華国南部沿岸にある宇都は緯度的には亜熱帯である。四月の半ばから六月にかけてのこの時期は丁度雨季にあたり、ポツポツ
と雨粒が落ちはじめたと思ったらあっという間に滝のような土砂降りになる。もとより高温多湿な気候であることに加え、海
が近い。それがためこの街はすえた潮のにおいに、どこからか腐った卵のような、ドブのようなにおいが混じり、猥雑で不衛
生なこの街に似つかわしいスメルをかもしだす。
ヂリヂリと極彩色に輝くネオンの囀りに、ゴロゴロと響く発電機の唸り。ひといきれと発情した猫の鳴き声。これら雑踏と喧
騒とが過飽和状態になったような賑わいは、闘妹が行われるようになってから、地下闘技場周辺に自然と形成されたものでそ
うした繁華街の営みがまた、この街のスメルを一層醸成していくこととなる。
レゲンダは雨を避けて店の軒先に張られたひさしから、ひさしへ、唐傘を差した人垣の間を縫って足早に歩いていた。
すでに時刻は十時を過ぎており、夕食には遅すぎる時間帯だが、メインストリートには様々な屋台が軒を連ねており、質を問
わねば食に不自由することは無い。
食だけではない。物不足の世の中だというのに、どこから仕入れて来るのか、軍から払い下げられた衣服や、各種装備品が並
べられ、その中には様々な国で製造された短銃や小銃、重機関銃から迫撃砲に至るまで雑多な兵器が当然のように売られてい
る。
店の軒先に吊るされた、機関銃の弾帯が真鍮のとばりを織り成し、街辻から漏れ出る様々な光源に照らされて、明滅する。
店先に並んだいくつもの銃口は、グリスが注されてよく磨かれているにも関わらず、ひどく空ろで渇いて見えた。
その隣では、ガラの悪そうなチンピラを両脇に従えた両替商がこれ見よがしに紙幣を数えている。混乱の極みにある現在の華
国において同国の通貨は紙くずとなって久しい。
流通しているのはもっぱら、アルトメリアのレアかクロッセルのユニロなど、国際的購買力を持つハードカレンシーである。
だが庶民にはそうした外貨は、滅多に手に入らない。代わりにそれらよりいくらか入手しやすい楼蘭の錬か、でなくば物々交
換である。
そうしたイリーガルな品々が並べられたバラック群の間を軍閥の兵隊が我が物顔で闊歩する。連中にしたってこの街の住人。
それらを取り締まろうなんて気は毫も無い。所詮は国家予算を横領してこさえた私兵であるから、彼らの忠誠心は華国政府に
ではなく、直接給料を支払う軍閥の親分に向けられている。
兵隊は店々を巡って、みかじめ料を徴収して周り、戯れに商品を物色し、若い女がいれば、はばかりも無く尻を一撫でしていく。
そんなあらゆる糞の詰まった穴がある。糞虫供がひしめく穴がある。その穴の名は宇都。
ここはG戦役が生み出したソドムの市。
雨足はさらに強まり、街の灯りも煙っていく。
早いところ夕食にありつきたかったレゲンダだが、こういう時に限ってどの店も満杯で、人垣を掻き分けてその中からよ
うやく飯にありつけそうな一軒の屋台を見つけることができた。
この際なんでもいい。喰えればそれで結構だと、動物的な食欲がレゲンダの胃を締め付ける。
「二つだ」
「一つで十分ですよ」
レゲンダが屋台の暖簾をかき分けて入っていくと、先にいた女性客がなにやら店主と悶着を起こしてるようだった。
その先客は顔立ちや言葉の訛りからして、どうやらこの国の人間ではなさそうである。
「いいや四つだ」「二つで十分ですよ。わかってくださいよぉ」などと、一言二言やりあった末にどうやら店主が折れたよう
で、渋々注文の品を作り始めた。
レゲンダは先客の右側に椅子一つ空けて座ると、カウンターの上に並べられたメニューの描かれた木札を端からざっと流し読
みつつ、そのついでに彼女の顔を覗いた。
レゲンダが一見するに、どうやらこの女もこの国の人間ではないらしいというのが見て取れた。褐色の肌に彫りの深い顔立ち。
マハーラあたりの人間だろうかとレゲンダは推量をあてる。
「はいおまち」
程なくして先客の注文が出て来た。それは生卵が四つ浮かんだ月見そばだった。
しかし彼女は蕎麦が出されても直ぐには口をつけず、両手で拝礼でもするかな様な所作でドンブリを持ち上げ、中をじつと覗
き込んでいた。
「お嬢ちゃんはなんにしましょ?」
店主がレゲンダに注文を伺おうとしたとき、唐突に先客がうっそりと呟いた。
「……いい景色だ。そうは思わないか」
「何を言ってるんです。たかが蕎麦じゃないですか」
店主はにべもなく言う。この食糧難のご時世で、代用品の混ぜ物で作られた、代用品そのものともいえる蕎麦に、いったいど
んな景色が映るというんだ?店主の言葉にはそんな言外の軽侮が込められている。
そんなやり取りを見ていたレゲンダは、その月見蕎麦がなにやら尋常ではない代物なのかも知れぬと思い、横目で丼の中を盗
み見た。だがそこにあったのは店主が言うとおり、やはりなんの変哲も無いただの蕎麦である。それもまがい物の蕎麦とも言
