朝日新聞の左傾事情
朝日の左傾化を決めたのは田中慎次郎と森恭三である。田中はコミンテルンのスパイ
であった尾崎秀実と同期で、彼の下に集まる情報は全て尾崎に伝えられた可能性が高い。
尾崎は近衛首相に接近し、コミンテルンの意向を受けて、日本の南進論を展開した。
尾崎の情報でソ連はアジア方面の赤軍を対独戦線に回せたことがソ連の勝利につながった
のだ。森恭三は「国民と共に立たん」と言ったが、これは階級闘争主義の言い換えであった。
彼は中国の文化大革命を礼賛したが、文革の実態は非情な権力闘争でしかなかった。
戦後、広岡社長訪中して、すっかり中国にほれ込む。以来、他社が
中国支局撤収後も北京に残った朝日だけが林彪の失脚を記事にせず、
北朝鮮は地上の楽園と宣伝した建前、北に到着した直後から
行方不明になる帰国者が多数発生していることを知りながら報道を隠す。
自民党の加藤紘一、河野洋平、宮沢喜一らは、完全に社会主義者。
広岡社長の5期10年、更には長かった彼の役員時代の影響力が朝日を歪めた。
広岡の意を迎えるために、歴代の社長も共産諸国に甘かった。例えば、北朝鮮を
「この世の天国」等と報道し、金日成と会談しても日本からの帰国者の安否や、
拉致について問い糾すことはなかった。
広岡体制の朝日で出世するには、
左翼であることと
組合活動家であること
が条件であった。
ある部長は、美濃部が都知事に当選すると、思わず「万歳」を叫んだ。
※青山昌史(元朝日新聞社常務)の講演(H18年9月16日、靖国神社)の要約です。
1.略歴:海軍兵学校78期、東大卒、昭和24年朝日新聞入社、西部本社を
振り出しに主として政治部勤務。東京本社政治部長を経て、
常務取締役。現在退任してジャーナリスト、清談会会長。
2.青山昌史のスタンス:国家存立の基盤は安全保障にある。日本は戦後一貫して
日米安保に基づく同盟は、自立・自存に次ぐセカンドベスト。
東アジア諸国は国益追求の外交に偏している。
最終更新:2010年06月14日 00:10