イチゴが蠢いている。否、イチゴは動かない。正確には色鮮やかなイチゴのプリントをあしらった物体が蠢いていた。比較的穏やかでない表現が許されるのは、むしろその表現こそ穏やかと評されるべき振る舞いを、そのファンシーなプラントが行っているためだろう。
具体的に言えば、細やかかつ大仰に打ち震え、前後へ死病の痙攣じみた蠕動を繰り返し、細い両肩は急速に乱高下している。
およそ何者にしても平常ではない動きなのだが、動作主体が人型であるということを思えば実際、尋常な状態であるはずもなかった。
ごく端的にシルエットを表現すれば人型。やや細やかに描写しワンピース。さらにディテールを加えるのであれば、目元に浮かんだソバカスや結わえたお下げが、さる名作文芸の主人公を連想させる娘である。いささか掟破りな膝丈のエプロン
ドレスが奇態ではあるものの、全体的に素朴ながら可憐な印象を受ける姿なのだが、今はいささか趣が違った。
今なお続く蠕動と乱高下、おまけに彼女の立つ場所は波間に佇む船の上、アルトメリアの大型船ドーン・オブ・グローリー二世号の甲板デッキの端である。
おりしも空模様は文字通り曇りのない晴天。あいにくと言うなら波が高いことが上げられるだろうが、むしろそれだけに広大な海原を行く船影はいっそ清々しかった。海鳥の編隊が上空を駆け抜けていく様はとても絵になる。当然、まぶしい日差しは水面を輝かせて、その光は少女と海面の間で金色の架け橋すら描いていた。
波の高さはやはりいただけなかったらしい。こうまで舞台が整っているのなら、少女が蠢いていると表現される理由は察するに容易だろう。
重度の船酔いである。
架け橋の正体は言うまでもなく吐瀉物なのだが、それが金色をしていると言うあたりが危険極まりない。吐きすぎて胃の内容物が空になり、あげく胃液が出ている状態なのだ。ここまでくると船酔いもなかなか侮れない。嘔吐と発汗による脱水症状は、人体に無視することのできない重篤な被害をもたらす。
しかし、そんな状況でも彼女を取り囲む屈強な労働者たちの、その空気は穏やかだった。少なくとも向けられた視線には子供の失敗を見守るような微笑ましさこそあれ、命まで気遣うような色は伺えない。
「まいったな。ああしてかれこれ1時間になるが、まだ出てくるとは。あの体のどこにそんな質量がおさまっていたんだ?」
「おそらく体内成分を胃液に還元したはしから放出しているのでしょう。ちょうど、乳酸を分解しながら長期間活動を行うのと逆の要領ですか。メード特有の強靭な肉体、その賜物ですよ。現状、彼女たちの新陳代謝には不明な点が少なくありませんが、エターナルコアが不随意の領域で不足した体内成分を生成し、過剰分を分解する働きが行っていることが判明しています。私たち人間と同じ人型をしていても、その体内では極めて行き届いた管理がなされている、と言うべきでしょうか。まったく素晴らしい。
まぁ、目的もなく嘔吐するために嘔吐する対象を生産し続けると言うのはいささか空しくありますが」
「メード」、その言葉が彼女の在り様を示し、また彼女に向けられた視線の理由を示している。一般にそれは家内の雑役に従事する女性使用人を指す言葉だが、その意味はここ数年の間で急速な変化を遂げつつあった。
有史以来、その旺盛かつ厚かましい行動力によって生存圏を拡大させてきた人類は、ついに自らの天敵と呼びうる種と遭遇する。
生存においてなんら道具を必要としない強靭な体力と、人類に比肩する繁殖力。限定的ながらきわめてシステマティックな社会を構成しうる知性と、地上のあらゆる環境に適合しうる生命力。人類種とはまったく異なる方法論によって一躍霊長の座に並び立ったこれらの種を、人類は「G」と呼称した。
これまでおよそ戦争と言う形式による生存競争を経験してこなかった人類にとって、人間を相手取った武器が通用しない彼らは、悪夢に等しい敵であったと言えるだろう。歩兵はなすすべなく蹂躙され、戦闘車両ですら満足な対抗策足りえず、ごく初期には有効とされた航空機による爆撃も、制空権を奪われた後はその意味を失った。それは、連綿と積み上げられてきた現代科学という神が、あるいは人類史そのものが原始生命に敗北した瞬間だったと言える。
