Jade

(投稿者:Cet)



 麦畑の間の道を少女が歩いていく。緑色の穂が風に靡く度に、風景は少しずつ趣きを変える。麦畑の間の道は、少女の住まう家へと続いている。紺色のスカート、白い綿のシャツ、そしてブーツを履いている。
 少女の視線が、土で固められた細い道の先に一人の人間を捉える。少女は手を振る、そして走りだす。
 その男は手を上げて少女に応える。突っ立っている男の元へと、少女が辿り着いて、二、三息を吸って、吐いた。少女は屈託なく笑う。
ブラウさん、今日はどうしたの?」
 男は笑みを顔に浮かべたまま、しばらく答えずに突っ立っていた。
「何も、別に大した用事があったわけじゃなくて、散歩をしにきたんだ」
「わざわざ人の家の畑にまで来てですか?」
「そう」
 男が応えると、少女は暫くの間何かを考えているような素振りで男の顔を眺めていた。
「君は、お嬢さま」
「私はお使いの帰り、卸屋の人のところまで伝言を」
「途中まで一緒に行っていい?」
 少女は頷く。ブーツの底が再びリズムを刻み始める。
 その時、風が吹いた。
 少しくすぐったくなるような麦の匂いを運ぶ風だった。収穫の前の時期になると、この匂いは風合いを変えてさらに強いものとなる。
 その風に晒されて、少女は髪を手で押さえながら立ち止まった。男は少女のその仕草を、何か喉から言葉が出てきそうだけれど、でも結局何一つ言葉が出てこない時のような表情で、少女の数歩先から眺める。
 少女は麦畑の、風のやってくる方を眺めている。
「ブラウさんには、何か夢とか、目標とかある?」
 そして不意にその問いを投げかけた。
 その言葉に、男はどこか遠くへと飛ばしていた意識を急いで回収する。
 少女は依然として麦畑の方に視線を注いでいたので、男のその小さな仕草に気が付かない。
 コホンと一つささやかに空咳をしたあとで、男は口を開いた。
「そうだな、詩人にでもなりたい。それで、この辺りの風景について書きたいね」
 少女は、聞いている風でもなく男の言葉を聞いていた。視線はそのまま麦畑の方へと向けられている。
「もっと真面目に答えて下さい」
「ホントだよ、いつか詩人になって、どこか遠い人の流す涙を宝石に変えるのが使命なんだ」
 少女はいつの間にか男の方へと視線を移していた。特に表情に変化の無いまま、男の話を聞いていた。
「ヒスイに変えたいんだよ、青緑色の宝石にね」
「……ロマンチックですね。
 私は」
 少女はその言葉の先を続けるのをためらうように、視線を伏せた。
 しかし、男にはその言葉の先が分かっている。
 茶番だ、と思う。しかし、男にはこの少女の心を何であれ揺さぶらずにはいられない。男は渋々、といった調子で口を開く。
「なんだ、また『お兄様』か」
 男の言葉に、少女は、かっ、と顔を赤くさせる。
「ち、ちがいますっ」
 慌てて抗弁に移ろうとしたが、言葉が出てこない。やれやれ、と頭を振ってから男は淀みなく少女の動揺を突いた追撃に移る。
「何だかんだで君はお兄さんのことばかりしか話さないしな。口を開けば兄さんの話ばかりだ、そりゃ予想も付くさ……。たとえば兄さんがああしてくれたとか、兄さんとこういう話をした、兄さんと」
 頭をぽりぽりと掻きながらそこまで言って、ふと視線を上げると少女が真っ赤な顔で口をわなわなとさせていたので男は言葉を切った。
 再び俯き加減になると、一つ大きく溜息を吐いた。
「ねえ、君に一つ忠告をしときたいんだけど……。
 何かを信じる度に人は一滴の涙を流さなきゃいけないんだよ。そういう決まりなんだ」
「ど、どういうことですか」
 少女は少々虚を突かれたように声を上げる。
「……つまり、兄さんとはいずれどんな形にせよ、さよならしなくちゃならない、ってこと」
 そう、どんな形にせよ。と男は心中で言葉を繰り返す。男の表情がどこか乾いた色合いを帯びる。
 はあ、と溜息が聞こえた。男は再度内省に入ろうとしていた意識を回復させ、再び顔を上げる。少女は明らかに気落ちしたような表情になっていた。顔を赤くさせたかと思えば、今度はランの花弁のように白くさせたり、実に目まぐるしく少女の表情は変わってみせた。
「知ってますよ……」
 そうぽつりと呟いて、ブーツの先で土の踏み固められた道をつっついていた。五秒置きに溜息が生産されそうな表情だった。
 そんな少女の表情を眺めながら、暫く男は突っ立っていた。
 予定通りに溜息が三つほど生産されたところで、男はにやりと笑った。暫くの時間差があって、少女もその表情の変化に気付く。
「な、なんですか人の不幸を笑うようなことをしてっ」
「違うよ、コレは君の先立つ不幸を追い払う為の笑みだよ」
「はあ?」
 少女は凄まじく怪訝そうな表情を浮かべる。しかしそれを構うでもなく、男は依然としてそのどこか憎たらしげな笑みを少女の前にぶら下げていた。
 やがて少女の疑惑の視線が少しだけ角度を柔らかくした頃に、青年は自分の胸を掌で、どん、と叩く。
「君が涙を流すとしても、俺はその涙を先だって宝石に変える手筈を整えておこう」
「……期待しないで待っています」
「大いに期待してくれたまえ、何たってこいつはとっておきのアイディアなんだ、それこそ、その詩が放たれたならあらゆる天体はその規則的な動きを変え、人々は一晩のうちに世界に降り注ぐ全ての流星に習ったかのように涙し……」
「はいはい」
 少女が呆れた表情で帰途を再開するのを、予め察知していたような素振りで後に続きながら、男は器用に話を続けていた。はいはい、はいはい、と変わり映えしない相槌が二人の間を彷徨っている。

 青年は夢を見る。いつか消える夢。








 そして少女のもとをその麾下の小柄なメードが午前三時前に訪れた時、少女は既に寝台から半身を起していた。窓から差し込む青白い月の光の中で少女の肌がひどく滑らかに光を受けているのを見ながら、少女の身を置く寝台の傍らにあるスツールへと、メードは腰を下ろす。そして、少女が何やら自分の考えに耽っている様子であるのを確かめると、暫く時間が経つのに任せた。
「何か夢を見たんですか?」
 それが恐らくは危険な夢の類でないことをメードは警戒しながら、しかし言葉の調子はあくまで柔らかに問うた。すると、先程からずっと自らの顔の輪郭を確かめるように滑っていた少女の手が止まる。更に沈黙があって、どこからか虫の鳴く声が聞こえていた。メードは辛抱強く、少女が語り出すのを待った。
「……忘れてしまいました」
「その方がいいですよ、忘れてしまう夢は、忘れた方が良い夢です」
 メードがそう言うのを、少女が聞いているのかいないのかは判然としない。自分の中に深く沈み込むように、少女はぼんやりと自分の膝の辺りを眺めていた。


最終更新:2011年08月31日 00:03
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