前日譚


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A Prequel of LUNA

音色の彼方 前日譚


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—1—

 今日もメタファルスは陽気に包まれている。この気候はしばらく続いており、寒い時節にはとてもありがたいものだ。一点の曇りもない空には優雅に飛ぶ鳥のほか、飛空挺の姿も見える。

 メタファリカ創成の日から三年、すなわちメタファルス地域の在り方が大きく変わって三年の月日が経った。現在はほぼ全ての住人がリムからメタファリカ大陸へ移住し、生計を立てている。また、惑星再生と塔間ネットワークの整備によって各地域からの旅行客も増えており、首都インフェリアーレでは毎日のように飛空挺が発着している。そのせいもあって、インフェリアーレは旅行の準備をする人や、各地域から訪れている人で溢れている。

 メタファリカの主要都市の一つであるラクシャクは、住宅街と商店街、また各地をつなぐ駅がある。飛空挺を使えば各地へはすぐに行けるのだが、飛空艇は割高なので今でも駅を利用する客は多い。
 商店街では、料理屋・ボンベルタンが今日も盛況しているようで、人の行列が出来ている。リムに在った時と変わらぬ店で、料理の質もいい。個性的な店員を目当てに来る客もいるのだが……。
 住宅街には、一戸建ての家もあれば、集合住宅のような高層の建物もある。今日は恵まれた陽気で人通りが多く、通り抜けるのに多少苦労しそうだ。その中の一軒の庭にはいくつか花が植えてある。
 その家に住むレーヴァテイルの少女、ルーナは椅子に座って本を読んでいる。どうやらそれは花の図鑑のようで、彼女のお気に入りの一冊だ。たまに曲を口ずさみながら、ゆっくりとページをめくっていく。髪と同じ色の縁の眼鏡を通して、一つ一つ花を見る。彼女はメタファルスに咲く花を集めてみたいと思っているが、今は難しい。体力的な問題もあるが、それ以前に彼女が抱える障害——対人恐怖症が最も大きな課題である。
 しばらく図鑑を読んでいると、上の階から声が降ってきた。

「ルーナ、明日の件だが……」

 そう言って二階から下りてきたのは、同じくこの家に住む、ネルだ。彼とルーナは双子の関係にある。二人は両親を不慮の事故で亡くしており、現在この家に住むのは彼女達だけである。
 灰色のジャケットに身を包んだ彼は、これから出かけるようだ。左手にバッグを持ち、いかにもこれから仕事にでも行くような格好をしているが、用事はそれではない。

「これから、飛空挺に乗るためのチケットを買いに首都へ行ってくる」

 そう、明日は両親が亡くなってちょうど七年になる。リムのベードリエリア、すなわち旧ラクシャクにあるスフレ軌道跡に墓参りに行く予定なのだ。

「なるべく早めに帰るつもりだが、何かあったらテレモで連絡してくれ」
「……うん。気をつけてね」
「行ってくる」

玄関へ向かうネル。彼の背中は、少しだけ眩しい。

「行ってらっしゃい」

その背中へ、言葉を投げかけた。
 出かけるのを見届けたルーナは読んでいた図鑑を置いて、玄関の扉をしっかりと施錠した。

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—2—

 家を出たネルは、早速飛空挺のチケットを購入しに首都インフェリアーレへ向かった。ラクシャクとの距離はそこまで遠くなく、列車を使っておよそ一時間ほどの場所にある。毎日多数の列車が両都市の間を行き交っている。
 運賃を支払い乗車したネルは、家に残してきたルーナのことを考える。家のセキュリティは十分に施してあるが、万が一のことを考えるとなるべく早めに帰った方がいいだろう。
 しばらく列車に揺られ、首都インフェリアーレに着いた。富豪が集まる都市と言われるだけあって、装いの華やかな人が多い。また、御子がいる場所でもあるため、至る所で大鐘堂の騎士が周囲に目を光らせている。ネルの友人にも一人だけ騎士がいるが、どうやら今はここにいないらしい。

(時代が変わっても、ここは変わらないな……)

