(投稿者:ニーベル)
「やや、お邪魔しちゃったねぇ。忙しかったかな」
この男は、一体どういうつもりでここに来たのか。今のアレクセイにはまったく読めなかった。
戦場での、時々の付き合いはあった。その時の態度も礼儀正しく、決して不快になるような男ではなかった。ただ、アレクセイはどうしても、この男が好きになれなかった。
肌が合わないというのだろうか。この男と向かい合ってると、アレクセイの腹の底を、内臓までしっかりと触られて試されているような感覚に襲われる。
少なくとも、ある程度親しい知り合いとしてなら付き合っても良いが、友人としてまでも付き合いたくはない。ましてや、敵に回すことは、絶対に避けなければならぬ男でもある。直感がそうやって、自分に囁きかけてきている。
「気にしないで下さい、大佐」
自分のコーヒーに口をつけ、ついでに、アレクセイは葉巻をさりげなく、前にいる男に差し出しておく。
済まないねぇと、自分が大佐と呼んだ男――――ラサドキン――――が少々乱暴に、それでいて、くしゃくしゃにならないように繊細に、ポケットにしまい込んだ。
相変わらず、表情は穏やかな笑みで、飄々としている。
「して、お話というのは、何でしょうか」
ラサドキンが、手を前に出して、そう焦るなと、伝えてくる。
ラサドキンの方から話があるからといって来たにしろ、大っぴらに話せるような立場ではないし、自分の失脚を待っている人間もいるだろう。
出来るだけ、早くしてもらいたい話だった。ただでさえ、自分はヴォストルージア連邦から亡命してきた軍人だ。
現在は、グリーデルで安定した地位を得ているが、それも、危うい均衡の中で得たもの。
汚れ仕事を請け負うことによって確立した地位であり、叩き上げの軍人としてやってきた、自分の力で得たものだ。
他人から文句を言われる筋合いは無いが、それでも文句を言い、陰口を叩き、その地位を狙おうとする人物がいる。いつの時代も、はらわたの腐った軍人というモノはいる
ものだと、痛感してきた事だ。
皮肉な事に、それが自分の危険を察知する能力を上げることになってきている。軍部では目立たず、それでいて力を失わず。自分の身を守る術を確実に、身に付けてきた。
「まぁまぁ、そう焦らすものじゃないよ。――――GHQは知っているな?」
元々細いラサドキンの目が、より細くなる。
この男は、何を言い出そうというのか。全身に、緊張とほんの僅かな恐怖がじわじわと、これから抱き合う娼婦のように絡みついてきた。
「ああ、そうだね。まぁ、もう少し楽にしたまえよ、ほらほら、力を抜いて」
そう言われて、楽に出来る者が何所にいるというか。
ここが自分の家でなければ、全身に気を滾らせなければ、そのまま飲み込んでいきそうな男の前で。
いや、それよりも前に。
――――ここは俺の家だろうが。
そう、叫びたくなる。何故、他人の家だというのに、この男はここまでくつろげるのだろうか。その神経の図太さは尊敬に値すると言いたい。
自分には、とても出来ない行動である。褒めていないのではない。確かに、極めて不愉快でもあるし、アレクセイにとっては煩わしい事この上ないが、このどこまでも人を食
ったような態度は、出来るようなものではなかった。この男は、人によって態度を変えると言うところは一切無いのだろう。
好きになれる人物かと言われれば、はっきりと述べよう。ノーだと。友人としてなど御免だ。近くに不倫した女を囲いながら、疑い深い妻と暮らすような真似は誰だってしたくない。それと同じ事だ。
アレクセイは、自分の事を臆病者と認識している。それも極端な臆病者だと。
知り合いは皆、口を揃えて果敢だというが、それは間違っている。どれもこれも、自己を護るためにそうなっただけだ。敵を常に殲滅してきたのも、生かしておけば復讐されるかもしれなかったから。汚い仕事に、文句を言わずに手を染めてきたのは相手から信頼を得て、排除される事を避けたかったら。目立たず、それでいて力がある地位を得たのも、全ては亡命してきた自分を護るために、相手からの反発から身を護る為だ。亡命時に、慕ってついてきてくれた兵や、手引きした将校などの仲間を作っていたのも、自分の臆病さのおかげなのだろう。
結果的に、自分の身はこうして無事なわけだ。危険を察知する能力と、この臆病さが自分の身を、護り続けている。
「確かに、楽にするべきでしょうね。ここは書記長の前でも、軍法会議にかけられてるわけでもない。俺の家ですから」
「ああ、そうだ、君の家なんだ。だから、もっと楽にしなさい」
「それはどうも。俺の家ですから、ね」
「そうだとも、君の家だ。さっきから言ってるじゃないか」
最早無駄であると悟った。コイツは本物だ。鈍感ここに極まると言ってもおかしくない。
そんなことより、何故ここに来て、自分に話を持ちかけてきているのか。内容は、何なのだ。アレクセイは、そちらの方を聞くべきだろうと思考を変える。
思い当たる節は無い。先程言われた言葉を脳内で、何度もくどいほどに反芻する。
――――GHQだと。
やはり、思い当たらない。どういうことなのか、GHQの話を何に結びつけるのか。
「それにしても、だ。 どういうことですかね。 GHQなど、俺には縁のない話だ」
「今から縁が出来るんじゃないか、私の所に来なさい。大丈夫だ、今なら飴玉を一つぐらいつけてあげるから」
「ラサドキン大佐は、最近資本主義の色にでも染まりましたか? それにしても、アルトメリアンジョークにしては、直球過ぎる」
