Chapter 6-4 : 欠けた鏡

(投稿者:怨是)


 1945年8月17日の帝都ニーベルンゲ中央病院にて、キルシーシーアの傷の具合を見に行っていた。
 シーアは全身に包帯を巻かれ、弱々しく呼吸しながらベッドに横たわり、眠っている。意識が回復したのは担当医によると先日の夜中、日付が変わる直前だったとの事で、それまでずっと(うな)されていたという事だった。

「シーア。私はまた、少なくとも二人以上はぶちのめす相手が出来たらしいわ」

 ぽつりと、キルシーはシーアに語り掛けた。そもそもシーアとキルシー達ルフトヴァッフェのメンバーがこの帝都に居る理由は、慰安旅行で帝国を訪れていた為である。連日の戦闘の疲れを癒して来いと、カラヤが取り計らってくれたのだ。シーアが病院へ運び込まれて来た当日の夕方、彼女は「帝都の夕陽はどのようなものか、もう少し近くで堪能してくる」と云って離れて行った。あそこで止めていれば、こんな事にはならなかったのだ。
 シーアをここまでの重体に追い込んだ連中の目星は付いている。黒旗だ。ニーベルンゲはニトラスブルク区にて、黒旗がらみの不正規戦闘が当日の夜に勃発したと、ルフトヴァッフェのメンバーの一人がそう云っていた。シーアは間違いなくそれに巻き込まれたのだ。

「私の目の届かない所で、こんなになってしまって……」

 血液が煮え滾る錯覚と共に、キルシーは嗚咽を漏らした。ややもすれば、シーアはあの場所で死んでいたかもしれないのだ。そうなってしまっていたら、永遠に溝は埋まらなかった。涙の理由はそういった恐怖の他、シーアに対する負い目、罪悪感もあった。

「こんな理不尽は、もう繰り返させちゃいけない。そうでしょう? シーア」

 キルシーはルフトヴァッフェに所属する以前、『ブラックパンサー隊』の通称で知られる、クロッセル空軍の航空部隊に身を置いていた。今となっては壊滅し、過去の遺物と化している。が、あの当時はそこそこ名の知れたエースパイロット部隊であり、タイフーン計画の一環で生まれたキルシーは熟練パイロット達に囲まれ、一兵卒としての扱いではありながらも、充実した戦果を上げていた。持て余した力を存分に振るう事の出来る唯一の居場所だったものだ。
 無作為な突出は咎められたが、綿密な作戦と固く結ばれた連携の下、常に確実な勝利を手にしていた。教育担当官は物静かで気難しい男だったが、時折見せる優しさが何よりも幸福だった。あの部隊は、何にも代えがたい居場所と、キルシーは信じて疑わなかった。
 この古巣が二匹のドラゴンフライに壊滅させられて以来、キルシーは心の奥底に暗い影を潜ませた。表にこそ出さないものの、それは確実にキルシーの心に絡み付いて離れないものだった。
 キルシーは弱みを他人に見せようとしない。それは、過去の出来事を悟らせたくないが為である。己の名、そしてこの身体だけを残した全てを捨て、ルフトヴァッフェに入隊した。何もかもをやり直せるかもしれないという一縷の望みを賭けて。だが、現実はどうだ。またもや、理不尽な力に倒れた仲間が居る。心の中に僅かに残ったまともな部分が、悲鳴を上げている。

「花を、花瓶に入れてくれたんだな」

 不意の声に、キルシーは思わず顔を背けた。涙を見せてなるものか。この期に及んで強がるのは滑稽そのものだが、知った事ではない。せめて建前ででも強がって居なければ、後ろ向きな感情に何もかもを押し流されてしまう。強者になる秘訣は、強者であろうとする意志だ。易々と他者に涙を見せてしまっては、強者たりえないではないか。

「もう少し寝ていても良かったのよ」

「傍らで君が泣いているんだ。いつまでも寝ていられるものか」

 それなのに、それなのに、それなのに何故見抜かれてしまうのか。シーアの強さの前には、キルシーの心が揺らぐ。何処で涙を見ていたのか。否、嗚咽を聞いていた? 日頃なら激昂に我を忘れる所だが、不思議と怒りは湧いて来ない。心の何処かで、涙を知って欲しかったのだろうか。年上の人間、指導者であるカラヤのみならず、もっと多くの、同僚にも苦しみの認知を無意識に望んだのだろうか。だとしたら……

