(投稿者:怨是)
人間は自由で平等で、博愛を目指すべきだっていうのは、誰が決めたんだ。
いつもそうやって理想ばかり掲げて、実際には真逆を進んでばかりじゃないか。
問題は何度もやってくる。
周りを巻き込みながら。
だからこそ“問題”という言葉は生まれた。
バベルの塔が崩壊するずっと前から、きっとその言葉は存在したんだ。
俺は頭を抱えている。それ以外にやる事が思いつかないからだ。
大声を張り上げて叫んでやっても良かった。
でも、叫べばきっとあいつがやってくる。
あいつは優しい声で頭を撫でるが、俺は堕落する。
だから俺は叫ばない。
少なくとも今は。
――1945年1月14日。
ルージア大陸屈指の豪雪地帯でもあるこの
ベーエルデー連邦において、コーヒーの温もりは人々の救世主である。
場末に佇む明朝のコーヒー屋は、いつものように夜勤を終えた人々や酒場の梯子代わりの人々で溢れかえっていた。
隅の席から周囲を眺める
アシュレイ・ゼクスフォルトもまた、仕事帰りにこの店へ足を運び、新聞を広げるのが日課となっている。
カフェインの精霊の加護にあやかるべく、カップに口を付ける。
「MAID増産計画施行、か……」
無造作に開いた面の大見出しが、視界を支配する。
軍属経験を生かして夜間警備の仕事に就いたアシュレイは、一般にそう呼ばれる以外の戦場を経験する事になった。
この世の関節の外れる音を何度も耳にした彼はある程度まで、客観視する視野を獲得した。
結果、視点は直立から雌伏へ、そして雌伏から俯瞰へと変遷を辿り現在に至る。
斜めに見据えると様々なものが見えてくるのだ。表面だけではなく、断面までも。
この記事のMAID増産計画にしても背景の仔細を見る事は叶わないが、何らかの思惑が複雑に絡み合っている事くらいはすぐに理解できた。
ふと、カチカチと繰り返される微弱な金属音に視線を上げると、サングラスに無精髭の男が口元をにやつかせているのが見えた。
その白々とした歯に咥えられた煙草からは、火薬のようなにおいを立ち上らせている。
男の左手にはシミだらけのライターが握られ、指先で開閉されていた。
「なァ、誰かと待ち合わせしてたりするかい?」
「生憎、そんな相手は居ないなぁ。良かったらどうぞ」
「すまねぇな坊主。ここに来るのは初めてだから勝手が解らなくてさ」
日の光とは縁の無さそうな青白い肌に痩せこけた頬、ぼさぼさのアッシュグレーの短髪や皺だらけのシャツが、堅気でない商売を思い起こさせる。
きな臭さの滲み出たその男は灰皿に煙草を押し付けつつコートを畳み、腰を降ろした。
サングラスの奥からその目つきを窺う事は叶わなかったが、仕草からすると純粋に人懐っこい笑みを浮かべているだけなのだろう。
まずはサングラス男が、かじかんだ指先をほぐしつつ口を開く。
「この季節は本当に寒くてかなわんね。関節が凍っちまいそうだ」
「毎年のように浮浪者が凍死してるよ。死体置き場は見たかい? ひどいもんだろ」
「まだ見てないが近くは通った。ありゃあ、臭すぎて涎が出ちまうな」
コーヒーで温まった身体の奥に、僅かに冷気が差す。
眼前の男の発言内容がどこまで本当かは定かではない。
が、それでも氷のつぶてを背中に放り込むかのような彼の言動は、アシュレイから血の気を奪うには充分すぎた。
「止してくれよ。それじゃあまるでGじゃないか」
「何ぁに、人間も蟲も大して変わりゃしねぇよ。生き物みな兄弟って、どっかの生物学者も云ってたろ。
あぁ駄目だ駄目だ。生き物の話をしたら腹が減ってしょうがねぇや。おぉい、注文だ! ピザとコーヒー適当に見繕って持って来い!」
突然の大振りな注文でたじろぐウェイターを他所に、サングラス男が煙草に火をつける。
拳一つ分の距離を取り、二、三度着火してから慎重に近付ける動作は、どことなく奇異な印象があった。
