(投稿者:Cet)
窓の外には風が吹いていた。
眼下に広がるのは庭園だ。敢えて古めかしい建築様式で作られた石造りのその建造物は、その構造をのたうたせながらに幾度となく交差し、そして限定された幾つものエアスポットを生み出していた。つまり、それらのことを中庭と呼ぶことができた。
彼女はそれを眺めていた。木が植わっている。前栽が見える。正方形に区切られた空間を、やや淡いトーンの緑が覆っている。そこに時折風が吹くことで、微かに格子に枠が組まれた窓が揺れ、カタカタと音を立て、同時に草木を揺らした。その葉摺れの音を直接感知することはできなかったが、しかし彼女の脳裏にはその音がしっかりと象られた。彼女はふっと微笑んだ。
「昨年から更に手を加えられたのですね」
そして振り返る。そこには玉座がある。
王のまします場所には、白髪の翁が座していた。ちら、と視線を女性へと遣り、そして微かに頷くように、首を動かした。口の端がほんのすこしだけ歪められている。
王は何かを喋ろうとして、そして口を開けた。しかし僅かな空気がその喉を伝い外へと拡散していく中で、声がその空間を震わせることは決してなかった。視線は虚空へと放られた。何かを探しているように、その目は天井近くへと動き、また水平に戻されるということを続けた。やがて目はおずおずとした形で女性へと戻され、そしてはにかむように口元が動いた。結局、王は言葉を捕まえることを諦めた。
女性もまた微笑む。モスグリーンを基調とした、祭事用の軍服を着ている。その胸の各所にはきらめきを放つ勲章が飾られ、それは彼女が何か動作をする度に静かに揺れた。
「静かですね」
言いながらに女性は視線を巡らせた、その広い玉間の壁面を、視線を滑らせ確かめていく。クリーム色の壁紙だった。そしてその壁紙には細かなおうとつが刻まれ、その陰影によって刺繍のような模様が浮かんでいる。また、床は茶色の、毛先のそばだった絨毯によって覆われている。
「そういう為に作らせた」
「そうでしょう」
女性の相槌に、男は首をうつむかせた。しかし男はくつくつと笑っていた。
それは決して華美というべき彩色ではなかった。同時に、それはあくまで訪問者を威圧するものではない彩色であった。
「本来ならば、紫や、あるいは赤を混じえるべきなのだろう」
男はそう言って、しばし視線を彷徨わせていた。それは天井の辺りをふらふらと揺れていた。その様子を見て、女性は微笑む。
やがて女性が歩みを進めた。男の座る玉座の方へと足を進め、そして傍らに立った。凛とした歩みに少しだけ部屋の空気が揺れる。
男が視線を女性へと遣る。
「長い話がしたい」
男の言葉に、女性はその目を伏せた。続けて頷く。それは慈愛の色を感じさせる首肯だった。
「幾らでもお語りください、今回は私も何日か滞在することができます」
「それはよかった」
男はそう言って微笑んだ。
しかし、その微笑みも長くは続かなかった。ふと男の表情に空白じみた緊張が混入する、思考と思考の間に差し込まれた冷たい条理が、彼の微笑を分解する。その束の間の変化に、女性もまた自らが浮かべていた微笑みを、一時的に仕舞い込んだ。静かな日和で、時折窓の外に風が吹き付けるのを細かな振動で感知できる以外に、雑音と呼ぶべきものは存在していなかった。
でも、二人はどこかしらその平穏らしきものが期限付きの存在であることを悟っていたのだ。その予感は、その事象の切れ端は、何よりも雄弁に王の憂鬱によって語られていた。
それは分かり切っていたことであったし、そして今、男はその水面下での進行を肌で感じていた。
しかし、それを敢えて停めるだけの力を発揮することが、彼には憚られたのだ。王たるものとは言え、彼が玉座に座り続けた年月はあまりにも長かった。その中で彼の中にあるものが、衰えないでいるということの方が無理のある話だった。
女性が口を開く。
「もう一度、政治の場に返り咲くことはお考えられですか?」
「……」
男が顔を上げる。その顔には、明確な怒気のようなものがあった。何故この場でそのような話をしなければならないのか、今得るべきなのは、今後の政略についての目途などではなく、束の間の心の平穏というものなのではないか。彼の眼は雄弁に語っていた。しかし、それは彼女をひるませるには至らない程度の、無邪気な怒気に過ぎなかった。
男が口を開こうとした。
それと同時に、女性が男から視線を外した。男の傍らに立って、その男の正面方向へと目を向けたのだ。
そちらの方向にはこの部屋の唯一の出入り口となる扉が存在している。
そしてやや遅れて、男もまたその扉へと視線を向けた。「おお」、と呻くような呟きを漏らす。
「嵐が」
更に言葉を継ごうとした瞬間に、女性の手が素早く動いた。腰に佩いた軍刀の柄を右手で握り締める。女性の視線が鋭さを増す。ふと、青く可視化された空気が彼女の周囲を覆ったように思われた。
轟音と共に粉塵が舞った。
扉とその周囲の壁が砕かれ、噴煙の様相を為した波は玉座の周囲を瞬く間に覆い隠した。それは衝撃波を伴って、毛羽立った弾性のある絨毯を硬化した質感に変えた。人の手によって長年繊細な管理を受け続けてきた数々の調度品に、大小様々の欠片が降り注ぎ、相応の傷を付けた。そのうち幾らかは吹き飛ばされ、転倒し、使い物にならなくなった。
