緑の風が吹く。
彼女はその風が吹く川原に立っていた。
器用に足元の小石を蹴り上げ、それももう一度蹴りつけることで水面上を疾走させる。
足でやらずに手で実行するのなら誰もが知る遊びではあるが、彼女はそれが自分が発見した新たな遊びであると確信していた。
だって。
あんなに楽しそうに小石が水面を疾走するなんて。
あんなに軽やかに小石が水面を飛び跳ねるなんて。
ボクにそっくりだもの。
しかし、そこはどうしてやや広い川。
川の途中までは走るのだが、残り半分で潰えてしまう。
何だか自分が溺れてしまったようで、どうにも寝覚めが悪い。
ボクはあんな所でこけたりしないもん。
暇つぶしの所業は、やがて意地の捌け口となる。
何としてもこの石を対岸まで走らせてやるのだ。何としても。
角度を変え、速度を変え、タイミングを変える。
他に変えるところは?
風が吹く。黒い、風が。
「楽しそうだな、犬っころ」
くすくすと黒い男が笑った。
どこか意地の悪そうなその顔は、でも誰かに似ている。
自分が慕う、ひどく不器用なあの人に。
全然違うのに、同じ匂いがする。でも、
「犬っころじゃないもん」
頬を膨らませ、彼女は自分の本名を述べた。
大切な名前。
それを聞いて、男はハハハと笑った。
「そうかそうか、犬っころじゃねぇか。悪ぃ悪ぃ、何となく犬っぽかったもんでな?」
だから犬じゃないってのに。
彼女はぷいと顔を背けて、また小石を蹴り上げた。
脚甲を付けた健脚から放たれる神速の蹴りは、かち割らんとばかりにその小石に真横からの衝撃を与える。
ガチンと吹き飛んだそれは水面を疾走し、幅の六割を行った所でぽちゃんと沈んだ。
むぅ……。
「なぁおい、それって向こうまで石が行きゃあ勝ちなのか?」
「そうだよ」
脚じゃ難しそうだな、と呟いた男は足元の小石を手で拾い、ぶんと放り投げた。
その小石は水面を疾走するどころか、小奇麗な放物線を描いて。
やがて向こう岸の草の茂みにぼすんと落ちる音が聞こえた。
「俺の勝ちだぜ、犬っころ」
くすくすと黒い男が笑った。
大人気ない悪戯心に、彼女の心がちくりとささくれ立つ。
「ズルだもん」
「何でだ? あっちまで石が行きゃあ勝ちって言ったのはお前だろ。方法なんてどうでもいいじゃねぇか」
「駄目だもん」
走らなきゃ、と彼女は付け加えた。
走って跳ねて、また走って。
それでようやくボクと同じになる。
向こう岸まで渡ることが勝ちなんじゃない。
向こう岸まで渡るために、立ち止まらず走り切ることが勝ちなんだ。
そう言いたかったが、上手く言葉にならなかった。
「駄目なのか」
「駄目なの」
それを聞いて、男はハハハと笑った。
その笑い声はどこか楽しそうで、どこか諦めているようで、そしてどこか渇いているようで。
「お前、可愛いな」
むぅ……。
「照れるな照れるな。なに、変な意味じゃねぇーよ」
「……どういう意味?」
ちょっとだけ頬が熱い。
別にこんなオジサンを好きになるなんてことはない。
でも面と向かって可愛いと言われると、何だか変な気分。
「あー、何だ。まぁお前はこっち側じゃなさそうだな、って意味だ」
「どっち?」
「こっち」
男は自分自身を指差した。
つまり、こっちとは「俺」という意味なのだろう。
彩り溢れる世界を嫌うように、黒尽くめで立つ男自身。それが「こっち」。
「さてさて、そろそろ怖い連中が来ちまいそうだな」
首を傾げる彼女を尻目に、飄々と男が空惚けた。
彩り溢れる世界をさらに嫌うように、黒いコートの襟の中に首をすくめる。
怯える仕草にも見えるその一方で、口元に張り付くのはニヤリとした嘲笑。
「ああ、そうだ。もっと脚を地面と水平にして、インパクトの瞬間には足首がしなるようにして蹴ってみろ」
急に告げられたアドバイス。
少々疑わしいが、やってみてもいいかもしれない。
小石をもう一度蹴り上げ、
それを再度蹴る脚はさっきよりももっと高く上げ、地面と水平に、
インパクトの瞬間にやや衝撃を溜めるように、
鞭のようにしなった足の甲で衝撃を加える。
バチンッと弾く音が響き渡った。
打ち出された小石は走って跳ねて、また走って。
川幅を七割、八割、九割と疾走し、やがて渡り切って対岸の茂みの中へと飛び込んだ。
「……あ!」
思わず満面の笑みが零れる。
「やった、よ! ありが――」
振り返ると、もう黒い風は吹いていなかった。
その代わりに、また緑の風が彼女を頬を撫でていた。
彼女はもう一度小石を蹴り上げた。
しかし今度は斜め下から再度蹴り上げ、それは小奇麗な放物線を描いて。
やがて向こう岸の草の茂みにぼすんと落ちる音が聞こえた。
「……やっぱり、楽しくないや」
緑の風がまた川原に訪れ、彼女はそれを追いかけるために駆け出した。
最終更新:2010年03月23日 19:17