大連残留二十五万人同胞を救った日本人の記録(上)-01
【はじめに 終戦当時の関東州の赤化状況】
当時の混乱の中の異常な事態、大陸に攻め込んだソ連軍と、その背後にあるソ連という国を知って貰わない限り、関東州における在留邦人の悲劇と、一日も早く邦人を帰国させようとした門脇氏の奔走を理解し難いため、敢えて遠回わりの道を選んだつもりである。
(注記 ソ連軍の日本軍や民間人への弾圧、強制連行、シベリア送り等が『さらば大連』の前半部分に登場するが、この部分は割愛する。日本の赤化について、重要な記述があるのでその一部を紹介しておきたい。(中略)
さて関東州と同じように日本人赤化の中心になったのは日本新聞であり、編集の中心人物は総てニセ転向者であった。この新聞は終戦直後の昭和二十年九月十五日発刊。昭和二十四年十一月七日第六五〇号で終刊となった。
ソ連側の編集責任者は、前述した元タス通信社日本特派員で在日八年の日本通として有名な、大場三平のペンネームを持つコバレンコフ中佐であった。
日本人の責任者は浅原某。作家ズラして諸戸文夫のペンネームを使用していたのは笑止。記者には日本共産党の動向、日本経済事情などの論説を書いた相川某。彼のテキストは、もちろん一週間ないし十日遅れの「アカハタ」であるからして、内容の偏向は避けられない。天皇制打倒のスローガンをかかげるのに反対し、プチブルとして非難され、のち帰国した小針某、宗像某、袴田陸奥夫、高山某、吉良某、井上某等のニセ転向者。このほか印刷、植字、文選工を加え、七十名の日本人従業員が居た。
はじめ日本新聞のソ連編集人によって利用されたのは宗像である。ソ連の意図は日本新聞友の会運動を提唱、推進させる事であった。この意図は入ソ後一年を過ぎて、反軍、反帝運動が各収容所で盛んになってきた昭和二十一年末には実を結ぼうとしていた。そのころになって、関東軍の将校であった宗像では、指導者として都合が悪いと判断された。
そこで当時、ハバロフスク地方で「民主主義擁護連盟」
と称するグループを主宰していた浅原が宗像に代って登場する事になった。彼はニセ転向者であり、階級は上等兵。
コバレンコフの手足となって反軍、反帝闘争、ナホトカで民主グループを指導し、ソ連および共産主義者団にとって好ましくない日本人捕虜は「反動」の名のもとに、その帰国を差し止め、刑を課し、一方各収容所を検閲して会議の指導や講義を行い、遂に「シベリヤ天皇」と呼ばれる独裁者の地位にのし上がった。口に人民の平等を叫ぶ彼が「天皇」と呼ばれる権力者になったのは、凄い矛盾である。
(注記―ソ連(コミンテルン)は、日本の撹乱工作を行ったが、当時、このソ連を礼賛した日本の学者、芸術家、政治家は数多く存在した。その末裔が今でもマスコミ界・芸能界・大学等に棲息している。)
続く
最終更新:2010年06月13日 23:25