もうじき僕は歌わない。@Wiki

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moujiki

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春のかすみが窓の外でわだかまっている。
効きすぎ気味の暖房に守られた、うららかで、うすらきれいで、なにかが間違っている気がする三月の昼下がり。
BGMはアイドルな時間を過ごす店員たちの、緊張感の足りないおしゃべり。
僕たちは、時間の止まった世界の果てみたいなファミレスで、お別れの準備をしている。
卒業式の後、制服のままで過ごす最後の時間。もうじき、何もかもが思い出になる。
スカート丈を短くするのには馴染めなかったけど、セーラー服そのものは僕は嫌いじゃなかった。窮屈そうな詰め襟の男子も、そんなに悪くなかったと思う。
でも、もうこれで見納めなんだ。
僕の名前はミサト・アキ。一人称は僕だけど、いちおうは女子。
目の前には二人の男子。名前はアオイ・タクミ、イトイ・カズマ。
僕たちは、ずっと三人で学校生活を送ってきた。
性格も、趣味も全然違うのに、三人でいるのが自然だった。けっこう幸せだったんじゃないかって思う。
それも、もう終わりになる。
奥の席に腰を据えた僕たち三人の前には、空のグラスがみっつ並んでいる。
卒業式が終わって、その足で入ってきたのはまだ午前中だった。ケーキセットでスタートして、昼ご飯を食べて、もう一度飲み物を頼んで。何時間、ここで粘っているだろう? 食器はとっくに下げられて、水のおかわりも、だいぶ前に来なくなった。
でも、話すことは途切れない。
後でふりかえっても、何をしゃべっていたのか覚えていないようなことしか話していないのに、ずっと一緒にいたのに、話題に困ったことは一度もない。
こんな友達に恵まれることは、この先、もうないかもしれない。
僕はそう思う。
でも、もうお別れだ。
僕はあなたに、この時間がもう少しだけ続くように祈る。僕が何も考えずに、もう少しだけこの二人と一緒にいられるように祈る。先読みのしすぎなんて意味のないことだって、そんなの分かってる。
でも、止められない。だって、あなたはそこにいて、僕たちを見下ろしている。

あなたの存在に気づいているのは、たぶん僕だけだと思う。僕は天井を見上げて、あなたの存在を確かめる。目には見えないけれど、あなたは確かにそこにいて、僕たちを見下ろしている。
あなたが何者なのか、説明するのは難しい。見えないし、何かをする訳じゃない。ただ、そこにいることが感じられるだけの存在。物理的なものじゃなくて、精神的なものでさえなくって、でも何か僕たちよりも「上位」の存在だと思う。
たとえば、わかりやすく呼べば「神様」かもしれない。
でも、僕はその言葉で、あなたを説明したくない。その言葉に僕はリアリティを感じない。逆に「悪魔」と呼んでも同じ、だから僕はあなたをただ「あなた」と呼ぶことにしている。
大人にも女にもリアリティを感じない僕が、僕のことを「私」じゃなくて、ただ「僕」って呼ぶみたいに。
あなたの目に僕たちはどう映っているんだろう、と僕は思う。ずっと僕は、あなたの目を意識しながら生きてきた。あなたを見上げるのが、僕の癖になっている。目で見える訳じゃないのに、上を見ると、あなたがいるのが感じられるんだ。
僕たちはあなたにとって、どんな存在なんだろう。
あなたの目から見て、僕たちはどこにでもいる三人だろうか。それとも、この中の誰かが、あなたにとって何か特別な意味のある存在なんだろうか。
あなたは僕たちの未来を知っている。というか、この世界はあなたのものだから、あなたが考えることが僕たちの未来になるのかもしれない。
誰が主役のどんな物語を、あなたは僕たちの未来に考えているんだろう。僕たちをどうするつもりだろう。この物語を、どこへ連れて行くつもりだろう。
たとえば十年先、と僕は考える。僕たちは、どこで何をしているだろう? 世界はあなたの手の中にある。過去も、現在も、未来も。あなたのことを考えれば、僕にも未来が分かるかもしれない。
そうやって僕は、あなたの存在を意識しながら、そんな形で世界を認識しながら、ずっと生きてきた。意味のない先読みばかりしながら、ずっと。そんな形でないと、僕は世界とつながっていられないんだ。
そもそも、あなたは何者なんだろう?
あなたが住んでいる世界を僕は想像する。たとえばカズマが描くマンガに出てくるキャラクターにとって、カズマは神様かもしれない。でも僕にとっては、カズマはただの日常生活を共にしている幼なじみってだけだ。そんな感じで、僕にとって上位存在のあなたにも、幼なじみや日常生活があるのかもしれない。
きっと物語を書いているなら、想像力が豊かでちょっと変わったひとだと思う。名前は斉藤和己、と僕は勝手に想像する。一流会社に勤める、それなりに有能なサラリーマン。三十歳くらいで、きっと独身だろう。おつきあいをしているひとはいないけど、隣の係にいる同期入社の女子社員とは、ちょっと特別に仲良しかもしれない。趣味は読書と音楽鑑賞、週末の片手間に僕たちの世界について考える兼業小説家、ってあたりでどうだろうか。きっと残業の片手間に、現実逃避のために僕たちのことを考えているんだ。ほんの少しの分かりやすい偶然と退屈な日常、この世界の分かりやすいルールは、あなたの日常生活の裏写しなんだ。あなたの学生時代、あなたの十年前の理想が、今の僕たちに投影されているんだ。
僕は首を振って、目の前の二人に集中しようとする。どんな十年後が僕たちに待っていたって、そんなこと、いま考えたって仕方がないじゃないか。
同じ高校を卒業したばかりの僕たちには、もちろん、このあとサヨナラが待っている。
明日に出会いがあってもなくても、今日のサヨナラは避けられない。十年先に何があっても、何もなくても、みんな行き着く先はサヨナラだ。
いまはそんな季節、春。窓の外には春、部屋の中にも春。おかしくなりそうなくらい、どこをとっても春。
サヨナラなんてしたくない。でも、僕たちに同じ明日はもうないんだ、って僕は思う。明日も十年先も同じことなんだ、って。
僕はたぶん、十年後も公務員をしているだろう。この春から公務員になる僕が、それ以外のことをしている理由がない。結婚して主婦になれるようなら、誰かといて幸せになれるくらいなら、いま公務員になんてなるものか。
高校時代、ずっとマンガばかり描いていたカズマは、この先十年もマンガばかり描いているだろうか。とりあえずは美大を目指して一年は浪人するらしいけど、なんか普通に大学生になるより、筆と絵の具だけ持ってインドを放浪するとかが似合う気がする。公務員になる僕が言うのもどうかって思うけど、そういう友達がいるのはちょっと嬉しいし。
優等生だったアオイくんは、十年後も優等生だろうか。それとも、誰よりもはっちゃけた生き方をしてるだろうか。けっこう無茶なこと好きなとこがあるからなあ、アオイくん。普通の幸せをつかむならアオイくんだと思うんだけど、それを誰より大事にしないのもアオイくんかもしれない。いつも見てる僕がはらはらするんだ。
僕は、そのときのことを想像する。今のあなたが考えているかもしれない、十年後の僕たち。今、僕たちは三月の行き止まりにいる。今のあなたも、きっとどこかの行き止まりにいる。
あなたは、今、僕たちのサヨナラを見下ろしている。十年後の僕たちのことも、たぶん同じように見下ろしているだろう。
きっと十年後の僕たちに待っているのも、サヨナラだらけの物語かもしれない。


