暮れなずむ空の下、涼やかな風が建ち並ぶ学び舎のあいだをとおり抜けていた。
湾上に浮かぶ島という立地のおかげで、黄昏時の双葉学園はすごし良い。定食タイムを外れ
た学食はちょっとしたカフェスペースになっており、文科系の部活動が会合を開いていたり、
友人どうしで宿題を片づけている姿などが見られた。
そんな中、皆槻《みなつき》直《なお》は馴れない場所で馴れない人物と差し向かいになっ
ていた。いや、正確には、ランチは学食ですますことが多いし、目の前にいるのは高等部担当
の教師であって、その授業には直も日常的に出席しているのだが。
おごりだというので遠慮なくフルーツパフェを食べながら――意外とおいしいのは思わぬ発
見だった――直は相手の様子をうかがっていたが、これがまるで読み取れない。鉄のポーカー
フェイスを保つ異能なのかと思ってしまうほどだった。
しかし用事がなければわざわざこんなところに呼び出されはしないはずだ。このところはと
くに問題を起こした憶えもないし、そういう場合はわざわざ「個人的な用件」と前置きされる
ことはない。強いての予定はなかったから素直に指定の場所へやってきていたが、直は決して
ヒマを持て余している身分ではなかった。手すきの時間にすませてしまいたいことはいくらで
もある。
切り出す口調がやや堅苦しくなってしまうのは、致し方あるまい。
「春出仁《はるでに》先生、私におりいって頼みとは、いったいなんでしょうか?」
それに対し、高等部二年の物理・数学担当である春出仁是暖《ぜのん》は、つね変わらずの
無表情のままで、こういった。
「いや、いざ向かい合ってみると本当に大きいな、皆槻くんは」
「先生、私は自分で気にしていないほうだと思っていますが、大女に向けて『大女だ』と、は
っきりいわれるのは、一般論としてはよろしくないと存じます」
「……ああ、そうだな。すまない、以後慎むよ。じつをいうとね、ある生徒と立ち会ってもら
いたいのだよ」
「生徒どうしで、実戦形式で仕合え……と?」
思わぬ用件に、直は慎重さを隠せない態度になったが、春出仁は黙ってうなずく。どういう
ことかと、直は思考を巡らせた。
実際のところ、彼女にこの手の話を持ちかけてくる人間というのは枚挙にいとまがない。皆
槻直といえば、泣く子も黙る歴戦の「バトルジャンキー」にして「ワールウィンド」であって、
醒徒会役員をのぞけば双葉島内でもっとも知られている異能者のひとりだろう。たぶん五本の
指には入っているはずだ。当然、名が売れることには副作用があるもので、向こう見ずなヤン
チャ坊主が「決闘」を申し込んでくることはめずらしくない。直が戦闘訓練のカリキュラムに
参加すると噂が立てば、公式の場でワールウィンドに挑もうと出席希望者が殺到する。
彼女が怪物《ラルヴア》討伐にすすんで臨む理由は、まずなによりも己が戦いをもとめてい
るからだが、実戦での成果を示すことで「ごっこ遊び」への出席を免除してもらうため、とい
うもうひとつの側面が、いつのころからか成り立ってしまっていた。いちいちつきあってはい
られないほどの対戦志望者がやってくるのだ。
しかし困ったことに、挑戦者を呼び込む原因は直にもある、という理屈が、成立しないでは
なかった。直は対人戦そのものを固く忌避しているわけではないからだ。現にミッションで、
あるいは襲撃してきた相手を返り討ちにすることで、いくどかは人間の異能者相手にもその拳
の威力を振るっていた。力試しとは異なる理由だったが、コンビの相方である結城《ゆうき》
宮子《みやこ》とも立ち会ったことがある。
とはいえ、よもや教師のほうからこんな話を持ちかけられられようとは、まさに想定外、青
天の霹靂であった。
直の沈黙をどう解釈したのか、春出仁はいわずもがなであることをつけ加えた。
「もちろんきみには拒否権がある、皆槻くん。今回のことはほぼ完全に私事だ。教師が私闘の
真似事をセッティングするなど、本来正気の沙汰ではない。ましてここは尋常な学園ではない
のだしね。いや、だからこそこういうやり方しかないのだが――言訳にしかならないな、止そ
う。まあ、一度はやったことだから、私のほうはもはや皿まで食うしかないのだがね」
「一度は……やった?」
信じられない、と表情全体で語る直に対し、春出仁は反省しているとも悪びれていないとも
取れるうなずきを返した。
「うむ。最適の教官役をつけたつもりだったし、ほぼ私の思惑どおりの結果にもなった。しか
し物事というのは、会心の結果を出しても解決するとは限らない。要するに私の見込みが甘か
ったのであって、それはいくら反省してもし足りないのだが、後悔している場合ではなくてね。
なにせひとりの未来ある若者の人生がかかっている」
「一度うまくいかなかったことを繰り返して、成算があるのですか?」
直の質問は容赦がなかった。春出仁はどうやら苦笑であるらしい表情を浮かべて、応じる。
「その疑問はもっともだ。だが私の見たところでは『もうひと押し』でね。彼はきっとまっす
ぐに伸びる。そうならなかった場合、ちがう手を打たねばならない。曲がることを許されない
ほどの力を持ってしまった……それが彼の不幸のはじまりでもある」
「春出仁先生ってかなり詩的なセンスをお持ちだったんですね。文学の講座を持ったほうが人
気が出るんじゃないですか?」
「思わせぶりなだけともいうね。わかっているんだ、以前にも指摘された。気を遣っているの
だがなかなか直らない。教師にあるまじき不正直な態度だと自分で思うよ、情けないことだ」
なるほど、韜晦しているな、と、直は皮肉とはやや離れた感想を抱いた。春出仁は自身の異
能の性格上、外部組織を含めた、さまざまな能力者と折衝したり、評価を下す立場にあると聞
いたことがある。ひと筋縄ではいかない連中と長年つきあってきたことで染みついた態度なの
だろう。
「受ける受けないはまだはっきりいえませんが、もうすこしくわしい話を聞かせてもらえませ
んか? それとも、聞いたら抜け出せなくなるような機密に関わることでしょうか」
まだ慎重さは抜けきっていなかったが、直の態度は前向きになっていた。春出仁の無表情は
相変わらずだったが、声には安堵の響きがあった。
「いやいや、それほど重大な話なら、こんなオープンなところに呼び出したりはしないよ」
「では、端折れるところは端折って、手短にお願いします」
ちゃっかりと二杯目のパフェを頼んでから、直は春出仁を促した。いまになって、どうして
外の喫茶店ではなく、カフェタイムの学食に呼び出されたのか、その理由に思いいたっていた。
学園生たちは、直が学園執行部や醒徒会からトラブルシューティングの依頼を持ちかけられる
場合のあることも、春出仁がときに厄介ごとを運んでくる食えない人物であることも熟知して
いる。しかし双葉区民の皆が皆、学園内の事情に細かく通じているわけではない。学園外の茶
店で長話をしていたら「教師と生徒が密会している」などと、変な噂にならないとはいいきれ
ないだろう。
学食は単なるメシ屋ではない、という発見をできたことで、直は春出仁に礼をしてもよい気
分になっていた。よほどややこしいことでない限り、この話は引き受けてもかまわない。
春出仁は過不足なく説明する準備を整えてきているだろうが、それでも長話は避けられまい、
という直の予想は、当たることになる。
「彼は中等部の――」