(投稿者:叢魔様)
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「大袈裟だよ、それ」
声音に跳ねる様な笑いを混ぜたのは、皮肉のつもりであった。浴室で乳白色の湯船を纏いながら対話に応じていることも含め、それほどにシオドアは言葉の向こうの人物を蔑んでいるのである。
「マーシィを官舎へ持っていくだけの用向きで、不安無いだろう、少し歩きたいんだ。――散歩ぐらいは子供にさせなよ。帰りは交代のM.A.I.Dまで出して下さる。――そう、近衛を3日も」
あどげなさを口調に装うべく、喜ばしい話題を早口で並べてみせる。湯気の向こうから禍々しく反響する自らの声を聞き取ると、我ながら良く演技できていると思えた。加えて、子供染みた態度を真っ当以上に理解しつつ、それらしい立ち振る舞いが似合う己に苛立ちが生まれた。
受話器を持った手が、上気した頬の隣で俄かに固くなる。
「そうだよ、母さん。配慮は嬉しいけどね。そのことは……官舎に着いてから、また」
官舎に着いてから、という台詞がシオドアの用意した別れ文句である。言い切った後、受話器が何某か返事をしたらしいがその様に聞こえるよりも早く、シオドアはスピーカーを耳から遠ざけていた。
受話器の外線を切ると、ボタンを押し込んだ指が忽ち威力を失う。手首は、糸の切れた人形の様に二の腕を伴って湯船に没し、不調和な波紋を広げて見えなくなった。況や、握られていた受話器も浸水してしまったが耐水処理の完備された機種のためそれを理由に機能を落とすことは無い。
音の無い嘆息がシオドアの唇を擦った。その様相だけ窺えれば、少年は疲れているのだろうと察することは何者にも容易であったが現在の彼に憂いや悲哀は通用しない。辛うじて目尻に抑え込まれた失望が、その途端に暴発することは明らかであるから。
暫時の静寂を経て、諦めた様に重い腰を上げたシオドアはタイル張りの壁に添えられる鏡の前に己が裸像を晒した。淡くも鈍い灰色に曇った硝子板の表面を掌が滑ると、軌跡がシオドアの面立ちを答える。血色の宜しく若々しい肌にはその容貌を傷付けるものがまるで見付からない。「鷹の目」と称するのは一先ず待ってその視線を見返すと、むしろ「鶴の嘴」の様な自然な鋭さを帯びていることがわかる。一通りの外観として、不快でない程度に気品を自負している目である。
続けて掌が硝子板の下へ向かってジグザグの尾を引くと、今度はシオドアの裸身が現れた。体躯は痩せ型でも肥満でもなく、特別な呼び方を選ぶならハンサムという程度がよく似合う。面立ちと比べれば似つかわしい身の丈はあったが、シオドア自身はそれを際限無く嫌っていた。気に喰わない大人を見上げ、見下ろされなくてはならない目線の恨めしさは彼において冒涜の類でしか有り得ない。
そして目線の上下以前に対面を忌む大人の1名が、先刻における電話の相手に他ならなかった。
(親が威張れば子供は構うと思っている!)
