(投稿者:ニーベル)
はっとする程の美しさが、そこに存在していた。
師匠が――童元がいるはずの部屋には、その姿は無く、ただ一人の女性と凛としたその姿を照らす月だけがあった。
何もかもが呼吸を止め、世界から全ての音が消えたような錯覚を受ける。幻想的な風景が、目の前に広がっていく。
そのまま切り出せば、それだけで絵が産み出されるような光景。自分は、言葉を失っていた。
「いきなりどうした、銀那」
「永花、様」
言葉をかけられて、ようやく我に返る。世界に音が散らばっていく。
扉を閉めて、いきなり入ってきたことに対する非礼を詫びると、気にするなと、笑みを投げかけてくれた。
部屋は、驚くほどに静かだ。隆光からは、飲んでいたからまだ騒いでるんじゃないかと言われていたが、飲んでいた気配は見えず、落ち着いた空間が存在しているだけだ。
落ち着かずにその場に立っていると、永花が苦笑しながら、座るように促してくれた。好意に甘える形で、座布団に座る。
一対一の状況となっていた。自分と永花だけしかいない。実に気まずかったが、同時に都合が良くもあった。自分には聞きたいことがあったのだ。
師匠がいては、出来ない話だった。そもそも、永花以外の誰にも聞かれたくない話であったのだから、これほどタイミングとしては、良い時はない。
――ない、はずなのに。
言葉を、出せなかった。一番言いたくもあり、聞きたいことなのに、どうしても口から出てこない。
自分が、恐れていることだからか。何を今更と思う。自分は、恐れてばかりで結局何もできなかったのではないか。あの時から自分は変われていないというのか。
もう少しでも自分が動いていれば、師匠や隆光と、安綱が別れてしまうことにはならなかったかもしれないというのに、間に入ることに怯え、言葉を伝えず、何もしなかった己がいた。
口を動かせねば。自分から、伝えねば。言わなければ。言葉を紡ぎださなければ、話は始まらない。
「銀那」
「は、はい」
「私と童元について聞きたいのだろう?」
永花が、凛とした表情を柔らかなものに崩した。この人は、こういう表情も出来るのだと、何故か思ってしまった。
「……それは」
「隠すな」
苦笑しつつも、永花が前へと座った。いつもは、自分と同じぐらいの大きさにしか感じない女性が、大きく見える。普段の姿からは、想像できないような凛々しさだ。
「先に言っておくが、私と童元には、関係はないぞ」
「そんなことは」
「聞きたがっていたのだろう。童元がいたらどうしよう、というのが表に出ていたぞ」
顔が熱を帯びて、赤く染まっていく感覚がした。私は、なんという女なのだ。
永花が、微かに笑い声を上げた。恥じていく私を慰めるような口調になっていく。
「恥じるな。女としては、その気持ちは分からなくもない」
「……それは、そうですが」
童元に対しては、教官としての感情以上の物を持っていた。否定しようが無いほどの、心を熱するような感情だった。自分の中では、彼が遠くに行ってしまった内に、冷めていくものだと思っていた。
事実、再び会うまでは熱は冷めてしまったと、考えて落ち着けるようにまではなっていたのだ。彼はもう手が届かない存在なのだと。自分の中で納得させた。
桜蘭に来て、彼に会った途端に、その冷たさは消え失せてしまった。熱さが、自分の中を駆け巡った。もう二度と、そう誓っていたのに、あっさりと破られてしまったのだ。
愛しい人を愛したい。愛されたい。醜い欲望が、自分の中を埋め尽くして、汚していた。隆光の事を馬鹿になど、出来はしないのだ。恋人が二人いて、どちらも愛するなど馬鹿げたことをなどと何度思ったか、分からない。女誑しが、と思った事も二度三度ではない。
それでも、愛されている二人――翠蓮と
イウサーム――を見ていると、羨ましくなってしまっていた。私も、彼にああされたいと、願ってしまった。あの二人のように、甘えてしまいたいと、全てをさらけ出して、彼に受け止めてもらいたいと。
私は、彼女たちと隆光の関係に嫉妬しているだけなのだ。隆光は、女誑しのようで、誰よりも誰かを愛するという事の重さを知っている男だった。それを知っているから、彼女達も隆光に、ついていってるのだと私は分かっている。
分かっていながら嫉妬しているのだ。なんと醜いのか。
「……顔が怖いぞ、銀那」
「あっその」
「甘えられぬのだろう?童元に。仕方ない男だな、あの男も」
「それはってちょっと……」