職場から出て空を見上げたら、どんよりとした曇り空だった。まるで何かの暗示みたいだって、二十八歳の僕は思う。高校卒業から十年、僕はずっとひとりで生きている。
空を見上げる癖は、十年前から変わっていない。そこにいる、あなたの存在を確かめている。十年前と同じように、あなたの書く物語の、その先を考えている。僕にどんな未来が待っているのか、想像しようとしている。
僕は十年たっても、何も変わっていない。あの頃のままだ。
高校を卒業してすぐに就職をした僕は、来年度で勤続十年になる。お茶くみと机ふきの技術には自信がある、そんな地方公務員。黒板ふきの技術なら誰にも負けないと思っていた、十年前と何も変わらない。いつの話だよ、それ。
主な業務は受付担当、愛想もないのに窓口に立っている。適材適所からほど遠いのは、お役所仕事の生きた弊害だって名乗ってもいいかもしれない。そんなの僕のせいじゃないとはいえ、居心地は悪い。生きていてもつまらない。でも、死ぬほどじゃない。
あなたは、どんなつもりで僕をこんな性格に設定したんだろう?
どうして、こんなにやる気がないんだろうってたまに思う。ずっと過去の思い出の中で生きているからか、それとも今、したいことが見つからないからか。
仕事は、それなりに熱心にしていると思う。高校までの勉強と同じ、僕にとって、生きるってそういうことだ。言われたことは、だいたい言われた通りにできる。別に手を抜くつもりもない。ただ、どこか心を全部預けられないだけだ。
砂場で穴を掘って、休み時間の最後に埋める。砂山をひとりで作ってひとりで崩す。ずっと、そういうことばかりしてきた気がする。道具を使うとか、多くのひとで役割分担とか、休み時間を何回も使って作業を続けるとか、もっと上手にできる方法はいくつも思いつくのに、僕が、誰かが決めたルールに沿って、ひとりで全部しなきゃいけない、あの冷めた感じ。
そもそも、なんで砂遊びをしなきゃいけないのかが分からないんだよ。
あなたは、こんな僕を登場人物に、どんな物語を書こうとしているんだろう。僕の人生に、どんな結末を考えているんだろう。僕の周りではいつも、僕の望まないことばかり起きる。未来を予想するのは難しくないけど、悪い想像ばかり当たっても、全然、嬉しくない。
僕はいつも通り、上を向いて、ため息をつく。
今度の四月の異動で、上司がアオイくんになる。知ったのはついさっき、こっそり課長に呼ばれて教えられた。いつか来るって想像していた、悪い予想のひとつだ。
アオイ・タクミくんは、僕の高校時代のふたりしかいない友達のひとりで、きっとあなたが優等生と設定したに違いないタイプの優等生だ。ちょっと性格が悪いのと、僕みたいな友達がいることを除けば、まず非の打ち所がない高校生だった十年前。身長も高くて、太ってもいなくて、顔だってそこそこ悪くなかった。僕と友達だってだけで全部、台無しだったかもしれないけど、それも十年前に終わったことだ。
十年後の今、彼が僕と同じ、地方公務員をしていることは知っていた。高卒採用の僕の方が四年の先輩。でも、彼は有名大学卒のキャリアで、しかも最短で係長試験に合格して、出世街道をまっすぐ順調に進んでいるとかなんとか。
全然、「同じ」地方公務員じゃない。
公表はまだ先になるが、来年から君の上司になることになった。公私の別をしっかりつけて、来年からもいい仕事をするように云々。
課長がわざわざ僕に訓辞をくれるのは、僕がこの職場に一番長くいるからだろうか、それとも、プライベートの関係を気にしているんだろうか。十年前にアオイくんのことをどう思っていたかなんて、僕しか知らないはずなのに、僕はそんなことを気にしている。
「異動については、まだ、ここだけの話だぞ、もちろん」
「分かっています。大丈夫です。そんな話のできる仲のいいひとは職場内にいませんから。
もちろん本人にも、内示公表までは守秘義務ですね?」
ああ、そのことだがな、と課長。言いにくそうに。
「本人には伝えてあるんだ。何しろ前例のない最年少係長だからな、失敗してもらう訳にはいかんのだわ」
「はあ」
「それで、事務引き継ぎに一度、君から事前に話が聞きたいそうだ。ああ、もちろん秘密だけどな。
ま、めでたいアオイくんの昇任だ。ちょっとした例外はあってもいいだろ。誰にも分からなければ、なかったのと同じだからな」
そういうものですか、と僕は言う。課長は真顔で「そういうものだ」と答えた。そういうものですか。
何か裏があるような気もするけど、それが出世とか人脈とかに関することだったら、僕には全然わからない。彼らは僕とは違う地方公務員だ。十年いても、役所の中はブラックボックスばかりだ。
二十八年生きてきても、僕には他人の考えることは全然分からない。あなたの考えることなら、だいたいは分かるんだけど。他人のことには興味がないからだろうか。それとも、僕のことが分かってほしくないって、心のどこかで思ってるからだろうか。
「偶然仕事で再会して、そのあと食事をするなら不自然はないだろう。プライベートで、どんな話をしても役所の関知するところではないからな。
ということで今日の午後から、本庁大会議室に出張するように。先方には話を通しておく。今年度の決算にかかる事務に関する注意事項だか何だか、なに、寝ていても誰も困らないような会議だ。どうせ毎年同じことしか言わないんだから」
頼んだぞ、と背中を叩かれる。来年の俺の円満な卒業のために頑張ってくれ。
来年の課長の円満な卒業のために、と僕は復唱する。この業界では、定年退職のことを卒業って呼ぶ。まるでみんな、大人になりたくない高校生みたいだ。なんだよ、その言葉の選び方。
課長の円満な定年退職のために守秘義務違反、か。市民のためにとか言われるよりはまだマシかもしれないけどさ、って僕は思う。納税者のために働くのが公務員なら、国家のために国民はみんな犠牲になればいい。あなたのために、みんな不幸になってしまえばいいんだ。
で、僕は空を見上げている。こんなはずじゃなかった、って思う。高校の卒業で別れてから十年間、僕はアオイくんと一度も会わなかった。僕が逃げ回っていたからだ。十年前が僕にとって素敵だったから、僕にとって、それだけが特別な思い出だったから、そのまま思い出で終わりにしたかったんだ。
幸せな未来なんて僕は求めない。だって、そんなのあるはずがないんだ。
アオイくんが公務員を選んでから、いつか、この日が来る可能性は考えていた。何の結論も出せなかったけれど、でも、ずっと考えてきた。あなたならきっと、こんな未来をいつか書くに決まっている。
僕は、どんな顔をして彼の前に立てばいい?
アオイくんは、公務員を就職先に選ぶときに何か考えただろうか? 二万人の職員の中に僕もいることを、少しでも意識しただろうか? それは彼の選択にとって、プラスだっただろうか、マイナスだっただろうか。
そもそも、なんで公務員なんて選ぶんだよ、アオイくんみたいな優等生が。
この、胸を揺らす感情はなんだろう、と僕は思う。
十年前の気持ちは覚えている。僕はアオイくんが好きだった。二人しかいない友達のひとりとして。たぶん、それ以上の存在として。アニメ、新世紀エヴァンゲリオンのエンディングテーマ、Fly me to the moonの歌詞に好きなフレーズがある。「You're all I long for, all I worship and adore. (私が熱望するすべて、尊敬し敬慕するすべてはあなたです。)」
他人のことを好きになったり嫌いになったり、もう僕はそんなことはしない。十年前にやめてしまったんだ。

本庁会議室で語られた決算の話は、ほとんど頭に入らなかった。どうでもいい会議でよかった。って、本当にどうでもいいのかどうか分からないくらい、頭に入らなかった。
僕は後ろの方の席に座って、ずっと十年後のアオイくんを見ていた。
声をかける前に、しばらく見ていたかった。
覚悟を決めるのに、時間が欲しかった。僕はこの十年の間、何もしてこなかった。大学を出たり出世したりしてるアオイくんみたいに、僕もこの十年、何かをするべきだったんじゃないか。
こんなはずじゃなかった、ってもう一度僕は思う。できるだけフラットな僕でアオイくんの前に立ちたいのに、決心はぜんぜん頼りない。僕は、自分で選んでこの十年、何もしなかったじゃないか。今更、迷うことなんかないじゃないか。
あなたのことを僕は考える。なるようにしかならないって分かっているのに、どうして僕はそれを素直に受け入れられないんだろう。
大事なのは覚悟を決めること、選ぶことなんてできない。できるのは受け入れることだけだ。分かっているんだ。全部、あなたが書いているシナリオ通りなら、この先にあるのも不幸に決まっている。
会議が終わって、席を立つひとの波に負けないように、僕はアオイくんに近づいた。気づいて、先に口を開いたのは彼だった。まるで十年前と同じ笑顔。
ひさしぶり、とアオイくんは言った。
ひさしぶりです、と僕は答える。
「本来は僕から行くべきだったのに、呼び出してゴメン。この後、時間は?」
「空けて来ました」
「ありがとう。しかし、こういう機会でもないと会わないね、本当に。似たような仕事をしてるはずなのにな。
飲みに行く、でいい? ふたりの再会と、僕の昇任を祝して」
ビール片手に仕事の話ですか、と僕は言う。飲まずには語れないような話が聞きたいんだ、と彼。それに、交際費の予算を消化したい時期じゃない?
「交際費も食料費も、うちの係の予算にはありません」
「じゃ、文具筆墨類の消耗品を買ったことにしてごまかそうか」
「駄目です」
「なんだよ、つまんない職場」
「係長、どこまでが冗談か分からないです」
アオイくんの知っていた近くの居酒屋は、五時台ではまだ空席ばかりだった。とりあえず生ビールで乾杯。喧噪にまぎれて、僕は小さくため息をつく。今、僕はどんな顔をしているだろう。あなたはどんな物語を書こうとしているんだろう。
慣れた様子で料理やお酒を注文をするアオイくんは、違う世界のひとに見えた。たぶん、本当に違う世界にいるんだろう、って僕は思う。十年前は同じ場所にいたのに。そう僕は思っていたのに。
変わりましたね、と敬語で僕は言う。僕が敬語を使うのは、僕と距離のあるひとを相手にするときだ。敬語以外でしゃべる相手なんて、十年前はふたりしかいなかった。今、そのひとりを僕は失おうとしている。
士別三日、とアオイくんは答えた。十年前もよく使ってた、中国の故事成語だ。出典は三国志、言ったのは呉の国の呂蒙。士別三日、即刮目相待。(三日会わなかったら、成長に驚くから、目をこすって会う覚悟をしろよ。)
「変わらないことより、ポジティブに変わる方が素敵だと僕は思うけど? 変わらないことなんて、きっとできないんだから」
アオイくんの目から僕は、どう変わっているんですか。聞いてみたいけど、もちろん口には出せない。どうせ僕は呉下の阿蒙です。バカなまま変わらないんです。
社会人を十年しても、僕はお酒が美味しいって思えない。
僕は、本当は人前で食事なんてしたくない。
僕は、本当はおしゃべりなんてしたくない。
知ったひとならなおさら。
アオイくんならなおさら。
僕は、本当は部屋から出たくもない。
本当は十年前の子どものままで、じっとしていたいんだ。
暖かい泥のような思い出の中で、うずくまっていたいんだ。
でも、そんなことができるはずがない。アオイくんに言われるまでもない。だったら、何も望まずに、ただ与えられた不幸を受け入れて生きるしかないじゃないか。
思い出を現在で上書きなんかせずに、じっと過去に生きてた方がいいじゃないか。
アオイくんに注がれるままに飲んで、聞かれるままにしゃべっている。仕事の話、プライベートの話。十年分の話を、僕ばかりしゃべっている。彼には積もる話はないんだろうか。僕に言いたいことはないんだろうか。
ふたりで飲んだせいだと思う。こんなに飲むのは初めて、というくらい飲んだ。しみじみと酔っぱらいだ。感情の起伏が激しくて、コントロールできない。笑い出したいし、泣き出したい。僕の知らない僕が僕を動かしている。
「お酒なんて美味しいですか?」
まるで愚痴のように言っている、これが僕。少し考える顔をする、大人の余裕があるのがアオイくん。
「生きていて楽しい?」
試すような目が、僕を見ている。
このひとは分かっている。僕が何を考えているか。どんな気持ちで、ここにいるのか。
僕は視線を外して、十年前を思い出す。何にでも答えがあると思っていた、白と黒の世界に住んでいた頃。