胸中で唸った途端、酷く鈍い耳鳴りが聞こえた様に感じる。それは湯船の底に残した受話器がコールを鳴らしている音ではないかとも思えて、シオドアの脳裏を這い回った。
耳鳴りを踏襲すべく、シオドアは銀色に光るシャワーの蛇口を握り潰す様に回しザワザワとした飛沫の音で浴室を溢れさせる。頭上から降る温水は新しい湯気を吹かせながら彼の額髪に圧し掛かり、やがて灰色のエッジで鏡の美貌を隠した。
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多く“大戦”或いは“前大戦”と称される、大陸内における列強間の資源保有地とその監督権を囲った争奪戦は、その終焉を開戦直後からの冷戦を突破した、テラモユス帝國の完全勝利で記す結末を得た。即ち、当時の機械化された世界の軍事編成を文字のまま踏襲し、後に兵器開発論に抜本的な更新を与えた人間型生体兵器“M.A.I.D(メイド:Multiple.Adaptation.Interigence.Doll)”の初の実戦投入が導いた戦果である。 大戦の圧勝によって生産力と技術力を増した帝國は、敗走により衰退した隣国の救済を口実にその国土を吸収。際する複数文化の統括は自然、軋轢と反発による抵抗運動を催したが帝國政府はそれらの対応悉くを武力制圧で遂行し弾圧を重ねた。史実において、実質的に統治体制が安定した現帝国の成立は僅かに30年程度の歴史であるとされている。
拡大した国土の統一後、大戦と弾圧に用いられた、戦後残存種の第一世代型M.A.I.Dは相対的な機能低下に伴ってその大部分を実験素材として保管され、続く第二世代型へのシフトが行われた。非武装を前提とした労働用M.A.I.D、“H-M.A.I.D(ハウスメイド)”の配備もまた、同時期に並行実施されるが帝國政府の意向によりその用途は家庭内労働と愛玩に限定され、所有権は一定以上の地位を備えた特権階級にだけ与えられることとなる。この処置は、M.A.I.Dの生産費用と労働力の比率、所謂コストパフォーマンスが実施当初の想定を下回ったためとされているが、厳密には国内産業における労働環境の急激な無人化が労働人口を圧迫することで経済基盤を不安定にさせる事態を危惧したためであるという説もある。
いずれにせよ、大戦後もM.A.I.Dは帝國の技術力と軍事力、経済力の権化として帝都周辺を中心に活動を続け、現在においては関わる技術者等によって第三世代型の試行錯誤が行われるに至っている。
「マーシィ、出るよ」
シャワーの給水を止めながらぶっきら棒にシオドアが呟くと、浴室の扉の向こうから抑え気味の老婆の声が上がった。
「かしこまりました、坊ちゃま」
「着替えは私服にしておいて」
「礼服ではなく?」
「それで忙しかったって言い訳できるでしょ」
一旦、不審を正した老婆の声は、しかしシオドアの声音に笑みが含まれていることを確かめると、再び最初の優しい調子を取り戻して「かしこまりました」と繰り返した。
浴室の扉から脱衣所に現れたシオドアは、傍らに用意してあったタオルに髪の毛の水分を集め、暖簾の様に視界に被さる額髪を持ち上げる。空調を整えた室内では、それだけでも涼しい心地になれた。
一頻り全身の水滴を拭い終えてからタオルを首に提げている内、特に根拠も無く嘆息したくなった。途端、浴室とは反対側を向く扉を開けて、エプロン姿の老婆が室内に入って来る。年季の伝わる容貌に相応しい、緩やかな腰の折れ方をした姿勢の、普遍的な老婆に見えるがその茫漠とした微笑の先には情緒の軌跡が絶えている。また、シオドアへ歩み寄るまでの挙措にも余計が見付からず、殆ど焦れったさが無い。良く確かめれば、靴を履いているのに足音も立たなかった。
それら一連の挙措に対して、しかしシオドアは懐疑も驚嘆も示すつもりが無いらしい。眼前で老婆が広げ始めたバスローブを途中で取り上げると、慣れた具合に自ら袖を通し始めた。
「お電話は?」
覗きこむ様に首を傾げた老婆が、そうシオドアに尋ねたのは彼がバスローブの帯を締め終えた直後であった。
聞かれて思い出したという風に「落ちちゃった」と答えてから、シオドアは浴室の方を指差す。
「拾ってよ」