気がつけば、抱きしめられていた。心の鼓動が、とくんと、耳に聞こえてくる。
「あの男は鈍すぎるな」
恥ずかしい、という気持ちが一杯だった。抱きしめられているということよりも、一番恥ずかしいのは抱きしめられて安心している私がいるということだ。
だが、確かな心地良さがあった。ふっとそのまま体を預けたくなってしまうような優しさと温もりがそこにあった。
「……私も、過去にこういうことをされた覚えがある」
「過去に、ですか」
「優しい人がいてな。普段は無愛想で、辛い事をやらせたりする厳しいのがいたよ」
懐かしそうな、それでいて遠くを見るような眼差しを、永花はしていた。大事な思い出なのだろうか。
自分にはよく分からない。故に、黙っていた。
「それでも、時折は優しくしてもらったものだ。自分では気づかないような所も、しっかりと見てもらえていた」
「優しい人、だったのですね」
「酷く不器用だったがな。まぁ、良い人だったよ。本当に」
「今、その人は?」
「遠くに行ってしまったよ。本当に手の届かないところにな」
「……申し訳、ありません」
「気にすることはない。勝手に話した私が悪いのだからな」
笑顔で答えてはくれたが、余計な話をさせてしまったという方が、気分的には強かった。
させるべきではない話をしてしまった。後悔の念が、塩が静かに、ゆっくり満ちてくるように上がってくる。私が、踏み入っていっては、いけないような話のようなきがしていた。
しばらく、お互いに黙っていた。何か話をしようにも、良い話題が見つからない。本当に師匠と永花が、関係が無いのかは分からない。あの二人の事だから、どこかありそうな気はまだしている。
今は、考えたくもないし、触れたくもなかった。永花にとっても、童元にとっても、聞いてはならないことであるような気がしている。
二人は、過去に何かあったのだろうか。それとも、元々そうであるのか。自分にはよく分からない。
永花の表情を見る。どこか、悲しそうな表情は、心を揺さぶられる。そして、誰かを求めていたかのようにも思えた。
やはり、自分には分からなかった。
「すまんな。入らせてもらって」
「構いませんよ。俺と師匠の仲ですから」
「……お前にそう言われるとあらぬ疑いを抱かれそうだから、やめろ」
「いや、俺もそっちの趣味はないですから。まぁ、飲み直しといきましょう」
二人とも寝てるとはいえ、襖一枚隔てた所にいるんですから。そう言って自分は酒を飲み始めた。銀那が、師匠と永花の相部屋に行く時に、こちらの部屋に来るように誘ったのだ。
師匠はあっさりと、その話に乗ってくれた。男同士の方が気が楽になることもあるのだ。ザハーラでも、それは同じだった。女性に甘えたりしたい時もあるが、腹の底を晒しあって話す事が出来る男も大切なものだ。
酒は、まだあった。男二人だけで飲むのには、十分すぎるほどだ。話すべき事は、多くあった。
「もう、何年ぶりですか。こうやって酒を呑むのも」
「長い間、なかったからな」
「お互い、いろいろありましたからね」
本当に、色々あった。自分に恋人が出来た事。師匠は、この国を追放された事。己が出来る事を、知った事。仲間が出来た事。
数え上げていくのも面倒な程に、多くの出来事があった。どれもが、喋りたくなる事だらけだ。それに、もう一つ喋りたいのもあった。師匠に、話すべきなのかは迷っていたが。
酒を杯に注いでいき、一気に飲み干した。心地良い冷たさと、潤いが喉を通っていく。この土地の酒だが、驚くほど自分の好みに合っていた。翠蓮に全部飲まれないように、こっそり取っておくぐらいには、好みだったのだ。
つまみも、用意はしてきていた。二人分だから、すぐ無くなるに違いないが、酒の繋ぎには足りる。
「しかしまぁ、珍しいもんです。俺も、銀も、安綱も帰ってきているなんて」
「その上永花も帰ってきている。昔が戻ってきたような感覚だな」
「ですね」
安綱とは、顔を合わせてはいない。それでも、戻ってきているということは銀那から聞いていた。いつかは、顔を合わせることになるかもしれない。墓参りがあるのだ。
その時に会ったら、どういう顔をすればいいのかは分からないが、なんとかなるだろうという気分でいた。下手にあれやこれやと考えているのは、自分には合っていない。
あるがままに受け止めればいいと思い始めていた。ザハーラで過ごした数年が、自分を変えていた。難しく何かを考えることは止めた。
変に言葉を選ぶより、率直に感じた事を出した方が余程良いし伝わりやすい。難しい言葉は何もいらない。