 メタファリカが出来る前のパスタリアを思い返していたネルは、帰りを待つルーナを少しでも早く安心させるため、飛空挺の発着場へ急ぎ足で向かった。
 リムへの便は、一日に二回しか出ていない。もはや人はほとんど住んでおらず、数少ない物好きが行く以外に利用する人はまずいないからだ。列車の運賃に比べると飛空艇のソレは非常に高く、頻繁に乗れるものではない。しかし、リムに行く手段が飛空挺しかない以上、背に腹は変えられない。二人分のチケットを購入し、来た道を引き返そうとしたその時だった。

「ルカ様!」

 声がした方向を見てみると、たった今着いた飛空挺から誰かが降りてくるのが分かった。御子の瑠珈・トゥルーリーワースだ。彼女は外交や祭祀などを行う御子であり、メタファルス政権を担う御子、クローシェ・レーテル・パスタリエと共にメタファリカ大陸の創生を成功させた当人である。
 周囲にいた人々は次々と道を開け、御子が通れるようにした。メタファルスに住む人々にとって、二人の御子は尊敬の対象だ。御子本人はそれを見て、困ったような表情をしている。一緒に降りてきた、専属と思われる騎士はため息をついている。

(これは、しばらくここから離れられそうにないな……)

さすがに人の流れを無視して歩くほど、無理なことはしない。下手に騒動になっても面倒だ。
 考え事を終えてふと顔を上げると、ルカがこちらに手を振りながらやってくるではないか。少しだけ、表情が硬くなる。公の場で御子と接するのは、あまり褒められたことではないからだ。

「こんにちは、ネルさん。今日は、ルーナさんは一緒じゃないのかな?」

ルカは気さくに話しかけてきた。自分もルーナも、彼女のことは知っている。いや、知っているどころの話ではない。彼女もまた、自分やルーナのことをよく知っている。しかし、問題なのは公の場で話をしていることだ。周囲の人間が黙っているはずもない。

「ルカ?」

専属の騎士がルカに注意を促す。それは、公の場で一個人に話しかけたことに対してなのか、周囲の人を気にしているのか、あるいはその両方か。
 その騎士に申し訳なさそうな顔を向けると、一度ルカに向き直る。

「御子様ともあろうお方が、僕のような一介の民を覚えておいでとは光栄です。御子様のおっしゃる通り、今日は彼女は連れておりません。理由は以前お会いした時にお話ししたと存じますが……」

失礼のないよう、言葉を選びながら話す。ルカは少し目を伏せている。

「僕と御子様を除き、彼女は他人と接することが難しい。彼女が怯えるようなことは、僕が望みませんから」

話す口調は淡々と、しかし不快感を与えないように注意して。
 ここまで聞いて、ルカは何か考えているようだ。

「クロア、次の行事までどのくらい時間があるか分かる?」
「まだ時間に余裕はあるさ。だけど、何を……?」

 ルカは何を考えているのだろうか。彼女は、自分とルーナの関係を知っている。そこから推測されるのは……

「それなら、少しお話していかない?」

この発言。自分にとっては、おせっかいも過ぎると思う。

「ルカ、それは……」

 当然、騎士のクロアもそれは許さないだろう。だが

「少し気になることがあるの。お願い、時間は守るから」

 御子の意思は誰よりも尊重される。それが示すのは

「……分かった」

 クロアの観念した台詞。こうまでされては、自分に否定する権利はどこにもない。
 クロア、ルカと共にその場を離れ、喫茶店へ行くことになった。そこに着くまでの間に、帰る時間が遅れることをルーナに連絡しておいた。


 喫茶店に入ったのはいいが、やはりネルは奇異の目で見られた。それも当然だ。この場にいるのは御子とその専属騎士だ。その立場とは離れすぎている自分にとっては居場所が悪い。
 各々にドリンクを頼む。最初に会話を切り出したのは、もちろんルカ。

「やっぱり、まだまだ時間がかかるのね?」
「ええ。恐怖心を克服させるのは、すぐにどうにかなるものではありません。この間提案して頂いたダイブなら、その限りではないのかもしれませんが……」

 話題は、ルーナの恐怖症についてだ。何も知らない様子のクロアを見て、ルカは少しだけ説明をする。それを聞いたクロアは次のように尋ねた。

「つまり、ネルはその彼女に対して何人かダイブを試みている、ということですか?」
「そうですね。もちろん彼女がダイブされることを受け入れた人だけですよ」
「君は、ダイブはしたのか?」
「ええ。詳しくは話せませんが、何度かパラダイムシフトも起こしています」

