東北新幹線のトラブルの背景 その4
写真は、昭和26年4月25日、燃える国鉄の列車 桜木町駅手前50米
終戦直後の混乱期の一連の事故は、歴史の教科書の記述から抹消されている。
その中でも、朝鮮戦争の最中に起きた「桜木町事件」の惨劇は言語に絶するものだ。(写真参照)
この事件は、日本人の記憶からも忘れられている。教科書には勿論載っていない。余りに凄惨な事故だけに、「歴史」から抹殺したいのであろう。
昭和26年4月25日、毎日新聞は、一面トップで次のように報じた。
「24日、午後1時40分ころ国電京浜東北線赤羽初桜木町駅行き下り電車が、終点桜木町駅手前50メートル手前に差し掛かった際、架線が垂れ下がっていたため、5両連結の内最前部車輛のパンタグラフがこれにからみ、木製屋根に接触して発火、火は瞬時にして屋根から内部にまわり、前部1両は火だるまとなった。」
真昼間の横浜桜木町の高架線上で、国電が炎上し、106名が電車の中で焼死、92人が重傷を負った。想像していただきたい。テレビのない時代、真昼間の高架線上の満員電車の中で、200人近い乗客が、生きながらに焼殺された。目撃者によると、「瞬時」に火が電車の内部にまで回ったという。常識で考えても、いくら屋根が板葺であったとしても、ショートの火花で、屋根全体がアット言う間に火焔で包まれることが可能か? 何か油でも屋根に撒かれていたとしか考えられないのだ。火の回りが早過ぎる。事故当時の警察発表は、架線を支える絶縁碍子が破損していて、このため架線と碍子のボルトが接触、発火したとされる。「破損が工事人の故意か、過失かが調査されている」と毎日新聞の報道していた。
不幸にもこの焼けた電車の窓の構造は、窓からは逃げようのない、上に引き上げる三段ガラス窓で、しかも窓枠に桟がついている「モハ六三型」だった。非常ドアのコックは、当時は座席の下にあった。満員電車の阿鼻叫喚の大混乱の中で、一体誰が冷静にこのコックの存在を知って、これを開くことができただろうか? ドアが仮に開いても、高架線上だ。数メートル下に落下して、命を落とす可能性の方が大きい場所だった。これらのリスクの集中が、すべて「偶然」起きることだろうか?
この25日の毎日新聞の1面は、前日、4月24日に行われた市町村選挙で、「保守陣営」が大勝したことを報じている。 「決戦は6市、社会党は大阪、横浜市で破れ、名古屋市も保守陣営をぬくことができず、三大都市で敗北。」と。またその同じ紙面で、「共産軍の南進続く」との見出しで、連合軍総指令官リジュウェイ中将が「決戦」の決意、の記事が出ている。 時代こそ、昭和26年の「米軍占領下」、と平成23年の「大震災被災」の違いこそあれ、二つの事象を並べてみると、状況は似ている。
昭和27年、日本がサンフランシスコ条約を締結し、国際社会に復帰した翌28年、徳田は、中国で客死と伝えられた。徳田の出身は沖縄だが、役割が終わったという意味でも、それが「運命」だったのであろう。
中共の対日工作要領は、「工作者は、最終行動者ではなく、隠れた使嗾者、見えざる指揮者であらねばならない」としている。
新幹線事故と国鉄事故の酷似
平成23年4月25日
東日本大震災被災下、東北新幹線の
保護線垂れ下がり架線ショート・停電、
24日の統一地方選挙で、民主党敗北。
事故の2週間ほど前、この保護線の断線部分を修理していた。
昭和26年4月24日
朝鮮戦争下、桜木町での京浜東北線の
架線垂れ下がりショート車輛大炎上、
24日の地方選挙で、社党敗北。
架線の垂れ下がりは、修理箇所の碍子の破損があった。
偶々? それとも、歴史の繰り返し?