――変人だ。
恐らくこの男も、世界の関節の外れる音を聞きすぎて、自身の心の関節まで外れてしまったのだ。
「あんた、大物だな。相席するのが憚られるくらいだ」
「嫌味とお世辞をブレンドしたって、俺からは何も出てこないぜ」
くつくつと笑う男の口の両端から、紫煙が漏れ出る。
立ち上るそれは、男の眼窩とサングラスとの間をすり抜けながら姿を消した。
アシュレイもつられてライターを取り出し、向かい側の紫煙へと合流する。
そうして肺胞にニコチンとタールを目一杯放り込みながら、再び新聞に目を落とす。
理由はわからないが、このサングラス男と目を合わせると心臓を握られたような気分に陥るのだ。
この男は別に怒ってはいない。むしろ彼にとって、こちらの言動など幼子の戯言程度ではないだろうか。
余裕が口元から、仕草の一つ一つから滲み出ている。彼から吐き出される煙すら、こちらを嘲っている。
なるべく、目を合わせないようにしよう。新聞の記事に集中しよう。
そんなアシュレイの逃亡も空しく、サングラス男がこちらに声をかける。
「今日のニュースはどんな按配よ。何か面白い話はあるか?」
「……読むかい?」
視線を新聞から離さずに、彼に問う。
新聞を手渡そうとする理由の半分は、少しばかりの親切心によるものだ。
だが残りの半分は、一刻も早くあの二つの黒点から逃れたかったという恐怖心からだった。
深淵を凝視し続ければ、また狂ってしまう。もう二度と心の毛糸玉を分解させたくない。
「いや、俺は文字アレルギーだから代わりに音読してくれ」
「難儀だね。それじゃあ読書もままならない」
「だろ? 苦労するぜ全くよ……あ、煙草あるか? 丁度さっきので切らしちまってさ」
ポケットをまさぐり、ざらざらとした頼りない質感の紙箱が薬指に触れる。
無造作にそれを引っ掴み、テーブルに置いた。手渡しするのも気が引ける。
もしかするとこの男もカール・ヴァトラーのように幻影ではないだろうか。
あの煙草も、本当は自分が吸っていただけではないか。
「V2で良ければ……まぁいいや、箱ごとやるよ。どうせ半分も残ってない」
「お、悪いねぇ。これ結構好きなんだわ」
V2は煙草の銘柄だ。血と錆のような赤黒いパッケージにロケット弾頭のプリントと、外観からして物騒な煙草である。
比較的吸いやすい味だが、それを差し引いても喫煙時の火薬臭は何かと敬遠されやすく、知名度もあまり高くない。
アシュレイがこれを持っていたのも、路地裏に落ちていたものを拾ったという単純な理由だった。
サングラス男は笑みを崩す事無く箱を受け取り、すぐさま一服し始める。
「俺は、あんまり好きじゃないな。火薬臭くて嫌な気分になる」
「それがいいんじゃねぇか。火薬があればどんなに重たいコインでも裏返せる。ワクワクするだろ?」
「――どういう意味か教えてくれるか」
「今現在目に見えてるものが本当に正しいかなんて、誰も判りゃしねぇんだ」
つまり、目の前のサングラス男も実際にここに“居る”かどうかは判らない。
すぐにでも手を伸ばせば良いと他人は云うに違いないが、アシュレイにとってはその確認作業が苦痛だった。
もし触った瞬間にすり抜けてしまったら? 自身の正気をようやく取り戻した筈なのに、またどこかで手放してしまっていた事になる。
ともすれば、あの忌々しい狂気の沼にもう一度足を踏み入れて身体中の関節を外されねばならなくなる。
男が箱を左手に持ち、空いた右手でそれを囲うように円を描いた。
「そうだな。例えば目の前に、リンゴがあるとしよう。みんな無意識に、リンゴは赤いと決めている。
“リンゴが赤い”という命題が正しいと思えば、そいつにとってそれは正しい」
鼻の先に箱が差し出され、V2特有の香りが鼻腔に届く。
いつの間にか、男の口元は笑みを形作る事をやめていた。