 それを聞いたルカとクロアは驚愕の表情を浮かべた。

「それなら、彼女はもう変わっているはずじゃないの?」
「御子様の疑問はごもっともです。しかし、彼女が変わったのは僕への対応だけです。おそらく彼女の自信がまだ足りていないのでしょう」

 自信。言い換えれば、他人に自分を見せるための勇気だ。
クロアはその言葉に確信に近いものを覚えたのか、確認するかのように尋ねた。

「他の人にもダイブをさせて、パラダイムシフトを起こす必要がある、と?」
「そういうことです。彼女自身も、そう言っていましたから」

 沈黙。それぞれが考え事をしている。
 それを破ったのは、またしてもルカだった。

「ルーナさんと話すことは出来る?」

 それは、十分に予想していた台詞だった。ルカがルーナのことを話した後には、必ずテレモで本人と話をしている。
 ネルにそれを拒否する理由はない。むしろ話せる相手とは積極的に話をさせておくべきだと考えている。

「テレモを使えば可能でしょう。少しだけ待っていてください」

御子に断りを入れてから、ルーナのテレモに通話を入れた。

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—3—

 少し時間は遡る。
 ルーナは先ほどまで読んでいた図鑑を元の位置に戻して、二階にある自分の部屋へ。その部屋は、外界の音を遮断する防音仕様だ。彼女は、ネルが居ない時は大抵ここで時間を過ごしている。
 両手で抱えて持ち歩けるサイズのハープが、ここには置いてある。ルーナは、メタファルスではそこそこ有名なハープ奏者だ。毎日というわけではないがファンレターが届くこともあり、彼女の人気がよく表れている。
 ルーナはハープを持って椅子に座ると、気の赴くままに奏で始める。ハープを弾いている時間は、彼女にとって至高のひと時。対人恐怖症を持ち、他人と満足に話が出来ない彼女にとって、ハープを奏でることが自分を表現するための方法の一つなのだ。来る演奏会のために、毎日練習を重ねている。
 弾き始めてから少し時間が過ぎた。ルーナは一旦弾くのをやめ、机に無造作に置いてある楽譜を読む。まだ覚えきれていない部分を確認しているようだ。どのように弾くか、どんな指遣いをすればいいか、少しずつ譜面を読み進めていく。楽譜には音の並びだけでなく、歌詞も綴られている。これは、弾き語りの譜面だ。
 確認が終わったのか、再びハープを持って演奏をする。今度は最後までつっかえることなく弾ききった。まだ弾き語りはしていないが、そろそろ歌いながら演奏出来るようになる頃だろう。ハープを弾いたり、歌ってたりしている間は、他のことを考えなくてもいい。自分のことも、他人事のように何も考えずに済む。
 もちろんそんな時間がいつまでも続くはずはなく、持ち込んでいたテレモに着信が入る。メッセージを受信したようだ。そこには

「首都で少しトラブルがあって、チケットの購入に時間がかかりそうだ。昼食は一人で済ませても構わないよ」

とある。すっかり忘れていたが、もうそろそろお昼時だ。
 ハープをケースに戻し、部屋を出る。先ほどまで遮断されていた外の喧騒が耳に入る。階段を下り、テーブルの上を一通り整理してから、キッチンへ。冷蔵庫を開けて材料を確認する。昼食のメニューを決め、早速調理へ。材料を捌く手がぎこちない様子を見るに、料理は得意ではないようだ。少し時間をかけて調理を終え、昼食にしようとすると、再びテレモに着信が入った。今度は通話だ。テレモを取り、

「……ネル?」
「御子様が、少し話をしたいそうだ」

ネルの声は、ほんの少しだけ強張っていた。

「御子……様?」
「ルカ様だ」

思わず、テレモを取り落としそうになる。本当にいきなりだった。緊張でうまく喋れない。何しろ、あの「ルカ」だ。御子である彼女が、どうして……? しばらく返答がないことで悟ったのか、ネルは続けた。

「ちょうど、ルカ様が首都に帰還したところに出くわしてな。ルカ様自ら、僕の方にいらっしゃったんだ。ルーナのことを覚えてくれているみたいでね。少しの間、ルカ様に変わるよ」