大人は分かってくれない、と十八歳の僕が言う。
子ども同士なら分かるのか、と半畳を入れる十八歳のアオイくん。
つまらなさそうな顔をしている十八歳のカズマは、何も言わないで僕を見ている。
僕は、いつまでも子どもでいるつもりだった。違う、変わらない僕でいるつもりだった。
同級生だって分かってくれないけどさ、と僕。
「アオイくんやカズマにくらい分かって欲しいって、思うときもあってもいいじゃない?」
「その気持ちは分かるけど、僕に分かるのはそこまでかな」
「分かるのは、分かって欲しい気持ちだけ?」
「足りない?」
なにもないよりはだいぶいいけど、って僕は言った。でも足りないって思ってた。全部分かってくれなきゃ足りない。僕が全部分かってあげられなきゃ足りない。
そんな贅沢なことを、無邪気に思ってた。

「そんなに弱いなら先に言ってよ。お互い大人だと思って、心おきなく注いじじゃったじゃないか」
「すみません」
「高校生が打ち上げで羽目外してるんじゃないんだからさ。頼むよ」
二時間後くらい、同じ居酒屋。僕は辛うじて立っていられるかどうかの状態で、返す言葉もなく酔っぱらっていた。トイレで吐いたけど、まだ現実感が戻ってこない。
吐くまで飲んだのなんて初めてだ。なんか、ちょっと楽しい。
支払いは、僕がいない間にアオイくんがカードで済ませていた。このタイミングでトイレなんて、まるで支払いから逃げてるみたいだ。半分出します、手遅れなのは分かりきってるけど、ありがちなことを言ってみる。
「ありがとう、でもお構いなく。呼んだのは僕だし、一応は上司だし」
「じゃあ、せめて次は僕が払いますから」
「いいよ、もう飲みには誘わないから忘れて。ミサトがそんなにアルコールに弱いとは思わなかったんだ」
僕も知りませんでした、って僕は答える。
職場の上司になってしまえば、仕事以外の関係なんてなくなるだろう。特定の部下と仲良しの上司なんて、嫌われるに決まっている。たぶん、本当に次なんてないだろう。それは僕の願い通りじゃないか、って僕は思う。僕は思い出を上書きしたくない。過去は過去のままにしておきたいんだ。
なのに、帰り道を送ろうかって言われて、断れない僕がいる。
「ここで別れて、帰り道で何かあったら、すごく後悔しそうだからさ」
「何があるんですか」
「何だってあるかもしれないじゃないか」
「たとえば?」
「コンドルに攫われて飛んでいくとか」
「何のネタですか、それは」
十年後の僕は、十年前のことを思いだす。こんな風にどうでもいいことを言い合って、無限にあると思っていた時間を無駄に使ってしまった十年前。
アオイくんは変わってしまったんだ、と僕は僕に言い聞かせる。だって落ち着かない。変わってしまったなら、もう全部なかったことにしてほしい。僕は、不幸には耐えられる。でも、不幸以外の現実には、どう向き合ったらいいのか分からないんだ。
僕の家までは歩いて二十分くらいの距離がある。高校時代からは引っ越した、今のアオイくんの家はそこから五分くらい。そんな近所に住んでたのか、アオイくんがぽつりと言った。偶然だね、って僕は答える。あ、敬語にし忘れた。
「そうだ。帰りの通り道の本屋、ちょっと寄ってもいい?」
「構いませんけど」
「けど?」
「&&なんでもないです」
僕は、恥ずかしいから、絶対に他人と一緒のときに本は買わない。立ち読みもしない。そんなこと、確かめないでよ、恥ずかしいなあ。
「何か買うんですか」
「英会話のテキストと十八歳未満禁止の成年誌、どちらも本日発売。
さて、本当に買いたいのはどちらでしょう?」
「そんなこと、普通の女子に言ったらセクハラですよ」
たまにカズマのマンガを載せてるんだよ、と僕の言葉なんか聞いちゃいない感じで、アオイくんは嬉しそうに言った。もちろん成年誌の方だけどね。英会話はただの暇つぶし。
「カズマって、あのカズマですか?」
「たぶん、そのカズマです。覚えてる?」
覚えてますけど知りませんでした、って僕は正直に答えた。カズマは高校時代の、アオイくんの他にもうひとりしかいない僕の友人だった男子で、というか近所に住んでいたから実は幼稚園からの腐れ縁で、とにかくずっとマンガを描いていたひとだ。イトイ・カズマ。名簿順ではたいていアオイくんの後ろにいた。さあ、僕がいつも見ていたのはどっちでしょう?
「カズマ、まだマンガ描いてたんですか。
っていうかアオイくんは、ずっとカズマと続いてるんですか」
「なんか棘のある言い方。年賀状と他ちょっとくらいだよ、別におつきあいしてる訳じゃないし。
っかし、さすがにあいつも、ミサトに成人指定は読ませらんないのか。連絡してるのかと思ってたのに」
「どんなものを描いてるんですか?」
「ある程度の規模の本屋なら、単行本を売ってるんじゃないかと思う。見た方が早い、というか口で説明しにくい。なにせ成人指定だし」
本屋に着くとアオイくんは、まっすぐに成年向けコミックのコーナーに行って、一冊、毒々しい本を手に取った。淫乱とか好色とか汁だくとか、そんな枕言葉が踊っていて、成年指定のシールが貼ってあって、ビニール袋に包まれているパッケージ。
本名で書いてることにまず驚き、見覚えのある絵柄が変わっていないことに驚き、アオイくんが普通に知っていたことに驚く。感動も興奮もない十年を過ごしていたのに、今日は驚くことばかりだ。
「アオイくん、恥ずかしくないですか?」
十年前の彼は、裸の女の子が表紙を飾る本を買えるような高校生じゃなかった。カズマは十年前から、そういうマンガを描ける高校生だったかもしれないけど。
あのなあ、とアオイくんは言う。さっきから嬉しそうに見えるのは、どうしてだろう。
「十年来の友達の描くものが本になっているんだ、保存用と観賞用と二冊、堂々と買うよ? そりゃね、台詞を音読しろとか額に入れて飾れとか言われると困るけど。
十年前の高校生じゃないんだから、別に隠れたり恥ずかしがったりする必要はないと思う」
アオイくんはまっすぐに会計を済ませると、安っちい再生紙の紙袋を僕に手渡した。ギフト用にラッピングしてもらうのは道義的に無理だったよ、とか言いながら。
「はい、プレゼント」
「だからセクハラですってば」
「相手は選んでるよ。ミサトにはこの本、自分じゃ買えないだろ。でも、読みたいと思わない? 受け取っておきなよ、捨てるのはいつでもできるんだから」
死ぬのはいつでもできる、誰かの言葉がフラッシュバックする。僕は首を振って、ずっとそこにいる、あなたを見上げる。僕は結局、いつでもできるはずの「死ぬこと」さえできなかった。今、十年前がどうのこうのって言い訳しながら、アオイくんと再会してる。
死ぬのはいつでもできるなんて、死のうとしたことのないひとの言うことだ。十年前のいつか、そんなことを僕は言ったことがある。でも死んだことはないじゃないか、って言い返したのはカズマだったか、アオイくんだったか。
何の話をしていたんだろう、あの時。どんなに親しい友達にも、わかってはもらえないんだって知ったのは、たぶんあの時。それは絶望的な事実だったはずなのに、全部わかってはもらえないだけで、世界が終わるような気持ちだったはずなのに、二人が大切なことはその後も、全然変わらなかった。
僕も、けっこう、いい加減にできてるのかもしれない。
あなたを見上げて、僕はもう一度、自分に言い聞かせる。何が来ても、僕には、受け入れることしかできない。さあ、何でも来い。
「そんな言い方をされたら断れないじゃないですか。ありがとうございます、こっそり読ませてもらいます。
この分だけは絶対、なにかで返しますから」
「じゃあ今からコーヒー一杯つきあってもらうってことで、どう?」
時計を見たら、まだ八時前だった。思わず二人で笑ってしまった。十年前でも、まだ家に帰らなかったかもしれない時間帯だ。
「コーヒーだけでよければ、うちで出しましょうか? 散らかってますけど」
「僕はその方が気楽で嬉しいけど、迷惑じゃない?」
「女の子の部屋に気楽に上がり込むのってどうかと思います」
さあ、何でも来い。僕はもう一度、自分に言い聞かせる。きっと酔いが残っていて、判断力は頼りない。でも、そのくらいじゃないとできないことってあると思う。
その時は、それでいいと思っていたんだ。