しかし、人は滅ぶことを是としなかった。もとより何度となく絶滅の窮地から返り咲いてきたのが人類だ。その因子はこのときもその力を存分に発揮した。救い主が科学の置き去りにしてきた古い因習に塗れたものであったというのはいささか皮肉が利いているが、なんにせよ彼らは生存のための新たな矛を手に入れる。
つまりはそれこそが「MAID」。世界の各国家に奇跡の石として伝わってきた物質、「エターナルコア」を宿した新時代の英雄たちである。
「それなんだがな、本当にあの娘は大丈夫なのか? あんなにげーげー吐きまくってるようじゃ、ご自慢の身体能力って奴も疑わしいぞ」
「いえいえ、それについては保証いたしますよ。今はなにぶん生まれたてなものでして、素体とコアの同期が上手くいっていないのでしょう。現状でも単純な馬力ならそこらの工業エンジンなどに引けはとりませんし、時間とともにコアが馴染んでくれば、この酔いもいずれは解消される見込みです」
誰ともない疑問に律儀に答え続けているのは、一見して学者とわかる風体の青年だった。労働にそぐわない線の細さや、皺一つなくプレスされたスーツもそうだが、何よりその目が決定的だ。細く長い形はいかにも柔和な笑顔を演出するが、同時に湛えられたその偏執的な光は、どんなに鈍感な人間でもそうと悟らぬことはないだろうというほどに強く濃い。往々にして、生涯を学究にささげた人種に共通する特徴だった。
「うぅ……本当ですか、ジョセフさん? 私、これ、全然治まる気配が……ぉぅぐぉえっぷ…………このままじゃ、船に慣れる前に死んでしまいそうです」
生存本能なのか意地なのか、件のメードはそんな泣き言を何とか吐ききりうずくまった。目じりにたまった涙や色を失った顔、なお治まらぬ震えがその必死さを物語る。もともと造形には優れた姿だ。そうして苦しむ様子には一種の倒錯的な魅力がなくもなかったが、いかんせん周囲に漂う酸性の臭気が、口元を覆った指の間からこぼれる黄ばんだ汁気が何もかもをぶち壊しにしていた。
「これは、困りましたね。あなたもレディの端くれなんですから、そんな「おぅぐぇぇぇぇ!!?」なんてグロい擬音を使うものではありませんよ、ミス・オロヴェ。なにこんなもの、割礼や髷落としのような通過儀礼となにほども変わるものではありません。すぎてしまえばさっぱりしますよ」
「その嬢ちゃんが言ってんのは、ゴール前でリタイアしそうだって話じゃねえのか。まったく手前ら、ちっとも話が噛みあってねえぞ」
というより、青年が一方的に意思疎通を図る能力を欠いているのだろう。他人の言葉よりも自分の主義と主張が優位にあって、あらためて相手に合わせた対応というものをできないのだ。耳が悪いわけでも、頭が悪いわけでもない。意識レベルに問題を抱えた、まさに見てくれ相応の人格といえる。
見かねた労働者の一人が肩を貸し、風当たりの良い場所を選んで
オロヴェの体を横たえる。空気が滞留し濁りやすい船室に逆戻りするよりは、と言う配慮なのだろう。実際、オロヴェ自身も最初はそう思ってこの甲板へと足を運んだのだった。結果は今の通りだが。
彼女の来歴を知る学者青年ジョセフとしては、正直この判断があまり優れたものではないことを知っていた。メードとしての新生を得たと言っても、彼女らはさまざまな面で、素体となった体に引きずられて生きていかなければならない。そして、内陸に生まれ育った人間には、海風は必ずしも爽やかであるとは限らないのだ。
「うぅ……死んじゃう、死んじゃうー。自分の×××に溺れて死んじゃうー。酸っぱいよ、×××が物理的に酸っぱいけどそんな最後だなんてもっとずっと酸っぱいよ。
あぁ、先に心がくじけそう、ジョセフさん先立つ不幸を……」
