M.A.I.D. IGLOO 「遠雷は暁に木魂す」序章

(投稿者:KOGOTO様)


序章01

「誰がヘクトルのことを知っただろう? もしトロイアが幸福であったなら――」
 だけれど、オウィディウス。誉れすら受け取れぬ者は、なにを慰めにすればいいのだろう?

 貧乏貴族の子弟が、裕福な名門良家の子女から言われもない迫害を受けるというのはよくある構図だ。それが夜郎自大の発現なのか、ストレスの下降なのかはわからない。なんにせよ鶏程度の頭があればどんな動物であれやっているような、至極本能的な問題である。教育者も所詮は聖職者にあらず。デリケートな上に抜本的な解決法さえない問題に、今更取り組むような物好きはいなかった。
 まして、少年たちが通うのは淘汰を是とする軍学校。競争によって互いを高めあう、などとお定まりのスローガンを期待してはいけない。彼らは友情ではなく猜疑心によって繋がりあう。ならば競争は自然、蠱毒の態をなすのが必定。落伍者はすなわち滋養に他ならず、食い散らかされるというのなら、名残なく消えるのが美感からも好ましい。
 そんなわけで、少年が傷だらけの体に襤褸と変わった制服を着て、汚物をかぶっていようと気にするものはいなかった。いや、まったく無視されていたわけではないので訂正しよう。幾人かは不快そうに目を背けた。
 慰めといえば、両目が濡れていようと、責める者などいなかったことだろうか。歳が歳だ。それではさすがに酷がすぎる。けれど少年は、決して嗚咽は漏らさなかった。華奢な体と幼心で、意固地に矜持を貫いた。
「あぁ、上出来だよ、クロッカ。騎士として生まれたなら、涙なんてのは親の墓前でだって見せちゃいけない。そいつはアンタが背負わなきゃならない連中に不安の種を撒くからね。堪えることこそ騎士の美徳。
 好い目になったもんじゃあないか。あんたは今日誇りを知ったんだよぅ」
 孫をもつ身として、これ以上に喜ばしいことがあるだろうか。今まさに、自分に連なり往く子が成長を遂げている。齢を重ねる毎、自由を失っていく体を安楽椅子に沈みこませ、老女は満足そうに息をついた。自然、頬が緩む。なにせこの生意気な少年ときたら、そんな慰めにも誤魔化されていないようなのだ。湯冷めしないようにとかけられた毛布からは、細い肩がのぞいている。それが震えているのは、暖炉の薪が少なくなったからではないだろう。
 ここでただ孫を慈しむことはたやすい。けれど、図らずも今日は聖誕祭。心中の雲を払うとかこつけて、なにか褒美をやりたくなるのが親心というものだ。
 そう、聖誕祭である。侵略戦争が一応の区切りをみて既に幾歳、なお戦勝の高揚覚めやらず、帝都は尽きぬ好況の中に身をおいていた。進歩拡張の気配はいまだ街のそこかしこから漂っており、しかし今日ばかりは鉄を打つ無粋な喧騒も鳴りを潜めている。
 繁栄だ。いまや爛熟の極みにある帝都にあって、祭日が賑わわない道理はない。皇城は巨大な燭台のように街の隅々までを照らし出し、電飾に彩られた街路はいずこも人にあふれている。老いも若きもあらゆる者が酩酊の淵にある喜びの夜、しかしただ一角だけ暗く沈んだ街区があった。
 騎士小路。その名が無上の誇りと憧憬をもって唱えられたのはいつの日か。剣は銃に、駿馬はホイールに、騎士は軍人に、そして人から人ならざる者へ、戦争の形は時代とともに移り変わる。花形を演じられぬ役者は端役に転じ、過去の栄光は見る影もない。まして戦場の功労者が叙勲を受け、旧敵国の主要な人材が取り立てられた昨今、貴族の数は膨大である。爵位とは名ばかりの、騎士侯程度が国家からの俸禄を望むことさえ不敬というものだろう。身に修めた兵法軍学で国家に貢献する道もあったが、俸給は父祖伝来の土地と屋敷を維持するだけで消えていく。そうやって、今日を祝う余裕すらないところまで、帝國の騎士は零落していた。
「でも、僕は恥を晒しました。貧富でしか人を量れないような連中に、徒党を組まないとなにも出来ないような連中に、よりによって暴力で負けました。僕ら騎士の戦場で負けました!」
 クロッカの生家、ランサメント家も例外ではなかった。否、むしろ彼らこそはその底辺である。ランサメント家の当主、クロッカの父親は侵略戦争の中で歳若くして戦没した。屋台骨は傾き、跡を支えるべき母親は生来の病弱が祟ってか、クロッカを産み落としてすぐ亡父の下へと旅立っている。この家の財政はクロッカに誇りを説く祖母の年金と、彼自身が取得した奨学金によって賄われてきたのだ。