買ったばかりのマンガを開くと、一ページ目から、半裸の男女が絡み合っていた。覚えのあるカズマの絵柄で、でも昔より上手くなっていて、でも何かは失われてしまった、と思う。なんか、普通のマンガっぽい。スクリーントーン貼りまくり、強調線引きまくり。でも僕はこういうマンガを、しっかり読んだことがない。擬音とかも訳わかんない。こんなのって誰が考えるんだろう? 誰がいつ、どんなつもりで読む予定なんだろう?
首を振る。一冊、何ページあるんだろう? こんなシーンばかり続くんだろうか? ぱらぱらと先の方までめくってみる。
隣にアオイくんがいるのが、非常に落ち着かない。十年前はみんなが帰った後の教室で、カズマの描いたマンガを二人で覗き込むように読むのは日常生活だったのに。
ここは僕の部屋。アオイくんは上着を脱いでネクタイを外して、僕は帰ったままの格好で、ソファ代わりのベッドに並んで腰掛けている。インスタントのコーヒーをアオイくんは飲んでいて、僕は隣でカズマのマンガを開いていて、BGMは十年前の好きだったアニメのサウンドトラック。
僕はあきらめて、マンガを枕元に放り投げた。
「お邪魔かな?」
「いえ、いま読まなくても作品は逃げませんから」
「この十年、ずっと逃げ回ってたミサトが言うかな」
何のことですか、と言おうとした唇を塞がれた。予想していなかったと言えば嘘になる。期待していたかどうかは、どうなんだろう。僕の初めてのキス。
どうして彼を部屋に上げたのかって、後で何度も考えた。
酔っぱらった男女が、成年向けコミック片手に、ベッドのある部屋でふたりきりになることの意味。ちょっと想像力があれば、どんなメッセージかなんて、簡単に分かりそうだ。
そんなつもりは、僕にはなかったと思う。でも、誘ったのは僕だ。
ずっと続けてきた、ひとり暮らしが淋しかったのかもしれない。アオイくんのことが好きだった十年前を、今でも引きずってるのかも。理由なんて分からない。でも、どんな理由があっても、なくても、男女の関係が行き着く先なんて同じだ。
具体的な描写は省略する。きっと、もっと時間が経たないと、これにどんな名前をつけたらいいのか僕には分からない。
事実だけを書けば、僕はアオイくんと寝た、というだけの話だ。
きっと世の中には、こんなことがあふれているんだと思う。十年前のことを考えるあの感じとも、明日からのことを考えるその感じとも違う、この、今だけ特別な感じ。僕には初めてでも、みんな、きっと分かっていることなのかもしれない。
僕はベッドに転がって、あなたに見下されながら考える。僕の身の上には不幸ばかり起きる。そんなことは十年前から決まっている。これも不幸だろうか。それとも、この先の不幸をより不幸にするために用意された、幕間の幸せだろうか。不幸になるのは僕だけだろうか、巻き込まれたらアオイくんも不幸になるんだろうか。
ごめん、って、ぽつりとアオイくん。
「なんであやまるの?」
「&&そうだね、ごめん」
僕は、彼の言葉を遮って背中を向けた。
どんな顔をしてアオイくんの隣にいればいいんだろう。嬉しいし、恥ずかしいし、照れくさいし、ああ、どこかネガティブな気持ちもある。こんなはずじゃなかったって思ってる僕もいる。今、隣にいても僕には何も言えない。何もできない。
帰りませんか? ずいぶんな言い方で、僕は今の状況から彼を追放しようとする。過剰な情報を遮断しようとする。
「わかった、今日は帰ります。新年度にまた職場で」
僕の髪を撫でるアオイくんの手。僕は壁を向いている。そんな分かりやすくドラマティックなことをしないでよ。顔を合わせられないんだから。泣いちゃうじゃないか。
「次に会うときは他人ですよね?」
「僕は僕だし、ミサトはミサトだよ。十年前も、次に会うときも」
ああ、やることなすこと全部アオイくんだ、って僕は思う。僕の好きなアオイくんだ、何も変わらない。
アオイくんが帰った後も、僕はまだベッドから動けなかった。こういうときって、僕が何を言っても朝まで隣にいてくれるのが礼儀なんじゃないかって思ってる僕もいる。でも、素直に帰ってくれて、ちょっとほっとしてる僕もいる。こういう複雑さって、ひとりでいると全然縁がない。十年ぶりの気持ち、って僕は思う。
ベッドサイドに、カズマのマンガがある。何も手につかない僕は、布団の中からそれに手を伸ばした。なんて贅沢な一日だろう。
「カズマの描いたエロマンガ、か」
軽い気持ちで、寝転がったまま本を開く。でも、すぐに僕は起き上がることになった。ベッドの上で正座する。これは、いい加減に読んでいい作品じゃない。
認めるのは悔しいけど、十年前のものよりもいい作品だった。なんだよエロマンガのくせに、って僕は思う。読み終わって息を吐くまで、呼吸も忘れる勢いで読んじゃったじゃないか。
変わったのは表現方法だけだ。カズマの持っているテーマは変わっていなかった。
現実にうまくとけ込めない、十年前のカズマの顔を思い出す。生きてるじゃないか、って僕は思う。十年たっても変わらずに生きているのって、それだけで立派なことだ。誰にでもできることじゃない。
カズマのテーマは、ずっと、ぎりぎりのドライヴ感を描くことだった。それは日常の中にある非日常、正気の中にある狂気。この世界の一歩、裏側には地獄がある。反対側には天国があるかもしれない。その距離は一歩。ほんの些細な何かで、何もかもがメチャクチャになる。でも、それを内包して普通の日常がある。そのギリギリの感じ。
そうだよね、昨日の夜までは、僕はアオイくんと再会するなんて思ってもいなかったんだ。それが、再会してから何時間かで、僕の初めてをあげちゃったりしてるんだよ。
カズマが知ったら、どんな顔をするだろう?
十年前、高校生のカズマは、授業中も休み時間もマンガばかり描いている、先生が嫌がる感じの生徒だった。先生が板書したことを全部ノートに取ってるアオイくんと、よく友達でいたなあって思う。なにかといい加減な僕が間にいたから、バランスが取れてたのかな。僕は二人とも好きだったけど、二人はお互いのことをどう思ってたんだろう。
カズマは、ひとと違うことをとにかく大事にしていた。でも、その違い方は「どこにでもいる普通じゃないひと」レベルで、彼はそのことに気づいていて、いつも傷ついていた。
「そんなにひとと違うことが大事? 別にどこかの誰かと似てても、カズマはカズマなんだけどな」
「真似なんかじゃ駄目だ。他人の借り物なんかで戦えるか」
カズマはひとりで、いつも、何と戦っていたんだろう。
たとえば彼が描いていたのは、セリフも、強調線も、擬音もないマンガだった。読んで楽しいものではなかったけど、僕はよく覚えている。一生懸命描かれていたから、一生懸命読まなきゃいけなかった。
内容は、ありきたりの不幸なお話だった。いいことがない女の子が毎夜手首を切って、でも寝て起きたら包帯を巻いてまた学校に行って笑ってるとか、悪いことで仲良くなった友達と一緒にいると悪いことをするしかなくて、加速度をつけるように破滅への道まっしぐらで、でも手首を切って寝て起きたら笑ってるとか、偶然みつけた世界を滅ぼすボタンを押したら昨日と同じ明日がやってきて、世界がもう滅んでいることに気づくとか、それでも毎日やっぱり笑って手首を切って学校へ行くとか、そんな話。
既成概念にとらわれたくないんだ、ってカズマは言う。僕たちが何か言う前に。
言い訳みたいだよ、って僕は思う。一生懸命描いてたら、それでいいのに。それだけで、僕は彼の描くものが好きになれるのに。
「なんで普通に描かないんだ?」
アオイくんが聞く。普通にどんなリアルがあるんだ、ってカズマは言い返す。リアルなことしか描きたくないんだよ。普通なんてどうしようもないじゃないか。
しばらく間があってから、聞こえないくらいの声で、つまんない奴、ってアオイくんは言った。普通にリアルを生きてる僕を何だと思ってるんだ。
十年経っても、相変わらずカズマの描いてるマンガは、あらすじにすればつまらない話だった。毎日痴漢されてる女の子が、痴漢される毎日を唯一の現実として、毎日を生きる話。ただ目を閉じていれば過ぎていく。どこにいても、生きていける。そうやって、少しずつ追い込まれていく。駄目になっていく。気がつくと、取り返しがつかない場所にいる。もう何もできなくなっている。でも、目を閉じていれば過ぎていく。生きている。生きていける。
成年指定にしても変わらないんだから、本当にカズマはこんなことが描きたいんだろう。
僕は首を振る。このままじゃいけないって思う。僕が、このままじゃいけないって思う。そうだよ、僕はカズマのマンガのヒロインみたいに、流されるまま生きてきたんだ。
でも、やっぱり、それだけじゃ駄目だ。
十年前の記憶。一度だけ、痴漢されていた見慣れない制服の女子を助けたことがある。やめてください、って僕は言った。無言で痴漢は僕を見下ろしてきて、僕はそれだけでもう、何もできなくなった。正義なんて、それだけじゃ何の力もない。悪いことはしていないはずなのに、怖かった。心底怖かった。
周りには、他のお客さんたちがいっぱいいて、でもみんな迷惑そうに見て見ないふりだった。放っておけばいいのに、って、みんな思ってた。
被害者の彼女にも、もちろん、感謝もされなかった。次の駅で降りて、振り向きもしないでいなくなる背中を、僕は居心地の悪さだけ抱いて見送った。何かすれば、それだけ居心地が悪くなる。もう、何もしない。あなたを見上げて、僕は誓った。もう何もするものか。未来には絶望しかないんだ。何をしても居心地が悪くなるだけだ。だったら、もう何もしない。
カズマは、そんな僕を肯定してくれる。現実って、そういうものだよなって。
でも、そんな僕で、十年後の今、アオイくんの隣にいたくない。
僕は十年前を思い出す。時間はただ、無限にあった。いつも隣に二人がいて、三人でひとつだった。それだけでよかった。今、やり直したいと思っている僕がいる。この十年を過ごした僕で、もう一度、あの頃に戻りたい。
十年前とは違うだろうか。未来には絶望しかないだろうか。可能性は失われたままだろうか。僕はアオイくんと再会した。現実は変えられるんじゃないか。今なら、またカズマにだって声をかけられるかもしれない。昔みたいに、三人でひとつになれるかもしれない。ひょっとすると、何か予想外の未来が待っているかもしれない。
僕は布団の中で、初めての気持ちを持て余しながら、夢みたいなことを考えていた。あなたが、そんなことを許す訳がないって、そのときは思わなかった。気づかなかった。