泣き言とも恨み言ともつかないうわ言を呟き続けるオロヴェの視界を、影が覆った。それは彼女に肩を貸した件の人物で、チェックのシャツにジーンズと言う下級労働者として記号化された身なりの男だった。それだけであれば没個性的でたいした印象にも残らないのだろうが、彼の場合は装いよりもその肉体に、他と隔たる個性がある。
おそらく上背は2mを優に越し、体重はオロヴェの2倍強にもおよぶだろう。くっきょうぞろいの労働者たちの中にあっても一際際立った体躯と言わざるを得ない。しかも、巨漢の常としての芒洋さとは無縁のようで、その厳しい眼には確かな知性の光を感じさせる。もし生まれてくる時代が鉄器時代以前なら、英雄の相と称されてもおかしくないそれは偉丈夫だった。
「そら食いな、嬢ちゃん。全部はいちまって腹が空になってるだろう。食い物って気分にゃなれんだろうが、船酔いじゃそいつが一番酷いコンディションだ。腹に何か入れておきゃ、少しは気分も良くなる。無理をしてでも、ちょっとくらいかじっておきな」
おそらくは厨房あたりから調達してきたのだろう林檎が差し出されていた。それは熟れるにはいささか早く、若干の青さを残す姿が甘さよりも渋みをたやすく想像させる。ただ、それだけに今の体調では、かえって口に含みやすいというものだろう。
「お、お心遣い、ありがとうございます」
過度の嘔吐に顔を青ざめさせてはいたが、彼女とて既に人界の際にたつ身だ。単純な体力なら目の前に佇む巨漢すら、及びもつかない領域に彼女は住んでいる。体調を崩したこの状況では自主的な行動などひたすらに億劫であるのだが、行動することを求められたなら否を言う軟弱はありえない。横たえていた体を起こし、早もぎの林檎に歯を立てた。
「うぇぇ、渋……」
やはり、甘みなどほとんどない。ひたすらに青臭く渋く、林檎特有の酸味がことさら際立って口腔を満たす。当然と言えば当然だ。およそ甘露の類は熟成のうちにこそ宿るものである。時期の早い収穫には、それ相応の報いが提供されるのが世の習い。瑞々しさに食指を働かせてみせたところで、いい目にあえることなど少ないものだ。
とはいえ、嗄れきったオロヴェの体にとっては、その青臭さもかえって舌に快い。
一口、また一口。齧り、咀嚼し、嚥下する。遅々として、その進みは遅い。たとえばこれが酒精であったなら、呑むというよりなめるといったほうがふさわしい姿である。たかだか林檎一つが彼女の質量に還元されるまで、どれほど時間のかかることだろう。
齧る。青臭い。齧る。渋い。齧る。酸っぱい。
一口ごとに不平が浮かぶ。どこを探しても甘みなどない。けれど、口に含むごとに、体が充足していくことを感じられた。熟れる以前の青さは、生命そのものの色だ。芳醇な恵みにこそかけるが、若々しい輝きがそこには宿る。きっと彼女は、生命を食べているのだろう。
ふと、頭上を横切る影に視線を投じる。雁行する海鳥の群れ。羽ばたくよりも滑空することに適した体はゆらゆらと、けれど悠々と空を行く。数を増したその群れの、示すところは明快だ。
おそらく、先の男が彼女を船室に連れて行かなかった理由も、これこそが多くを占めるのだろうと今になって気づく。にわかに船が活気付く。多少の緊張と、過度の興奮と、およそ仕事の場には似つかわしくない浮ついた空気。船乗りにせよ、開拓者にせよ、その仕事を選ぶにあたって彼らが欲したのは、実利ではなく少年の夢である。この浮ついた空気が示すように、まさしく今視界に移るものは、それを象徴すると言っていい。
赤茶けた大地。そこに眠っているのは、未曾有の金鉱だろうか。あるいは星をちりばめたような鉱石の地層か。
緑深い大樹海。息づくのはいかなる生命か。そこにあって霊長の座に君臨するのは、いまだ見ぬ巨大な獣かもしれない。いっそ伝説に語られるような幻獣、魔獣の類が、秘法を守っていてもおかしくはないのだ。
生存圏の拡大と不可分だった人類の歴史において、いまだ未踏を誇る最後の大陸。夢物語に語られるような出会いが、現実のものとして待ち受けているかもしれない場所。
いまだ瑞々しく生命を宿したバストンの姿に、オロヴェの心は奪われた。