アットウィキロゴ

117話 天上にて

羽音に気付き空を見上げる者がいれば、彼はそこに神の使いの姿を見ただろう。
縫い目の一つもない衣を纏い、背に翼を持つ、美しく穢れのない乙女に似た姿の天使――力天使ヴァーチャー。
その飛翔を見る者があれば、優雅さに感嘆の溜息を洩らしただろう。
しかし街には人の気配はなく、音もなく、空を行く天使に気付く者は誰もなかった。
それは、天使にとっては都合の良いことだった。
主の召集に応えるため急いでいたし、余計な相手に出会って悶着を起こしたくはない。
この周辺の偵察という任務は既に果たした。長居の必要はない。
結局、この夢崎区で出会ったのは男が一人と、死んだ女が一人。
他の人間達はこの近辺にはいないのか、どこかに身を潜めているのか。
いずれにしても、天使には興味のないことだった――はずだ。
天使の務めは主の命を忠実に遂行すること。彼らはただ大いなる意思の代行者であれば良い。
取るに足りない人間に個人的な興味や思い入れを持つことなど有り得ないし、許されはしないのだ。
しかし今、天使はこの街にいるはずの人間達に少なからぬ関心を抱きつつあった。
己の力では太刀打ちできない絶対的な強者により、殺し合いを強制された彼ら。
生き延びる道はただ一つ、自分以外の全てを殺し、勝者となることだ。
即ち出会う者は全て敵、他者を利する行為は自らの首を絞めることに他ならない。
(にも関わらず、あの人間は警告を発した)
取引をしよう、と言った男。
死者の魂と肉体とを弄ぶ者がこの街に存在するならば、死体を燃やすことは確かに彼自身の利になるだろう。
しかし、それが『取引』である必要はあったか?
彼には天使に銃口を突き付け、命が惜しくば魔力を行使するように強いるという選択肢もあったはずだ。
無論、そんな脅迫に屈する気は、天使にはない。
とはいえ人間にそれが見越せたか。見越していたとして、『取引』だけで終わらせる必要はあったか。
天使が何者かの命を受けて動いているということに、あの人間は気付いた。天使も否定しなかった。
何者か、とは即ち彼にとっては敵であるはずだ。
自分以外のあらゆる人間は、この死の遊戯の舞台上では生命を脅かす危険因子なのだ。
それを考えれば、あの人間にとって最良の選択は一つ。
何食わぬ顔で『取引』を終えてから、背を向けた天使を後ろから撃てばいい。極めて合理的な結論だ。
――にも関わらず、彼はそうしなかった。

もう少しで、夢崎区と蓮華台の境。天使はふと振り向いて、静かな街を見下ろした。
動くものはない。生命の息吹も相変わらず感じられない。
人間達は既に皆、この区域を去ったのか。死に絶えてしまったのか。どこかで身を休めているのか。
それを考えるのは己の役目ではないし、己に許されたことでもないと知りつつ、天使は小さく息を洩らした。

