(投稿者:店長)
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信濃はすっかり寒くなってしまった信濃院の庭を眺めている。ついこの間は雪がちらつくほどの寒さだった。
うっすらと地面を濡らす程度に降った雪を見てから、丁度良いとあるものを作り始めていた。
毛糸の玉から先端を引っ張り、編み棒を繰る。畳の上に開いたまま置いた書物を見ながら……。
暫く鼻歌交じりに編み物を続けているところに、局が仕切られていた襖を開けてやってきた。
”生前”の信濃の教育係であり、そして彼女の秘密を知る数少ない人物の一人。
もう一人、この信濃院の秘密をしる人物がいるが……。
「信濃内親王様、巴様が食事の用意が出来たと……」
「うむ、それでは参ろうか」
信濃院では、巴が久方に包丁を握り初めてからこじんまりとしているが暖かい食事風景が出現した。
信濃はこの食事に実際の味覚以上の美味しさを感じるのである。
最初は巴も局も丁重に断るものの、
信濃のやや強引な押しで数回食事を共にとってからはそれが普段事となった。
両者共に笑顔を浮かべながら食事に興じる彼女を見てからは可能な限り一緒に食べるようにしている。
今日の献立は焼き魚に五目飯、味噌汁に沢庵と庶民的なもので
とても皇女が食することは無いものであるが、
信濃からの要求に応じて巴がわざわざ市場に食材の買い出しにでたのであった。
場所と立場がなければ一般市民じみた三人の食事を終え、
信濃はクロッセルから取り寄せた編み物の道具を取り出す。
元々他国語を多少なら読み書きできるほどに学んだ彼女は同じく頼んだ編み物の仕方を記した
外国語の書物片手に進めている。
今も細長い帯状の物体を編んでおり、形状からみてマフラーだろうと巴は予想していた。
「もうじき冬だからの。巴と局にと思って編んでおる」
次第に完成していく作品に信濃の心は躍る。
そんな女の子らしい様子を見守る巴は、嘗て磨り減ってしまった己の昔を思い出すのだ。
──砂漠の向こうに、置き捨ててしまったモノを。
そんな秋から冬にかけての時期、巴が予想だにしなかった事が発生した。
信濃院に来た来客は中将であり、彼女の所属する近衛師団のトップでもあった。
つまりは表沙汰にできない何かをさせる旨であろうと巴は予感する。
中将は見た目はまさに没個性の代表例というほどに平凡な楼蘭人らしい楼蘭人の容姿をしている。
だが、纏う空気は身を引き裂く程に冷たく鋭い。
その雰囲気と丸縁眼鏡をした表情は時より人間ではない何かを連想させるのだ。
今この場に巴と中将しかいない。信濃は奥の部屋で一人編み物をしているだろう。
「巴、仕事の時間だ。近々行われる天皇暗殺並びにクーデターを阻止してもらいたい」
突然切り出した話題は、一般人にとっては青天の霹靂であっただろう。
それでも巴の眉は少しも動かない。そもそも彼女に声が掛かること事態普通では無いからだ。
話によれば、大陸の影響を受けた共産主義者達が天皇を廃して社会主義国家にしようと目論んでいるとの事だ。
だが、明らかにこれは素人の目からしても陰謀の香がしていた。
恐らくは現天皇の弟が手引きしているに違いない。
そして今の天皇をクーデターで滅した後に鎮圧すれば名実共に次期天皇になるだろう。
しかし、今のところ彼らが関与しているという証拠が無い以上糾弾するわけにいかないのだ。
兎角、暗殺などという愚挙を防ぐ必要がある。
口にこそ出さないが、暇なものだなと巴は他人事のように思う。
──そんな事をする間に、するべきことはあるだろうに。
「つまり先に実行犯を暗殺せよと?」
「そうなるな。……さて、先に相手の潜伏先だが」
中将は懐から取り出した地図を広げる。事細かな書き込みが入った詳細なもので、その書き込みや地形からみて皇都のものらしい。
潜伏先は皇居から僅か一km前後の距離に位置にある。
名前は遠野第一帝都ホテル。なんとも捻りの無い高級ホテルだ。
「灯台下暗し、とはよく言ったものだな。先日漸く潜伏先が判明した。といっても一部だけだが」
「遠野財閥関連の物件……確か」
「そう、陸軍の奸将のあの者と関わり深い財閥だ」
遠野財閥は近年益々成長の著しい安佐那財閥の次を甘んじている財閥だ。
安佐那財閥とは違い、陸軍の兵器を主に手がけている。遠野重工といえば楼蘭国の陸戦兵器の花形と言われるはずだった九六式戦車──試作機の完成した年が皇暦の下二桁の年号からそう呼ばれる──を開発してたところだ。
だがメード戦力が開発されると同時に知らされる戦車が発揮するGに対する戦闘力の疑問視から、本来考えられていた受注量を大幅に削減されてしまったのだ。
そのため、元からあった差がより一層深まってしまうことになっている。
そして陸軍の奸将こと若本中将との癒着が懸念されている財閥でもある。
「大方、クーデター成功後に若本中将が陸軍の頂点に君臨しようと言う考えなのだろう……そうすれば遠野財閥の利益は計り知れない」
「……目撃者は?」
まどろっこしいとばかりに巴は、少々無礼は承知で促すように続けた。
任務を断ることはありえない。巴の頭はもう既にどうするかを考えはじめている。
中将は巴の態度に特に気にした様子はなく、言葉を続ける。
「出さず、万が一は消せ……可能な限り隠密に」
「……承知」
もしこの事を信濃が知ったのならば、彼女はどう思うのだろうか。
軽蔑するだろうか? 恐怖を感じるのだろうか?それとも……。
磨り減ったはずの心が、何故か痛みを感じた。
☆
巴が中将と話を済ませたあと、巴の表情が少しばかり翳っているように信濃は思えた。
「信濃内親王様」
巴がこう信濃を呼ぶときは大抵出かける前だ。
木枯らしが寒々しく吹いている上に、雲行きが怪しい。そのためか、巴の手には昔ながらの赤の和傘が握られている。
「のう、巴」
「?」
せっかくだとばかりに、巴の首にすっと掛ける……マフラー。
模様もない濃い緑一色のものだが、巴にはそれが物理的ではない別の意味での温かみを覚えるのだ。
「うむ。外は寒いからの」
「……感謝を」
ただ掛かっているだけのマフラーを巻く巴は、
「それでは行ってまいります」
これからただの買い物に行くぐらいに、無意識に笑みを浮かべて。
巴は信濃に挨拶をして信濃院を出る。
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最終更新:2009年01月03日 18:28