東北新幹線のトラブルの背景 その3
八高線事故現場(昭和22年2月25日、東飯能~高麗川間で起きた)
話は終戦直後に遡る。昭和20年10月、戦前解散させられていた日本共産党が合法化された。
昭和23年9月、「朝鮮民主主義人民共和国」ができた。
朝鮮半島の動きに呼応するように、日本では同じ9月、「全国学生連合会」が結成され、当時東大生だった日本共産党の上田耕一郎元副委員長、不破哲三前委員長の兄弟も参加していた。
「日本共産党の書記長徳田球一は、昭和24年1月の総選挙で35議席を得て躍進したことから、革命実現と大号令をかけた。
それが、末端党員のハネ上がりを生み、GHQの警戒を招いた。」
(俵孝太郎著、「敗戦・占領下の日本の歴史」 新紀元社)。
徳田球一は、昭和25年に朝鮮戦争の最中に、中国に逃れた。
共産党合法化直前、終戦直後の昭和20年8月24日八高線(八王子―高崎)で転覆事故(死者105名、負傷者67名)があった。
同じ八高線で、またしても昭和22年2月25日、転覆事故(死者184名、負傷者497名)があった。
共産主義者によるとみられる破壊活動が連続した。
いずれも国鉄職員の解雇問題が絡み、裁判で最高裁まで争われた。
しかし、結局いずれも、実行真犯人はよくわからないままに終わった事件だった。
昭和24年7月に、東京三鷹で「三鷹事件」(三鷹駅で無人電車が暴走し死者が出た)、
足立区綾瀬付近で「下山事件」(国鉄総裁下山貞則氏の死体が常磐線綾瀬駅付近で発見された)、
翌月8月には、福島県松川町で「松川事件」(枕木のボルトが抜かれて列車が転覆、運転士3人が死亡)が連続して起こった。
三鷹事件の「鷹」の字は、未だに「常用漢字」ではない。「三鷹市」の市名をはじめ「鷹揚」、「上杉鷹山」、「鳶が鷹を生む」など人口に膾炙した名句・名君で使用される漢字だ。なぜ「常用漢字」ではないのか?
「三鷹事件」への連想を断ち切ろうとする、悪質な左翼の妨害行為が、65年後の今日なお、文部科学省と国語審議会の中に影響力を働かせているとしか考えられないのだ。
(つづく)
東北新幹線のトラブルの背景 その2
写真は、昭和26年4月25日、燃える国鉄の列車 桜木町駅手前50米
国鉄には、民営化に至る戦後30年の間に、人員整理をめぐり、労働組合に潜む破壊勢力が介在していたと見られる鉄道事故が繰り返された「歴史」があった。
「社会不安を高める」ことは、中国共産党が、日本の工作員に指令しているところだ。
国鉄の終戦直後の一連の大事故は、歴史教科書には書かれていない。
書かれた歴史が消されれば、人々の記憶から失われ、「歴史」はなかったことになる。この一連の事故は、今や年金受給者になる団塊世代がまだ幼児期の出来事だった。学校では教えてもらっていないので、そういう事実があったことすら、知らない人が大多数なのだ。
実に、127百万人の日本国民の90%の一億人がそういう「歴史」を知らない時代になってしまった。
日教組は労働組合「連合」の傘下にある。
GHQの勧めで発足した教職員組合は、昭和22年6月には、全国組織化された。
その年の4月から、6.3.3.の新学制が実施されていた。この時代は、左翼の政治思想の濃かったGHQ民政局や、社会党の影響力が特に強かった。その時代の影響下で、昭和24年1月に「教育公務員特例法」が制定された。
学校教員が政治的活動しても「罰則を受けない」という邪悪な法で、今日なお生きている。
この法によって、今日まで、平然と左翼思想教育が子供に施されてきた。
この法律が実施された昭和24年1月の総選挙では、法案を推進した社会党が敗北して、日本共産党が35議席を獲得して躍進した。
日本共産党をリードする書記長徳田球一は、共産主義の革命意識を高揚させた。
共産党の志賀義男は「学校教育で時間をかけて共産革命を起こせると言っていた。」(屋山太郎「日本の教育 ここが問題だ」海竜社)
左傾化した日教組の支配する学校教育の中で、国鉄の「鉄道事故」は消された。
民族の宝である書籍の「焚書」は、その民族に対する最悪の冒涜行為である。大東亜戦争後、マッカーサーの占領軍は、戦前の日本民族の主張や思想を記した書籍を8000冊近くも焚書したことが近年に明らかになった。
「焚書」があったことすら、伏せられていて、殆どの日本国民は知らなかった。
これらの鉄道事故を伝える書籍で、図書館に僅かに残されたものであっても、意図的になれば、左翼偏向思想をもった館員が秘かに処分してしまう危険もある。事件を扱った書籍が図書館で処分される。そのようなことが起きれば、鉄道事故の「歴史」は、完全に日本人の記憶からなくなってしまう。
今、左翼民主党政権の鳩山前首相が提案者になり、「国会図書館恒久平和調査局」を設置する法案が用意されている。国会図書館長に、平和や戦争に関する図書の調査や、日本軍を糾弾する情報収集権を全国の知事に付与するものだ。
「歴史」抹殺法案とみなさざるを得ない。
