124話 疵
長らく動かずにいた"それ"は、不意に目を醒ました。
暗闇の中、青年の死体の上からゆっくりと上体を起こして、細く長い息を吐く。それは、炎がすべてを舐め尽して
油と煤と死のニオイが充満しきった暗い暗い警察署地下駐車場の中でもなお、最も濃厚な死の香りを放つ息だった。
自身の、仲魔の、そして目の前のこの青年の血が入り混じったモノが放つ強烈な臭気に、"それ"がまだ高校生として
平和に暮らしていて"少年"であったころならば、即座に嘔吐でもしたかもしれない。しかし今はそうではなかった。
唇の端がゆっくりと吊り上がっていく。犬歯というよりは牙と呼ぶほうがふさわしいような尖った歯が闇に浮かび
上がった。歯の隙間がゆっくりと広がり、また吐息が洩れる。それはまるで獣のような――という言葉ではあまりに
過小評価にすぎるのであるが、しかし他に形容のしようのないような――そんな呼気であった。
呼気に合わせて、体に刻まれた文様が赤く弱弱しく光る。"それ"は、不意にある感覚に襲われた。己の中に足りぬ
何かを満たさねばならぬという、焦燥と苦痛を伴う強い欲求。これは、そう、たしか……。
(餓エテイルノカ?)
頭の中に声が響く。誰だかは知らないが、しかし知っている声。"それ"はその声を無視することにした。かつて、
自分はこの声をすべて無視することに決めていたような気がしたからだ。理由までは覚えていないが。
ふと目の前に転がるモノに気づいた。熱されたコンクリートの上で乱雑な扱いを受けたことで、かなり酷い見目に
なっているが、しかし"それ"の目的を果たすにはなんの問題もなかった。
"それ"は右手を伸ばして、焼けて縮れた髪の残った部分を掴み、手元に引き寄せ、首の肉に齧りついた。口一杯に
頬張った、半生の肉を咀嚼する。二度、三度。口の中に、新鮮で濃厚な血と肉の味が広がり――不意にその味に耐え
切れなくなって、"それ"はすべて吐き戻した。膝元の血溜りに、ぐちゃぐちゃに潰れた肉の塊がびちゃりと落ちる。
(餓エテイルノダロウ?)
また声がした。今度は"それ"はその声に耳を傾けることにする。傾けてはいけない理由はあったような気がするが、
もうその理由も消滅したような確信があった。理由がなんだったかは忘れたが。
(喰ライタイカ?)
何を言っているのか、散漫になりつつある"それ"の思考では完全には理解することができなかったが、しかし今の
自分の心の中をずばり言い当てているような気がしたので、肯定することにした。
(ナラバ喰ラウガイイ、己ノ『心』ノオモムクママニ)
その答えに"それ"は憤慨する。さきほどそのようにして、しかし飲み込むことができなかったではないか。
(チガウ。サッキノハ、オマエノ『記憶』ノトオリノ喰ライ方ダッタロウ)
言われて、確かにそうだったかも、と"それ"は考え直す。喰らうということはこうすることだと、無意識のうちに
体が覚えていたやり方に従った。そして、それは受け入れられなかった。
(オマエハ、モウオマエデハナイ。『記憶』ハ捨テロ。『心』ニ従エ)
その声の言った内容に"それ"はいたく満足した。なるほど確かにその通りかも知れない。自分はもう自分ではなく
自分に変わったのだから、自分のやり方を捨てて自分のやり方に変えなくてはいけないのは道理だった。
先ほど放り投げた物に再び手を伸ばす。今度は持ち上げなかった。地面に置いたまま、その上に拳を振り下ろす。
骨が砕ける音。肉がきしみ、皮膚が裂け、血が飛び散る感触。そして、そこから巻き上がる力の流れを感じる。
"それ"はうずくまった。全身の文様が発光し、その光が背を上り首筋を通り過ぎ、頚部から生えた角に集中する。
その光に吸い寄せられるように、飛び散った力の流れが淡い光を放ちながら頚部の角へと集まっていった。
(ウマイカ?)
