(投稿者:Cet)
お目覚めになられましたか
少しお待ちください、水を持ってきますので。
◇
いかがでしょう。具合の方は。
肩を痛めていらっしゃったようですが。
はい、こちらの屋根の下に運んでくる際に、赤く腫れていらっしゃいました。恐らくは捻挫の類かと。
エントリヒ語を理解されるのですね、同郷の方なのでしょうか。
記憶が混濁してらっしゃる様子です。
貴方の心の中からは、無垢な音が聞こえます。とても涼やかな鈴の音のような。懐かしい音です。
ついぞ、人の胸からこのような音を聞いたことはなかったのですが。
――すみません、同郷の人間と喋る機会がついぞ失われていたものでして、奇妙な発言を。
貴方の心の中の像が、私には空気の延長のように、漠然と理解できるような気がするのです。
少年が遠い大気に見る像、夏の山辺に見る像、涼やかに流れる小川に見る像。
そういった、修飾の乏しい自然を見遣る、純粋な心の欠片を、貴方の呼吸からは感じるのです。もちろん、奇妙なことをお伝えしているのは百も承知なのですが、久々に同郷の方と出会って、言葉が止まらなくなってしまいました。
――私の名前、ですか。
私は、もう恐らくは故郷に帰ることのない人間です。恐らく、この島に暮らす方々と一緒に年を取り、一緒に消えていくことになると思います。
そう、この島に住んでいるのは私だけではないのです。もっと偉大なる方々がここにはお住まいで、私はその方々の好意によってこちらで何不自由なく暮らすことができています。
その方々は、私に食事と、雨風をしのぐ場所と、そして飲み水を提供してくれます。
とても優しい方々で、私の心の像の正確なところまでを理解してくれます。私は、その方々と過ごすことで、この人生において一度も得ることのできなかった安らぎを得ることができました。
心をありのままに伝え合い、交換し合い、理解し合うという、それを呼吸するように行うことができたのです。
それは、私の以前の生活においては望むべくもないものでした。
私は、彼らの力によって自由になることができました。
もう、どんな力も、この大陸に押し寄せることはできません。
どんなに長い指も、どんなに太い腕も、この大地から私を奪うことはできません。私は、この世界において、唯一自分の心が安らげる場所を見つけることができたのです。
貴方は、どうですか?
この土地について、どう思われるでしょうか。
貴方の記憶は混濁していて、恐らくは、元の生活について大部分を忘れていらっしゃるようです。私にはそれが分かります。このように、貴方の腕や額に、僅かに指を触れさえすれば――貴方の心の内の在り様が分かるように思われるのです。
貴方は、多くのことを忘れていらっしゃる。
でも、そのことはひょっとしたら、好都合かもしれません。――すみません、適切な言葉が見つからないのですが。
つまり、これまでの暮らしに対する未練を抱かないのであれば、この大地での暮らしは決して悪いものではない、ということなのです。
彼らは、貴方のことを暫くの間、見守ることに決めたようです。
貴方の心の中からは、私と同じような鈴の音がする、と彼らは述べています。
貴方に対しては、私に対して為されるように、十分な飲み水と、十分な食事と、そして雨風をしのぐ場所が与えられるでしょう。
あの方々は恥ずかしがりやなので、決してその姿を貴方の前に晒すことは無いであろうと存じますが、でも、決して彼らは意地悪で貴方に姿を晒さないわけではないのです。
あの方々は――私がこれまで出会った方々の中で、もっとも純粋で、もっとも涼やかな心の持ち主です。緑の谷に沿って流れる風のように、涼やかな心の持ち主なのです。だから、
彼らが貴方を見守ると決めた以上、貴方は全く安心してこれからの日々を過ごすことができるようになると思います。
もし、元の生きていた世界のことを思い出し、その世界に対する恋しさが貴方の胸に溢れるようであれば――あの方々は貴方を元の世界に戻すことさえ約束しています。
とても親切なのです。
限りなく優しく、山の尾根や風に揺れる樹木のように真っ直ぐな方たちなのです。
きっと、貴方も彼らのことが好きになると思います。
――今のところ、私の前以外に姿を現すつもりは無いようなのですが。
◇
ディー。
ディー。
……寝ているんですか?
……。
……。
……起きていますね?
ディー、貴方の心が少しだけ笑うのが聞こえました。私のことを揶揄うつもりだったのでしょうけど、そうはいきません。
まったく。
あの方々が私たちに果物を持ってきてくれました。冷たい川の水で洗っているので、問題なく食べることができるとのことです。
実は、私は既に一つだけ口にさせてもらったのですが――
――何ですって?
私は、食いしん坊でもなんでもありません。
まったく。
まったく。
……。
甘くて美味しかったです。エントリヒにいた頃はこのような瑞々しい果実を口にする機会はありませんでした。
彼らと喋っていることで、私の心はとても透き通って、とても穏やかになります。
私は好きなのです。透き通った心も、鈴の音も、風の音も、その柔らかさと温度も。
ねえ、ディー。
この島についてどう思いますか?