「どうしたんだい? 溜息なんか吐いちまって」
突然の声に、天使ははっとして振り返る。
そこに見たのは、黒い翼を持つ男。端正な顔に酷薄な笑みを浮かべ、見定めようとする目で天使を見ている。
その漆黒の翼を除けば姿は禍々しくもなく、巨躯でもない。
しかし天使は気圧された。その男の存在感に。その全身から立ち上る巨大な気に。
間違いなく高位の――魔王クラスの悪魔だ。天使は本能でそれを悟る。
「そう身構えないでくれよ。話をしようって言ってるんだぜ」
「……その必要を感じません」
悪魔の誘いに乗る義理などない。天使が発したのは、拒絶の言葉だった。
この街には多くの悪魔が放たれている。しかし、彼らが行き来を許されている場所はごく僅か。
悪魔の領分と決められた場所から外に出るには、訪れた人間と契約を交わすしかない。
今、目の前のこの悪魔は街の上空を自由に飛び回っている。それが意味するところは一つ。
この悪魔は人間と契約している。そして、人間とは即ち、天使にとっては主と敵対する存在だ。
「つまり、お前の飼い主は味方を作らない主義って訳か」
黒翼の悪魔は楽しげに口許を歪めた。この状況を楽しんでいる、好戦的な悪魔だ。
汚らわしい。天使は眉を顰める。
「主に呼ばれています。貴方と話す時間はありません」
このような者とは関わらないに限る。そのまま通り過ぎようと、天使は翼に風を集めた。
――その行く手を塞ぐように、悪魔も翼を開く。
「潔癖なこった。これだから天使様ってのは」
「……っ」
思わず、天使は身を竦める。飄々とした口調こそ崩していないが、悪魔が一瞬見せた眼差しには確かに殺気があった。
彼我の力の差は歴然。この悪魔がその気になれば、ヴァーチャーなどひとたまりもない。
天使にも恐怖の感情はある。それに従い使命を忘れることが許されていないだけだ。
一瞬逃げ出したい欲求に駆られるが、翼を持つ者同士、どこに逃げようと無駄なことだった。
「いいかい。俺は人を探してる」
有無を言わせない口調だった。対話を拒めばどうなるか、悪魔の冷たい目が語っている。
「他の連中には手を出さずに探せって言われてるんだけどな。
空から偵察できるご同輩から話が聞けたら有意義だと思ってね。……それに、そろそろ退屈してきた所だ」
悪魔になら、手を出しても主の意向に背くことにはならないだろう――言外にそう告げているのだ。
応じるしかなかった。天使には、己の主に見聞きしたことを伝える義務がある。
ここで逆らって命を無駄にしては、その使命を果たすこともできない。
「……尋ね人、ですか」
「いいぜ、その態度。素直になってくれて何よりだ」
悪魔が揶揄するような笑みを浮かべた。位の高い魔王にしてみれば、中級の天使など玩具も同然だろう。
絶対的な優位性を示し、言葉で辱めることを楽しんでいるのだ。
虫唾が走る。しかし、反抗する術は天使にはなかった。
「……探している相手は」
ごく短く、それだけを問う。早くこの忌むべき悪魔の手から解放されたい一心で。
「女だ。学生服を着てて、長い黒髪。随分といい女らしいぜ」
「見ていませんね」
天使が見た人間はただの二人――主を人間に数えるならば三人。学生服を着ている者はいなかった。
嘘を教えて疑われるようなこともしたくない。それに、欺くという行為は天使の嫌うところでもあった。
「本当に?」
悪魔が問いを重ねる。天使は辟易した。
自分達天使は、魔王のような闇の勢力に属する悪魔どもとは違う。誠実さも、誇りもあるのだ。
「欺くことが必要だとも考えていません」
「本当かい? お前のご主人様にとっちゃ、誰もが敵みたいだけどな」
にやにやと笑いながら、黒翼の悪魔は言った。
確かに、違いない。天使の今の主は、この地に集められた人間の全てを狩り尽くそうとしている。
全ては新しき世界の理の、そしてその主宰には彼女こそが相応しいことを示すため。
天使を唯一なる創り主のしもべから、かつては人間であった一人の被造物のしもべに変えるのに充分な理想。
それを隠したり、取り繕ったりする必要のあるものだとは天使は思っていない。
しかし、それが受け入れられ難いものであることもまた確かだ。敵視を招くことは言うまでもない。
この疑い深い悪魔を、どうすれば納得させられるか。
いつまでも足止めされていたくはない。天使は考えを巡らせる。
「……でしたら何故、私に問おうと思ったのです」
「聞かないよりはマシってもんだ。何か教えてもらえたら儲け物だろ?」
まともな返答を期待したのが間違いだった。天使は溜息を吐く。
「期待していなかったのでしたら、先を急がせて頂きたいものですね」
「嫌だね」
悪魔のその返答に、天使ははっと息を呑む。
不気味なほど冷たい、酷薄な、邪悪さに満ちた声だった。
悪魔の顔からは笑みが消えない。一種無邪気な、新しい玩具を前にした子供にも似た、心底楽しげな笑み。
天使は初めて気付く。期待しないと言いながら、悪魔が天使を立ち去らせなかった意図に。
否が応にもそれを悟ってしまうほど――嗜虐心を剥き出しにして、悪魔は笑っていた。
「退屈だって言ったろ。もう少し付き合っていけよ」
悪魔が、天使との距離を縮めた。
逃げられない。この場の状況は、この力ある悪魔が望むようにしか動かないのだ。
天使という種族は、上位者から与えられる状況に対して従順だ。抗っても無駄だと理解するのは早かった。
この悪魔の気が済むまで、機嫌を損ねないよう言いなりになっていればいい。
召集に遅れれば主は咎めるかも知れない。罰として命を取られることも有り得た。
しかし偵察と報告という使命を果たしてから死ぬのであれば、天使はそれでも良かった。
この身を巡る生命力が、主の糧となるならば。
新たなる創世の主の一部となるならば、それは天使にとって大いなる喜びなのだ。
避けねばならないのは、ここで無為に殺されること。
この局面を生き延びるためには傷付けられることも、誇りを踏み躙られることも覚悟しなくてはならない。
「……何が、望みです」
諦めの表情をした天使を見、悪魔はつまらなそうな顔をした。
「人間と交渉するんじゃないんだ。悪魔同士、仲良くやろうじゃないか」
「互いの望むことを知らなくては、信頼関係は築けません」
「それもそうか。――よし」
ふと何かを思い付いたように、悪魔の目が悪戯っぽく輝く。
どうせ碌でもないことを考えているに決まっている。それが多少でもましなものであることを天使は祈った。
「さっきも言ったように、俺は人探しの途中でな。そこでだ……隠し事は止めにしないか?」
「隠し……事?」
「本当は知っているのに、隠してるんじゃないかってことだ」
何を馬鹿なことを、と天使は思う。まだそんな疑いを持っているのか。