「だが一度でも疑っちまえばそれは“偽”になる。金色かもしれないし、黒かもしれない。
もっと別の色かもしれないし、色の名前だって誰かが勝手に決めただけで昔は別の呼び方だったかもしれない」
“事物知覚の特質”という言葉をどこかで聞いた事がある。
その時は少し気になって辞書を開いたが、目の前の男の話とリンクするような内容だった。
人はあらゆる経験や伝聞などから、事物の背景を無意識のうちに予測する。
丁度、ウェイターがコーヒーとピザをトレイに乗せてこちらを見ていた。
これを例にとると、先程サングラス男が注文したという事実から、ウェイターは注文の品を間も無くテーブルの上に置くという事が予想可能だ。
テーブルの周囲を香ばしい湯気が包み込んだ。つまり、アシュレイの予測は正しいという事になる。
サングラス男は身振りでウェイターに礼を述べると、ピザの一切れを口の中へと放り込んだ。
「……このピザのチーズ、安物だな。ポテトにコーンも入ってるが、オマケにもならねェ。厚焼きのベーコンでも入れてくれりゃ良かったのに」
「ステーキかハンバーグでも頼むべきだったな」
ここで使っている肉もまた安物だが、致し方ない。
目ぼしい牧場は随分昔にGの襲撃やそれにともなう瘴気で駄目になってしまった。
今や世界中のどの国の牧場や畑も、警備に軍隊が駆り出される。
これ程に深刻化した事態を、平和だった当時の経営者の誰が予想できたであろうか。
顔をしかめながら新聞を畳んでメニュー表を差し出すと、サングラス男は被りを振る。
「こちとら日銭を稼ぐだけで手一杯だ。奢ってくれるンなら話は別だが」
「そんな持ち合わせは無い」
「あァあ、いっそ生でいいから喰いてぇなァ。どっかの牧場から掻ァっ攫ってくッか!」
「共犯のお誘いなら断るぜ」
買い取りでさえ煩雑な手続きを要するというのに、強奪となれば更なる面倒が舞い込む。
この男ならやりかねない。“表の”社会的地位は皆無であろうこの男ならば。
が、アシュレイの勘繰りに反してサングラス男は手を叩いて哄笑し始める。
こちらの態度の真剣さが余程可笑しかったのか、ピザを一度皿の上に置いてまで腹を抱えていた。
男はひとしきり肩を揺らした後、コーヒーを一気に喉に流し込み、口の端を吊り上げたまま自らの顔を指差す。
「冗談だよ。俺がそんな事する奴に見えるかい? この面構えを見ろってホラ。誰がどう見ても清純そのものだろ?」
「まずはサングラス外せよ」
「そいつぁ出来ねぇ相談だ。きっと清純すぎて失明するぜ」
よくもまぁ抜け抜けと、その身なりで云えたものだとアシュレイは感心する他なかった。
アシュレイ自身も決して表舞台や堅気を連想できうる服装ではなかったが、このサングラス男ほどではない。
何より、漂う死臭の量からして違う。サングラス男の冗談を聞くと、奥底に薄暗い何かが込み上げてくる。
彼の顔もあまり見ようと思えるものではない。深淵を見つめる者はまた、深淵にも見つめられるのだ。
「なるほど素晴らしいね。まずは教会へ行ってあんたが失明して来るべきだと俺は思うが」
「教会、ねぇ……いいアイデアだ、考えとくぜ。まァそれは横に置いとくとしてだ! さっきのアレ、どこまで話したかね」
「目の前のものが本当に正しいのかは本当は誰も判らない、だったか」
「あぁ、そうだった。さっきはリンゴを例えに出したが、一枚の木の板でもいい。
その板は表は何も塗ってなくて、裏は誰にも見せてもらえない。引っくり返したら何も無いかもしれないし、鏡かもしれない」
両者、再びピザを手に取り口に入れる。
少しずつかじっておよそ四回に分けてピザを攻略するアシュレイに対し、サングラス男はまだ湯気の立つそれを一気にまるめて咀嚼する。
「ン、で。自分にとって“真”となるように方程式を探して組み立てンのが、気付いちまった奴らの宿題だ」