序章02

 騎士と戦場と彼は言った。確かに暴力で武門が後れをとるなど、醜聞という言葉のほかには表しようがないのも事実だ。けれど、クロッカの体は同年の少年たちに比べ、明らかに発育が遅れている。体格で勝る相手が数できたなら、むしろ勝てるというほうが道理にもとるというものだろう。また、伸びない背を気にしても仕方ないのだ。それは家計と直結する問題。どうしようもない問題なのだから。祭日を祝い、孫に褒美をやる余裕はおろか、ランサメント家は日々の生活にさえ困窮していた。
 まして――
「ちょぁぁぁぁ、アイゼ姉さんそっちはいいですって! 配膳だってキッチンメイドの仕事って――うっきゃぁぁぁぁぁご先祖様の食器が夕食がぁぁぁぁぁ!!」
 この家には、いささか余計な出費が多すぎる。
「あー……どうしたんだい? またスープでも床にぶちまけちまったのかねぇ」
「い、いえ、大丈夫ですから、大丈夫ですよー! 落ちてないならセーフです。圧縮です。ちょっとベーコンがミートボールになっただけです。落ちてないから食べられます!!」
「どうやら夕餉が一、二品減るのは覚悟しといたほうがよさそうだねぇ……」
 キッチンからは、陶器が破砕する音や、なにやらボーリングを思わせる地鳴りが続いていた。足の弱い彼女にはその惨状を窺うことなどできないが、きっと碌でもないことになっているに違いない。にもかかわらず口元にもれるのが溜息ではなく微苦笑なのは、それとてもはや日常となった光景だからなのか。あるいは下手人へ抱いた愛情ゆえか。
 きっと両方なのだろう。おや――と、騒音にまぎれて聞こえた吐息に振り向いてみれば、偏屈な孫の顔にも笑みが戻っていた。そこには食事がさもしさをますことへの悲しみなどかけらもなく、ただただ幸福だけが輝いている。そう、ランサメント家が貧者に甘んじているには相応の理由がある。自ら望んだ結果として、後悔など入り込む隙もないような理由が。
「鍋がつぶれたー!!」
「ごめん、なさい……」
「やれやれ、こりゃ食事にはまだ当分かかりそうだ。クロッカ、あの娘たちをお責めでないよ?」
「わかっています、お婆様」
 今更のような言葉に、クロッカは少し胸を張ってこたえる。そんなことは言われるまでもないと、既知であること、家族であることを誇るように。
「ふふ、帝都で一番ケチな子が、よくも言ったもんだよぅ」
 親愛をこめて放たれるジョーク。ただし、多少の誇張はあっても、わずか以上の真実を含んだ冗談だ。甘噛みのような毒も効いている。
 環境は人を強く定義する。たとえばクロッカの場合では、苦労が倹約の心を育てた。いささか以上に過剰な形で。
 軍学校に入学して間もない頃、彼の班に給食を残した生徒がいた。軍人を養成する場にあって、食事を無駄にするなど許される行為ではない。食の好悪は直ちに強制されるべき悪徳であり、同班の者たちもその生徒にさまざまな苦言を呈したそうだ。結局のところ昼休みいっぱいゴネ続けた生徒が時間切れで勝利を収めたのだが、そのことが彼にとって幸いであったとは言えないだろう。
 週休明けの昼休み、いつものように食事を取る生徒たちの中、子供用の学習机に窮屈そうに座っている大人の姿があった。彼はさまざまな教練の際に講師の補助を行う職員で、生徒たちからは監督官と呼ばれている。異物の混入は教室内の雰囲気が多少ぎこちなくはしたものの、食事が始まればそんな空気は霧散した。監督官は柔和な笑みで子供たちに人気の青年だったし、なにより空腹には耐えがたい年頃である。すぐに非日常は彼らの日常として受け入れられた。
 しかし、やがて事件が起こった。またしても前回と同じ少年が食事を捨てようとしたとき、それまで生徒たちと歓談していた監督官がその少年の背を乗馬用の鞭でしたたかに殴りつけたのである。当然のように少年は泣き叫ぶが、時を同じくして、学校のいたるところから似たような叫び声が聞こえてきた。そう、どこの教室でも、これと同じ光景が繰り広げられていたのだ。
 ことは学長のもとに送られてきた1枚の手紙に端を発していた。軍人が食料に対して持つべき意識や、帝國内での食糧事情、はては学内におけるここ数日の残飯の量や、それを市場レートに換算した場合の金額などが書き綴られた訴状に目を通した学長は、その事実をずいぶんと重く受け止めらしい。それ以後、給食を残す生徒を鞭で打って矯正させるという実力行使に乗り出したのである。結果だけ見れば、学内で出る残飯の量は限りなく0に近づき、学長は功績を認められ陸軍省から表彰された。ただし、その影に生徒の悲鳴と非難と青痣があったことは言うまでもない。


