比重のある影

(投稿者:Cet)




 それが夢であることには気付いていた。
 というよりも、少女にとって夢であると認識されない夢はまず存在しない。

 見覚えのある暗い部屋の寝台に仰向けになっていた。
 湿っぽい臭いを漂わせる木張りの壁と、雨漏りの跡が覗えるやはり木の天井が見える。
 自分の上に何かがいた。
 暗くて重い何かだ。
 まるでそれは生き物のように蠢いている。
 まるでそれは生き物のように? 否、例えそれが夢の中であろうとも、認識は現実的でなくてはならない。
 確かにそれは生き物だったのだ。
 けれど、今それは経験の集積として、一つの概念になっているだけだ。
 それを何と呼ぶことができるだろうか、いや、今その概念に名前を付けることには意味がない。問題はこれが夢であるということだった。つまり、この概念が彼女自身に含まれているということだ。
 自分自身とそれを俯瞰する二つの視点が混ざり合っている。そうだ、この概念は自分自身に含まれてしまった。そして同時に、この概念は私自身から何かを損なったのだ。
 そう、これは私なのだ。








 私なのだ。その結論に至った瞬間、風景は破れた。
 似たような部屋だった。湿っぽい木張りの床、形成式建築材による壁と天井。ゆっくりと上体を起こしながら現状を確認していく。異なる点があるとすれば、そこにいるのが自分一人では無いということだ。規則的に並べられた寝台の上で、自分と同じように横たわった幾らかの人間が呻き声を上げている。全てを思い出していく。そうだ、自分は生き延びたのだ。
 つまらない結論だった。生き延びたのだ。
 つまらなかった。
 ただただつまらなかった。
 血液損耗によるショック状態で視界がブラックアウトしたところまでは記憶に残っていた。しかしその後は完全に空白である。
 何度となくこの体は自分を助けてきた。そして今回もそうであった。
 蟲は死に、そして自分が生き残る。
 つまらない帰結だ。
 しかしそのことに拘泥している時間があるのかどうかは甚だ疑問であった。そもそも戦闘が継続中であるかもしれないからだ。部屋の中は呻き声に満ちていたが、外は外で喧騒に近い雑音にまみれていた。
 恐らくまだ戦闘は終わっていない。私は自分自身で戦闘の経過をなぞり返してみる。
 第一次接敵、先遣攻撃隊の敗走に基づく撤退。第二次攻撃。劣勢、撤退戦。
 記憶はそこで途切れている。つまり、自分は撤退戦において負傷したが、何者かによって救助されたということだ。恐らくは私が負傷した時点で無傷であったチューリップあたりのお陰であろう。
 まだ包囲網の中にあり、しかも負傷していた自分自身が助けられたということは、撤退はそれなりに上手く行ったということだ。そのことに関して私は一つ胸をなでおろす。
 もちろん、最低限の損耗があったには違いない。しかしそこに関して想像することは無駄だ、誰が助かり、誰が助からなかったかということは往々にして運命の裁量によるのだから。
 それから私は、申し訳程度に体を覆っている傷病者用の肌着に目を遣った。そしてその内側の包帯の感覚を意識する。傷は治癒しつつある、しかも現時点でなお平常にかなり近い状態にあった。完治までそう間もないであろう。もともとリスクマネジメントは得手な方なのだ。
 私は毛布を撥ね退けると、身体の向きをゆっくりと変え、そして慎重に足を地面へと降ろした。兵士にしてはあまりにも短い四肢だった。何度となく行ってきた自己認識には苦笑の一つも出てこない。左足の先が地面に付くと同時に鈍い感覚が背筋の右方を中心に広がっていく。しかし支障があるというレベルではない。今日中には完治する程度の損傷だろうという確信を持つ。
 そのタイミングで計ったかのように部屋の扉が開く。
 決まりの悪さを装ってそちらに視線をやると、そこには見慣れた白衣の男が立っていた。本国でメード技師を務めているところの男だ。何度となく世話になったことがある。
「動くな」
「話だけは聞くよ、つまり現状と要求というやつだ」
 男は無言で歩み寄る。男は威圧感を視線に載せて、前進する。私は男の威圧感から距離を取るようなていで、降ろしかけていた足を引き上げる。尻を寝台の上に戻す。鈍痛が走る。
「お察しの通り、戦闘は継続中だ、三度の会戦じみた戦いが行われた後、戦線は一応のところの膠着をみている。我々は包囲を破って撤退したところだ」
「包囲は結局のところ完成されたんだな、原因は指揮系統の混乱の所為だろうが……それで、私にとって有害な人的被害はあったのだろうか」
「一応は無い、但し全員が全員あらゆる意味で損耗している。
 彼らは今、昼も夜もなく戦い続けている。加えてこの戦いには目途というものがない。こちらが劣勢で、向こう側は勢いを増している。ここで踏みとどまらなければグレートウォール戦線は完全に崩壊し、我々は帰るところを失う。何か質問は」
「私に戦闘許可は出されるのかな?」
「無論だ、存分に戦ってくれ。死ぬまで」
「了解した、申し訳ないが私はこの場所に全く覚えがないのでね、誘導してもらえると助かる」
「分かった」
 死ぬなよ、などという言葉は無かった。死ぬまで戦え、とのことだった。率直過ぎる男であったが、今はその方が心地いいくらいだった。
 私はそっと背筋に体重を載せる、ずんとした痛みが両側の背筋を疾ったが、それをおくびにも出さない。
 私を誘導するべく歩く男の後を私は歩く。歩く、その度に痛みが走るが、この程度の痛みが戦闘行動中に回復していくほど浅い傷から発せられるということを私は経験上熟知している。なんせ、この身体で既に八年近くも戦い続けているのだ。当然だ。
 傷病者用の部屋を出て、そのまま木張りの廊下を歩く。形成式の建築材、ビジネスライクな兵隊の寝床。まだ新しい血痕が引きずられるようにして床にこびりついている。バタバタと白衣の男が、擦れ違ったり、看護兵が我々を追い越したりする。
 兵員用の準備室に辿り着くまでにどれほどの時間がかかったのかを私は上手く認識できなかった。
「準備室を出て右側の出口から広場に出られる、広場では傷病者の復帰手続きが――つまり編成が行われている、そこに行けばいい」
「何から何まで悪いね、ドクター」
「呪ってくれた方がいっそせいせいするよ」
 男はもう何日も寝ていないであろう瞳を爛々と輝かせて笑った。私もその笑みに笑みで返答する。彼は踵を返して去っていった。私はそれを見送ってから兵員室に入る。そこには今のところ誰もいない。
 手当たり次第にロッカーを開け、使えそうな備品を見つくろいながらにチューリップのことを考える。多分彼女は前線で戦っているだろう。恐らくはもっとも過酷な環境に置かれて、前線を維持するために効率よく使い潰されているのだろう。そして今後の自分も例外ではない。
 心の中が空っぽであるように感じた。
 何度となく損なってきたのだ。
 燃焼、反応。それ以外の何があるのだろうか。
 私は、オリーブドラフの兵員服の頑丈な素材を軽々と千切って、短くしていく。
 戦う他には暫く何も考えなくてすむ。その予想だけが妙にはっきりと私の中で存在をアピールをしていた。


最終更新:2011年06月19日 18:21
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