(投稿者:Cet)



 夢を見た。
 もう覚めない夢を見た。










 世暦1948年。
 グレートウォールにて行われた度重なる会戦に勝利を続けた人類は、Gに対して圧倒的な優勢をルージア大陸において確立していた。
 ただ、そのようにして築かれた優勢の影には、少なからぬ犠牲が横たわっていることも、また事実であった。
 ブーツの爪先程の高さの草で覆われた緑色の丘に、一つの白い立方体の建物があった。
 戦時病院として機能している建物であった。
 空は青かった。ちらほらと、綿のちぎれたような雲が漂っている。
 今一人の青年が、丘の上の病院を目指して歩いていた。
 青年は灰色がかったスーツを着ていて、それから、同じような色合いの帽子をかぶっていた。円い鍔が特徴的で、シルクのリボンがアクセントになっている、ありふれたタイプの帽子であった。
 青年は、丘を歩いている最中に、一つ溜息を吐いて、立ち止まった。
 それから空を見上げた。
 季節はまだ春に入ったばかりである。緯度としてはそれほど高いわけではないこの地域の気候も、少々寒々しく思える時分だ。
 しかしその日は快晴なだけあって、ほんの少し、春の陽気といったようなものを味わえる程度には、気温は上昇していた。
 とはいえ、ありふれた冬物のスーツを着ているだけでは、汗一つ掻くこともないような、そんな日だ。
 青年は再び歩き出す、緩やかな坂道を上って、丘の上の病院へと向かう。
 大きさは、それほどでもない。病院と銘打たれてはいるものの、実際に収容できる人数は、五十人を下回るくらいだろう。
 だから、ここはそもそも盛んに用いられるような施設ではないのだ。
 こんなにも静かな病院は、丘の上から青空と平野を望む病院は、疲れ果てた兵士が、その心の慰めを得る為に存在しているのであった。
 病院の入り口にまで辿り着いた青年は、扉に手をかける。格子の意匠が施された両開きの、木製の扉だ。
 その片側のノブを捻り、青年は扉を開けた。
 白いロビーがあった。
 左手に、ガラスの仕切りによって隔てられたカウンターがある。そこには、看護師らしき一人の女性が椅子に座っていた。
 青年の姿に気付くと、女性は言った。
「どうぞ」
 青年は少しだけ緊張した様子で、更にそれを飲み干してから、カウンターに歩み寄ると、女性に告げる。
「面会をしたいのですが」
「はい、どなたとの面会を希望されますか?」
「――――という方はここにいらっしゃいますか?」
「暫くお待ち下さい。
 ……ええ、そうですね、彼女はここで今“休養”を取っています」
「今彼女に会えますでしょうか」
 青年がそう言ったところで、女性はガラス越しに青年の顔を見遣った。
「何か、身分を確認できるようなものを持ち合わせておられますか?」
「ええ」
 青年はスーツの胸ポケットを探ると、一枚の、すべすべとした素材でできたカードを取り出した。
 女性はそれをガラスの下部に空いた穴から受け取ると、まじまじと眺めた。
「……はい、大丈夫です、では今からお渡しする書類に必要事項を書き込んで下さい」
 女性はカードを青年に返しながら言う。
「わかりました」
「それと、面会時間は十分ほどです。貴方が面会を希望している――――さんは、極度の疲労を得たことを理由に、現在こちらの病棟で療養中です。
 彼女の健康を今以上に損なうような行為、……つまり本人が希望しない以上の時間に渡って会話を行うことや、本人を伴って院内を移動することなどは、予め禁止させて頂きます。
 なお、みだりに院内を移動する行為はお控え下さい。
 また、貴方の持ち物も制限させて頂きます、院内の喫煙は禁止されております、また、銃器の持ち込みや飲食物の持ち込みも合わせて禁止されております。
 そういった類のものをお持ちであれば、このカウンターにお預け下さい」
「……いえ、そういったものは持ち合わせていません」
「分かりました、ではこちらの書類の記入事項をお願いします」
 青年は一枚の書類を受け取ると、一分かからずに、それらの記入事項を片付け、渡されたペンと一緒に女性へと手渡した。
「……はい、大丈夫です。彼女の部屋は201号室です、時間になれば、私が直々にお伝えしに参ります」
「分かりました」
 青年は頭を下げると、丁度カウンターの真向かいにある扉へと振り返り、続いて扉を開けた。
 黒っぽい床板の嵌め込まれた廊下が、まず覗えた。
 すぐ左脇に、二階へと続く階段がある。
 一階の廊下は前方に暫く続いた後、突当たりになっており、そこから左右へと続いていた。
 壁は、この病院の外観と同じく白かった。建材に対して直接白い塗料が塗られている。
 青年は迷わず左側の階段を上った。
 二階へと上がると、一階の時と同じように廊下が真っ直ぐ続いており、突当りで左右へと曲がっていた。
 彼はそこを右に曲がる。そして、すぐ右手にある扉の前に立った。
 長く細い息を一つ吐いてから、控え目にノックをする。
 暫く待ってみたが、反応はない。
 彼はどうすべきか迷っているようであったが、おずおずとノブを捻ると、扉の隙間から部屋の中を垣間見るようにした。
 白いカーテンが揺れていた。
 部屋の入り口にあたる壁から対面する位置の壁には、両開きの格子窓があって、そして、誰かが勝手に付けたのであろう、白いレースのカーテンが、風を受けていた。
 右手には、寝台があった。真っ白な寝台には、一人の年若い女性が横たわっていた。
 ほとんど少女と言っても過言ではないような、そんな顔立ちの女性であった。開いたままの窓から流れ込んできた風が、彼女の茶色の髪を微かに揺らしていた。
 青年は、ドアを僅かに開けた態勢のまま、暫く立ち竦んでいた。
 そして思いついたかのように扉を押すと、そのまま部屋に入った。
 音を立てないように後ろ手で扉を閉めて、部屋を改めて見回してみる。
 寝台の隣には、背もたれのない丸椅子が置いてあった。
 そこまで歩いていこうとして、床板が僅かに軋みを上げた。
 彼は音が立たないように気を配りながら歩き、椅子に座る。それから、少女の顔を間近から眺めてみる。
 安らかな寝顔であった。というより、ほとんど緊張を含んでいない表情をしていた。
 か細い寝息と共に、彼女の胸は緩やかに上下していた。
 彼女の胸までを覆う白いシーツと同じように、彼女の白い肌は清潔であった。
 青年は、そんな彼女の表情を、見つめていた。