アオイくんの異動が正式に発表になったのは、年度の替わる一週間前だった。二十八歳の係長は前例がないって、みんなの噂になった。公務員の世界で、前例がないことってすごいニュースだ。僕も一緒になって驚いたふりなんかしてみる。バカみたいに。
ところで、アオイくんが結婚していること、子どもがいることを知ったのは、誰の口からだっただろう?
驚きよりも、納得の方が大きかった。嘘だ。控えめに言って、死ぬほど驚いた。その一言で石にならなかったのが不思議なくらい驚いた。いや、心は石化してしまったかもしれない。世間話を切り上げて、席に戻る。足下がおぼつかない。頭を抱えて座り込む。どうしよう。頭の中ぐるぐる、考えなんてまとまらない。
二十八歳の優等生なら、結婚していても子どもがいても、何の不思議もない。頭では分かる。でも理解できない。だって僕は、ついこの前、アオイくんと寝たばかりなんだ。十年間、ずっと僕が、アオイくんのことを考えていたんだ。
結婚して、子どもがいて、出世して。あとは家でも買って、犬でも飼って、それが幸せか。なんだそれ。
内示の日の夕方なんて、どうせ誰も仕事にならない。自分の席にもいたたまれなくて、僕は女子トイレに逃げ込んだ。鏡に映った僕は笑っていた。横目に見ながら、個室へまっすぐ走って扉を閉めて鍵をかける。崩れ落ちるように便器に座り込んだ。
僕は今、たぶん笑っている。分かっている。でも、笑う理由なんて何もない。僕は今、たぶん生きている。分かっている。でも、生きる意味なんて、何もないじゃないか。
目の前にあったから、というだけの理由で扉を殴る。大きな音に、少しだけ我に返る。何をしているんだろう。僕はいったい、何をしているんだろう。
当たり前の人生、と僕は思う。僕には考えられないけど、きっと、アオイくんの人生が普通なんだってことは分かる。結婚して子どもがいて、昔の同級生とちょっと浮気して。それが一般的な大人の生き方なんだろう。僕の知っているアオイくんはそうじゃなかった。でも、こっちが普通なんだ。現実なんだ。変わらない僕と変わらないアオイくんなんて、そんなの僕の妄想だ。変わるのが普通なんだ。僕がおかしいんだ。
あなたのことを僕は考える。トイレの天井を見上げる。僕に絶望を突きつけるために、幸せなアオイくんを用意したとしか思えない。対比することは、物語のいちばんの基本だから。
あなたの書く物語は退屈で、先を読むことなんてひどく簡単だ。僕はもう一度、壁を叩く。僕はこの現実を生きなきゃいけない。他人のものになったアオイくんと、同じ職場で、毎日一緒に働くなんて、そんなのってないじゃないか。
不幸は予想通りだ。そんなことで僕は傷つかない。でも、アオイくんはなんで僕と寝たりしたんだろう。そんなこと、しなくても良かったじゃないか。放っておいてくれれば良かったじゃないか。
トイレットペーパーで涙を拭いて、鼻をかんで、そのままトイレに流す。いつの間に僕は泣いていたんだろう。僕は無理に天井を見上げる。あなたの考える分かりやすい物語が、分かりやすすぎて涙が出るんだ。悲しい訳じゃない。悔しい訳じゃないんだ。