――しかしその感想が誤りだったことを、天使は一瞬後に理解した。
視線を俯かせ、再び顔を上げた一瞬の間に、悪魔は触れ合える距離まで天使に近付いていた。
咄嗟に飛び退こうとしたが、それより早く乱暴に胸倉を掴まれる。
悪魔が、嬉しそうににぃっと笑った。
「本当に知らないのかどうか、じっくり聞き出してやるよ」

悪魔の長い、爪を鋭く伸ばした指が天使の頬に添えられる。
恐怖と嫌悪感に、天使は身震いした。その反応をも楽しむように、悪魔は更に口の端を歪める。
「なあ、神様の犬は廃業したのかい? 天使が殺し合いに乗るような奴に尻尾を振るとは思わなかったぜ」
「天使は……正しき理に仕えるのです」
「正しき、ねぇ?」
悪魔の指が、天使の肌の上を滑った。鋭利な爪が頬を傷付ける。
血に塗れた爪を見せ付けるようにぺろりと舐めて、悪魔は天使の耳元に唇を寄せた。
「で、だ。その正しいご主人様に恥じないように、何か隠してるなら早めに話してもらおうか」
囁くような声。口調は優しげだが、有無を言わせぬ響きを持っている。
「隠して、など……いません……」
天使の声は屈辱と恐怖に震え、弱々しい吐息が混じる。
この悪魔は天使から何かを聞き出せることなど期待してはいないのだ。
ただ、嬲り者にする口実として主人の命令を使っているに過ぎない。
「慈悲深い天使様としちゃ、俺がその女を見付けたらどうするかご心配かな?
安心しなよ。保護するために探してるんだ、こんなコトはしないから」
今度は天使の首筋に爪が当てられる。天使はまた小さく体を震わせた。
この悪魔の力なら、このまま軽く力を込めるだけで天使の喉を突き破ることができるだろう。
「何を……何を言えば、信じて頂けるのです」
天使の声は懇願に近いものになっていた。その哀れっぽい様子を、悪魔は満足げに眺める。
「何も虐めてやろうって思ってる訳じゃないんだ。素直に話してくれりゃいいんだぜ」
さも可笑しそうに、悪魔は笑い声を上げた。
天使にとってはそれは、この拷問は何を言おうと終わらないという宣告に他ならない。
嘆きの溜息を洩らし、身を竦めたままでいる天使の背を悪魔がそっと撫でる。
「いい子にしてくれりゃ、酷いことはしないぜ?……なぁ、そんなに怯えるなよ」
強く掴んでいた襟元から手を離し、悪魔の腕が天使を抱擁する。
親愛の情を示すためでも、愛撫のためでもない、悪意の込められた抱擁。
背に回された手が、翼の付け根に触れた。
「逃げようなんて思わないでくれよ。満月が近いんでね、気分が昂ぶってるんだ」
強い力で、翼が掴まれる。天使は体を強張らせた。
「あんまり怖がられると、逃げられないようにしてやらなきゃいけなくなっちまう」
「や……止めて下さい、どうか」
翼を掴んだ手に力を込められ、天使は怯えた声を上げた。
闇と混沌に属する悪魔は残虐だ。天使の翼を折り取るくらい、平気でやりかねない。
「貴方の言う通りにします……本当に、私は何も知らないのです」
「――つまんねぇな」
酷く冷淡な声で、悪魔は呟く。
「もっと逆らってくれるのを期待してたんだがな。卑劣だとか汚らわしいとか、天使様お決まりの文句で」
逆らえないように仕向けておいて、勝手にも程がある。