序章03

 その訴状を出したのが誰であったか、もはやお分かりであろう。同級生の所業にことのほか憤慨したクロッカは、数日間かけて同行の配給所を調べ、市場経済の講師の指導の下、それらのデータをまとめていたのであった。彼の年齢を考えれば並外れた行動力である。件の講師のもとからもれた噂で、いまやクロッカは学校始まって以来の吝嗇家として知られている。
 ゆえに、クロッカを知るものは今その顔に浮かぶ笑顔を見て驚きを禁じえないであろう。学校での振舞いや風評だけで評価するなら、彼はキッチンの喧騒に激墳しているはずなのだから。
「心外にもほどがあります。僕が許せないのは無意味な浪費であって、必要な支出じゃありません。
 そして、アイゼネのやることなら、それがどんな支出を伴うとしてもすべて我が家にとって必要な行為です。他ならぬ、お婆様の言葉ですよ?」
 澄ました態度だが、いささか非難の色彩も帯びていた。試すようなことを言われたのが癇に障ったのか。あるいは祖母がボケたとでも考えているのかもしれない。そうだったねぇ、と苦笑を返しながら、彼女はクロッカを抱き寄せる。
 栄養不足で発育が遅れている孫の体は、踏ん張りの利かない彼女でも容易に膝の上に上げることができた。その軽さを愛おしみながら、お互いの額を触れ合わせる。
「お婆様?」
 常にないことで戸惑いを覚えたのか、声には動揺の色が濃い。首をかしげて覗きこんでくる瞳が気恥ずかしくて、その顔を押さえる手に少しだけ力をこめすぎてしまった。
 まぶたを閉じ、小さな額に自分のそれを触れさせる。
「じっとして目をつむんな。そんな近くっから顔を見つめられちゃあ面映いよ。第一、乙女も歳の前じゃ形無しだしねぇ」
「乙女、ですか? 磊落がすぎて、すれ違うときは殿方が眼を伏せたっていうお婆様が? 婚期を逃してあげく幼馴染のお爺様に首輪をかけて籍を入れたっていうお婆様が?」
「やかましいんだよ、そこは黙って流しな。
 いいかい、よぉく覚えておいで。こいつはうちに代々伝わる作法でね、大事なことを、こうやって肌と肌で感じあって伝えるためのもんだ。アタシもバカ息子も、奇特なことにその花嫁になったあんたの母さんだって、本当に大切なことはこうやって教わってきたのさ。そして、今から話すことはアタシたち家族にとって、一番深くにあるいっとう太い根っこだよ。
 これを伝えるってことは今日、今晩からアンタを曲がりなりにも一人前と認めてやるってことでもある。心して聞きな」
 潮が引いていくように、茶化すような気配が消える。往々にして冗談がすぎる祖母の、ここは真剣所と悟ったか。触れ合った肌から、心地よい火照りが伝わってきた。
(おやおや、一丁前に緊張してんのかい)
 声にならない呟きへの返答は、案の定の気負った声。
「はい。ランサメントの若木は、お婆様の言葉を傾聴して漏らさず、一言一句にいたるまで、この身の根と幹といたします」
 それは、騎士の誓約の文言だ。少年もまた、老境にある師の魂に報いようとしている。その心情が言葉に顕れたのだった。
「よろしい。なんとも教本どおりで、面白味のないのがいかにもアンタらしいじゃないか」
 この期に及んで口をつく軽口は、唇を湿らすためのもの。なにせ彼女にとってさえ、今から伝えるべきものは大きく、重く、多少の躊躇をしたとしても、仕方のないようなものだから。
 居間にわずかの沈黙がおりる。やがて燻る薪のはぜ割れる音がその静寂を破った瞬間に、厳かに、かつて戦場を在り処とした老騎士は口を開いた。






最終更新:2008年08月25日 23:39
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