「とんだ甘えんぼね……私」

「そんな事は無いさ。涙を隠して崩れるより、ずっといい。涙の跡の見える君も可愛いしね」

「やめてよ。調子狂っちゃう」

 褒めて誤魔化すものじゃない。

「それにしても、綺麗な向日葵(ひまわり)だ。夕日に照らされた花弁が、眩く煌めいている」

「一輪一輪、愛情を込めて育てたの。太陽の眩しさから絶対に目を背けない、強い子たちよ」

 ――そうとも、シーア。お前の眩しさから、絶対に目を背けない。
 キルシーは踵を返し「また来るわ」という一言の後、個室の扉を開けた。これから第一優先でやらねばならない事がある。

「キルシー。行く前に教えてくれ。君は今から何処へ?」

「ちょっと、頭を冷やしに」

 多くは、語るまい。
 シーアを此の様な目に遭わせた奴らを、完膚なきまでに叩き潰してやる。今回の相手はドラゴンフライなどという怪物ではない。それよりも弱く、そしておぞましい連中――人間だ。怪物の傷はすぐに癒えるが、死人が出るという損失は新たに人員を補充しない限り埋まらない、不可逆的な傷となる。どれだけ殺してやろう。どれだけ壊してやろう。

「……そうか」

 どの様な手段で頭を冷やすかをシーアに話せば、きっと彼女は止めるだろう。せめて、事の全ては知らないで欲しい。後にシーアが黒旗から甚大な被害が出たと知らされても、それ以上の事を知られない様に祈ろう。



 ――同日、夜。
 役者は揃った。カラヤ・U・ペーシュに事情を報告し、一筋縄とまでは行かなかったが同意した仲間達も居る。着いて来たのは「人を殺しても絶対に戸惑わない奴だけ、私と一緒に来て」という問い掛けに応えてくれた、頼もしい空戦MAIDばかりだ。今夜、黒旗は潰える。僅か一個小隊にも満たない空戦MAID達の手によって。
 宣戦布告は無い。代わりに、けたたましく鳴り響く空襲警報のサイレンの音が戦闘開始の合図だ。
 衣服の下の制御装置、ディレイドライバーの調子は万全らしい。既にここに来るまでに制御を一段階外し、防御能力を上げて来たが、漲る力が消え失せる様子は全くない。端末の表示機には『Level 2』と表示されている。キルシーは本部施設正面の門まで忍び込み、曲がり角の向こうに控える黒旗兵達の様子を伺った。

「襲撃だと?! 馬鹿野郎、この忙しい時期に!」

「放火事件の犯人探しでもしに来たってのか! 生憎と俺らは無関係だ! 畜生め!」

 連中、何やら訳の解らない事を云っている。放火事件? 異国の事情に興味は無いが、連中はそれにお熱らしい。確かに一つ云える事は、意表を突くには好都合なタイミングという事だ。

「おい、空を見てみろよ……何だあれは。Gか?」

「違う。あの色とりどりの翼は、間違い無い……」

「ヒビ割れマント共め、ついに領土侵犯までやらかしやがって! ここは帝国領だ! 戦争でもおっ始めるつもりだってのかよ!」

 戦争などという生易しい言葉で片付けられたら、彼奴らにとってどれだけ幸福だろう。これからキルシーは虐殺を開始する。己の優位を信じて疑わぬ傲慢な彼らを、絶望の一色に染め上げ、只の一人も残さずに肉塊へと変えるのだ。獰猛な笑みを浮かべる己を自覚しながら、キルシーは彼らの前に躍り出た。

「お前は……!」

「ご名答。貴方の待ち望んだ、敵よ」

 突如として現れた闖入者に言葉を失った黒旗兵の声を代弁してやる。失語に至るのも頷ける。キルシーの服装はこの忌々しい組織のMAIDに用いられるドレスコード――良く云えばシックで格調高い。悪く云ってしまえば画一的で地味な――とは凡そ合致しないものだ。冷静さを取り戻した黒旗兵の一人が通信機で報告を入れる。

「こちら鉄柱12号、敵のMAIDと接触する」

 恐怖を押し殺した声でそう云った彼は、合図一つで部下の兵士達に銃を構えさせた。即座に撃って来ないのは彼らなりの礼儀か。それもまた良しとする。少しくらいは声を聞いてやらねば、破壊した時のカタルシスが薄れるものだ。