 青年は病室を後にする。
 彼の荷物は最初から一つもなかったが、ただ一つだけ増えている。
 眼には見えないが、それは確かにある。
 ささやかな頼みごと。





「――――さん」
 窓の外を眺めていた青年は、不意に掛けられた声に、こうべを巡らせた。
 気付いた時には、風は止んでいた。白いカーテンが、無言で垂れ下がっている。
「すぐに、帰ります」
 青年は一言告げて、あくまで音のしないように、ゆっくりと席を立とうとした。
 少女は、ほんの少しだけ手を動かして、その行動を遮った。
「暫くの間、手を握っていてもらえませんか」
 それから、そう申し出た。
 青年は幾らかの戸惑いを経て、再び椅子に座ると、言われたままに少女の差し出した右手を握った。
 シーツから微かにはみ出した白い手を、彼は最初、両手で握ろうとして、結局、右手でゆるく握っただけだった。
 両手で強く握りしめては、余りにも悲壮にすぎる、そんな風に思ったのだ。
「よかった」
 そう少女は囁くように言った。
 声は、微かに掠れたような響きを帯びていた。
「少しだけ長い間、孤独だったような気がして」
 少女は瞼を閉じて、そう語った。
 だから、青年の左手が微かに震えていることには、気が付かなかった。
「だけど、安心しました、そうじゃなかったって」
 そして、少女は微笑んだ。
 暫く、と少女が言ってから、幾らかの時間が過ぎて、青年は少女の手を握ったままだった。
 青年は俯いた姿勢で、左手を垂れ下げて、椅子に座っていた。
「……ものは、提案なんですが」
 青年は、ぽつりと言って、それからほんの少し、項垂れていた表情を上げた。
「これからもう少し暖かくなったら、たとえば、五月がいいな。
 一緒に、どこかに出かけてみませんか。
 森林浴でもしましょう、業者からコテージを一つ貸し切って、それから、二人で手を繋いで歩くんです」
 彼は再び俯いて、少女の返答を待った。
 左手は変な風に硬直していたのだが、どうもそれは青年の精神の起伏を表しているようでもあった。
 そして、更に暫くの時間が経って、青年は微かな不安を覚えて、顔を上げた。

 青年は小さく笑う。
 静かな寝顔を見遣って。









 木漏れ日のあざやかな新緑の森に、一件の小屋があって
 その前には、白い意匠の椅子が二つと、机が一つあって
 机の上には、飲みかけのコーヒーカップが二つあって
 今太陽の差す方向には、二つの人影があって

 それらは、静かに光の方へと歩いていった





 世暦1948年。
 戦争はまだ続いている。


最終更新:2010年04月28日 16:57
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