「その宿題をやらないと、どうなる?」
「濡れた靴をもう一度履きなおす事になる。しかもその靴は履き替えるまで絶対に乾かないのさ」
彼の云う所の“濡れた靴”とは、恐らく“それまで信じてきたものをもう一度信じる事と、それに伴う違和感”を意味している。
リンゴは本当は赤くないのかもしれないのに、赤であると無理矢理信じるとなれば違和感が生まれる。
履き替えるというのは、宿題をやるという事だろう。宿題を済ませれば靴は乾く。
ここまではアシュレイにとっても難問ではない範疇だった。
ただ、何故目の前の男が突然その話を切り出したのかがアシュレイには気になって仕方が無い。
この男は、V2のにおいには心が躍ると、火薬ならコインが裏返せると云っていた。
となれば、何を望むのか。彼は火薬で、どのコインを裏返すつもりなのか。
悩んでいるうちに件の男は席を立ち、コートを羽織って煙草に火を点けようとしていた。
この近辺は正真正銘の片田舎であり、店内の歩き煙草を咎められる事はない。
「さて、飯も喰ったし俺は行くぜ。多分ここにはまた来る。代金はツケで頼むわ――あ、れ? やべぇ、どこに落としたんだ」
コートのポケットを叩く男の足元を一瞥すると、ホテルのキーが落ちていた。
掴めば冬の金属特有のひんやりとした感触が指へと伝う。
タグにはホテルの名前と303号室の表記。間違いなくホテルのキーだ。それを男の右手に握らせる。
「ホテルを借りる金はあんのな」
「悪ぃ悪ぃ、まぁそういうこった。結局、他人なんてのは信用ならねぇもんなのさ。おっと、自己紹介がまだだったな」
この男は信用ならないが、右手の感触から確かな温もりが伝わってきた。
つまり、この男は妄想や幻覚などではない。彼は本当に、ここに居る。
男はキーをポケットに仕舞いこんでから、もう一度こちらの手を強く握る。
残った左手の親指で自身の胸を指し、ゆっくりと頬を緩めた。
「俺はジャン・E・リーベルト。世界を股にかける、フリーの哲学者だ。世間様の言葉だとプーとも云うがね」
「俺は、エドワウ・ナッシュ。エディでいいよ」
「よろしくな、エディボーイ」
本当はエディと名乗るのを辞めると己が胸中に誓ったばかりだった。が、その誓いを裏切ってしまったのには理由がある。
今はまだ本名を伝えるべきではないと、本能が叫んでいたのだ。素直にその警告に従ってしまった結果がこの偽名だった。
が、それで良かったのかもしれない。あの男が帰り際に振り向いた時の表情が『それでいいのさ』と、言外に付け加えていたのだ。
握手と偽りの自己紹介を済ませ、エディボーイことアシュレイは再びテーブルに着く。
まだ収まらないで居る鼓動を、冷え切ったピザと生温いコーヒーが出迎えてくれた。
食事は自宅でとるつもりだったが、結果的に少し予定を繰り上げただけだ。
それよりも、あのキーのタグの“303”の文字がアシュレイの脳裏にへばり付いて離れない。
303作戦の当事者はまだ、ありとあらゆる場所に散らばっている。
作戦そのものの記憶は日向に出されないが、どこか深い場所で虎視眈々と飛び出す機会を窺っているように思えた。
もしかするとあの男も、心に刻み込んでいるのかもしれない。死神を歓喜させた、あの数字を。
「303……いや、思い過ごしだな。穿ちすぎるのは悪い癖だ」
記憶の苦味を、コーヒーと共に奥へと押し流す。
あの時のアシュレイは当事者ではなかった。傍観者だった。
その自負ゆえに、深追いする気分にはなれなかったのだ。
会計を済ませるべく席を立つと、先程の男の持ち物らしい、細長く折り畳んだハンカチが転がっているのが見えた。
ひどく暗く、汚れた色だ。彼は新しいハンカチを買うだろう。
アシュレイは独り確信する。
最終更新:2009年07月30日 04:58