普通に聞けば、まずあり得ない話である。何せ、ルーナもネルも、一般階級のメタファルス人だ。そんな人は特に大鐘堂へのつながりもなければ、御子との接点もないはずである。
 では、どうして彼らに接点があるのか。

「ルーナ、半年ぶりかな?」
「御子様……お久しぶりです」

 彼らが接点を持つ理由には、ルーナの事情が大きく関わっている。ルーナは一昨年から年に二回、個人で演奏会を開いている。その初めての演奏会にルカが聞きに来ていたのだ。そこでルカはルーナと、そしてネルとも会話をした。はじめこそルーナは恐怖に陥っていたが、何度かルカと話すうちにその恐怖は薄れていった。
 ルカがレーヴァテイルだからなのか、似た過去を持っているからなのか、あるいは他に理由があるのか、本人も分かっていない。ルカの飾り気のない接し方に感化されたのだろうと、ネルは言っていた。それが真実かどうかはさておき、ルーナにとって、ルカはネルと同じく特別な存在となった。気兼ね無く会話が出来る、そんな存在に。

 ルカと話したのは、ルーナ自身のことだ。自身が対人恐怖症を持つことに対して、ルカは真摯に話してくれる。彼女の言葉は、私に希望の火を灯してくれる。それは、ルーナの楽しみの一つになっていた。

「それじゃルーナ、頑張ってね。次の演奏会も、期待してるからね」

御子のありがたい言葉を、胸に刻む。

「ありがとうございます。御子様」

お礼の言葉を、テレモ越しに伝える。
 通話が切れ、再び意識が元に戻される。相変わらず外の喧騒が聞こえるが、今は先ほど調理したものを食べることに専念することにした。
 普段はネルと一緒に食べているため、少しだけ落ち着かない様子だ。だが、御子と話したことで不安は少しだけ和らいでいた。一緒に用意しておいた茶を飲み干し、食器を一度流し台へ。口周りを軽く拭き、食卓の上を水拭きする。そして、シンクで水につけておいた食器を洗う。
 一通り片付けを終えると、本棚から図鑑を取り出してネルの帰りを待った。その目は、たしかに希望の光が強くなっていた。

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—4—

 ルカは通話を切ると、丁寧にネルに返した。彼女の表情には、少しだけ陰りが見える。

「やっぱり、まだ時間がかかりそうだね……」
「恐怖症というのは、一朝一夕にどうにかなるようなものではありません。可能な手段を講じて、少しずつ回復させていく必要があります。まだ彼女には、何とかしたいという意思がある。それが消えてしまう前に……」

一旦言葉を切る。ルカは何か思うことがあるのか、少し考える仕草をしている。

「本当はもう少し何かしてあげたいんだけど、この立場だからね。ルーナさんが早く回復するように祈ってるよ」
「ルーナのことを激励して頂いて、ありがとうございました」

丁寧に一礼する。
 3人は喫茶店を後にし、クロアとルカは大鐘堂へ向かっていく。その背中を見て

(やはり御子だな……)

 素直にそう思った。重要な立場にあることを忘れず、しかしそれに驕ることなく民と接する。普通ならその立場に驕り、高圧的になってしまうのが人間だ(彼女はレーヴァテイルだが)。言うことは易し、行うは難し。それを実行出来るだけ、人間が出来ているのだろう。
 ぐぅ、とお腹が鳴る。そういえば、とっくに昼食の時間が過ぎていた。先程の喫茶店で何か食べておけばよかったか。
 さすがに空腹の状態で動き回るのは酷なので、どこかのレストランで食事を済ませることにする。


 その頃、家でルーナはずっと図鑑を見ていた。通話を終えてから二時間は経っているだろうが、退屈していた様子は窺えない。
 一通り図鑑に目を通し終わると、玄関の鍵を開ける音が聞こえた。図鑑をテーブルに置き、玄関へ向かう。

「ただいま。変わったことはなかったかい?」
「おかえり。今日も、特に何も……。荷物、預かるね」
「ああ、すまない。着替えてくるから、少し待っていてくれ」

持って帰ってきた荷物を受け取ると、ネルは二階へ上がっていった。
 しばらくして、普段着に着替えたネルが二階から降りてきた。彼はルーナにテーブルに着くよう指示し、自分もまた彼女と反対側に座る。