「シーアは死んでないから弔い合戦じゃあないけれど、借りは一億倍にして返すのが私の流儀。有象無象に関わらず、塵に芥と砕き尽くしてやるわ」

「お前が指揮を?」

 前口上をまるっきり無視した質問に、キルシーは僅かながらの苛立ちを覚えたが、どうにか抑えた。眼前の敵は怯えているのだろうと考えたら、彼の聡明さを欠く言動にも納得が行くではないか。ならば、さらなる恐怖を与えてやるまでだ。

「如何にも。これは戦争なんかじゃない。復讐であり報復。聖戦を騙る、大掛かりな仕返し。子供の喧嘩と嘲笑う大人にしてみれば、ルールなんて関係ない。従って、指揮官が前に出てはならないという作法も、私の前では無意味よ。何故なら……」

 キルシーは己の制御装置の端末に鍵――フラワリングカードと呼ばれるカード状のもの――を何枚も続けて翳し、力を解放する。表示機の数値は『Level 6』。普段抑えていた力の、半分以上を解放している。この状態であれば、並のコンクリート程度なら拳が痛む前に殴って砕ける。

「貴方達の放つ銃弾の(ことごと)くは、私の力を前に無力化する。貴方達の(あまね)く暴力は、私の更なる暴力を前に霞と消える」

 彼らはまだ、銃を撃たない。否、撃てない。歴然たる力の差を幻視して、引き金を引く動作すら忘れてしまっている。次元の違う力は、誰もが認めたくないものだ。彼らは信ずるまいと必死に、現状を否定している。

「そんな馬鹿げた話が」

「無いと云う保証は何処にも有り得ない。潰えなさい、下郎」

「なぶッ……――!」

 ほら、いとも簡単に爆ぜた。漸く現実を理解したらしい兵士達が、慌てて短機関銃を乱射し始めた。銃弾の尽くが身体の手前で跳ね返り、地面へと転がる。短機関銃に用いられる9ミリの拳銃弾程度では、傷を付ける事など夢のまた夢だ。

「巫山戯るな! 一瞬で挽き肉にする奴が居るものか! 貴様など撃てば死ぬ! 撃たれれば死ぬんだ! 何故なら、貴様は人の姿をしているじゃないか!」

「豆鉄砲。こんなんじゃ死ねないわ」

「いいか、化け物っていうのは貴様の事を――」

 見張りだった兵士達を次々と文字通り叩き潰し、周囲には血と肉と骨と服と銃の残骸が散らばった。それ見たことか。これが差である。ここまで粉々になれば、もはや元が何であったかも判別に時間を要する。Gに噛み砕かれた死体を見慣れていない一般人、新兵であれば、正視に堪えざる物体だ。

「持たざる者の僻みって恐ろしいわね……」

 断末魔の代わりに彼が発した言葉を、ふと思い返す。化け物か。悪くない喩えだ。そうとも、人間の心を持っているならば、たとえ尋常ならざる力を持っていたとしてもここまでの仕打ちはするまい。今のキルシーは鬼神の心でこの場に立っている。脆弱な人間の身体など、餌に他ならない。
 敵は更に数を増して、キルシーの前に立ちはだかった。

「こちら空瓶6号。鉄柱隊が何人かやられた。敵は空からだけじゃない。地上にも増援を」

「呼ぼうっていうのね」

「数の問題で解決する見込みがあるんだから、そうさせてもらうまでさ」

「呼んだ本人である貴方は生き残る保証が無くなるわよ。尻尾巻いて逃げればいいのに、わざわざ立ち向かうなんて」

 そう云って、キルシーは周辺の惨状を指差した。空瓶と名乗ったこの男も、こういう風にしてしまうぞと、言外に付け足した。

「馬鹿げていると? 世の中の兵士は大部分が馬鹿という事になるな。敵前逃亡よりは賢い選択だと思うのだが」

「時には狼に追われる兎になる事も必要よ」

「貴様らが狼だと? 笑わせるな。せいぜい雀か何かだ。思い上がるんじゃない」

 恐怖と憎悪で引き攣った兵士の表情が、実に心地良い。そうだ、驚け! 恐れろ! 怒れ! 打ち震えろ! お前達が縮み上がる度に、身体中に力が漲って来る! そうだ、そうする事で報復の階段は上れる。
 キルシーは腕を広げ、哄笑を高々と響き渡らせる。

