枝は困ったように返す。
「レズなの?」
「ちがうよっ」
「私、里枝なら別にいいよ」
「カミングアウトだ!」
あははは、と話題はいつも通りに流れる。因みにここは共学だ。
そんなこんなで放課後になってしまった。里枝は部活に行くということで友達と別れ、その足で屋上へと向かった。
屋上への扉の前には照明が無い。
どこか日常から遠ざかったような空間で、下校時間の喧騒もどこか遠くに感じられる。
鍵は閉まっておらず、ノブを捻った。
夕焼け時には遠く、空はまだ青かった。男子が一人、扉に背を向けて、屋上をぐるりと取り囲む柵の前に立っていた。
その男子はこちらを振り向く。知らない顔だった。
眉が細く、肌はどちらかと言えば白い。唇は細く結ばれていて、健康そうな顔立ちだった。
「こんにちは、私に、用なんですよね」
そう先に声をかけると、男子は緊張した面持ちで俯いて、頭をぽりぽりと掻いた。
「そうだよ」
「あの」
「君が好きだ」
男子はまっすぐにこちらを見て、そう告げた。
彼女は何を応えていいか分からずに、ただ戸惑った様子でその視線を受け止めた。
「いつまでも若くなんかないんだ」
男子はそうやって呟いた。
穏やかな風が、吹いていた。
「恋、したくないか」
「したい、けど。恋ってなんなのか分からない」
彼女は息継ぎをするように言った。
男子は彼女から目を反らして、背後の柵をがっしりと握りしめた。ちくしょう! と全校生徒に聞こえるような声で叫んだ、二度、三度と叫ぶ内に、彼女は踵を返して走り出していた。階段を駆け下りていく。恥ずかしさで顔が赤くなった。
これが恋なのだろうか、違うと思う。
男子は叫んでいた。
彼女は走っていた。
ちくしょう! ちくしょう! と、放課後の学校に声がこだましていた。
最終更新:2009年06月21日 19:52