しかし天使には、そう抗議する余裕すらなかった。翼を掴んだ悪魔の手に、更に力が込められる。
体を強張らせたまま、天使は声も出せない。
――骨が軋む、嫌な音がした。
翼が後ろに引かれると共に仰け反りそうになる天使を、悪魔の腕が抱きすくめた。
押さえ付けられたまま翼だけに力を加えられ、めりめりと音がし始める。
骨の一部だけを引き千切られようとしているのだ。骨の軋む痛みが、体中に反響する。
限界を超えて引っ張られた背中の皮膚が裂け、焼けるような激痛が走った。
天使は息を詰まらせ、身を捩ろうとする。その体を悪魔はより強い力で押さえ、抵抗を封じた。
体の内側で何かが千切れる音がする。痛覚神経を直に弾かれるように痛みが駆け巡る。
「悲鳴ぐらい上げてみろよ。その綺麗な声でさ」
がくがくと体を痙攣させる天使の耳元で、悪魔はからかうように囁いた。
天使は応えない。いや、応える余裕などなかった。苦痛のあまり声も出ず、息もできない。
囁かれる言葉も、ほとんど耳に入ってはいない。
背骨を伝わって響く音は、めりめりと軋む音からめきめきと壊れる音に変わりつつあった。
最早、自力で宙に浮いているだけの力もない。天使はぐったりと悪魔の腕に身を預け、されるがままになっていた。
一際強い力が翼に掛けられる。骨が引き千切られ、背中が裂ける。熱い血が流れ出したのを感じる。
宙に羽が舞い散った。天使は自らの、その天使たる象徴である翼の片方が体から完全に切り離されたことを感じる。
涙が一筋流れ落ちた。しかし、天使がそれを知覚することはなかった。感覚の全てが痛みに支配されている。
空気を求めて開け放たれたままの口から、声にもならない喘ぎが不規則に洩れる。喉が引き攣る。
体には力が入らず、意思に反して痙攣するばかり。
「脆いもんだ。長く遊ぶには向かねぇな」
悪魔が低く笑い、千切り取った片翼を無造作に投げ捨てた。
羽を散らしながら、天使の翼は風を孕んでゆっくりと地上へ落下してゆく。
「もう少し壊れ難い玩具が欲しいところだが……やりすぎると後が面倒だしな。次の命令でも貰いに行くか」
虚ろに見開いた目で、ぼやけた視界の中に天使は見る。既に興味を失った顔で、悪魔が己を一瞥するのを。
「じゃあな。お前のご主人様ともそのうち遊んでみたいもんだぜ」
悪魔が腕を開いた。解放された天使の力を失った体は、自らの翼の後を追うように墜ちてゆく。
片翼しかなくとも、唯一なる神の加護を受けた天使の体は僅かな浮力を帯びている。
血と羽を舞い散らせながらの、スローモーションが掛かったかのような自由落下。
それを見る者があれば、その美しさにやはり感嘆しただろう。
しかし空を見上げる人の姿は街になく、悪魔は既に背を向けて飛び去っていた。

――冷たいアスファルトの上、血溜まりの中に横たわり、天使は呟く。
「栄光を……ち、あき……さ……ま」


<時刻:午前11時半>

【天使ヴァーチャー(千晶の仲魔)】
状態:右の翼が欠損、瀕死
現在地:夢崎区
行動方針:千晶の招集に応じる

【魔王ロキ(朱実の仲魔)】
状態:満月が近いためやや凶暴化
現在地:夢崎区
行動方針:朱実に報告に戻る

Back>>116
Next>>118

最終更新:2009年02月14日 22:54