「思い上がり? 事実よ! 空戦MAIDの領分は空のみに非ず。翼を畳み、地上に降り立てば、時として飛行にリソースを割いていた永子が余剰エネルギーとなって、標準型MAIDを超える出力を発揮する事とてあるわ。それが、私達空戦MAIDが優越種と呼ばれてしまう所以かしら!」

「そのMAIDだって誰のお陰で生き永らえているんだ! あまり人間を馬鹿にしないで貰いたいな!」

「時計隊、水銀隊、到着した。援護する!」

 敵の数は一気に膨れ上がる。

「お喋りが過ぎた。十把一絡げに捻り潰すのが定石ね」

「させるか! 戦術も戦略も無い、力だけの存在に、負ける訳には行かぬのだ!」

「貴方達が負けてくれなきゃ困るのよ」

 キルシーは溜め息を付いて、徒手空拳の構えをとった。報復とは勝利してこそ実りを生む。敗北者のまま帰る訳には行かない。彼ら黒旗の一人残らずを地獄に送ってやらねば、誰がシーアへの手向けとするか。決起の契機を作ったのは紛れもなくこの自分自身ではないか。ならば、指揮をとるキルシーは、仲間達を一人も脱落させる事なく、尚且つ敵の戦意を打ち砕いてこそ勝利を得られる。

「何処かに弱点は必ずある! 奴の身体を手当たり次第に狙え! 一発も外すな!」

「了解!」

「困るのよね、そういうの!」

 肉薄し、敵兵の一人の腹を貫く。そのまま力一杯に投げ付け、その先の敵兵達の脊髄を損傷させる。もう彼らは動けない。続け様に付近の兵士から手榴弾を奪い、その場で叩き割って強制的に爆発させた。痛くない。当然だ。爆風どころか破片すら浴びていない。強固な防壁を展開しているキルシーに、この程度の攻撃など通用するものか。浴びたのは彼らの肉体を構成していたタンパク質の塊と、それを動かす為の赤い液体だけだ。口元にかかったそれを、舐めて取る。ひどく塩辛く、美味とは云い難いものだった。

「こ、こちら時計31号! 水銀隊が壊滅した! もっと増援を! 糞っ垂れ、空の連中で手一杯だと?! お客様を中に招き入れちまったんだ、さっさと――」

 通信機に喚き散らす黒旗兵を壁に叩き付け、黒旗本部営舎の奥へ。トマトを投げ付けた様な模様が壁に広がったが、それを思い起こして吐き気を催せる者はもはやこの場には誰も居ない。
 施設が揺れ、急に辺りが焦げ臭くなってきた。どうやら本格的に攻撃に移っているらしい。対空砲火も、上空を飛んでいた戦闘機の重低音もいつの間にか止んでいる。彼女らは上手くやってくれたという事だ。後は心置き無く、この建物を破壊し尽くすだけだ。空戦MAIDの本分はその戦闘力のみではない。戦闘機に乗り込む人間の兵士とは異なり、即座に地上での戦闘へ移れるという柔軟性を持ち合わせている。無論、地上から空中への移行も、戦闘機に比べれば随分と速やかに行える。低空飛行の際、建物に激突して墜落する心配も無い。

「何処に迷い込んでも生きて行ける。それって、素晴らしい事に違いないわ」

 戦車の格納庫らしき場所に出たキルシーは、そこを警備していたらしい兵士達をばらばらに分解した後、彼らの装備であった短機関銃を拝借して燃料タンクを蜂の巣にした。内容物に引火したタンクは勢い良く爆発し、格納庫は瞬く間に火の海と化した。

「二度と使えないと解れば諦めも付く。奪っては駄目。そう、無意味な破壊にこそ、意味を見出せる……」

 空戦MAIDの身を以てしても不可能な事は多々ある。世界の理不尽に比べれば、寧ろ抗える手段は限られている。それでも、偶には晴れ晴れとした気分を味わっても良いだろう。こんな組織、無い方が世界情勢に悪影響を及ぼさずに済む。彼らに延命を図られては困るという理屈で、備品の一つ残らずを使い物にならない状態にしてしまえば良い。心の奥底で、かつての己の居場所を奪った二匹のドラゴンフライの記憶に心を苛まれようと、今この瞬間だけは、圧倒的優位を楽しみたかった。遠く長い道のりの遠回りな復讐に、一瞬だけの清涼剤が欲しかったのだ。
 無論、それを許さない奴も居る。ここまで追い掛けて来て、目の前で拳を握り締める兵士の一人がそうだ。彼は絶望しきった表情で呟いた。

