initiation

(投稿者:Cet)



 少女だった彼女はその杯に注がれる雫を眺めていた。
 幾らかの人がいた。少女にとって顔見知りの人間もいたが、その多くは少女にとって面識のない人間だった。
 普段食事に使われるその広い部屋には、普段とは違う部分が幾つも見られる。普段は長方形をえがくようにして置かれる長いテーブルにはいつもどおり、刺繍があしらわれた白いテーブルクロスがかけられていはしたが、しかしそれは部屋の中央を縦に区切るように、たった一つきりが配置されているだけだった。
 更に、普段は煌々と輝きを放つシャンデリアの灯りは落とされ、テーブルの上に存在する燭台にも、その絶対数よりも遥かに少ない数の灯りがゆらめいているだけであった。
 その薄暗い空間の中、人々は重々しく沈黙を保っていた。
 少女は夕食の後、昼間に家庭教師が命じた課題を解くべく私室で精を出していたのだが、しかしそこにやってきたのは自らの母親であった。
 いつも通りの緊張感のある声音で彼女を呼んだ。そして彼女は、普段ならばそのまま夜が更ける前に灯りを落とすところを、普段とは違う雰囲気を感じながらに母親に従い、この場へとやってきたのである。
 どこかで見たことのあるような風貌の――細かくは覚えていないのだが、彼女が今よりもっと幼かった日々の中で行われたある種の祭事的な出来事の中に男の姿があったような記憶がある――恐らくは五十代くらいであろう男が杯に注いだのは、赤い色のワインであった。
 そして片手で差し出されたその杯を、彼女の母親が受け取った。
 母がこくりと頷くと、男は重々しく目を伏せ、そして一歩下がった。
 その間も、少女以外の誰しもは、そして勿論少女本人も、一言として言葉を発しなかった。
 母親が、テーブルの上にある燭台の一つへと視線を遣る。
 そこには一人の男が立っており、彼は手に小ぶりのナイフを持ち、そしてそれを燭台へとかざしていた。
 その刃に黒い紋が浮かび上がる。揺れる炎を反射して、暗闇が奇妙に揺れた。
 そして、男が顔を上げる。
 母が頷いた。
 男はそのナイフの柄の部分を逆手に握り、そして、刃が下を向いた状態で、彼女の母親の方へと歩みを進めていく。
 やがてその距離が縮まって、彼は柄の、ナイフの刃にほど近い位置を、空いていた方の手で握り、彼女の母親へと柄を向ける形で差し出した。
 彼女がそれを受け取り、またも頷くと、彼もまた、重々しく目を伏せ、それから後ずさるようにして母から遠ざかった。
 そして、小さな間があった。
 準備を全て終えたことを確認するような間であった。
 僅かな空白を経て、母が彼女の方を見遣った。
 彼女の肩が小さく跳ねる。しかし、母はそのことに頓着するような様子を見せず、彼女の方へと歩みを進めた。右の手には、赤い酒の注がれた杯を、左の手には、先程燭台にかざされたばかりで、熱を持ったナイフを握り、母親は歩いていた。
 やがて、その距離が縮まり、母は彼女の眼前に立った。
 彼女は決して少なくない緊張を感じており、その喉を鳴らした。その時の音は彼女が思っていた以上に大きく響いた、少なくとも彼女はそう感じていた。しかし、彼女を除いた人々がその音を気にしているような素振りはなかった。
 彼女の母親が、ちらりと右手に持った杯を一瞥した後に口を開いた。
「ユピテリーゼ」
「はい」
 おかあさま、と続けようとしたが、しかし掠れて言葉にならなかった。何故こんなにも喉が渇いているのか、と不思議に思われるほどだった。
「上手く言葉で伝えられないことがあります、だから我々は今日のような儀式を繰り返してきました」
 そして、そんな彼女の意を酌んだかのように、しかしあくまで表情らしい表情を浮かべずに、母は語る。
「しかしそれを敢えて口にするならば、我々は王の血を引いており、そして、果たすべき義務を有しているということです。そして我々は、我々自身の意志によって、その義務を遂げることを拒否することはできないのです」
 そう言いながら、母親は右手の杯を握る指を僅かに動かし、その親指を杯の縁へと乗せるようにした。そしてするりと左手の刃を右手へと寄せ、その切っ先を右手の親指の腹にほんの僅かな力であてがった。彼女の表情が微かな緊張を帯びるが、それに対して彼女の母親の表情は僅かたりとも揺らがずにいた。
 僅かに生まれた傷痕が杯の縁へと押しつけられ、そこに一滴の雫が生じる。それは、杯の表面を滑り落ちるようにして下り、湛えられた泉の表面を小さく乱したが、すぐにそれは静まり、そして、元あったかたちを取り戻した。否、勿論それは変化している。しかし、見た目にはその変化は分からなくなった。
「それは我々が、癒えることのない傷を抱いて生まれてくることに似ています。それは、ある意味では喩えようのないことではあります。しかし、そう言い表すほか無いのです」
 少女は、母親の豊かな髪を眺めていた。
 母の髪飾りは、決して華美なものではない、それどころか、どちらかといえばそれはくすんでいるとすら表現されるべき印象をかたどっている。しかし、むしろそれ故にこそ、母親の存在感がひしひしと感じられるのではないかと、その時の彼女には思われたのだった。
 彼女は頷く、そして、母親が僅かに膝を屈め、杯を差し出した。それを手に取る。
 その時、母の表情は彼女にだけ翳されていた。少女のような笑み。
「その傷を受けたのは貴女だけじゃない、私も、そして、私の母も」
 少女は母の瞳を見つめていた。そして、前触れ無く杯を呷った。
 少女に酒の味は分からない。当然のことではある。ただ、それが普通用いられるように、陽気さを得る為のものではないことだけが悟られた。
 やがて、燭台に炎が灯される。続けて、シャンデリアから光が降り注いだ。
「お疲れ様」
 母がそう言ったところで、彼女の記憶は途切れている。
 その断絶は酩酊によるものではないことは、後に医師から聞かされるところのことだ。その時、彼女の意識を塗り潰したのが何だったか、彼女は未だ納得のいく答えを見つけられずにいる。








 寝室。
 彼女はあの時のことを思い出している。
 自分が受けたのだという傷について、彼女は思い出そうとする。
 歳を取っていた。
 不意に、コン、コン、と扉をノックする音が響いた。思考が中断される。
 そして、ユピテリーゼさま、という、聞き慣れた従者の声が響いた。
「入りなさい」
 彼女は言う。
 扉が開く。
 男がするりと入り込んで、扉を閉めた。入ってくるなり、彼は時間を惜しむかのように口を開いた。
「重大な報告があります」
 彼女の眉が少しだけ動く。
 その、重々しい言葉に、何かを感じ取ったのだ。
「エントリヒが動きました」
 続く言葉に、彼女は寝台から腰を上げた。


最終更新:2012年01月07日 14:29
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