えぬ蕎麦だ。
泥水のように濁ったスープと、それに浮かぶ土気色をした麺とに、この女はいったいどんな情景を見出したのであろうか。
「たしかに、たかが蕎麦だ……」
そう言って女はドンブリを掲げると、代用品の中で唯一純正といえる卵黄の中心に箸を突き入れた。
箸に突かれた所よりこぼれだした黄身が徐々にドンブリ全体へと広がっていく。
その瞬間、店主をはじめとしてこの屋台に居並ぶ客の脳裏に一つのビジョンが閃いた。
およそあらゆるものが、その崩壊の瞬間にある種の美へと結実していく。二つの黄身を中心として次第に増大していくエント
ロピー。女は沈黙のうちにどんぶりの中に小宇宙を作り出し、そして黄身が広がりきるや、それを息もつかせぬほどの一瞬で
胃の府に落とし込んだ。
膨張から一転にして収縮。例えるならばビッグバンとビッグクランチ。
たった一杯の月見蕎麦で百万阿僧祇の悠久を刹那に閃かす。
一部始終を目撃した店主を含む誰もがその光景に言葉を失った。
女は神妙な手つきで丼を置いた。カウンターに座る客も店主も、厳かに行われる儀式を見るような心持で、女の所作を見守る。
べきりと音を立て、彼女は手に持っていた割り箸をへし折った。その厳粛な水面に「……馳走になった」ただ一言、雫を落とす
ようにそれだけを言い残して、くるりと踵をめぐらすと褐色の女は屋台から出て行った。
「あっ」
店主が気付いたときにはもう遅い。女は代金も払わずに立ち去り、そして宇都の雑踏に没した。
「野良犬だ。捨てられたのか迷い込んだのかこのあたりには多い」
見やれば雨に濡れそぼった痩せ犬が、みじめたらしく尾を垂らしてゴミの山に鼻を突っ込んでいた。
犬は自分に向けられている人の視線を察したのか、首を上げるとこちらを切なげな目で一度見返し、すごすごと物陰に引っ込
んでいった。
「何が言いたい?」
男の言葉には言外の含みがある。
レイチェルにはその持って回った言い方がまだるかった。
「人が犬を捨てるにはそれなりのワケがある。なんならそれを歴史的必然と言ってもいい。だが所詮犬っころの悲しさ。そん
な人間の事情なんてまるで理解しない」
「『狡兎死して走狗煮らる』この国の諺だそうだ」
男の言わんとすることなど初めから知れていた。レイチェルは拒否の意思を示す代わりに茶々を入れる。
「君に選択の余地はない。巡察と称して何もせずにいる君を上は快く思ってはいない。これが続くなら君もいづれその走狗の
ように煮られることになるだろうさ」
その男にしてもレイチェルの心中は知れており、彼女の嫌味もさらりと返すと、これまで何度もしてきた話を言葉を変えなが
ら今一度繰り返した。
もはや否応も無いとでもいう風に。
「……脱走し社会にまぎれたMAID。それをすべて探し出して始末することは用意ではないが、かといってその危険を放置
し続けるリスクは君も重々承知していることだろう」
「……」
「だが、この国の人間は上から下まで目先の利益に狂奔し、そんな危険性をちっとも省みようとはしない」
「結構なことだ」
「ああ、結構なことさ。その狂態が生む混乱は我々にとって決して悪いことじゃない。特にこの街はデカダンスをやるにはうってつけだ」
「……で、私は誰をやればいい」
かすかに嘆息の混じったような、抑揚の無い声でレイチェルが尋ねると男は懐からマニラ封筒を取り出して彼女に手渡した。
「書類は見たら燃やせ。いいな」
レイチェルは封筒を懐に修め、入れ替わりにタバコを取り出したが、一服しようにもこの雨ですっかりしけっていた。
「やがてこの街の信号も透き通った赤から濁った青に変わる。カオスの内に受容されてきた……いやカオスそのものを構成し
てきた戦後的なものは、いずれ排除されねばならない」
そういいながら、男はタバコを取り出し、レイチェルに差し出した。彼女はそれを受け取り、男に火をつけてもらう。
「……そして三歩あるけば全てを忘れる猫の時代か」
「忘却は大衆のもつ唯一の善徳だ。忘れるからこそ時代は進む。世間はいい加減その本分を思い出してもいい頃だ」
「忘却を思い出す……か」
レイチェルは男の言葉尻の矛盾に、なにやら権力者の嘲笑めいた帝王学の臭いを覚えた。
そして彼女は曇天を振り仰ぐ。
雨粒が、頬に当たっては砕けて流れ、流れるにつれ、破片はつどいて再びしずくとなって地におちる。
「あんたは時が前に進むだけだと思っているのか」
「それ以外の何がある?」
男は肩をすくめてそう言った。
「否。時は常に留まり、人だけがうつろい行く」
レイチェルはシケたタバコをその場に吐き捨てると踵を返し歩き出した。去り行く彼女の背に向けて男はいった。
「所詮は君もこの街に吹きだまってる連中と同じ野良犬か」
「飼い主を望まぬ犬!?」
灰色の空を縁取る廃材の山脈に、どこから犬の遠吠えがこだました。
最終更新:2011年05月29日 19:00