子供が親にねだる様な物言いである。物乞いする態度の似合わなくなった年頃の少年の言とあれば、酷く毒気が濃い様に感じられた。にも拘わらず、老婆は微笑で凝り固まった顔を潔く倒して頷き、腕まくりをしながら浴室の中へ入ると湯船の底を掻き分け始める。
間も無く老婆が持ち上げた掌の中には、艶かしく水滴を光らせる電話機があった。
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身体の湿気が無くなった頃、私服に着替えたシオドアは自室に溜め込んだ分厚い本の山を崩して読書を始めんとしていた。彼の趣味に選ばれたそれらは、概ね過去の思想家達の記した自論の解読書であり、少年に似つかわしい娯楽的な種類のものは壁沿いの本棚に一冊だに見付からない。通学先の授業で必要になる実用書は机上の小さな棚に一纏めにされ、それ以外は床という床を乱雑に覆っている。
ベランダを透かした小窓から西日が入り、サッシの形に切り取られた陽射しが照らし出す辺りの床にも大きさの一定しない書物が子供の積み木遊びの様な歪さで重なっていた。但し、何という酔狂かその不安定な層の頂上を成す一冊はA6用紙のページが装飾された恋愛小説であった。
未だ読み終えていない一冊を足元から選んで拾い、新しいシーツが被せられたベッドを腰掛にしてページを起こす。腕時計のベルトを栞代わりに挟んでおいたので、最後に眺めた文章は直ぐに思い出せた。
「奥様は、何と?」
暫時を経て部屋の外から老婆――マーシィが、やはり優しい声音で話しかけてくるのが聞こえた。何某かの家事をしている最中であるのか、しばしば声が遠ざかったり、近付いたりしている。
マーシィは、第十一皇子の権限においてシオドアが私有するのM.A.I.Dであり、現在は彼の居宅の家事一切を任されている。
前大戦の初陣において多くのノウハウを蓄積したM.A.I.Dは、特に終戦後に規格化された第二世代型の開発ロジックにその成果を反映させていた。新市場の期待から、それまで従来の機械化兵器を主要なラインナップとしてきた軍需産業は大きな転換期を迎え、関わる企業等は新たに生体兵器専門の研究部門を開発部に設け、こぞってM.A.I.D開発技術の開拓に着手した。結果、このM.A.I.Dの揺籃期とされる十数年の過程において、多量の第二世代型の試作品が市場へ流出することとなる。
しかし当時、一線級でのM.A.I.Dの最精鋭部隊を確立させつつあった帝國軍は、より優れたスペックを備える新種の開発と同程度に、既に配備された従来種の能力を底上げする副次装備の研究にも意欲的であった。新種開発よりも低コストで、既存の軍事編成の運用効率を向上させるこの目論見の中でマーシィは試作装備の実用試験種として作られた。この場合のM.A.I.Dは、長期運用の可能性を設計段階からほぼ度外視されることでコストダウンを施されるため、経年劣化は他種よりも顕著に現れる傾向にある。況や、マーシィはその開発から間も無く運動効率を徐々に低下させてゆき、シオドアが引き取らなければ現段階では廃棄処分とされるべき消耗品であった。
「唐突なお電話でしたが……」
電話、と付け足されてシオドアはようやっとマーシィの意図を得心した。
先刻における電話は、入浴中のシオドアにマーシィが取り次いだものであったが、浴室で受話器を渡した後、部屋の外へ出るよう指示されたために彼女は応対の内容を知り得なかったのであろう。
「んん……道草するなってさ」
虚言である。
シオドアがマーシィを官舎へ送る用向きを得たのは、帝國宰相――忠実にはその秘書官――からの申し出を受けてのことであった。国内の技術者を並べ、各々に取り組むM.A.I.Dを主要媒体とした研究とその有用性の解釈を促し、その実用化の成否を検討する会合においてマーシィの出席が望まれたためである。
当日は帝國の最高素材とされるM.A.I.D、