互いに、ちびちびと酒を飲んでいる間、言葉は一つも出なかった。
「隆光」
「なんですか」
「大きくなったな」
酒の三杯目を注ごうとした時に、師匠に言われた。思わず苦笑する。
「俺は、大きくなんかなっていませんよ」
「謙虚だな」
「本当です」
軽く、杯を揺らす。酒に映った月も、一緒に揺れていた。
「俺は、自分に出来る事だけやろうとしているだけです」
「ほう」
「出来ないことまで、昔はやろうとしていたんですよ」
昔は、そうだった。自分なら、手が届くと思っていた。眼に入るものも、それ以外も、全て守りきれると驕っていた。
若さと言えば、聞こえは良いが、若さだけで守れるものなど、何も無い。守れるだけの力と、才能があってこそ、ようやく出来る。昔の自分は、そんな物も理解していなかった。
今でも、完全に捨て切れたとは言えないが、ある程度は吹っ切れたと思っていた。目の前にある、届くものだけを護ろうとした。
自分の傍にいる者達だけを、護ろうと。自分に可能なのは、それだけだ。
理想家になど、なれるとも思ってないし、なるつもりもなかった。自分には、現実を見つめていく事だけで精一杯だ。
故に、大切な者も取りこぼすような事になった。見捨てられたと思う。後悔はしていない。全を救うことなど出来なかった。七から六。それが自分に出来る全てだった。
彼女は、全てを護ろうとした。自分には、全てを護るという理想の熱は無かった。殴られたが、恨みなど無い。羨ましいと思う気持ちすら、湧いていた。
「怒った顔も素敵でしたけどねぇ」
「いきなり、なんだ」
「いや、女の話です」
「お前」
「おっと、怒るのは勘弁してください。俺は二人を大事だと思ってますし、あの二人で精一杯です」
師匠が、暫く黙ってこちらを見ていたが、酒を飲んだ。見抜かれたかもしれない。
「良い二人だったな」
「ほんと、俺みたいな男に惚れてくれて、嬉しいと思ってますよ」
「お前だからこそ、だろう」
「止めてくださいよ。俺は彼女達と友だけを護ろうとする、小さい人間です」
「どうだかな」
自分の杯に酒を注いで、一気に飲み干した。酔いは、まるでこない。無理に酔うつもりもない。
いくら飲んでも、今の雰囲気では到底酔える気がしなかった。ずっと、このままだろう。
「お前は、あの時の事をどう思っている」
「あの時とは?」
「惚けるな」
師匠が、真剣な目で見る。何を指しているかは分かった。
「もう、忘れましたよ。俺は」
「簡単に忘れられまい」
「ですから、あの時の師匠と、事件自体は忘れることにしたんですよ。他はともかく」
安綱と、歩む道を別れた切欠になった事件自体を忘れるなど、本当に出来るわけがなかった。ただ、忘れたと思い込み、心の奥に収めるのは出来る。
自分の生き方を変えたかもしれない。自分に深い傷跡を残したと思う。忘れるつもりも、本当は無かった。
彼女の死に様を忘れるなど、出来るはずがない。一生付きまとってくるに違いないが、それも自分に課せられた定めとか、そういうものに違いない。
心に刻み込まれたのだ。刻み込まれた物は、拭えない。
「済まなかった」
「良いんですよ」
師匠を責めるつもりなど無い。立場が違ったのだ。今更責めて何になる、という思いも強かった。
誰がどう動いたにしろ、彼女は救えなかった。分かりたくないと思うほど、自分は子どもではない。
だから、今度こそは、自分の近くにいる者たちだけは護り抜くつもりだったのだ。決して同じ轍を踏む気はない。自分の身体の一部が犠牲になったとしても、軽い代償に過ぎない。
「思いつめるなよ、隆光」
「気楽に生きていこうとしているだけですよ」
「気楽に生きていこうとして、冷めているようで、どこか熱いのがお前だ」
「褒めてるんですか、師匠」
「褒めている」
真顔で言い放つ師匠に対して、思わず吹きそうになる。
「師匠」
「なんだ」
「今度は、全員で酒でも飲みましょう。懐かしい奴らで」
それまで、誰も死なないように。らしくないことを考えたと思うが、自分の本心なのだ。
師匠は、相変わらず黙ったままだったが、心地良さそうにしていた。いつか全員で飲める日が来る。そう思うと、酒はより美味く感じられた。
きっと、いつか来ると。そう願わずには、いられなかったのだ。
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最終更新:2016年12月19日 21:44