"それ"はその言葉に答えず、夢中で光を吸い続けた。それ自体が肯定の返事のようなものだった。
その空間に満ち溢れる死の臭気に、炎の車輪に身をゆだねた天使は顔をしかめた。半ば霊化した清浄なる身体に
穢れが入り混じってしまったような気がして、嫌悪感に身を震わせる。
「このような不浄な地に千晶様を立ち入らせるわけには参らん」
ぽつりとつぶやく。清浄なる霊の世界である自分の体内から放たれたその声は、つぶやきであってもなお清浄で、
同時に気高く雄雄しく響く力強さも誇っている。天上の楽園ならばこの小さな声は小さなままに楽園すべてを駆けて
なおいささかも減ずることもないものであるはずなのに、この一段劣る外の物質の世界ではあっさりと堕ちて消えて
しまった。穢れに押しつぶされて消えていったその声に、つい自分の身を重ねてしまい、座天使ソロネは恐怖に身を
凍らせ、直後に思い直して首を振る。力と秩序の世界が成った暁には、統べる者の一員として主たる千晶様のお傍に
侍るべき身であるこの私が、恐怖を与えることこそあれ、恐怖に身を震わせるなどあってはならないではないか。
「そう、あってはならぬのだ」
言って、ソロネは屈辱に身を焦がす。車輪を彩る炎が、それに呼応するように清浄なる霊の光をいっそう強めた。
あのとき、千晶様の御前であるというのに、ソロネはあの雄叫びに竦みあがってしまった。他の低級な役職に就く
天使ならば仕方がないにしても、あの場に集った天使たちの中で最上位であり、その統率を図る代表者であり、かつ
最強を誇る超越者であるべきこの私が、そのような醜態をさらすということは、自分のみならず座天使全体、いや、
もっと言うならばヒエラルキーを象徴とし統合された天使という集団全体の品位まで下げることになることだった。
現に千晶様は我々に氷川や人修羅と戦えという命令を下さらなかった。それはつまり、我々天使に戦力として期待を
寄せていないということの表れではないのか。
そう考えると、ソロネの心の炎はますます燃え上がった。無風なる地下駐車場の中で、ソロネの心の霊質の動きが
巻き起こす空気の流れによって、ローブがはためき車輪の炎が揺らめく。かの創造主が与え給うた支配体制の一員と
しての本能が、この屈辱を決して受け入れてはならぬと抗議していた。もっとも、その本能とは平たく言えば単なる
集団帰属意識に過ぎぬものであるのだが、しかしそれもいと高きにおわすお方から与えられたものであるからには、
そのような陳腐な言葉で評されるべきではない神聖かつ不可侵な真理であり、決して逆らうべきものではない。
この屈辱は、なんとしても拭わねばならぬ。ソロネは決意を新たにする。このソロネがやらねばならぬ。千晶様の
命令に逆らったことで、処断されることになったとしても……いや、間違いなく処断されるだろう、それは疑いない。
あのお方は逆らう者に一片たりとも容赦はしないし、ソロネとしても容赦などして欲しくはない。しかし、この命が
必ず失われることになったとしても、必ずやらねばならぬ。
「このソロネがやらねばならぬのだ」
また呟いた。それは間違いなく己を鼓舞するための呟きであり、同時にソロネが恐怖を感じていることの決定的な
証拠であることは明らかなのであるが、それは無視した。気づけば否定せねばならないが、否定できるわけもない。
ならば見ないフリをするに限る。これが厳正なる法と秩序の世界に生きる上でのちょっとした知恵というものだ。
つう、と滑るように進む。配下たちがその背後に従う。ソロネは己の力を誇示するごとく、必要以上の力をもって
スマル警察署地下駐車場のドアを開け放つ。大きな音と共に、光と空気とが循環を始める。
むっと死が臭う。ソロネはこみ上げる不快感を押さえつつ、果敢に闇の中へと進んだ。
足りない、と"それ"は思った。なにもかもが足りない。
吸い足りない。力が足りない。暴れ足りない。殺し足りない。足りない。足りない。足りない。
(餓エテイルノカ?)
また声が聞こえた。"それ"は肯定するように大きな雄叫びをあげた。自らの力を振り絞るかのようなその叫びは、
まるで巨大な爆弾が爆発したかのように、周囲を騒がせ、振るわせた。
足りない。足りない。足りない。 足 り な い 。
一度意識に上ったその感覚は、"それ"の心に瞬く間に燃え広がり、一片の隙間もなく覆い尽くす。いや、初めから
"それ"の心には何もなかったのかもしれない。ただひとつだけ生まれたその感覚はそのまま"それ"のすべてとなった。
またひとつ大きな雄叫びをあげる。炎がすべてを焼き尽くした暗い駐車場に、再び爆発が巻き起こった。
(餓エテイルナラバ、ドウスレバイイ?)