「出鱈目だ」

「その出鱈目にご対面した気分は如何かしら」

 銃弾をはじき返して肉薄する。兵士の顔を両手で掴み、めりめりと押し潰す。頭蓋骨の軋む音と、苦痛に歪む顔とが、五感を刺激した。間も無く鉄分の弾ける香りが楽しめる。この男は怪物と同じだ。だから殺して良い。キルシーが今、そう決めたのだ。
 かくして、兵士は死んだ。無残に脳漿を撒き散らし、頭を失った身体が膝を突いてうつ伏せに倒れ込んだ。残る兵士らも戦闘に加わる気力すら無く、眼を見開いて狩られるのを待つばかりだ。こうでなくては。

「貴方達。自分の無力が嘆かわしい? 私は嘆かわしいわ。シーアが貴方達にボロボロにされて、それを止める事も、傷だらけのシーアの心を救う事も出来なかった。シーアが誰を助けようとしたのかも知らないし、助けようとしたMAIDがどうなったかも知らない。ひたすらに、嘆かわしいわ」

 大型の戦車を、キルシーは砲身を掴んで軽々と持ち上げた。車体に乗っていた細かい瓦礫がはらりと零れ落ち、それと同時に兵士達は後ずさった。キルシーはすかさず、金槌の要領で戦車を彼らに叩き付ける。彼らの過半数が無残な轢死体の様なものへと変わる。通常ではありえない角度と力量で衝撃を受けた戦車は、乗り物としての機能を完全に失った。兵士達はざわめく。

「私は施す側でありたいの。絶望も、希望も、数え切れないくらい貰って来た。与えられて来た。もうお腹いっぱいよ」

 キルシーは半ば呪詛に近い言葉を黒旗兵にぶつけながら、戦車の残骸を振り回した。既に何万発の銃弾をこの身に浴びているが、どれもが肉体を穿つ事無く、コア・エネルギーの防壁に弾かれて地を転がった。やがて銃声は止まり、格納庫には静寂と死臭だけが残った。

「ここもクリア。脆いわ。脆すぎる。こんな連中に、シーアはやられたっていうの?」

 戦車の残骸はまだ使えそうだ。キルシーはこれを肩に担ぎ、外へと続く扉に振り下ろす。当然、扉は為す術も無く打ち破られ、出撃に備えて装填していたのであろう砲弾が、ひしゃげた砲身の中で炸裂した。砲塔が黒焦げになって完全に死んだ戦車を投げ捨て、キルシーは外へと歩みを進める。見ろ。振り返れば、本部施設はごみのようになっている。空への対抗手段を失った施設へ、仲間達が窓や屋根に開いた穴、屋上から侵入してゆくのが見える。彼女らはキルシー程には頑丈ではない。僅かばかりの不安はあるものの、上手くやってくれると信じよう。

「さて、もう一仕事よ」

 施設外部の非常階段を上り、ドアを蹴破って中へと戻る。クリアリングは大切だ。まだ中には大勢の敵が残っているに違いないのだ。会議室へと押し通る。長机と、持ち切れずに置き去りになったらしい書類が見える。割れた窓ガラスから入り込む風が、それらを虚しく撫でるだけで、敵は見当たらない。

「ほんと、呆気無い」

 よく見ると、先程までこの場所で戦闘があった痕跡がそこかしこに点在していた。机の下に薬莢が転がっており、すぐ側には、撃ち抜かれて穴の開いたペンダントが持ち主の不在を嘆いていた。
 キルシーは興味本位でそのペンダントを拾い上げ、中身を確かめる。

「恋人……?」

 中身は、男女が並んだ写真だった。神の悪戯にしては意地が悪い。男の顔は綺麗に丸く穿たれ、写真を覆っていたガラスは割れて丁度隣の女性が泣いている様に見える。キルシーは苛立ちの任せるままにペンダントを窓から放り投げた。

「だって、しょうが無いじゃない……」

 黒旗は害悪だ。そこに属している以上、あの写真の男も、こういう事になるという予想くらい出来ていた筈だ。何がこの胸を締め付ける? キルシーは此処での殺戮の記憶の中から写真の男を探そうとした。もしかしたら先程、何処かで出会って、取り逃していたかもしれない。真実は常に『生憎』が含まれるもので、先程のペンダントの写真は顔の部分が綺麗に消えてしまっていて、探そうにも思い出せる筈がない。その事実に気付いたキルシーは、逡巡を止めた。
 と、同時に、先程自分が蹴って壊した扉から、この会議室へと気配が流れ込んで来た。

