緑の底

(投稿者:Cet)



 俺に与えられたその部屋は政庁舎の一室であった。決して狭くはない部屋、緑と白のツートンカラーの壁紙。膝ほどの高さのガラステーブル。背の低い椅子。戸棚、寝台……ありふれた調度品が並んでいる。
 俺はそこで何をするでもなく、突っ立って、そして視線をテーブルへと落としている。そこには俺の姿が映っている。しかし、それが何だというのだ?
 俺が一体何故ここにいるのか、あの男はそれを知っていると言った。そして勿論、俺自身もそのことを知っているはずだった。
 俺がここにいるわけは、たった一つだ。
 間違ったものを、ただすということだった。
 間違ったものとは何だろう、それは結局のところ、観念に従属するものに過ぎないのではないだろうか。
 勿論そうかもしれない。でも、自分が抱く観念を選択するのも自分自身だ。
 袖を一振りすると、そこから曲々しい刀身が現れる。バヨネット、銃剣。
 俺はこの剣によって誰を正すのだろう。そして、俺がそうするということは、正しいのだろうか?
 俺は一通りの反省を行う。そして結論する。是なりと。
 俺にしかできないことをやろう、と思った。
 膨大な出力、短期決戦向きの素体。俺にできることは、特定の人物を殺すことでしかないのだ。
 そのような行為の結果として、俺がどこへ導かれるかは分からない。でも俺はどんな場所にでも歩いていくし、そもそも歩いていかざるを得ないだろう。そう思った。
 そして、もう一度ガラステーブルへと視線を遣る。
 そこに映った少年は、表情の無い瞳で俺に視線を返した。





 場所は転じて、狭い部屋だった。
「作戦を説明しよう」
 前髪の禿げあがった男が言う。
 年齢は四十を過ぎた頃といったところだ。
 部屋には長机が一つ、狭い空間をを縦断する形で置かれている。そして、照明によって煌々と明かりを受ける布を貼った板きれが、その部屋にいる連中に向かって示されていた。そこに命令の詳細が描き出されていく。
 男は神経質そうに眼を細めたまま、着色された石灰か何かを手に持ってがりがりと書きつけていた。そして俺は素朴なデザインの施された木製の、背もたれと肘掛けの付いた椅子に座り、その様子をぼんやりと眺めていた。
 板きれへと視線を向けていた男が、こちらへと向き直る。
「日時は七月二十六日、標的はいわずもがな」
 男は言いながら、傍らの机の上に置いてあった指示棒を手に取る。
「この日にかの羽国の重要人物と宮中にて懇談が行われることになっている。これは政策に具体的な関与を及ぼす懇談ではなく、一種の祭事のようなものだ」
 その指示棒を以て、布に赤色のラインで記された記号を指し示していく。俺は特にそれに対して頷きもしないまま、言葉が流れていくのを追う。
 俺は、前に立つ男から不意に視線を逸らした。
 暗闇には、俺と男以外にもう一人の人間がいたのだ。老齢の男だった。
 男は静かに呼吸していた。普通の人間が耳を澄ませた程度では分からないだろうが、メールである俺ならば、その呼吸音が長いタームで繰り返されているのが把握できた。手足は微動だにしない、手は肘掛けの上に置かれている。その男から滲み出る死臭のような気配は、部屋に身を置く人間の誰しもより鮮烈な印象を与えていた。
 静かな呼吸をしながら、俺と同じく布板に示された様々な図形を眺めている。
「そして、お前は曲者として目標を捉えろ、あとは、こちらで何とかする。
 羽国の使者は殺しても構わんが、逃走する能力が使者の側に残されているようであれば、むしろ逃走を成功させろ」
「ヤヴォール」
 俺は頷く。
 それで、話は終わりの筈だった。
 俺は腰を上げようと、肘掛けに載せた手に僅かに力を込めた。
「……待て」
 死臭の漂う方から声が響いた。
 ギシ、と椅子を軋ませながら俺は視線を遣る。板きれの前に立つ男も同じように視線を遣っている。
 そして死臭を漂わせる男は暫く喋ることもなく、暗闇の中で静かに呼吸をしていた。佇んでいた。
 その一対の目は、何かを思い出そうとしているような、淀んだ視線を放っていた。
 十秒は遠に過ぎた。でも、俺たちは彼を急かすような真似をしなかった。彼のキャリアは輝かしいものだった。俺はともかく、指示棒を持つ男の方はその辺りを買っているのかもしれない。
「……この作戦でオービエが相手にしなければならない敵戦力は何体だ?」
 そして、ようやく彼の放った言葉はそれだった。
「二体、場合によっては三体」
 俺の発言を差し置いて会話が展開していく。
「場合によって……? ああ、使者がお飾りではない時の話か」
「そうだ、しかし、通常の兵士による支援があれば三体を相手にしたところで問題はあるまい」
「……あの男を侮らない方がいいのではないか」
 前に立つ男の眉がぴくりと動く。
「つまり?」
「恐らく歓談は予定通りに行われる、そこで、あの男が絶対に自分の身を無駄にしない手を打つならば、その方策は一つしかあるまい――」
 男の淀んだ目が、正面の板きれを垂らす光を映して、静かに揺れている。
 そして俺は視線を、死臭の漂う男から外し、その正面の男へと向ける。部屋の明りの関係でその表情は覗えない。俺は更に視線を外して、白い布の張られた板きれを眺めた。足を組んだ状態で、俺は静かに椅子に身を沈めていた。





 グリーンと淡い白、ツートンカラーの壁紙。その部屋の角にある寝台へと俺は歩く。そして、その傍らにまで到達すると、そっと身体の力を抜いた。ベッドのスプリングが大きく軋む。頼りない布の感触と、強く打ち返してくる弾力を尻の下に感じる。
 暫く座り込んでいた後で、半身を倒した。先程と同じような感覚が再び背中に打ち返される。
 まだ窓の外からは眩しい日差しが差し込んでいる。でも、部屋には重苦しい、青い色をした沈黙が降りていた。
 建物に一番近い公道までは、少しばかりの距離があった。広い庭と、高い塀によって隔てられているのだ。それでも、俺の耳はどこまでも鋭くエンジンの回転音と、タイヤが路面を滑るあの音を聞いた。しかし俺はその音に僅かたりとも惑わされることはない。ただただ、俺はその意識のレベルを静かに落とす為に、目を閉じる、ぶら下がった足のことなど、もう意識には上らない。ただただ視界は暗くなっていって、そして、完全な暗闇へと以降する直前に、何故か視界に映った色が強く脳裏に焼きついた。
 まるでひどい夢から覚める時のような、部屋の半分を覆う緑が俺の目に刺さった。


最終更新:2012年02月05日 09:47
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