(投稿者:Cet)
「一人の老婆がいた。
究極の安らぎを人に与えることが彼女の目的だった。
彼女は悩みに悩み抜いた挙句、一つの概念になった。
彼女という概念が意味することは一つだ。
例えば、暗闇の中を歩いている人がいたとする。
その人が、今、立ち止まる。
ずっと、立ち止まっている。
空を見上げている。
でも、その人にとって、空はもう無いんだ。
でも、見上げざるを得ないんだ、見えなくても。
ああ、と、声を出す。
もう何も見えないや。
何も見えない、って。
ところで、スクランブル交差点って知ってるか?
あるんだよ、で、その真ん中がゼブラゾーンになってるわな。あるんだよ。
そこで立ち止まっている人間が一人いるわけだ、夏の盛りに。
皆はその人を不審に思いながらも通り過ぎていく、で、その人は呟くワケだ、見えないな、と。
老婆はそういう人を見つけ出して、同じ暗闇の中に降りて行くんだ。
そして、後ろからそっと近寄る。
勿論、前から近づいても、その人には老婆が見えないんだけどね。
でも、彼女は後ろから近づくことにしてるんだ。
彼女は、後ろからそっと目を覆う。
だーれだ、なんて具合にね。
ほとんどの人は、彼女の手に触れてみる。
そして後ろを振り返ろうとする。
何もしない人もいる。
ああ、そうさ。
それが彼女の仕事なんだ」
◇
(今日は買い物に行って来たんです)
(綺麗ですね)
(あの人のことを知っている気がする)
(いやあ)
(いやだいやだいやだいやだいやだいやだ)
(……)
(いやだ)
(……)
(――――と申します)
◇
暗闇の中で語り終えた青年は、そう言った。
対面して座る男は、顔を上げる。
「そういうのも一つのスタイルだろう?」
「……そうかもしれない」
男はぼんやりとした口調で言った。
「お前は、誰なんだ」
問いかけに、青年はおどけたように笑う。
「死神じゃないのは確かだ」
「勿論、私たちにはそんな便利な舞台装置は有り得ない」
「その通りだ」
青年は視線を落として、同意の言葉を口にした。
「さて、幕間もそろそろ終わる」
何でもないことのように言った。
最終更新:2011年05月05日 01:35