「可哀想に。殺戮に責任が伴うって事、知らないの?」

「誰ッ――!」

 振り向くと、黒い髪のMAIDが、刀を右手に持って微笑んでいるのが見えた。その風格は、触れる者全てを両断するだけの鋭さを含んでいる。

「貴女の大嫌いな黒旗に身を置く、殺しが大好きなMAID――とでも云えば納得してくれるのかしらね」

 十中八九、嫌味と皮肉を含んだ云い回しに、キルシーはこのMAIDが並々ならぬ敵意を持っている事を悟った。余裕に満ちた表情が、自分によく似ている。こういう手合いは、何かを犠牲にしてでも己のペースを維持しようとするものだ。そろそろ仕舞いにするとして、一仕事の締め括りに彼女を打ち倒そう。

「調度良かった。ねぇ貴女。ちょっと訊ねたいんだけども、シーアをやったのは誰かしら」

「さぁ。犯人が誰であろうと貴女にとっては関係ないと思うけど。だって、蹴散らすならみんな一緒でしょ?」

「相違ない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。黒旗という言葉だけで、私は(はらわた)が煮えくり返るわ」

 虐殺を悔いるのは帰還してからで良い。今は先ず、自分を正当化しておこう。罪悪感に圧し潰されたまま、こんな場所で死ぬのは御免被る。それなのに。

「鳩がサンドイッチを勝手に食べたから、世界中の鳩を撃ち落とす……なるほど? そうすれば“サンドイッチが鳩に喰われる”事は二度と無くなるでしょうね。天才よ、貴女」

 このMAIDの言葉がキルシーの心を容赦なく抉ったせいで、再び昂ぶろうとしていた情熱はすっかり鳴りを潜めてしまった。黒髪のMAIDは辺りを見回し、適当な場所を見繕って腰掛けた。

「ところで、貴女がキルシーよね?」

「私よ。ご存知とはお目が高いわ」

「ご存知も何も。風の噂に聞いたんだけど、貴女、方々で世界最強を嘯いてるそうじゃない」

「だって、事実ですもの。何なら此処で試してみてもいいのよ」

 挑発と同時に、己の揺らぐ感情に檄を飛ばす。遣るか、遣らざるかの選択肢は残されていないのだ。泣くも笑うも、この幕では眼前のMAIDが最後の役者。盛大な八つ当たりは、彼女の討伐を以て終了とせねばなるまい。そうせねば、キルシーの身体も、精神も、致命的な痛手を被る。制御装置のディレイドライバーは本来、延命装置として開発されたものだ。キルシーにもそれは当て嵌まる。垂れ流した力が持ち主に還元される様には、出来ていないのだ。
 黒髪のMAIDは誘いに乗ってくれたらしく、立ち上がり、刀を構えた。

「他に試す場所も無いものね。もう一度確かめるけど、貴女は本当に最強なの?」

「愚問だわ」

 ――私は鬼神にして暴風雨。獲物と見做した者は只の一人も逃がさない。何もかもを失ったあの日に、そう誓ったのだ。

「世界最高峰の頂に咲く高嶺の花こそこの私。我こそは全人類が有頂天。武功天下第一。未来永劫、二輪と咲かない絶佳の花よ。――さぁ。お喋りしましょう。花のように姦しく」

 二度と咲かないで欲しいものだ。シーアの報復やルフトヴァッフェの面子を引き合いに仲間達を此処まで連れて来たが、本を質せばキルシーの感情が黒旗を許さないからだ。襲撃の首謀者として兵士達に名乗り出たのも、黒髪のMAIDが先程云っていた『殺戮の責任』を取る為である。

「地上の黒旗は私が文字通り叩き潰して、そこいら中に放り投げてやった。これが私の出した“結果”。徒手空拳でここまでやれるのは私だけ」

「ふぅん、なるほどね。こんな上玉が居たなんて、世の中まだまだ棄てたもんじゃないわ」

「――かかってらっしゃい、鴉女。相手になってあげる」

「それはこっちの台詞」

 蛍光灯に照らされた会議室は瞬く間に殺意で充満した。黒髪のMAIDによってばら蒔かれた刀が、壁に、天井に、床に刺さる。一体何をしているのかという疑問は、即座に氷解した。