左翼民主党の政策は、元社会党の左翼共産主義者が牛耳っている。
今、日本国解体を目指す法案や条約、声明などが、大震災を隠れ蓑に、つぎつぎと国会に提出されている。
菅首相が「石にかじりついて」「一人になっても」と嘯いている間に、「マニフェスト」には掲げられていない民主党内部の政策集「インデックッス2009」が、日本国民が、東北新幹線開通を喜んでいる間に、国会に提出されている。
産経新聞は、4月29日、「地域主権改革3法案」「日韓図書協定」が衆院を通過したことを伝えている。
(つづく)
東北新幹線のトラブルの背景 その1
写真は、昭和24年7月三鷹駅構内での列車暴走事故現場
4月29日、東北新幹線が東日本震災後の全線で再開通した。
目玉の「はやぶさ」も走った。宇宙の果ての惑星「イトカワ」との間60億キロを往復した惑星探査衛星と同名の超特急「新幹線」の快走。沿線至るところ歓喜の声。まるで凱旋将軍を迎えるようだ。それほどに、東北の人々によって待ち望まれた新幹線の再開通だったのだ。
このように待望された東北新幹線が、地震で運行停止に追い込まれ、全線再開通するまでの間、不安と焦燥、ストレスの溜まる日々を過ごした人も多かったはずだ。
そういう新幹線の開通の裏で、何か隠されたドラマはなかったのか、「歴史上」の出来事との連関はないのか、現象面からの対比を試みた。
3月5日、東北新幹線の営業運転開始日に遅延
一番列車が東京駅を発車する際、男が線路に落ちて出発が7分遅れた。終着駅の新青森に近づいたら、今度は子供がトイレで非常ブレーキを懸けて緊急停止。
4月25日、大震災後の営業運転再開日に緊急停止。
「東日本大震災」の復旧工事が終わり、営業運転が再開された福島県内で、保護線が弛んで架線と接触ショートして停電、最大3時間半遅れた。
共に、東北新幹線の慶事日に起きたトラブルだ。
子供の悪戯とか、物見客で混雑したホームから男が線路に落ちた、いかにも偶然の出来事のように見える。 マスコミは勿論、子供の悪戯や落ちた大人の事故扱いだ。が、視角を変えてみれば、待望されていた新幹線の立ち会いに、
「待った」、をかける悪意の作為はなかったのか、という疑問もある。
人の考えることは、時代が変わっても変わらないものだ。歴史は繰り返す。労使の関係は、時代が変わっても基本的に変わらない。一方は攻め、一方は守る。テーマによって、攻守、所を変える。
労働組合にあっては、「経営に対して実力を示す」ことは、常日頃、怠りがあってはならない。さうでなければ、「慣れ合い」関係は維持できない。
表の労使協調、裏の労使緊張の関係だ。
労組の協力なくして、会社の運営は円滑にできない。鉄道は国民の大切な足。その足を混乱させることは、経営に対する労働組合の力の誇示だ。JRがまだ「国鉄」だった昭和40年代、国鉄や鉄道会社の労組のストライキがよくあった。賃上げ交渉とストは、春の恒例行事だった。
昭和48年の3月のストでは、首都圏に通うサラリーマンは2日も3日も、通勤の足を奪われ、会社やホテルなどに泊まり込んだり、ストをしない私鉄を乗り継いだり、自転車、或いは自動車に分乗して、散々苦労して勤務先に通った。
皆、国鉄と私鉄のストライキの前に忍耐した。
しかし、私鉄の一斉ストは、この年を最後になくなった。
昭和48年10月にオイル・ショックがあった。時代が変った。このオイル・ショック後の翌年、サラリーマンの賃金は、原油の値上がりを織り込んだ物価の高騰を反映し、平均的に3割も嵩上げされた。さらに、その後は、設備合理化による生産性の向上から、日本経済は発展し、労働条件が向上する変化があった。
春闘と鉄道ストの風物誌は終わった。
ところが、国鉄は別だった。国鉄には「動労」という、左翼が支配する強硬な労働組織があった。
国鉄は、国営である。よって、法律上は「ストライキ」は認められていない。そのストライキ権獲得を目指して、ストライキ権獲得のストライキ、いわゆる「スト権スト」が、昭和50年11月実施された。しかし、時代は既に変わっていた。国民の理解を得られず、国鉄ストは結局、1週間で労働組合の敗北で終焉した。
この10年後、昭和62年(1987年)に国鉄は、「JR」に3分割され、民営化された。民営化されたJRでは、賃上げ要求のストはなくなった。
しかし、ストに代わり、技術上のトラブルという訳の分からない運行停止は、今でもしばしば発生している。
発生場所はわかっても、その発生原因は不明とされるコンピューターのシステム障害だ。終日、首都圏の電車が動かない日もある。
ストはなくても、「システム障害」があれば、簡単に列車の運行停止はできるのだ。
新幹線も、自然災害、ハプニング事故、あるいは、システム障害で止まる。
中国共産党の対日工作員の工作戦術は、「工作者は、最終行動者ではなく、隠れた使嗾者、見えざる指揮者であらねばならない」としている。
(つづく)
最終更新:2011年05月15日 10:24