どうやって家に帰ったのか、覚えていない。僕はユニットバスにお湯を入れていた。湯気が泣きはらした目に染みるなあって、ひとごとのように考える。
湯船にお湯が増えていくのを見ながら、記憶が少しずつ戻ってくる。定時に職場を出て、まっすぐ帰る気になれなくて、都心に寄ったんだ。贅沢な夕飯を食べてみたけど、かけらも気分は晴れなかった。その後、ショッピングに行こうかお酒を飲もうか考えて、ええと、その後は?
「手首を切るのに適当なナイフはありませんか?」
「お客様?」
「ああ、冗談です。冗談」
何をしてるんだよ僕は。ひどい話だ。
どこでそんな馬鹿なことを言ったんだろう? たぶんどこかのデパートだけど、でもどこかは覚えがない。ああもう、しばらくデパート全部行けないじゃないか。
左手にコンビニの袋、中身は大刃のカッターナイフ。目的だけは果たしたらしい僕の、その執念深さが僕っぽい。こんなのが僕らしさか。
包装を乱雑に外して、カチカチと刃を出す。スーツをそでまくりして、左の手首にあてる。思い直して、もう少し目立たない、肘に近い場所に移す。そして、まっすぐ横に引く。
赤い。
痛みよりも熱よりも、まず意識に上ったのは色だった。僕にも赤い血が流れている。遅れて痛みがやってきた。湯船の上に腕をのばして、滴る血が入浴剤のように広がるのを見ている。なんか非現実的な光景。
血が減っていくにつれて、傷口が脈打っているのが分かるようになってくる。心臓の鼓動がリアルに感じられる。ああ、これがカズマの描いていた世界か、って僕は思う。カズマが実際に手首を切ったことがあるのかどうかは知らない。そんなの、たいした問題じゃない。
ところで、血が止まらなかったらどうしようか。
自殺したい? 自分に問いかける。だったらリストカットは湯船の中でするべきだって、そんな知識はある。体を温めて血圧を高くした方が血が止まりにくいとか、アルコールの摂取が血管の弛緩に効果的だとか、いまどきを生きるには必要な無駄知識。
首を振る。僕がしたいのは自殺未遂、まだ自殺したい訳じゃない。
なら、こんなことしてても仕方がない。
お湯を止める。とたんに静かになる浴室に、血が滴る音が響く。僕はちょっと怖くなる。干してあったバスタオルをとって、傷口を押さえる。強く押さえる。ベッドまで歩いて、めまいがして、そのままあおむけに転がる。
傷口を心臓より高く。非常識なことをしたのに、常識が僕を動かしている。おかしいだろ、それ。自分で切ったのに。
あなたは僕を見下ろしている。天井が遠い。強いめまいに、僕は目を閉じた。このまま血が止まらなければ、死ぬかもしれないと思う。
でも、死にはリアリティがない。
何か、現実的なことを考えよう。たとえば、死ぬ前にしておきたいこと。このまま死ぬんだったら、し残したことはないか。機密保護のためにパソコンのHDDを消去しなくていい? 携帯電話の発信履歴を消さなくていい? 部屋の指紋を拭って鍵をかけて密室にしなくていい? 火をつけて証拠を残さないように、全部リセットしなくていい?
何か、思いつくのはリアリティのないことばかりだ。
じゃあ、誰に死ぬって伝えたい?
友達なんていない、と僕は思う。ああ、でも友達だったひとはいる。カズマには連絡してもいいかな。
よろよろと起き出して、高校時代の名簿を引っ張り出して、カズマの電話番号を探す。きちんと保管してあるのが僕の弱さ、分かっていたけど、捨てられなかった。
せきばらい、発声練習。
伝えたいことは何もない。言えることなんて、何もないんだ。でも、僕にとって最高の時間は十年前だった、って確かめたい。最初の友達。たぶん最後の友達。最高の時間は十年前だったんだ。十年後の今は最低しかない。未来に希望はない。現実には、ただ絶望しかない。そういうことを、十年前の僕もカズマにぶつけていた気がする。
僕はあなたのことを考える。首を振る。考えたって仕方がないのは分かっている。でも、止められない。どんな不幸を、この先あなたは用意しているだろう。まだ、きっとこの先がある。不幸には限りがない。想像力に限りがないみたいに。
十年だよ、と思いながらケータイの番号を押す。昔から変わらない電話番号だけど、十年前は電話なんてしたことがない。電話なんてするまでもなく、ずっと会っていたから。
今、僕の気持ちが分かるなら、カズマしかいないんじゃないかって思う。ひどい話だけど、そういうところ、カズマは信用できると思っている。ずっと不幸を共有して来た仲だ。
「はい、イトイですが」
電話に出たのは、いきなりカズマの声だった。
ミサトと申します、夜分すみません。イトイ・カズマさんのオタクでしょうか、と、たどたどしく僕は言う。
声で、カズマだとは分かっている。でも、僕たちの間には十年の距離がある。十年前につながるなら、携帯電話じゃなくてタイムマシンだ。携帯電話は空間を越えられても、時間は越えられない。時間を越えるのは、いつだってひとの仕事だ。
「どちらのミサトさんですか」
カズマは僕の声を聞き分けてくれなかった。たどたどしく僕は息を吸う。緊張している。
夏丘高校で、と僕は言う。友達でした、と言おうと思ったけれど、社会人の常識が「お世話になっていました」を選択する。
ミサト・アキです。念のためフルネーム。
受話器の向こう側に広がる沈黙。カズマの困り顔が、すぐそばで見えるような沈黙。僕の顔は電話の向こうのカズマに見えているだろうか。どんな顔に見えているだろう。
ひさしぶり、とカズマは長い沈黙の後で言った。
ひさしぶりです、と僕は答える。
そして、また沈黙。今度は僕が先に耐えきれなくなった。
「今、よかったですか?」
「ああ、別に何もしてなかったから。何の用だった?」
そんな難しいことを簡単に聞かないで欲しい、と僕は思う。
少し考えてみたけど、いい嘘は思いつかなかった。「ずっと好きでした」? ああ、それなら言ってみる価値はあるかもしれない。でも、あまり嘘じゃないし。
「死ぬ前にしておくことがあるとしたら、カズマに連絡をしたいと思って。特に用はないんだ、ごめん」
「死ぬのか?」
「予定はないけど。手首を切ったから、ちょっと、臆病になってるのかもしれない」
「手首を切った?」
「自殺未遂」
何をしているんだ、とカズマは言った。
大丈夫だよ死なないから、軽い口調で僕は答える。ただ、手首を切ると少しだけ楽になるかと思って。
「なんだそれ。何のために、そんな馬鹿なことを」
「僕がまだ腐っていないことの証明、のため?
ほら、カズマが描いてたマンガの女の子が自殺未遂、よく、してたじゃないか。あれ、を、真似してみただけだよ」
「そんな、震えながら言う言葉に、説得力があるかよ」
「なら、どんな言葉なら納得してもらえるの?」
「なあ、本当のこと言えよ、聞くから。そのために電話してきたんじゃないのか?」
「んんんんん」
言葉にならない声を出してから、僕はため息をつく。本当のこと、と僕は思う。何が「本当のこと」だろう?
僕の白い肌に刻まれた赤い傷と、出血性のショックと、鈍い痛み。ユニットバスからバスタオルまで続く血痕。今の僕に分かるのは痛みだけだ。それ以外の何もリアルには感じられない。本当か嘘かなんて分からない。でも、もう何も感じたくないんだ。
「言わなくても分かってほしい、って、無理かな?」
言葉で僕を理解できるなら、他のなにかで伝えられるなら、手首を切る必要なんてないんだ。それが、カズマがずっと描いてきてたことじゃないの?
抱きしめられたいんだろうか、とふと思った。
現実的な回答じゃないのは分かってる。でも、後で振り返るかもしれない。あのとき求めていたのは、もっと動物的な何かだったんじゃないか。言葉とか理屈とかじゃなくて、体温とか、波動とか、僕はそんなものが欲しかったんじゃないか、って。
カズマの返答。
「無茶を言うな。おまえ、俺が「分かりました」って言ったら納得するのか?」
僕は黙って通話/切ボタンを押して、勢いで携帯の電源を落とした。枕元に放り投げて、なかったことにする。あああもう、言葉にならない声。カズマには何かができたんじゃないか、するべきだったんじゃないか。天井を見上げて、僕は深く息を吐く。彼が何かをしてくれたら、僕には違う未来があったかもしれないのに。それが八つ当たりだと分かるだけの理性は残っている。でも、感情はそれに従わない。
ベッドサイドに置きっぱなしの、マンガをもう一度手に取ってみる。表紙だけ見て、枕元に投げ返した。今は何もできない。呼吸ができるかどうかだって疑わしい。誰かに人工呼吸してもらわないと死んじゃうよ、と僕は思う。こんなときでも冗談は思いつくのか。
現実を受け入れろ、と僕は僕に命令する。少なくとも、抵抗は無意味だ。全部あなたが考えてるんだ。僕が不幸になるように、そういう物語を。分かってるんだろ?
分かってるんだよ、と僕は答える。でも、そんなの、ないじゃないか。

カズマのマンガには、自殺未遂ばかり繰り返す女の子がよく出てくる。自殺未遂はカズマによると、生きるために死のうとする行為なんだそうだ。生きていると死にたくなる、でも死にそうになると生きたくなる。
「もともと生きるって、そういうバランス感覚でするものだろ」
「まあ、みんないずれ死ぬけどね」
「でも死ぬまではみんな生きてるだろ」
そうだろうか、と僕は思う。「生きている」というのと、「息をしている」というのの間には、けっこう大きな距離がある気がする。きちんと生きていないと、呼吸もままならなくなるのも知ってるけど。
「鎖、を切りたいんだ」と、カズマのマンガの台詞。十年前なのに覚えてる。あのときも僕は手首を見ていた。十年後の僕も、同じように手首を見ている。鎖につながれている、手枷の痕が刻まれている。
つまり、傷跡。
初めて手首を切ったときから、たぶんその前から、僕は鎖に繋がれてる。見上げればあなたが、僕を見下ろしている。予定調和の不幸ですよ、と僕は思う。
どこにいても奴隷、あなたからは逃げ出せない。

風が吹き抜ける校庭を、僕たちは並んで見下ろしている。これは十年ちょっと前の記憶。世界はきらきらと輝いていた。鎖に繋がれていることなんか関係ないくらい、素敵な景色だった。学校は牢獄だなんて、ありがちなことを言うひともいる。きっと、それはそれで正しいんだろうと僕も思う。
でも、隣にカズマがいて、アオイくんがいた。牢獄かもしれない、でも、そこだけが僕の居場所だった。そこにしか僕はいなかった。
「僕が生きてるなんて、最低だよ」
どうして僕がそんなことを言ったのかは、よく覚えていない。たぶんカズマとアオイくんを困らせたかったんだと思う。そんなことばかり、僕はよくしていた。十年前、まだ子どもだった頃の話だ。
最低は最高とつながっている、とアオイくんは視線を合わせないままで言葉を返した。無限小に無限大は含まれ、無限大に無限小は含まれる。最低も最高も、確かな基準なんてないんだ。
「絶対値をとれば、最低は最高と等価かもしれない。
まあ、とにかくミサトが生きてるのは、そんな悪いことじゃないと僕は思うけど?」
絶対値をとるって、実際にはどういうことなのかって、振り向いて僕は尋ねる。どうやったら最低の気分を抱いたままで生きられるのか、って。アオイくんが、僕を慰めようとしてくれているのは分かる。でも、それだけじゃ足りない。
「アオイくんにとって、最低が最高なの? 最低な気分だとご機嫌?」
「最低の気分のときは最低だけど、考え方ひとつで浮上できるかもしれないとは思ってるよ。っていうか、そうしないと仕方がないじゃないか。
つまり、たとえば、背の高いひとは背の低くないひとだよね? バスケの選手には身長が必要だけど、F1ドライバーには逆に背が低い方が有利かもしれない。
価値観は相対的なんだよ。価値をどこに置くかですべてが決まる。絶対なんてないんだ。今の僕にとって最低でも、誰かにとっては悪くないかもしれないじゃないか。そんな不確かな基準で一喜一憂したくないんだ」
わかる? 僕はカズマに向き直る。
始めから理解する気のない彼は、小さく口笛を返す。よくわからないけど、すごい自信だ。それは褒めてやるよ。
相手にされなかったアオイくんは、つまらなさそうに空を見上げる。泣きたくなるような夕焼け。風が少し冷たくて、それが気持ちいい。ただ満たされているだけじゃ駄目で、多少の刺激が必要なのかもしれない。何かの象徴みたいだと僕は思う。
「マゾ」
僕に向けられるカズマの言葉は短く冷たくって、でも優しい。
高校三年生の秋は短くて、いつも夕焼けに照らされていたような気がする。同じ制服を着て、同じ場所にいた。いい思い出なんかないくせに、何もかもが美しかったような気がするのは、きっと今、美しさが足りないからだ。
十年後、二十八歳にもなった僕が、夢の中で思い出している。