「?!」

 キルシーは反射的に、連続して飛来する刀を叩き落とす。本日の戦闘で初めての怪我は、刀身に触れて出来た裂傷だった。防御に用いられるエネルギーが攻撃に用いられるエネルギーに劣っている場合、その攻撃は防ぎ切れない。(にわか)に焦心がキルシーを乱し始めた。もう限界が来たとでも云うのか。

「冗談キツいわ」

 毒づきながら、キルシーは黒髪のMAIDに投げられた刀を奪い、二刀流に構えた。完全な我流だが、偶には悪くない。曲が流れているなら踊るのが礼儀というものだ。黒髪は何かを確信した様な微笑で頷き、再び刀を投げる。

「……見切った!」

 キルシーは会議室を縦横無尽に駆け抜け、黒髪MAIDの猛攻を次々と回避する。避け切れないものは逆に、刀で打ち返す。加減も何も無い、無作為で粗野な暴力が、自身の握っていた刀もろとも刃を粉砕した。だが手持ちの武器が尽きた訳ではない。カードはまだあるのだ。

「どうしたの、黒髪さん。所詮、この程度かしら」

「貴女に合わせてウォーミングアップしてあげたんだけど、お気に召さなかった?」

 実に、癇に障る一言だ。傲慢な助力など必要無い。容赦無き猛攻こそ、キルシーの望んだ舞台だ。先刻のペンダントの一件でぐらついていた心を、漸く上手い場所に嵌め込める。唾棄すべき敵が、すぐそこに居るのだから。

「本気でやってくれないと困るわ。ぶちのめす快感が無くなっちゃうじゃない。いや、いいわ。余裕を見せたままくたばってくれても、それはそれで。貴女の慢心をタネに、私が喜べるかもしれない」

「そっちの可能性に掛けてみたら? 今の所、貴女に本気を出す価値が見えないもの」

 今度はこちらの番だ。キルシーは黒髪MAIDに接近し、拳を振り抜いた。常人であれば肉塊へと成り果てる、即死の一撃だ。しかし、それは彼女の周囲の大気を乱す事にすら至らない。彼女は刀でそれを斜めに受け流し、キルシーの背後へと回った。突き付けられた刃の感触は、彼女の刀に傷一つ付いていない事を雄弁に物語っている。

「……で? 今の“避けて下さい”と云わんばかりな攻撃で、私に価値を示してくれたつもり?」

「舐めるな、糞桜蘭人(ローア)。結果報告に必要なデータが圧倒的に足りてないわ」

「何が云いたい」

「戦いを支配するのは速度のみとは限らない。絶望的状況を回避する、桁外れの力だってある筈よ」

 振り向きざまに刀を掴み、指先の皮膚が裂けるのも構わずそれを真っ二つに折った。端末にカードを三枚通し、表示機が『Level 9』になった事を確認する。身体を繊維質の装甲が覆い、背からは他の空戦MAIDに同じく翼が生えた。緑の二対、白の二対。八つの翼と、今まで圧縮されていた力のエントロピー増大による爆発が、会議室を“ただの広い部屋”へと打ち崩した。黒髪のMAIDは暴風に巻き込まれ、外へと吹き飛ばされた。ここは二階だ。相応の痛手は受けてくれるだろう。
 机も、書類も、突き刺さっていた桜蘭刀も、何もかも階下へ転げ落ちたのを見たキルシーは、ほんの僅かな満足と共に黒髪のMAIDの場所へと飛び降りた。

「力押しも戦法の一つ。例え大きなリスクを背負ってでも、最悪な選択肢が幾つも並んでいる中ではそれが最善になる事だってあるわ」

 でなければ、かつて所属していた部隊が二匹のドラゴンフライに負けた理由が思い付かないではないか。本当は何をやっても勝てなかった事は重々承知だ。ただ、何故に古巣、ブラックパンサー隊は壊滅したのか。それは力が及ばなかったからか。結束のみでは勝てないカードを、あのドラゴンフライ達は持っていたという事か。無力を思い知らされるのはもう嫌だった。既に自覚し、絶望し、何度も涙を流して来た。だからこそ今夜だけは、何も掴み取れぬ事無く終わるという結末を何としてでも避けたい。

「私は最強でなければならないのよ……最強にならなきゃ、また、誰かを助けられなくなる」

 誰かが誰かを守り切れなかった分だけ、自分がその誰かを助けなくては、救い切れなかったその誰かは、誰が助けるというのだ。多くの者は見知らぬ第三者の為に血を流せる程、優しくも愚かでもない。まして、孤独に生き残った自分を救えるのは、自分しか居ないのだ。