ジークフリートのスペックを技術者等の研究課題の参考に披露する機会が設けられ、マーシィはそのタイミングで用いられるらしかった。即ち、ジークの備える戦術的打撃力を演出すべき引き立て役と同時に模擬戦の噛ませ犬を兼ねる配役を与えられるのである。シオドアは二つ返事でその申し入れを受け、前日に官舎を訪れる日程を組んだ。但し、その段階で彼が失敗したのは会合の出席者を一名ずつ確かめなかったことであり、そこに母親の名を見付けた後日には小石を飲み下す様な辛苦を催した。
用向きを果たべき本日、望ましくない対面を控えたシオドアは空虚な感慨を欲して沐浴する。静寂の最中にマーシィが電話機を持ち寄って浴室に現れると、殆ど乾いた面持ちでそれを受け取り、それまで人形の様に浴槽に横たわっていた時間を初めて思い出した。眩暈が起きたのである。
電話機の向こうから聞こえる母の声音は、ギシギシと砕ける視界に侵されて少しも穏やかに聞こえなかった。その不快さと、変わらぬ大人への失望を兼ねて官舎への移動に車を用意したという母の申し出をシオドアは断ったのである。
「あらあら……」
そう、爽やかな笑い声で答えるマーシィ。
「
ユピテル様の件で、ご辛抱が揺るぎましたか」
1 - 4
「だろうね」
文章の読解に没頭し始めたのか、シオドアの返事はそろそろ淡白に、短くなってきた。
ユピテル――第十一皇女の失踪は、一昨日に帝国内で認められた事件である。
テラモユス皇室の幼い息女が消息を絶ったあらましは、伝播するメディアを選ばず国内へ告知を広げた。その際、捜索令状の配布に並行して大衆を反応させたのは、反体制勢力の暗躍の予感、即ちマスコミュニティの摩擦が生み出した、ユピテルの失踪を拉致によるものとする仮定を孕んだ推論であった。
国土統一以前の、旧列強時代の軋轢を開放し切れず現帝國の膨張に誇大な反感を示す輩は、大陸全土に散在している。況や帝國の領土内において類する思想を備えるゲリラ組織が潜伏する事態は杞憂ではなく、未だ大規模な破壊活動が実施された前例が挙がっていないとしても、その未遂に数え得るの犯行事例は多く確認されていた。帝國政府への反抗を前提に、皇女の身柄を人質に取る準備を踏まえた企みが生まれる余地は充分に想定され得る。
国風に由来する威厳から大衆には階級的圧力を隔て易いテラモユス皇室において、才色兼備の幼女ユピテルと、その実兄に該当する庶民派の美青年カリスの両兄妹は民意を統計する、マスコットであった。成る程、その一名の安否が損なわれる事態が続けば、そればかりでも保安体制への不信は論を待たず、国土統一時代の弾圧政策やその後の帝國政府の行政力が世論の非難に晒されるのは時間の施す課題であろう。
(馬鹿共が……)
状況証拠を頼れば、マスコミュニティの推理は、決してコマーシャリズムに煽られた“ガセ”と断定し得るものではなかった。皇室の身柄を目標にした、ある種のクーデターが実施されている可能性が示唆される現状において、シオドアの母が連絡を入れた内容も幾らも不自然ではなかったろう。それでもシオドアがそれに取り合わなかったのは、単純な反骨精神の表明と、帝國政府――その最高意思たる宰相――へ向けた信頼のためであった。
(ギーレン閣下……あの人に策謀など通用するものか)
新しいページを起こすシオドアの面立ちが、一瞬だけ優しくなる。
途端、マーシィに呼ばれた気がしてシオドアは本を開いたまま部屋の扉の前まで移った。呼んだのかと、低く呟けば廊下に反響した声でマーシィが答える。階下から返事をしているらしい。
「直に、お時間でしょう。ご用意は済ませております」
シオドアは本と併せて持っていた腕時計をひっくり返し、銀色の針を確かめた。定時に官舎へ向かうべく居宅を出るには、2分だけ早かったがそれだけ余裕があると考えれば季節柄の猛暑も歩き易いのではないか。そう考え付いたシオドアは、時計のベルトを手首に巻き、本に別の栞を挟んでクローゼットからハンガーごと上着を引き抜く。
部屋を出た後、必要以上に勢いを付けて扉を閉めたのは階下に居るマーシィに物音を聞き取らせるためであった。
急ぐ気配も無く、悠然とした歩調で廊下を進みながら上着に袖を通し、ポケットに本を仕舞う頃には既に階段を降り切って玄関までの移動が済んでいた。
マーシィはその場に行儀良く、しかし老人らしい緩やかさで腰を折って待っていた。傍らに置かれた巨大なプラスチックの鞄は、一目には市販のギターケースに映って見える。論に及ばず、その模範的な造形は都内の人前を歩くためのカムフラージュであり実態は会合で披露する武装キャリアに他ならなかった。