扉を叩く音で目を覚ました。左手首の鈍い痛みに、さっきまでの続きなんだって思い知らされる。顔をしかめながら体を起こして、枕元の携帯電話を拾い上げる。電源が切れていた。何をしていたんだっけ? スーツを着たままで、床には血に染まったバスタオルが落ちていた。窓の外は夜の闇。
扉を叩く?
続いて、けたたましいインターホンが来客を訴える。誰だろう? 新聞も宗教も、こんな一生懸命に勧誘に来たりしない。誰も僕に用事なんてないはずなんだ。僕はのろのろとベッドを離れ、玄関の魚眼レンズを覗く。
十年後のカズマがそこにいた。
僕は玄関を離れて、呼吸を整えるために、息を吐いて、吸って、吐いて、吸って、あなたを見上げた。ちょっと、なんでいきなり来るかなあ。せきばらいを何回かして、インターホンを取る。
「なにしてるんですか」
「こっちの台詞、だ、っての。あんな電話、そりゃ、走る、だろ、普通」
息を切らしている。死ぬつもりはないって言ったじゃないか、ささやかな声で言い返すけど、カズマには聞こえなかったかもしれない。
「僕なら生きてるから大丈夫だよ。元気元気」
「嘘つけ」
「そんな信用ない? この十年だって生きてきたじゃないか。これからだって元気に生きていけるよ」
ああそうか、とカズマは言って、扉に背中を預けて、深く深く息を吐いた。魚眼レンズの視界がゼロになる。
お茶でも飲んでく? 僕は扉越しに声をかけた。何か話でもしていないと、沈黙が重すぎる。どうせ意味は同じなら、帰れって言えばよかったのかもしれない。
「おまえは、それでいいのか」
「何が?」
「うるさい、自分で考えろ」
僕はあなたを見上げる。カズマは何のために僕の物語に出てきたんだろう。きっと何か理由がある。僕を不幸にする理由があるに違いない。それがあなたの流儀だ。わかっているんだ。
僕は鍵を開けて、扉を開いた。体重を預けていた扉がなくなって、バランスを崩してよろける、十年前と変わらないカズマがそこにいた。
かっこ悪いひと。
おかげで僕は、カズマの前では飾らない僕でいられる。それが本当の僕だとまでは言わないけど、一緒にいて気楽なひとなんて他にいない。
病院に行かなくていいのか、というのが、体勢を立て直したカズマの一言目だった。目を見ないようにしながら、精神科? と僕は返す。産婦人科って言った方がネタとしてはよかったかな、どっちにしても笑えないなら。
出血は止まっている。まくり上げたブラウスの袖、いまさら治療の必要性も感じない傷口。カズマに見せつけるように僕は手を振る。伝わることなんか何も期待してないけど、元気だって繰り返す。
ああ、十年ぶりだって僕は思う。カズマの前で僕は、いつもこんな風に現実を茶化してきた。そうやって僕は現実と向き合う元気をもらってきたんだ。
「インスタントしかないけど、コーヒーでいい?」
「ああ」
「砂糖とミルクは?」
「任せる」
「ねえ、少しは主体性ってものがないの?」
「ひとの家にあがりこんで、いきなり主体性を発揮するのもおかしいだろ」
「それもそうか。じゃあ適当に準備するから、その辺に座ってて」
何にも深入りしない会話を続けながら、もちろん視線は合わせないように逃げ回りながら、僕は部屋を片付けてコーヒーを準備する。血の付いたバスタオルくらい隠せば、あとはどうにでもなるだろうか。フローリングにクッションを置いて、立て付けの悪い折りたたみの机を広げる。
「十年ぶり。すごいね、お互い生きてたなんて嘘みたいだ」
「こんな形で十年ぶりか。なんだよ自殺未遂って」
予想通りでしょ、と僕は言う。こんなことでもなければ、再会なんてありえなかった。僕は再会なんてしたくなかった。十年前で全部終わりで、それでよかったんだ。
「でも、ミサトが生きていて良かった」
カズマは真剣な顔で言う。だから死なないってば、そんなに殺したい? 僕は軽口をたたいて、コーヒーを啜る。インスタントコーヒーには味も香りもない。でも、コーヒーが必要なタイミングってあると思う。
「カズマは今は何をしてるの?」
「生きてるよ、ミサトの言い方をすれば」
僕の部屋を見回しているカズマ。実家にいた頃はお互いに行き来があったから、前の僕の部屋も知っている。この、何もない部屋はこのひとの目にはどう映るだろう。こんな分かりやすく殺風景な部屋じゃなくて、ぬいぐるみとかポスターとか、カモフラージュに置いておくんだったか。
「就職はしたんだっけ?」
「引きこもり、フリーター、ニート。呼び方はお好きなように」
「毎日が日曜日? いいなあ」
「週末ごと暇を持て余してた奴が言うか。どうせ今でも変わってないんだろ」
「僕はカズマと違って、ひとり上手じゃないもん」
「なんだそれ」
カズマはベッドサイドの本に気がついた。他に本がないこの部屋で唯一の本は、もちろんカズマのマンガだ。失敗した、隠した方が良かったかもしれない。手に取って、顔をしかめるカズマ。軽い口調で僕は声をかける。
「まだマンガは描いてるんだね」
「こんなの、描いてるうちに入るものか。くだらない」
「僕は気に入ったんだけどな。カズマは、カズマの描くものが好きじゃないの?」
「僕が本当に描きたいのが何か、知ってるだろ」
「変わってないの?」
あたりまえだろ、ってカズマは言った。そのために生きてるんだ。
哲学的な、分かりにくいファンタジーやSFを描いていた高校生の彼。よくアオイくんと言い合いをしていたことを思い出す。
そんな虚構に何の意味があるんだ、って、いつもアオイくんの言うことは同じだ。もっと他に描くことがあるだろう、現実から逃げるなよ。せっかく、それだけ描くことができるのに、そんな作品で言いたいことが伝わるのか?
これが描きたいんだ、って、いつもカズマは言い返す。マンガの中まで現実を追いかける必要がどこにある? 誰が読まなくても、誰に伝わらなくても、僕はこれが描きたいし読みたいんだ。僕の現実はこっちにあるんだよ。
その当時の作品は、ほとんど僕も見せてもらっていたと思う。当たりはずれはあったし、無計画に描き始めるから、よく作品として破綻してたけど、でも全部、一生懸命に描いていた。若かったから、だけじゃないと思う。カズマも、僕も生きてたんだ。
「今でも描いたら僕には見せてくれるものだと思ってたよ。本にまでなってるのに僕だけ知らないなんて、バカみたいじゃないか」
「きちんと描いたものなら見せるさ。でもこんなの、まともな奴の見る価値があるようなものじゃない」
「カズマにとって価値がある作品は、この十年、ひとつもないの?
僕はこの十年、カズマの作品をひとつも見せてもらっていないんだけど」
カズマから答えはない。それが答えか、って僕は思う。僕の十年には何の意味も価値もなかった。カズマも僕と同じなのか。ここにも僕と同じ絶望がある。生きていたっていいことはない。ああ、そんな現実を突きつけるために、あなたはカズマを持ってきたんだ。
僕は息を吸って、吐いた。そして言った。
「なら、もう描くのやめちゃえば?」
やめられないことは、僕が誰よりも知っている。やめてほしくないって、僕が誰よりも思っている。でも、そんなつもりで描いていて欲しくない。カズマは、もっと尖った存在でいなきゃ駄目だ。つまらないって言いながら、つまらない作品なんて描いてちゃ駄目だ。
まっすぐに目を見る。ここにいるカズマの向こうに、十年前のカズマがいるなら、僕の言葉も届くはずだ。僕は、十年前のカズマに話しかける。今の僕で話しかける。今の僕は、十年前の僕だ。僕は何も変わらないんだ。
「後ろ向きの言い訳しながら描いて、でも僕にも見せられないくらいなら、全部やめちゃえば?
カズマにとって絵を描くことが、カズマの全部だったんじゃなかったの? 僕にも見せられないようなものを描いて、生きてて、何の意味があるの?
僕が自殺未遂したら駆けつけてくれるのに、カズマは死んでるの? それでいいの?」
左手首の傷口が痛む。これが僕のリアルの証拠。僕の右手は、左手首をつかんでいる。痛みを引き出すために。僕の、精一杯のリアルを引き出すために。何か言いたそうなカズマ、でも、何も言わない。僕はじっと、その目を見続ける。
ひとつ描いて、って僕は言った。
今の僕にできる、できるだけのまっすぐで。
「どんなのでもいいから、僕のために物語をひとつ描いてよ。全力で。僕にできる全力で読むから。あの頃みたいに」
「そうしたらお前も生きていけるか?」
生きてみる、って僕は答える。生きていけるかどうかなんて僕には分からない。でも、生きてみるって約束するよ。
「わかった」
カズマは、僕の目を見て頷いた。ああ、やっぱりカズマはこの目をしてなきゃ嘘だ。僕がずっと見ていたカズマは、ずっと、この目をしていた。子どもの目をしていた。
あ、腕、とカズマ。視線を追って左腕を見ると、さっきの傷口からまた血がこぼれていた。強く握りすぎたからだ。ふたりであわてて傷口を押さえて止血する。カズマはもちろん、ほとんど役に立たない。
「っかし、少しは大人になれよおまえは。無茶ばっかしやがって」
「今、カズマの方が子どもの目してるよ?」
「おまえがさせてるんだよ。まったく」
残っていたコーヒーを飲み干して、立ち上がるカズマ。帰る、短く宣言する。ここで描いていってもいいよ、って提案してみたのは、引き止めたかっからかもしれない。カズマは肩をすくめただけで、何も言わなかった。扉を開けて、振り向いて、一言。
「エロマンガ描きとこんな夜中に、ふたりきりになるなよ。
こっちは年中そんな妄想ばっかしてるんだから」
おやすみ、とおだやかに僕は答える。カズマならいいよ、とか言った方がよかっただろうか? カズマが半分は本気だったことに、僕は気づいてる。二十八歳は十八歳とは違う。同じだけど違う。
閉じた扉に、ありがとうって僕は言った。カズマの背中に聞こえていても、聞こえてなくても構わない。ただ、言いたかったんだ。