「はは、そんなつもりはない。確かに、見慣れない物や嗜好品は好きだが、そこまで染まってもいない。それに、これはジョークではないよ」
少なくとも、自分には悪い冗談にしか聞こえない。何を言っているのだ。
亡命し、祖国を捨てた男に部下になれと言っている。祖国で酒を飲み過ぎて頭が柔らかくなってイカレポンチになったのか、それとも本気なのか。
表情を、じっくりと眺めてみる。相変わらずの穏やかな顔だが、目は笑ってはいない。頭から回転する音が出そうなぐらい、脳を最大限に回す。意図を把握できていないまま、返事をするのは極めて危険だ。コーヒーを手に取り、自分の分を一気に飲み干す。苦みが、脳内を冴え渡らしていく。
「では、どういうおつもりで」
「君がこのまま、埋もれてしまうのは惜しいと思っただけだ」
「私は、この地位で満足しています。娘もいるのですよ、私には。貴方は、笑うかもしれませんが」
「笑いはしないよ。私にだって妻は、いる。君の子供とはまた違う見方だろうが」
「メードを子供だと思う。それは、おかしいことなのでしょうね。彼らは、外見はまさに人の形ををしているが、中身は兵器だ」
「でも君は、そうは思ってはいないのだろう。それは、各々が違うものだ。人に聞いたところで、意味はないよ」
溜息を吐く。何をいきなり自分は話しているのだろう。
「――――そうですね、その通りだ」
「何を心配しているか分からないが、任せたまえよ。煩いことを言いそうな人物には、ちょっとした鼻薬を嗅がせておいた。君が心配するようなことは、何もない」
「手が早いですね」
「だろう? ポストは既に開いているしね」
だろうではない。この男は、やはり油断がならなかった。根回しの速さといい、準備の良さといい、何一つして、無駄な所がない。
「……腹の探り合いは、やめておきましょう。貴方は、私に何をさせたいのですか」
「勿論、部下として欲しい。そうだな、それにもう一つ言うなら―――資料、かな」
「資料、ですか」
資料と聞いて、厭なことが、一つ頭に浮かび上がる。
知っている人物は、いないはずだ。アレクセイと、あの男だけで、話していた事だった。そして、自分はそれをいくつか知っている。
「初期は神経学を専攻し、後にホメオスタシス、自己組織化などのシステム論へと研究を移行。確か、その後はGの生態研究にも関わっていたはずですね」
「彼女の理論は、興味深かったね」
「はい。目から鱗が落ちるというか、気付かぬ部分を気付かせてくれた物をいろいろと、発表していたりしてましたね」
「その彼女の理論に触発された男がいたよね。もうここからは退職――――いや、追放されていると言ってもいいのかな
彼もまた、彼女の影響を受けて、面白い事を考えついたようだけどねぇ。いやはや、残念至極だよ。彼はもういないのだから、彼から話は聞けないしね」
汗が、身体にねっちょりとしがみついてくる。
この男は、駄目だ。危険すぎる。どこまで、知っているのだ。どこまで、調べ上げていたというのだ。言いようのない不安の固まりに、押しつぶされそうになる。
少なくとも、自分と話した男の正体は割れている。それは間違いのないことだろう。だからといって、内容まで掴んでいるとは言い難かった。
ある程度の事は、予想はついているのかも知れないが、はっきりとは分かってはいないはずだ。それならば、まだ安心は出来る。自分の身は、安全とも言えるだろう。そのことが、アレクセイにとっては、何よりの救いではあった。
ここまで、慎重に歩いてきた道を、確実に自分の身を、家族を護るために歩いてきた道を、こんなところで崩したくはなかった。
自分は、直接は関わっていないし、話は聞いただけである。それでも、追放された元准佐と親しかったという話には足を掬われかねない。
気持ちを、強く持つことだ。そう思い直す。ならば、どうするか。
「成程、確かに、彼には会えませんね」
「そうだね、それが――――」
「会いましょう、彼に」
一言、口に出す。
「ほう、これはまた」
「但し、私がGHQで貴方の部下に配置される事。もしくは、それに近い権限を得ること。それが、条件です」
「大きく出たね」
「どうも私は、こういう所になると馬鹿になるようです。保身は、貴方に任せますよ」
「任せたまえよ」
その後も、しばらくは、話を続けたが、下らない雑談程度のものだった。
日も暮れ始め、夕方になるころに、あの男――――ラサドキン大佐は、帰っていた。一応、泊まるかどうか確認したが、近くにホテルがあると言って、断られた。
正直、それで良かったと思う。さすがにあんな油断なら無い男と、一日でも同じ屋根の下で寝るのは願い下げだ。それならばまだ戦場で、Gどもに鉛玉をプレゼントして回る黒いサンタさんをしてたほうが余程良い。
再度、時計に目をやる。もう時間帯は、とっくに深夜帯だ。そろそろ眠ろうと思った。そう思い、癒やしてくれる白いベッドにそのまま身を預けようとした時に、ドアを叩く音。やれやれと、思いながらドアを開ける。
「……あ、その、えっと……お父さん、一緒に」
「寝たいんだろ?ほら、寝るぞ」
娘が、飛びついてくる。相変わらずの甘えん坊だ。これが、Gを相手にしているなどとは夢にも思えない。
――――とりあえず、寝よう。
そう思って、娘を抱き締めて、今度こそベッドに身を預けた。
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最終更新:2009年10月18日 21:55