頭上から降り注ぐ陽光は強く、今日の双葉区の最高気温は三十度を超えると予想されていた。
宗一郎が凍結させた池の周囲は鳥肌が立つほどの冷気に包まれていたが、それでも氷の表面は
溶けはじめていた。足下の滑りやすさに拍車がかかる。
棒を構え、〈蛟〉で直を牽制しながら、宗一郎はじりじりと左へ横歩きしていった。圧縮空
気の放出で冷気の浸食を防ぎながら、直も宗一郎に合わせて、平行に動く。
直の足取りには隙がなく、ワールウィンドの生み出す守りも一切崩れる気配はない。宗一郎
の額に浮かんだ玉の汗が、眉を乗り越えて、右目に流れ込んだ。宗一郎はたまらず片目を強く
瞑り、集中を失った〈蛟〉が薄らぐ。
直がそれを見逃すはずはなく、すかさず大ジャンプ、宗一郎の頭上を取った。宗一郎は視線
で直を追うことはせず、むしろ下を向いて脱兎のごとく駆け出した。見あげれば、太陽で目が
眩む。凍った水面に落ちる直の影を見ながら、走る。直は圧縮空気を放出しながら着地位置を
調整し、宗一郎を追った。
汗が目に入ったのは不可抗力だったが、それを奇貨に、宗一郎は勝負に出ることにした。は
たして足が届くかどうか。失敗すれば、直に背中をどつかれて、カエルのように無様に氷上へ
突っ伏すことになる。
走りながら宗一郎はカーボンファイバー製の長棒を放り出し、ベルトのホルダーからエアピ
ストルを抜いた。身を投げ出しながら、下へ向け発射。小型のアンカーボルトが撃ち出され、
氷面に突き刺さる。少量だが填《つ》めてあった炸薬が爆発し、氷に大きなヒビが入った。宗
一郎は、池の全面をくまなく分厚い氷で覆ったわけではなかったのだ。労力の節約とトラップ
をかねて、池の周辺部は薄く凍らせるのみにとどめていたのである。最初に水撃銃で直を誘導
したのも、しっかりと氷を張っているグラウンド方面から池に侵入してきてもらうためだった。
ほかの方面からこられたら、氷が薄い部分のほうが多いことに気づかれてしまう。
落下してきた直は、身を投げ打った宗一郎の背を捉え損ない、氷のヒビを蹴り抜いて水中に
没した。
即座に起きあがって、宗一郎は氷の穴へ視線を走らせた。本人に直接は効かなくとも、周囲
の水を凍らせて氷漬けにしてしまえば、さしものワールウィンドもなすところがないだろう。
しかし、水面近辺に直の姿はなかった。落下以上の勢いで、水中に、氷の下へと潜っていって
しまったらしい。
瞬間、宗一郎は己の詰めの甘さを悟った。ブレーキをかけようと思えばかけられたにもかか
わらず、直はむしろアクセル全開でヒビの入った部分へ突っ込んでいたのだ。
氷結した池の上というこの環境で、最大の遮蔽物といえば、凍った水面そのもの。視覚は一
般人と同様のものしかもっていない宗一郎が、陽光で表面が鏡のようにきらめいている氷を透
過してその下へ異能の作用をおよばせることは難しい。彼の異能はことにコントロールがシビ
アなのだ。
「そういうことですか、先輩……!」
水底に辿りついた直は、両手から一挙に圧縮空気を噴射。水面へ向けて、猛烈な勢いで飛び
あがった。こちらは、対手の正確な位置を視線で捉えている必要はない。大まかな影さえ見え
ていればいいのだ。宗一郎は身を翻したが、ロケットのように上昇してくる直と比べると、そ
の動きはあまりに緩慢だった。
蹴り砕かれた氷の破片とともに、宗一郎の身体も宙を舞った。
氷上へ躍りあがった直は、さらにワールウィンドの力で方向転換し、スライディングしなが
ら、降ってきた宗一郎が氷に激突する前にすくいあげていた。アイスダンスのペア演技である
かのように、直は宗一郎を抱えて滑走する。天地不明の前後不覚になっていた宗一郎だが、上
下感覚が回復し、自分が完全に捕獲されていることを知った。
「まいりました。完敗です」
空を見あげたまま、清々しいまでの表情で宗一郎は降伏した。そこで、自分が皆槻先輩の膝
の上に寝ていることに気づいてあわてて起きあがる。さらに、濡れた髪が頬に絡みつき、服も
すっかり水がとおって身体に張りついてしまっている彼女の姿に、正座をして背中を向けた。
「す、すみません……」
「いや、この陽気だし、こんな季節に寒中水泳とか、なかなか貴重な体験ができたよ。まあ、
この池の上はちょっと寒いけどね」
自身のあられもない姿に気づいていないのか、はたまた気にしていないのか、直はいくぶん
ズレた応えを返してから立ちあがった。
インカムを通じて、春出仁の声が聞こえてくる。
『ふたりとも、おつかれさま。近来まれに見る好仕合だったよ。秋津くんは、備品をきちんと
当該部局まで返却すること。皆槻くんは、シャワーを浴びて着替えてから撤収してくれたまえ。
風邪をひいては大変だし、そのままの恰好でキャンパスに戻られたら、私が
風紀委員から吊る
しあげられてしまう』
「ミヤが――結城宮子が私の荷物を持っているはずです。着替えまで準備しているかはわかり
ませんが」
そういった直へ、
『結城くんなら、いまさっき待機所を飛び出していったよ』
と、春出仁は含み笑いを返した。顔が見えないときの春出仁の声は、実に表情豊かに聞こえ
る。直は怪訝そうな表情になった。
「どうして笑っているのですか、先生?」
『いや、よいパートナーだなとうらやんでいるだけさ』
会話をはたから聞いていた宗一郎は、春出仁が「世話女房」といいかけていたことに気づい
ていた。
それは自分の錯覚だということにして、これからの課題のひとつを口にする。
「皆槻先輩のようなエースになるには、僕も頼りになるパートナーなりチームメイトを見つけ
ないといけないようですね」
『候補は何人か見繕ってあるが――とにかく、まずはクラスへ戻ることだ』
「週明けから出席します。いろいろとお世話をかけました、春出仁先生」
観測カメラを目敏く見つけ、そちらへ深々と一礼した宗一郎の貌は、すべてのわだかまりの
解けた晴れやかなものになっていた。