女性は思わず目を瞑っていた。どちらにせよ、粉塵によって前後の状態を知ることは不可能ではあった。
一瞬にして、その部屋の美しいありようは失われていた。それほどまでに、押し寄せた衝撃力は大きなものだったのだ。
やがて部屋の内部を覆っていた塵芥の層が、徐々に落ち着きを見せ、光を遮るカーテンのような状態から普段通りの姿を取り戻していく。女性は膝立ちで、そして両の腕を顔前で交差させていた。僅かにできた腕と腕の隙間から、周囲の様子を注視していく。薄れかけた土煙の向こうで、複数の人間が動く姿を確認できた。
続けざまに銃声が上がる。
爆風が起こる。炸薬の光が部屋を照らす。女性はそれでも膝立ちの状態から動かない、否、動けずにいた。
青い光。
それが彼女を覆っていた。
「……皇帝はっ」
銃声の連なる中、爆裂音の鳴り響く中で、声は彼女自身不自然に感じられるほど明瞭に響いた。そもそも、鼓膜が破裂していないということ自体が、彼女を戸惑わせた。
やがて、何者かの息遣いが、すぐ背後から彼女の耳朶を打った。
(知りませぬ)
「……ッ」
絶句し、そして目をわななかせた。しかしそれでも彼女は身動き一つ取ることができなかった。彼女は青色の風、その温かな感触に絡めとられ、そしてただ背を低くして機を待つに留まっていた。
そして、何の前触れもなく銃声と破裂音が止んだ。
粉塵の立ちこめる中、ほとんど視覚はまともに機能していなかったが、しかし彼女の鋭敏な知覚は複数の人間の息遣いを感じ取り、そして、未だ納められないでいる殺気と、自分と同じくして粉塵の中をねめつける幾つかの視線を察した。
(機を見て逃げます)
そして、彼女に寄り添っているその気配は静かに言った。
彼女はこくりと頷く。
徐々に、粉塵が晴れていく。いくらかの、絨毯の感触によって軽減はされているものの、しかし砂利のように散らばる種々の破片らが擦り合わさる音が、部屋に響き始める。
何者かがこの荒れ果てた室内の様子を確認する為に訪れたことを知らせていた。
そんな中、彼女の体が、その本人の意思とは関係なく僅かにその腰の位置を上げた。誰かによって抱えられ、静かにその場を去ろうとする。
その瞬間に彼女は確かに見た。
部屋の出入り口の対照に位置する壁――
さっと手足が冷たくなるのを自覚していた。そして、彼女の体を抱えるその者もまた、静止し、彼女と同じくして何かを視認しているようだった。
そして、それほど間もない内に、今まで彼女を覆っていたその青い風のようなものを静かに展開した。
男達は、荒れ果てた室内をねめつけるようにして見渡しながら、もはや本来備えられていた質感を完全に失ってしまった絨毯の上を踏みつけていた。そのようにして彼らが一歩一歩進んでいく中で、その空間の内に充満していたところの粉塵が、その濃度を少しずつ落としていった。
やがて視界がほとんど透明と言えるようになって、彼らはそれを目にした。玉座であったであろうと思しきその椅子の背もたれは完全に消滅しており、四つの足と、腰掛ける為の板だけが原形を留めていた。また、その四つの足にはそれぞれ乾いたパテのようなものが付着しており、その椅子の背もたれの後方の床と壁には、似たようなパテらしき何かがへばり付いていた。その奇妙な光景は、破壊されてしまった玉座の付近にのみ見られるものだった。
男達は室内を睥睨するのを辞めた。
それとほとんど同じタイミングで、荒れ果てた部屋の静寂に対して、慌ただしさのようなものが伝わってくる運びとなる。破壊された部屋の入り口の方から、革靴の乾いた足音が響いてくる。部屋の中にいる数人の男の内、一人が入口の方向を振り返って、そこから現れた軍用のコートを着た男の姿を確認した。新たに現れた男は制帽をかぶっており、そして視線が合うと、かるく制帽に手で触れた。
「もう統制は開始されている、問題ない」
制帽をかぶった男が言う。
「分かった、じゃあ処理をするからもう少し人間を連れてきてくれ」
「了解」
二人はそうやって軽く会話を交わした。
やがて、帽子をかぶった男の方が部屋を出ていく。部屋は静かだった。部屋の窓からは中庭が見えた。先ほど会話を交わしていた男の片割れが、ちらと目で窓の外を見遣る。格子状の枠は、何らかの圧力によって外側へと折り曲げられ、そこから見える幾らかの木と前栽が風に揺れていた。
◇
女性が走っていた。
狭い通路を、女性が走っていた。左右は煉瓦造りの建造物に挟まれた、湿っぽいにおいの漂う通路だった。その速度は大したもので、女性だてらに、などと言わしめるレベルを遠に超えて、彼女は俊敏に通路を駆けていた。それでありながら彼女の口元には穏やかな呼吸が続いている、さながらその姿は、密使か何かを思わせた。
ふと、彼女の足が止まった。
狭い通路だった。
彼女の視線の先に、少年が立っていた。
神父か何かが着るような、暗色の服を着こんでいた。両手をだらんと地面へと垂れ下げ、そしてどこを見るでもなく地面を眺めていた。
女性はその姿をじっと見つめる。彼女の眼が、爛々と輝いている。
否、比喩ではなく、彼女の眼が発光を始めていたのだ。
次の瞬間、少年が動いた。
最終更新:2012年03月20日 13:55