「今日、御子様と話してみてどうだったかい?」
「御子様は、本当に眩しい方ね。演奏会の時も少し話すことがあるけど、ずいぶんと苦労されて今の姿になったのだと聞いているわ」

ルーナは、ルカとの会話の一つ一つ噛み締めているようだ。その表情は、少しだけ和らいでいるように見える。

「御子様から、勇気を頂いたと思う」
「そうか。それなら電話して頂いた甲斐があるよ」

ルーナは微笑み、それを見たネルも表情を緩める。
しかし、緩めたのはほんの一瞬。すぐに表情を引き締めた。

「それで、ダイブの成果は出ているのか?」

 御子から教えられた、レーヴァテイルの心を癒す方法、それがダイブだ。レーヴァテイルの精神世界に入り、抱えている問題を解決して心の変化を起こすというものだ。ダイブ中にパラダイムシフトを起こすことで、レーヴァテイルの心に変化が起こるのだ。
 現にネルはルーナへダイブし、これまでに四回のパラダイムシフトに成功している。そうでなければ、双子の関係にあるネルに対してすらも、ここまで喋れるようにはなっていないはずだ。
 既に何人か、自分の現状に対して共感を持ち、何とかしたいと考えていた人にダイブを頼んだことがある。しかし、今までパラダイムシフトに成功した者はおらず、変化が起きていないのだ。それは、ダイブ中にクリティカルダウンを起こし、正常に完了出来ていないことを示している。
 ダイブされることを許容出来る人を見つけるのは容易ではない。それ以前に、自分は外出する機会があまりに少なすぎる。人を見つける以前に、人を探すことを嫌がるように。そのことを考えたのか、ネルはこう言ったのだ。

「そろそろ、自分から外へ出てみないか?」

 この一言に、息が詰まる。予想していた台詞ではあるが、どうしても視線をそらしてしまう。

「私は……」
「辛いのは分かる。だが、このままでは何も出来ないのも分かっているのだろう?」

 キュッと唇を締める。ルーナにとって、外の世界は恐怖そのものだ。メタファリカが出来てから3年、一体何度外出しただろうか……。おそらくは、両手で数えられるほど。演奏会と、墓参り。それ以外の日は、一日を家の中で過ごしている。
 少しだけ考える。だが、今ここで答えが出そうにない。

「……ごめん。少し、一人にさせて……」

 そう言って席を立ち、自分の部屋に入った。一人残されたネルの表情を読み取る事は出来なかった。その代わり、自分の名前を呟くのが聞こえた。

「ルーナ……」

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—5—

 自分の部屋に入ったルーナは、しばらくの間ドアに寄りかかっていた。自分のことを懸命に考えてくれている彼に、酷いことをしてしまったと後悔しているようだ。自分の手を見つめているが、その視界は溢れる涙でぼやけていく。

(ダイブされるのは、やっぱり怖い……)

 そう思うのは当然だ。ダイブという行為は、レーヴァテイルの心を覗くようなもの。レーヴァテイルにとっては自分の心を曝け出すことと同義。何度行おうとも、その恐怖心が薄れることはない。ましてや他人に対して恐怖心がある彼女なら、なおさらである。

(いつかは、見つかるのかな……?)

 赤の他人を受け入れれば自分は変われると、そう感じている。しかし、そんな相手が見つかるのかどうか、今までの経験からは不安しか生まれてこない。
 涙を拭い、一度深呼吸をして机の前に向かう。そこには、今朝練習していた曲の楽譜が散らばっている。そうだ。今私を表現出来るのは、これだけだ。演奏会の時だけは、これで自分を表現しているのだ。
 ケースからハープを取り出し、しばし奏でる。体に染みついている曲、耳に残っている音色の記憶を頼りに弦を弾いていく。弾いているうちに、また涙が零れる。この曲は、両親をI.P.D.暴走事故で亡くした際、弔いの場で演奏した曲だからだ。


 あの時の、事故の記憶がまざまざと蘇る。I.P.D.に対する恐怖と怒りが溢れてくる。



「あ……ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっ……」



 堪らず、へたり込んでしまう。ハープを抱え込み、蹲る。涙は止まらず、次々に溢れ出てくる。
 当時の記憶は、彼女に深い傷を残していた。自らの持つ力、詩魔法による事故は、結果としてルーナはそれに呑み込まれるという結果を招いた。自らの力の意味を見失い、他人を傷つけることを恐れるが故に、他人と接することに恐怖を覚えるようになってしまったのだ。
 何とか詩魔法の暴走は抑えられているものの、負の感情が溢れてくる。息が詰まり、声が出なくなる。