「これだけ?」
ギターケースの大きさを確かめたシオドアが問うと、マーシィは上体を静かに沈めて頷く。
言い出しておいて、シオドアは殆ど答えを聞いていないらしかった。初めから独り言であった様にマーシィの反応を無視し、黙々と外へ歩み出す。途端、湿り気を帯びた外気が粘り付く様に彼の身体に圧し掛かり、シオドアの精気を一辺に呑み込もうと溢れた。
その潔くない心地を肌にからめて、シオドアは一度だけ車で移動しても良かったのではないかと考えた。
2 - 1
巨人を招き入れるべく作られた洞穴の様に、漠然と遠くを這う天井。その真反対をなぞる床を、小人の足音が叩く。
幅の広過ぎる廊下の中央をなぞる絨毯の上で鈍く曇ったその音色は、重たい響き方に反して小刻みで一定である。さながら芸術に呪われた彫刻家がいつまでも同じ石膏を抉り続けている様な、或いは壮大な時計塔の内側を揺らす秒針の鼓動の様な、茫漠たる円環を想起させるものであった。
小人の肌は黄色人種に数えられる日焼け方の色味で、モノクロームのゴシック
ドレスから零れた純白のフリルがまるで似合わなかった。先ず、身の丈と着衣の大きさが釣り合っていないらしい。荒々しい歩調のため大袈裟に乱れようとするスカートが、しばしば絨毯に突っ伏す刹那は引き摺られている様にも見える。袖の長さは既に論外であり、仰々しい装飾が群がって広がる模様の奥に手が植わっていることさえ確かめられない有り様である。
それにしても頭は大きいので、一連の衣服の不安定さも女の子が欲しがる着せ替え人形の模式に置き換えて美徳とすることはできる。但し、その場合、黙認しなければならないのは左片目を覆うアイパッチと、大雑把な切られ方をした朱色の髪、剰え何を引いても野良猫の様な野生を帯びた面立ちである。清楚な佇まいを整えられる人形には受け容れ難い、それは粗末な造形であった。
子供向けの漫画ぐらいでしか用意し得ないその全貌は、ハロウィーンの仮装行列に並ぶ“ジャック・O・ランタン”の方がより近しい。丁度、黄土色に反射した片目は提灯の奥から照り出す焔が比喩に適しているであろう。
きっと、狭い歩幅を努めて広く踏み出しているに違い無い。小人の頭は歩調に揃えて大仰に上下している。但し、重たい足音はその歩き方ではなく、スカートの裾に隠れた頑強なブーツが鳴らすものであった。
小人は、横たわる空気それ自体であるかの如く伸び続ける廊下を進んで行き、幾度も向きを変える階段を一段抜かしの要領で跨いでやがて官舎の二階に着いた。
「あっ……」
ライラという小人は、落し物をした様に呟いてそこで歩みを留める。鈍い足音がエコーを残して薄くなり、音の無くなった廊下は一枚の風景となって静止した。
「ここだっけ」
セピア色の石壁を掌で確かめながら、ライラはそっと歩き出す。ザラザラと肌を引っ掻く感触が、その際は不思議と心地良い様な気がした。
歩みを進めるライラの左右を合わせ鏡の様な均一の様相が繰り返し流れて行く。それは侵入者を路頭へ塞ぎ込まんとする、迷宮の道に似ていた。ライラが触れる側とは反対の石壁に添えられた窓から、昼の日射が廊下に落ちて光る以外、そこに光源たり得る媒介は見付からない。奥へ視野を伸ばすほど、像は暗がりに歪み道筋は薄く霞んで行く。
ライラの歩調は、目で見えるよりもずっと先へ向かっている様に、真っ直ぐに廊下をなぞって行き――
やがてその姿も暗澹たる迷宮の懐へ溶け出していった。
2 - 2
旧懐は六年程度遡る。
その際、どういった脈絡であの様に鬱積を溜めてしまっていたのかはいつの間にか思い出せなくなっていた。何某か冷たい、漆黒の奔流の様な感情を持て余していたことが一先ず確かであり、官舎の廊下をいつまでも往来していたのはその切なさを振り切ろうとしたためであったらしい。
