歩いていた。
暗闇の中を歩いていた。
いつのまにか、空気が些かの湿り気を帯び始めた。風の吹く音に混じって、葉擦れの音が響き始めた。埃っぽい砂のようなにおいが植物の香りへと変わっていった。それでも私は歩いていた。森の中の道を歩いていたのだ。
グレートウォール戦線の渇いた土壌とは違う柔らかで肥沃な土を踏んでいた。歩いていた。
夜だった。足元は見えないのにどうしてなのか道があることは分かった。歩いていた。
やがて、目の前に微かな灯りを見た。それは、月の光だった。道の先にはぽっかりと開けた小さな広場があって、切り株が一つあった。座ってくれと言わんばかりに。
私は少しばかり傾斜の掛かった道を歩いた。そして、その広場に辿り着く。その足取りは、どうやら随分長い道のりを歩いた後のように、疲弊したものであるようだった。自分としては現実感のようなものをほとんど感じていなかったけれど。そして、腰かけるまでもなく膝をついた。
こんなところにまで来てしまった、と思う。
ここはきっと、心の中にある、心から一番遠い土地なのだと思う。
ひどくのどが渇いていた。
空を見ようとしても、首が曲がらなかった。どうしても上を向くことができなかった。寒いな、と思った。周囲には常緑樹がこんなにもたくさんあるのに? 自問するけれど、答えを考えることができない。
どうにかして空を見ようと思う。震える手で身体を支えて、そしてゆっくりと顔を上げることができた。少女の足先が見えた。少女が目の前に立っている。ゆっくりと顔を上げていく。白い靴を履いていて、水色のワンピースの裾が見えた。顔を上げる。
金髪碧眼の少女だ。私を見ていた。何やら違和感を感じるが、その違和感はゆっくりと明確になっていった。少女の容姿が自分と瓜二つであるということだった。
「やあ」
こちらからから先に声を掛ける。少女はぼんやりとした調子でこちらを眺めていた。暫くの沈黙が過ぎた後で、少女はやおら腰を折って、こちらに手を差し伸べた。
私は一呼吸置かずしてそれを掴んだ。すっと腰が上がった。
見つめ合っていた。
多分双方が同じ疑問を抱えていた。何故? しかし、少女は破顔した。少女の疑問は早々にして破れたようだった。
少女は再び手を差し出した。私はそれを握る。そして、少女は歩き出した。
広場には二つの道が繋がっていた。私がやってきた道と、少女がやってきた道だ。少女は自分のやってきた道を、私と共に戻り始めた。
風の音がする、やわらかい草と土の匂いがした。さく、さく、と爪先が地面に触れて音を立てた。少しばかり歩いて、少女は立ち止まった。辺りを見回した後で、こちらを振り返って見つめる。再び笑顔を浮かべると、私に歩くように促した。歩き始める。
そのまま歩いていく。
「君は誰?」私は聞いた。
「分かってるでしょ」
「それはそうだが」
土を踏みしめる音が続く。変わり映えのしない道のりだ。
私は、森の中に閉じ込められた暗闇を見つめようとした。しかしいずれのシルエットも私の目に映ることはない。
やがて、正面に再び光が見えるようになる。森が少しだけ開けていて、そこに木造りの小屋があった。その家の窓から、黄色がかった光が漏れていたのだ。
無言の内の同意が交され、そして小屋の前に二人で立った。ノックなどを経ることなくノブを捻り、扉を開けた。内開きの戸から中に入る。私が遅れて中に入ると、少女は私と繋いでいた手を離した。あごに手をやりながら内装を見回して、ふむ、と呟く。ガスコンロ、小さめの冷蔵庫、キッチン。そして大きな机が部屋の中心を占領していた。机の周りにはちいさなスツールが幾つか置かれてある。
「お誂えむけってところね」
少女は一言呟いて、まず冷蔵庫の方へと向かう。扉を開けて中を確認する。私は何もしないでその場に立っていた。少女が扉を閉める。こちらに視線を遣る。
「チーズ、パン、牛乳、野菜は置いてないみたい」
「そうか」
私は頷いた。
「ここは少し寒いね」
少女は呟く。そして、そっと自分の肩を抱いた。
「こっちではちょっと前まで夏だったの」
「そうか、こちらは一月で、どちらかと言えば寒冷な土地にいたものだから、少しばかり居心地の良さを感じるよ」
「それはよかった。でも私はそうじゃないから、ミルクでも温めて飲むね。
貴方は?」
そういえば、ひどく空腹を抱えていた。そして、今更ながら異様な喉の渇きをもよおしているということに気付いた。細く長い息が静かに喉から漏れ出てきた。
「頂きたい、あと、パンを貰えるとうれしい」
「わかった」
そう答えて、少女は冷蔵庫からビッチャーに入ったミルクと、透明な袋に包まれたエテルネ風のパンを取り出す。彼女はそれを水道の方にまで持っていき、そして適当な場所に置いた。キッチンを色々と探って、皿やコップの類を見つける、あとはフライパンと包丁を見つけてきていた。
彼女がミルクを注いだフライパンをガスコンロに載せて、火を点けると、青色く燃焼したガスがちらちらと舞った。ミルクを温める間に、彼女はパンを包丁で二つに切り分けた。私は食卓に腰かけて、少女を眺めていた。少女はフライパンの上のミルクに目を遣っている。
ひどく喉が渇いていた。私は少女を見ていた。
やがてそれらのものがテーブルに運ばれてくる。
白いコップに注がれた温かいミルクと、半分になったエテルネのパン。
これ以上ないほどシンプルな食卓だった。もとより椅子に座っていた私の隣に、机の角を共有するような形で、少女は腰かける。
「ごめんなさい、料理とかやったことなくて」
「いや、そもそも食材が足りないんだ。何にせよありがとう」
少女は少し首を傾げるようにして微笑んだ。
冷蔵庫の冷気によって少しだけ固くなっているパンを齧る。コップの中のミルクに唇を付けた。温かい。
温かかった。
「これからは、好きな時に自分で出して食べるよ」
私はそう言っていた。
私の言葉に、少女は少なからず困惑した表情を見せる。
「これから?」
これから、その言葉になんの問題があるのだろうか。
私は少女の表情を見つめながらに一通り反省してみるが、しかしその言葉の
手触りに、私は違和感を見出すことができなかった。
「これからは、これからさ」
私がそう言うも、少女は黙ってこちらを見つめていた。