ベッドに戻って、寝転んで、僕はあなたをまっすぐに見上げる。問題は何も解決していない。カズマなんか呼び出して、物語は複雑になっただけだ。でも、やっと役者がそろった気がする。ここからが始まりだって思う。
僕はアオイくんと、どうなりたいんだろう? あなたが決めることじゃない。物語の次の一歩を決めるのは、今、僕の仕事だ。アオイくんの奥さんや子どもさんを巻き込んで、別れる別れないの修羅場だってできるかもしれない。もちろん、このまま身を引くこともできる。ただの友達で部下、そこに落ち着くかもしれない。セックスフレンドもありだ。なんだっていいんだ。僕の望むことを、僕が目指していれば。
それに、カズマ。これから僕は、カズマとどうなるんだろう? 夜中に電話一本で呼び出して、このまま知らん顔はないと思う。十年経っても、全然変わらないカズマ。なんか、いつも隣にいたような気がするけど、でも十年ぶりだ。きちんと育ってる。なんか、カズマなら抱かれてもいいかもしれないとか、ちょっと思っている僕がいる。そんなことをしたら、どんな未来になるんだろう?
僕のためにカズマがマンガを描いてくるなんて、十年前でもなかったことだ。どんな作品を描いてくるんだろう。僕のために何か描くって、カズマが僕のことをどう思ってるのか、ってことだ。もし性描写もないような作品だったら突っ返してやろう。今、カズマは十年前より遠くまで行けることを僕はもう知ってる。ヒッキーでニートかもしれないけど、そんなのカズマがカズマであることに比べたら些細な問題だ。たとえば僕ひとりの稼ぎで、カズマとふたりで食べていくことくらいならできるんだよ。僕が僕でいられて、カズマがカズマでいられるなら、僕はそれだけでいい。
未来は絶望的かもしれない。だって、あなたはそこにいる。僕を通して、あなたはあなたのつまらない人生に文句を言うつもりかもしれない。きっと、僕の未来には不幸ばかりが待っている。そんなの、アオイくんがいたってカズマがいたって、きっと変わらない。
けど、僕の人生を評価するのは僕だ。アオイくんがいて、カズマがいる未来だったら、それでも楽しめるかもしれないって僕は思う。目を閉じて、息を吐く。蝶々の姿をした眠りが僕を呼んでいる。
きっと僕は十年前の夢を見る。そんな確信を抱きながら、ゆっくりと僕は眠りに落ちていった。

ウェイトレスが、やる気なさそうに水のおかわりを注ぎに来た。店の中は、相変わらず眠っているみたいだ。今が十年前なのか十年後なのか、一瞬分からない。昼下がりのファミレス、窓の外は春の日差し。僕は黒い襟のセーラー服を着て、カズマとアオイくんは詰め襟の学ランで。何も変わらない、おだやかで、どこにでもある、昨日と同じ一日。
でも、砂時計の砂がこぼれ落ちるように、ゆっくりと、でも確実に別れの時間が近づいている。息を止めても、目を閉じていても。僕がいても、いなくても。変わらず、昔から、今でも、この先も、ずっと、時間は流れている。
あなたは、いつも僕たちを見下している。十年後、と僕は思う。ありえるかもしれない未来。十年経てば十年後はやってくる。あなたの考えていることなんて、簡単に分かるんだ。
「そろそろ行こうか」
「ま、潮時だろうな」
まるで明日もそのままあるような自然さで、アオイくんが席を立った。つまらなさそうな顔で続くカズマ。僕は、そんな簡単にお別れできない。
「なにしてるんだ」
振り向いたカズマに言われて、考えごと、って僕は答える。
「ちょっと考えてたんだ。十年後の僕が今を振り返ったら、どう思うかなって」
「明日のことも分からないのに、十年先のことが分かるかよ」
「百年先は分かるんだから、分かるかもしれないじゃないか」
もちろん、百年先はみんな死んでいるだろう。それまでに、どれだけの幸せを僕たちは感じられるだろう? 不幸な未来を書こうとしている、あなたのことを僕は考える。僕は、どこにいても幸せを探せると思う。あなたには負けたくない。
「ミサト、カズマ、来ないと置いてくよ?」
逆光、自動ドアで振り返ってアオイくんが呼んでいる。見慣れたシルエット、これを見るのも最後かもしれない、って僕は気づく。
ちょっと待ってと言うべきか、先に行っての方が相応しいのか、僕はとっさに言葉が出ない。カズマが僕の背中を叩いて、歩き出す。僕は黙ってそれに従う。ああ、言葉がなくても生きていける、って僕は思う。
店の外は春の日差しがまぶしくて、僕たちはそれぞれに目を覆った。未来、と僕は思う。目を開けていられないくらい、春に包まれている。その先に夏があって秋が来て冬が待っている。未来なんて、だいたい決まっている。きっと十年後の今も春だろう。
いい大人になれよ、ってアオイくんは言った。そのうち追いかけるからさ。
いいなあ大学生、思ってもいないことを僕は答える。一足早く社会人になるのは正直、怖い。でも、決めたのは僕だ。
「先に行くね。」
僕は、あなたのことを考える。追いかけてくるアオイくんの道標になるために生きるなら、未来を生きていくことも怖くないかもしれない。十年後、素敵な僕でアオイくんに抱かれるために、って考えたら、ひとりで生きていくのも悪くないじゃないか。
何か言いたそうで、でも言い出せないカズマに、僕が先に声をかける。
「何か描いたら送ってね」
「頼まれなくても」
約束だよ、と僕は言う。カズマは頷く。
霞の向こうに太陽がある。空を見上げて僕は祈る。何の奇跡もいらない、ただ僕たちの未来を、僕たちが生きられますように。僕たちが、僕たちのままでいられますように。僕たちらしい僕たちを生きられますように。
アオイくんがカズマの肩を叩く。その肩をすくめて、カズマは何も言わない。すべての言葉はさよならだ。今、さよならは言いたくない。でも、さよならなんだよ。
「先に行くね。」
もう一度、僕が言う。僕が言わなきゃいけない。一歩、先に進んで、振り向いて。そこに過去がある。僕もそこにいる。でも、もういなくなる。
別々の未来が始まる。時間なんて無限にあったはずなのに、もう、取り返しのつかない場所にいる。過去が終わってから、未来が始まるまでの刹那。今が最後の、夢みたいな時間。もう、取り返しがつかない。
違う、取り返しなんて、つかなくていいんだ。
取る必要があったものは全部もう取ってきたはずだ、と僕は思う。未来が待っている。取るものを取って、持つものを持って、これから僕たちは未来へ進んでいくんだ。
あなたは全部見ていたはずだ、と僕は思う。この先は、あなたへの挑戦だ。十年後、どんな未来が待っているのか、僕は楽しみで仕方がない。カズマがどんなマンガを描くのか、アオイくんと、その妻子と僕の間で、どんな修羅場が待っているのか。
生きてるって、楽しいじゃないかと僕は思う。そして、前を向いて歩き出す。今は別々の未来へ。十年後にまた、重なるかもしれない軌跡を信じて。

あなたは、筆を置いて、こきこきと肩を鳴らす。
こんなはずじゃなかった、とあなたは思うかもしれない。僕が書きたかったのは、もっと違う物語だったはずなのに、と。
物語が作者の思うとおりになるなんて思うな、と僕は思う。そんな、片手間に物語を書いているサラリーマンに、僕たちの人生が全部、動かせるものか。
僕は、あなたが存在していることを知っている。僕たちが作られた存在に過ぎないことに気づいている。
でも、僕の物語は僕のものだ。
僕は僕のすべてで、僕を生きている。僕でいるために一生懸命だ。全力を尽くしても足りないくらい、僕は僕でいようとしているんだ。
悔しかったら全力でかかってこい、と僕は空を見上げて、あなたにつばを吐きかける。
あなたは、全力であなたを生きるべきなんだ。
それができないなら、僕の物語を書く意味なんてない。あなたには、僕の物語を書く資格はない。僕は目を閉じる。あなたが、あなたを生きられるように祈る。全力で生きられるように祈る。僕が、そうであるように。
そして、あなたに恥じることのない僕でいるために、僕は僕を一生懸命に生きることを、あなたに誓う。それがきっと、僕の生きている意味だ。

これは、全部僕が考えた物語です。

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