均一に並んだ窓の前を通り過ぎる場合、格子の独特の装飾を真似て廊下に落ちた日向を跨いで行く様にしていたことを、ライラは覚えていた。取り上げて根拠のある説明は難しいのだが、それは一定の形式に準じ続けることで自ずから完成を抑圧していたのではないかと彼女は考えている。例えば、茫漠たる時間の隔たりや折り合いのつけ方が定まらない心地――丁度、この頃のライラを示すであろう――を昇華すべく、何某か単純な運動に徹し有意識を遠ざける事例がその明示に当てはまる。
それはまるで自己催眠のプロセスであり、必ず事態を解消へ促す手段足り得ぬことは論を待たない。成る程、一連のルーチンに準ずる最中のライラの意識は透明な無我へ導かれ、鬱積もまたその無色へ溶け出して正体を失ったに違い無い。但し、それは脆弱なほど繊細に作られた、浅い睡夢であった。廊下の直線が耐えて振り返る頃、或いは窓辺の日向を誤って踏み付けた頃、ライラを包んでいた透明さは風に撫でられた一握りの砂の様に姿を消し、外界に忽焉と意識を横たえているのである。
その様な回帰を二、三度繰り返した頃には、それでも再びルーチンに没頭するに足る忍耐と願望が健在であった様な気がする。しかし六度目に廊下の端に立つと、次に応じる足取りは泥を踏んだ様に粘り気を帯び、それから日向を跨ぎ損ねる度、重さを増しているらしく感じられた。
既にどれだけ廊下を往復したのか、どうしてその様なことをしなくてはならないのか、ライラには思い出せなくなっていた。そうして、廊下を半分まで進んだ辺りで何某かがむっくりと起き上がる気配がすると、ついに彼女は立ち尽くしてしまう。
窓の形に切り取られた日向の上で、初めからそこに立っていた様に。
(初めから立っていた?)
その思惑が、ライラには何故か現実的である気がした。
(そうかもわからない……私は遠い昔に発条が切れた人形で、歩いていた頃の夢をここでずっと見ていたのかな)
刹那、ドッと、何某かがゴッソリ奪われてゆく感覚だけが身体に残った。畏怖にも寂寥にも数えられない、底の無い落とし穴を覗き込む様な漠然とした不安が空っぽになった彼女を包み始めている。
それでも拒む与力は見付からなかった。
(だって、もう切れちゃったんだもの……でも)
ライラは忽焉と考えた。
どうして自分は、ここに居たのだろう――それすら忘れ始めていることに気付いたライラを、準備無しに声の無い慟哭が殴り付ける。
どうして振り返ったのは、自分でも定かではない。発条の切れた人形が動いた理由も、探しようが無かった。
再び思慮を取り戻したその頃、既にライラは背後から歩み寄る人の形を真っ直ぐに見据える姿をしていたのである。
慟哭は鳴り続けていた。人の形がライラに近寄るに従って、その物々しい響き方が幼子の鳴き声に似てくる。
声が確かに、眼前の少女のものであると思ったのは様々な水分を滴らせる小さな顔がライラのドレスのスカートに突っ伏したときであった。
ライラもまた、小柄とされて相応しい体格しかなかったがドレスの懐で“しゃっくり”を始めた少女の身体は殊更に成長されていない。それは、闇雲に大声を散らす泣き方には似つかわしかったが、あの耐え難い慟哭を生むには儚過ぎるとライラは思った。
ガラガラと嗽をする様な泣き声が、ライラのお腹の辺りで急速に低くなり、少女の嗚咽を伴って細かい震えを伝えてくる。そこだけが、俄かに生暖かくなっていった。
(どうすれば……)
先刻まで暗澹を漂っていたライラの意識は、霧がかかった様に不鮮明で当人も拙いものだなと思えた。そうであったから、忽焉と縋り付く少女の身元についての疑問が現れなかったのかもわからない。そこがテラモユス皇室の長男ギーレンの官舎なのだから、居る者が怪しまれる謂れは無いと、暗に考えていた節も見える。
ただ現状において殊更に不適切なのは、ライラが本質的に自らを年長者に据えた立振舞にまるで慣れていないことであった。端的に書いてしまえば、彼女は自分よりも幼い人間と遊ぶ以外のことをした記憶が無く、泣いて散らす幼子の宥め方などは論外である。
慣れない模索をする間、困った表情をしていたのだろうか、ライラはいつの間にか顔がチクチクと痛む感触を忘れていたらしい。そうして、痛みのために熱くなり始めた目頭へ細い中指を宛がった。
「――あ……」
少女が、ライラのお腹が前屈みに倒れ出していることを訝しがって彼女を見上げていた。
最終更新:2008年08月25日 23:38