「出て来なさい。黒旗!」

「望み通り出て来てやったわ。最強の看板がそんなに欲しけりゃ、御託なんてボヤいてないでもがいてみたらどうなの?」

 それからは無言だった。キルシーはひたすらに、己のコア・エネルギーを乗せた拳――正確には巨大な拳の形をした光の塊を、何度も放つ事で殴打を試み、黒髪が刀でそれを次々と受け流した。この女を倒せば、百歩譲って傷一つでも付けられれば、何かが変わる。そんな気がしてならないのだ。弱気な自分に決着を付けたいと望む事が、こんなにも辛い。

「黙ってても弱音は吐けるものね。貴女、顔に書いてるのよ。“苦しい、助けて”って。自分にも、他人にも、周りの状況にも納得行ってないんでしょ? 全部お見通し。――だから、この話はこれでおしまい」

 背骨の軋む音と共に、激痛が身体を貫いた。何が起こったのか即時に理解は出来なかったが、膝を突き、ひとしきり咳き込んでから漸く気付いた。腹が燃えるように熱いのも、口から止め処無く赤い液体が流れるのも、全て合点が行く。狙撃だ。眼帯を付けた金髪のMAIDが、未だ硝煙の消えぬ狙撃銃を持ったまま棒立ちしていた。
 ディレイドライバーの安全装置が働き、翼と装甲が霧散した。表示機は『Level 1』を指している。

「そんな、隠れて狙うなんて、卑怯よ……!」

「誰が決闘をするって云ったのかしら。私達が貴女達に応じたのは突発的なテロに対する迎撃で、私個人の役目は最も危険なMAIDを引き付けて、人員を非難させる陽動係。現実はこんな風に、いつも無情なものでしょう? ルフトヴァッフェはそんな事も教えてくれないの?」

「それくらい、知ってる……でも、こんな倒し方で満足なの?!」

 黒髪のMAIDは一瞬、侮蔑と憐憫を綯い交ぜにした面持ちを見せた後、腹を抱えて笑い始めた。何が可笑しいというのか。

「猟師が熊を猟る時、銃を使うでしょ? だって、熊は腕力もあるし、爪も鋭い。掠っただけで死ぬ事もある位の危ない獲物を、わざわざ同じ土俵で戦おうとする方がおかしいのよ。私が猟師で貴女が熊。今回の狩りは熊が疲れた所を、ズドン。罠を使わなかったのが、私なりの最大限の譲歩。ご要望には可能な限りお答えしてあげたつもりよ」

「……ふざけないで。じゃあ、私は初めから対等にすら見られていなかったという事じゃない」

「聞きなさい、赤緑」

 黒髪が、動けなくなったキルシーの脇腹を掴み、引き寄せた。皮膚がひりひりと痛む。黒髪は今までに見せなかった、背筋の冷える程の無表情で語る。

「私はね。スペックの玉座に胡坐をかいてるだけの奴がこの世で一番嫌いなの」

 黒髪の低く苛立たしげに震えた声が、失望を表している。

「よく解ったでしょ? 貴女は所詮、馬鹿力だけ。技術が無い、キレも悪い、努力もまともにやってない。こういう時に知恵も働かせない。ないない尽くしであまりに情けないから、貴女には“生き恥”という宿題を出すわ」

 パチン、と黒髪は指を鳴らした。これが作り話であればどれだけ良かったか。誰かが、事実は小説より奇なりと云っていたが、キルシーはその格言の存在をこの時程怨んだ事は今まで一度とて無かった。

「ケイ・カザミ大尉。かつての教え子と感動の再会よ。その赤緑をきちんと護送車に運んで遣りなさい」

「……こんな形での再会も、悪くはないのかもな。キルシー」

 嘘だ、嘘だ、嘘だ。そんな事があってたまるか。ケイ・カザミはあの日、墜落した機体から離脱して、行方不明になっていた筈なのだ。今更、都合良くこんな場所に現れる筈が無いのだ。きっと、悪魔が他人の不幸を嘲笑う為だけに、都合良く運命を弄繰り廻しているに違いない。そうと考えなければ、精神がぼろぼろと零れ落ちて、自分が自分の形を失ってしまいそうだった。


最終更新:2011年03月10日 00:59
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