その声の、底意地の悪い誘導尋問がごとき質問に、"それ"は怒りの雄叫びで答えた。二度、三度。失われた左腕の
断面から血液が飛び散り、よりいっそう消耗を生み、飢えを激しくする。四度、五度。炎に嘗め尽くされ酸素を使い
果たした空気が、肺を汚し喉を焼いていく。
喰らうのだ。殺し、奪い、喰らう。ただ欲望の赴くままに。ただ餓えが求めるままに。餓えと渇きが満ちるまで、
喰 ら い 尽 く す 、 た だ 目 の 前 に あ る も の を 。
またひとつ、叫ぶ。右の拳を、もはや原型の残っていない肉片に叩きつけた。血肉が飛び散りこそすれ、極限まで
絞りつくされたそれからはもうなにも出てこない。それがまた"それ"を苛立たせる。
壊れたバネ人形のように、止まることなく拳を振り下ろした。一撃ごとに駐車場の床のコンクリートにヒビが入り、
建物が揺れ、柱がミシミシと悲鳴を上げ、天井が揺れて埃を落とす。しかしそのようなものは"それ"の目にも耳にも
入らない。ただ心を焼き尽くさんとする欲望の炎に身を任せているばかりだ。
喰らって、喰らって、喰らい尽くす。ただ満たすために。この餓えから逃れるために。
(逃れられると、思うかい?)
また声がした。先ほどまでの声と違うことに"それ"は気付き、一瞬対応に迷う。叫びすぎて顎の筋肉が少し疲れた
せいか、その口はだらりと開かれ、獣がごとき牙を覗かせ、涎を垂れながしながら、"それ"は小さく首をかしげた。
(その苦しみは、もう永遠に治まらないよ。いくら喰っても、なにを喰っても、もう取り戻すことはできない)
もはや論理的思考などできなくなっている"それ"に、その声は優しく冷たく語り掛けていく。
(苦しみを癒すことができるのは、「希望」だけだ。「希望」だけが「絶望」という餓えを満たす「鍵」なんだ)
子供のようでもあり老人のようでもあり青年のようでもある声が続ける。"それ"は耳をふさいだ。左腕がないので
両耳をふさぐことはできないし、ふさげてもこの声をさえぎることはできないことは本能でわかっていたけれども、
ふさがずにはいられなかった。聞きたくない。これ以上は聞きたくない。しかし声はあくまで優しい口調で続ける。
(だが、もう希望は失われてしまった。希望は食い尽くされてしまった。ヒトリノ アクマノ テニ カカッテ)
「ああああアアアアアアァァァァァァァァァァ!!!!」
"それ"はただ叫んだ。その声は、怒りと悲しみと喜びと苦しみと渇望とが混じった、まるで"それ"そのものだった。
まさしく"それ"のすべてが、叫びとなって世界に轟く。"それ"は、ただ、叫び、叫び、叫び……
そして、不意に奔りだした。
雄叫びがやむと同時に、なにか影のようなものが走った。そうとしかソロネには見えなかった。
闇に目が眩まされていたわけではない。霊質を観る天使の瞳にとって、少なくとも人や悪魔の動きを見る場合には、
光の有無はさほど重要ではない。
単純に、"それ"がソロネの捕らえられる速さを越えているだけのこと。その事実をソロネが認めたころには、もう
影は彼のすぐ目の前で、その右腕を高々と振り上げていた。
ブ ン ッ
獣の爪のごとくに立てられた指が空気を切り裂く。ソロネは慌てて身を捩ってその一撃をかわした。がぎり、と、
一瞬前までソロネがいた場所で破砕音が響く。頑丈なコンクリートの床に三本の巨大な傷が残されていた。もし今の
一撃が命中していたならば、その深い斬撃を受けていたのは、ソロネの身体だったのだ。
「バカな、そんなバカな」
その事実に戦慄を覚え身を堅くしている間にも、影は留まることなく走り続け、その拳、その掌、その脚、その口、
あらゆるところから死を繰り出し、死を撒き散らしていた。ソロネのことは手強しとみて後回しにしたのかそれとも
たいしたことなしと見て後回しにしたのか、あるいは単純に、目に付くものを片っ端から屠り去ろうとしているだけ
なのだろうか。おそらく三番目だろう、と、妙に冷静な一部でソロネはぼんやり考えた。
右拳が振るわれ天使の肉体が飛散する。掌から放たれる光弾が能天使の鎧を貫く。その脚から撃ち出される無数の
気弾が力天使たちを無残に地に堕としていく。
「バカな」
己を騙し続けるには、目の前の光景はあまりにも直接的すぎた。天使の軍勢が、瞬く間に躯の山へと変わっていく。
この事実の前には、もはやどのような言い訳も通用しない。ソロネには、ただ見惚れているように呆然とする以外に
できることはなにもなかった。それほどに、圧倒的で超越的で、そして、非現実的だった。
