(投稿者:エルス)
最愛の妻が死んだのは、1950年の初めの頃だった。
弱々しくなった妻は、青白い顔で微笑んで見せ、私に心配を掛けまいと、数々の無理をこなし、そしてその営みを止めた。
私が煙草を吸っていると、彼女がふらっと倒れ込み、最後に一言だけ譫言のような言葉を口にして、それっきりになってしまった。
墓は、セントグラールの郊外に建てた。妻がなにかを信仰していた様子はなかったが、私は結婚式と同じように、セントレア方式の葬式を執り行った。
十字の墓に、灰色の墓石が妻の墓だ。どれも同じように見える墓の中で、私がそれを特別に感じるのは、墓石に刻まれた言葉が、妻の大好きな言葉だからだろう。
――La vie en rose
妻がその言葉通りに命を全うできたのか、私はそれをただ信じるしかない。
共に戦争を経験し、障害を乗り越え結婚し、小さな家で過ごしながら、国に尽くしてきた。それが彼女の薔薇色だったのだと、私を最後まで愛し、思ってくれていたのだと、信じるしかないのだ。
「ムーシェ夫人も、ついに逝ったか」
「主に与えられた寿命を全うしたと、私は思っています。サー・マクスウェル」
「私もそう思っている。妻の死は、そうして乗り越えるものなのだから」
目を細めながら私の妻の墓石を見つめ、サー・マクスウェルは自らに言い聞かせるように、そう呟いた。
彼も数年前、二人目の妻を亡くしたばかりだ。頑固で真面目で、融通の利かない妻だと、時折男二人で遭うと愚痴を言ってはいたが、それでも彼の妻は彼にとって、最愛の人であったに違いない。
「それで、これからどうするんだね、シメオン・ムーシェ君」
「ヴォ連へ傷心旅行へ行こうかと。数年程、あっちで過ごすことになるかも知れません」
「なるほど。では、それなりの手配をしておこう。――仕事は止めたのかね?」
「仕事も兼ねての旅行ですよ、サー・マクスウェル」
そうか、とサー・マクスウェルはどこか懐かしむような目で私を見た。
中折れ帽と伊達眼鏡に、トレンチコートと丈夫な革靴。一昔前の私がするには、上等すぎる服を纏っていたからか、彼はくすりと小さく笑う。
私は肩を竦めて帽子と眼鏡を外して、少しだけ昔に戻ったような感慨にふけりながら、彼に言った。
「
シリルの坊主が、今や防諜機関の工作員なんて、笑えるでしょう?」
「それを言うなら、私が今や〝閣下〟と呼ばれるような立場に居ると言う方が、余程笑えそうだがな」
白い髭の内側で相変わらずの笑みを浮かべて、彼は私の肩を叩く。
「それで、どうだ。子供はできたのか、結局のところ」
「あなたの妻が死んだあと、一人。今はもう、昔の戦友の家に預けてますが。名はシェリルと」
「そうか。だが良いのか、実父のお前が育てなくて」
「良いんです。彼女には一生分の幸福を貰いました。あとは、この国の未来のために働くだけ」
「娘の未来のため、というやつだな」
「察しが良くて助かります」
小気味よく進む会話に、私は安息を覚え、妻の墓を見て何度もそうしたように、礼を言いたくなった。
私が私でいられるようにしてくれたのは、君なのだと。君がいたからこそ、今の私があり、あの子がいるのだと。
しかし、もう妻はいない。あの子も私の元を離れ、私を忘れ、母の温もりだけを微かに記憶に残し、成長するだろう。
「たかが兵器にしては、過ぎた一生だったと思いますよ」
歴史に名を残すこともなく、英雄として評されることもなく、私の妻は旅立った。
誰よりも深い闇を知っているからこそ、何気ない日常を誰よりも愛し、極普通の家族でありたいと思い続け、子供を身ごもった時は、赤ん坊みたいに泣きじゃくった。
演技が上手な癖に喜怒哀楽がはっきりとしていて、ころころと表情を変えては、私を飽きさせず、むしろ振り回して面白がっていた。
兵器にしては、過ぎた幸福だ。戦闘を目的に造られた存在だというのに、妻は人間として生き、人間のような幸福を得て、私の両腕の中で静かに息を引き取った。
出来過ぎている。だが、彼女にはその権利があったと、私は信ずる。何気ない笑顔が、何気ない一瞬が、私と彼女にとっては、かけがえのない宝物になったのだ。
「兵器だとしても、今の君らはもはや人間だ。彼女も同様に、人間だ」
「かもしれません。別にどちらでも良いんですがね」
にこりと笑いながら、私は腕時計を確認した。そろそろ、行かねばならない。
「時間か」
「相変わらず、察しが良くて助かります」
「次は、何年後になるだろうな。お互い、もう長くはないだろうから、もしかすると、もう二度と会えんかもしれんな」
空を見上げながら、サー・マクスウェルは呟く。
私は墓地の入口にやって来た迎えを手で制しながら、過ぎ去ったあの頃を、私と彼の傍らに、それぞれいた女性の事を思い出しながら、言った。
「それで良いのかもしれません。次に会う時は、きっと彼女たちも一緒でしょうから」
そうか、とサー・マクスウェルは静かに頷いた。
そうですよ、と私は静かに告げ、彼に礼をして墓地を出た。
私と彼は、そうして二度と会い見えることはなかった。
最終更新:2013年07月21日 16:22