ひと月が経って、貴方の記憶は未だに回復しませんが、それでも、貴方の心の中から聞こえる鈴の音は、彼らの喋る言葉と同じように美しい響きを持っています。
ひょっとしたら、彼らもじきに貴方の目の前に姿を現すかもしれませんね。
私は、最近彼らに対して貴方のことをよく喋るんです、ディー。
スコールが降って、雨宿りをした時のこととか。
新鮮な魚と、麦の粉を水で溶いて固めたものを、焼いて食べた時のこととか。
そういう話を、私は彼らにします。何故かは分からないのですが、時々彼らの心の中には、ほんの小さな怒りの火の粉が散るのです。
何故でしょうね。私には分からないのですが。
ディーには分かりますか?
ほんの小さな火の粉で、すぐに消えてしまいはするのですけど。
◇
あの方々は、時々ディーの悪口を言っています。
殆どは他愛のない悪口です。『私だったらもっと魚を上手く獲ることができる』とか、『ディーは空を飛べない分、私たちに比べて不便だ』とか、些末な愚痴のようなことを私に対して言うのです。私は、その度に少し怒りを覚えて、あの方々を窘めるのです。
何でそんなことを言うのかと。
ディーの心の音をちゃんと聞いているのに、その鈴の音を聞いているのに、どうしてそんな言葉が出てくるのかと。
私がそう言うと、あの方々は萎れてしまいます。『そんなことを言わないでくれ』と。
普段、あの方々は時折私たちの会話を盗み聞きしています。そして、私がディーと別れてあの方々の元に向かうと、時々その会話の内容を仄めかして、話の続きをしようとするのです。
別に、そのことで私は怒ってなんかないのですけど、今日ばかりは私は怒っています。今日、私とディーの話を盗み聞きしたら、本当に怒る、と伝えています。
だって、あの方々がディーの愚痴を言うんだったら、私だって自由にあの方々の愚痴を言ったっていいでしょう? それを、盗み聞きされたら、お互いが嫌な気分になってしまいます。だから、今日一日だけは、あの方々に対して私は好きなだけ愚痴を言うのです。そして、あの方々には静かに、森の奥で待っていてもらうのです。そして、最後には、私は今日の仕打ちをあの方々に謝るでしょう。私は、今日ばかりは、少しだけ意地悪な人間になってしまった気分なのです。
――私が本当は全部分かった上で喋ってるんじゃないかって?
正直、何のことか分かりかねています。
◇
私の喋り方が少し堅い?
ちょっと言ってる意味がよく分かっていません。
要するに、私の喋り方が変だ、ということなのですか?
……。
暫くの間、放っておいてください。海辺で私を見かけても、喋り掛けないで。
◇
ディー!
起きて。
何でこんなことをするのかって?
私の喋り方が変だって貴方が言うから、私はあの方々と練習してわざわざ喋り方を変えたの。
変じゃないかな。
あの方々は、大丈夫だって言ってくれたけれど。普通の女の子だって言ってくれたけれど。
少しだけ悲しい声をしていたけれど。
どうかしら。
変な喋り方になってないかしら。
私にはよく分からないの。
昔、まだ私が小さくて、エントリヒの研究所に行く前におはなししてた、お友達の口調を真似てるだけなの。だから、そんな昔の記憶を引っ張り出してきているから、どこか不自然なところがあるかもしれなくて。
――変じゃない?
そっか。
うん。
何となく安心しました。
うん、そう。これが普通ってことなのかなって。
でも、まだちょっと堅い?
……時々、ディーのする言葉遣いがよく分からなくなる。言葉に堅いも柔らかいもないでしょう?
――何でそんな呆れた表情をするのかしら。
◇
ディー。
……なんでもない。
◇
ディーに見せたいものがあって。
うん、あの方々も、ディーにならそれを見せても良いって言ってたから。
ディーもきっと喜ぶって。
でも、やっぱりあの方々の声はちょっと悲しそうだった。何でかな。ちょっと私にも分からなくなっちゃってた。
とにかく、あの方々は随分前に私に宝石を見せてくれたの。
凄い宝石、多分、ディーが今まで見たことのないような、本当にすごい宝石なの。
ディーにその凄さが分かるとは限らないけど。
え?
うん?
――わたしは意地悪女ではありません。
まったく。
まったく。
第一、あの方々が本当に、心の底から大切にしている宝石を、ディーに見せてくれるって言うんだから、そんな親切なことってないでしょ?
その宝石を私は今まで独り占めにして、あの方々と一緒に眺めてたんだけど――それはそれは本当に素晴らしい体験だったのだけど、その体験を独り占めせずに、貴方にだって見せてあげるんだから、そんな親切な女の子って、この世界にいるのかしら?
まったく。
まったく。
それは冗談として、ディー。あの宝石は本当に凄いのよ。
それは、生命そのものなの。
生きてるのよ。
生きてるの。
お喋りできるし、本当に楽しいの。全てが、そこにはあるの。
風が吹いていて、水がうねっていて、炎が舞っていて、大地が湛えられているの。
それが一つの宝石の中に入っていて、私たちのような、鈴の音を奏でるんだよ?
そんな素晴らしい体験をお裾分けする女の子なんて、そうたくさんはいないと思うけどな。
何か文句がありそうですね。
まったく。
まったく。
とにかく、明日まで待ってください。
ディーには、あの宝石が一番お喋りになる時間に、一番美しくなる時間に、きっとその宝石とお喋りをさせてあげるから。
最終更新:2022年06月22日 10:23