「お前は、何者なのだ!?」
ソロネの叫びは、もはや問いではなかった。人ならば、悪魔ならば、ソロネは何度も見てきた。目の前の"それ"は、
既知のそれらとは……似てはいるが、明らかに違う何かだ。
それを認めるわけにはいかない。人でも悪魔でもないもの。両者を超越した至高なる存在。それを呼び顕す言葉は
ひとつしかない。しかしその名にふさわしき存在は、ソロネにとっては、天に住まう主と地に現れた千晶の二人しか
いてはいけないものなのだ。認めるわけにいかない。認めるわけにはいかないのに、抗うことは……
ソロネの思考を遮るように、影が奔った。衝撃。激痛。浮遊感。殴り飛ばされたソロネは駐車場の壁にめり込む。
腕はひしゃげ、背負った車輪は砕け、目からも口からもマガツヒがあふれだしている。
違った。ソロネは、痛みによって大きく鈍り、痛みによって一部のみ妙に鋭くなった思考で考えた。あれは違う。
あれは我が主とは……人をも悪魔をも超えたいと高きもの……"神"とは違う。死。あれは、ただの"死"だ。
認めるも認めないもない。ただ純粋な"死"がそこにある。抗うなどという次元ではない。あれは、ただ飲み込む。
人であろうと、悪魔であろうと……"神"であろうと、分け隔てなく、ただ、飲み込む。
「……千晶様……」
最後に呼んだのは、仮初の主の名。なぜ。思ったが、それ以上を思索する暇もなく、ソロネの意識は、その肉体と
ともに、"それ"の放つ光弾の中に消えた。
ほんの数秒前まで警察署入り口の自動ドアだったガラス片を素足で踏みにじりながら、"それ"は表へと出てきた。
(彼の数少ない衣服であった靴と靴下はガソリンで火達磨になった際に燃え尽き、天使と戦っている間に剥がれ落ちて
跡形もなくなっていた。一方ズボンは上手い具合に焼け爛れて皮膚にべったりと貼り付いており、傍目には以前同様に
ズボンをきちんと履いているように見えなくもなかった)
いたずらに天を仰いだら、太陽光が目を灼いた。思わず、右手をひさしのようにかざす。そのさまはまるで人間だ、
と"それ"が以前の"彼"だったならば皮肉に笑ったかもしれない。
視線を正面に戻し、口を軽く開き……喉から下品な排泄音、いわゆるゲップをひとつ放つ。ひとつひとつの量と質は
大したことはないとはいえ、かなりまとまった数の天使を殺してマガツヒをむさぼった。その前に食べた"あの人間"の
こともあり、彼の体内は今のところはかなり満たされた状態だといってよかった。
しかし精神面においてはまた別の話だ。マガツヒはいくら吸っても吸い足りないし、血の滾りも、心のもやもやも、
少しも収まる気配を見せない。
「……?」
手持ち無沙汰にあたりを見回す。いつもなら"あの声"がそろそろ話しかけてくるころだったのだが、その気配がない。
あの声の導きにこのまま身を任せようと思っていたのに、アテが外れた。
まあいい。すでにあの声には十分すぎる導きをもらった。"それ"は背筋を伸ばし、大きく息を吸い込むと、
「 お お お お お お お お お お お ぉ ぉ ぉ ぉ ぉ ぉ ぉ ぉ ォ ォ ォ ォ ォ ォ ォ ォ ォ ォ ォ !!!」
雄叫びを上げた。意味などない。体の底から溢れかえる力と衝動とを持て余しただけだった。
いや、少し意味はあった。叫んで力を少し使ったことで、アレが体の底から蘇ってきた。
不足感、焦燥感、満たされたいという強い欲求。これをなんというか、どう満たせばいいのか、あの声に教わった。
そう、これは「餓え」。餓えを満たすには、「ただ心に従えばいい」。
口元を笑みのように歪め……"それ"は地を蹴った。
満たされるために、心の命ずるままに。
【時間:(正午)午後0時】
【人修羅(主人公)(真・女神転生Ⅲ-nocturne-)】
状態
左肩から下を欠損、体力消耗(ただし克哉と天使軍団のマガツヒを捕食したため、攻撃用エネルギーの充填は万全)
悪魔化 殺戮衝動(FULLMOONの影響+精神ダメージ) 強い餓え
体中に人間/悪魔の返り血を浴びており強烈な異臭がする
武器 なし
所持品 なし
仲魔 なし
行動指針 本能の赴くままに殺戮だが…?
現在位置 港南区路上
備考 左腕からは出血中、悪魔である彼が失血死するかは不明
潤沢なマガツヒで治療できたはずだが、そういう使い方をする発想は既にない様子
※人修羅の咆哮が再び響き渡りました。近辺なら確実に、遠くても気配探知に長けていれば、感じられるでしょう。
最終更新:2010年12月26日 23:25