さよならも言わずに

(投稿者:Cet)



 青年は、ちょうど『学園』の四階への階段をのぼっていて、踊り場を折り返したところだった。
 夏服、白いカッターシャツに黒のズボン。シンプル。金髪に碧眼であった。青年の瞳はある種の暗さを帯びていた。光を見ようとしているのだが、その目前にある、ひさし、のせいで上手く光を見れないような、そんな目をしていた。
 ぱたぱたという音が彼の耳に飛び込んでくる。それは四階の方から聞こえてきた。しかし彼の目は茫洋としている。どこか胡乱なそんな色を帯びているのだ。
 やがて少女が階段の上に現れる。少女は慌てているようで、どこかしら目的というものの希薄な状態にあるようだった。要するにパニック状態だった。しかし、青年を見かけるとその目に些かの目的が生まれる。
「すみません!」
 少女は心中の焦燥をさして隠そうともせず叫んだ。
「なに」
「えーと、金髪の女の子を見かけませんでしたか? 十歳くらいの……」
 少女は青年の素っ気ない返事には全く頓着しておらず、目的の女の子の背格好をジェスチャーで伝えようとしていた。
 青年はそれを見て少しだけ眉をぴくりと動かす。しかし、その表情の僅かな変化は少女に気取られることはない。
「そういや、さっき擦れ違ってたな。玄関の方に向かってた」
「ホントですか!」
 ありがとう、と言う暇がありさえすれ、少女は風のように階段を駆け下りて行った。ぱたぱたぱた、という足音が暫くの間反響を伴って響いていた。
 青年は階段の途中に立ち止まって、その足音がほとんど聞こえなくなるまでその場に立ちすくんでいた。やがて、少しだけ俯きがちに青年は笑う。場違いなほどに楽しげだった。青年は、まるで十歳に達していない少年が、野山かどこかで友達に見せるような笑みを浮かべて、微かに声を出して笑っていた。
 余韻の過ぎ去らない表情で彼は顔を上げる。
 彼は踵を返して階段を降り始める。彼は渡り廊下を使用せずにそのまま、三階から一階へと降りた。ぱたぱたという静かな音が立った。彼の目は元の通りの色を取り戻していた。
 幾つかある玄関の内、彼は少なくとも少女がいないであろう玄関から学校の外に出る、広々とした空間は夏だった。空気に色が付いているかのようだった。どちらかといえば甘い匂いがするようでもあった。彼はその空を眺めながら玄関で暫し立ち止まっていたが、しかしまた歩き出す。彼は学校の裏手にあるフェンス(ところどころが破損しており、修理中である)を乗り越えて、ちょっとした畑に隣接した細い道路に出た。そして歩く、ひとまず川の方へと歩いて行った。彼は駅に向かうつもりなのだ。
 彼は携帯電話をズボンのポケットから取り出した。予め記憶していた番号をダイヤルして、歩きながら耳に当てた。ああもしもし、ホテルドルトンですか、ええとシングルを予約したいんですが、ああ名前、名前はアーネスト・シェットです。ええ。彼は二、三言いって電話を切った。再びポケットに電話を仕舞うと、再び歩き始める。川べりの道に出ると、ひたすら川に沿って歩き始めた。犬を散歩させる少女とか、自転車に乗った大学生に擦れ違う。そろそろ日が暮れてしまうのだ。
 そろそろ日が暮れてしまうのだ。
 彼は早足に歩いた。日が暮れてしまわない内にホテルに着こうと考えたのだ。彼は歩く、歩く、歩く、歩く、歩いた。川べりの道を歩いた。大きな川だ。何せ『橋が架かる』と言うほどには大きな川だった。小さな川に関して言えば、橋が架かるなどと一々言いはしない。それであって、川べりの道の橋には背の高い草が生えていた。緑色の草だった。青年はそのような景色にほとんど関心を払っていない様子である。
 やがて正面の道が二つに分かれる。一つはさらに川べりを進む道、もう一つは土手を川とは反対方向に下る道。彼は後者を選択した。歩いた。
 川の周辺には住宅地が広がっている。そしてそこからさらに川を離れれば雑然としたオフィス街が広がっている。さらに離れると、商業地区になっていた。そこには大きな通りがあり、車が行き交い、タクシーが走っていた。
 人通りのない通りを歩く。多目的ビルの玄関に壮年の男が座っていて、青年の方を見ていた。
 雑然としたオフィス街を越えたところで、彼はタクシーを捕まえる。
「駅まで」
 一言いって、静かにタクシーが走りだした。
 彼は街並みを見つめる。路面電車。幾つかのコンビニ、マンション。それから街路樹、二級河川、人、自転車、車、道路――。数えるのをやめる。
 大通りに面する駅の前で彼はタクシーを停める。料金を払って降りる。規模の大きな駅だった。南北に延びている。中心的市街地にある駅は多くの人でにぎわっており、彼はひとまず窓口にまで行って新幹線のチケットを買った。十五分後の発車だった。
 彼は窓口に背を向けて、足を停めた。移動の為の積極的な行動を休止したのだ。少しばかり視線を上にやって、それで、何度か深く息をした。
 そこでなければいけないのだ。と彼は思う。
 理由はなかった。でもそこでなければいけないのだった。
 彼は歩き出した。新幹線用のホームへと向かう。


最終更新:2011年06月29日 14:19
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