「......っ......かぁっ......」

 胃が捻れる感覚に、体をくの字に曲げる。意識が切れ切れになり、手に持っているハープを落としそうになる。かろうじて意識は保っているものの、そろそろ限界だ。少しずつ力が抜けて......。

「ルーナっ!? 大丈夫か!?」

 悲鳴が聞こえていたのか、いつの間にかネルが来ていた。鍵は、多分閉め忘れていたのだろう。蹲っている自分を抱きかかえ、ゆっくりと体を起こす。次にハープを手から離し、側に置いてあるケースへ。

「ゆっくり力を抜いて、深呼吸をするんだ」

言われた通り、体をネルに預けながら深く息を吸い込み、そして吐く。抜けかけた力は完全に抜け、ルーナは意識を失った。

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—6—

 いつの間にか、夜になっていた。私はベッドで横になっている。そうか、あの時私は......。
 また、迷惑をかけてしまった。恐怖症のせいで、いつもネルには迷惑をかけているのに......。

「気がついたか?」

側に、ネルがいる。彼が、このベッドまで運んでくれたのだろう。

「ごめんね、ネル」
「謝らなくていい。これは僕達に共通する問題なんだ。I.P.D.の暴走事故、現在は発生していなくても、この悲しみは忘れてはいけない。ルーナの反応は、むしろ正しい」
「…………」

 私の反応が正しいとは、どういうことだろうか……。その答えを聞くことは出来なかった。

「さて、僕は晩御飯の準備をするよ。出来上がったら呼ぶから、休んでいてくれ」

 言うや否や、一階へ降りて行ってしまった。彼もあの事故で傷を負っているはずなのに、それを微塵も見せようとしない。

「ネルは、本当に強いね」

その強さが、本当に羨ましかった。こんなにも弱い自分が、彼を見ていると馬鹿馬鹿しくなってくるほどに。
 ルーナはベッドに身を預けたまま、意識を深くに沈めていった。


 外を見ると街灯が辺りを照らし、子供の姿はいなくなって大人の世界が広がっていた。この街は、夜も明るい。商業都市と言われるだけあるが、それでもここまで明るい場所は少ない。
 ルーナとネルの二人は、晩御飯に食べている。今日の晩御飯は鶏肉のソテーに野菜の盛り合わせ、鶏肉の出汁で作ったスープに白米という組み合わせだ。ネルの作る料理は自分が作るものに比べて段違いに美味しい。一体どこでそんな技術を身につけてきたのか、不思議に思うところだ。

「ああ、そうだ。今日は首都の方で買ってきたものがあるんだ」

そう言って、ネルがバッグから出したのは……入浴剤?

「お茶のような入浴剤、らしい。ちょっとした風情が味わえるとか言ってたかな。その雑貨屋のイチオシ商品らしい」
「へぇ〜。そんな入浴剤があるんだね。でも、風情って何かな?」
「それについては、教えてもらえなかった。まぁ、気分転換になると思って買ってきたんだ。後で使ってみてくれ」

他愛のない会話は、晩御飯が終わるその時まで続いた。
 ルーナが食卓を片付けている間に、ネルはさっさと入浴を済ませていた。相変わらずのカラスの行水だ。寝巻きの姿、ではなく別の普段着を着て出てきた。入浴剤は、使っていないようだ。

「明日は大変な一日になるだろう。ゆっくり体を休めておかないと」

 ネルの言うことはもっともだ。明日は飛空挺でリムのベードリエリア、すなわちラクシャクがあった場所へ行き、そこから歩きでスフレ軌道跡にある墓へ。そこに、両親の魂は眠っているのだ。おそらく、丸一日つぶれるだろう。
 ルーナは、ネルが買ってきた入浴剤を手に、浴室へ。
 張ってある湯に、入浴剤を投入。彼が言っていた通り、お茶みたいな色になった。独特な色と香りが心地よく、湯の中へ体を沈ませていく。
 これは、なかなかにいい。いつもとは違う入浴になって、ずいぶん気が楽になった。



 翌日。この日もメタファルスは陽気に包まれていた。ただ、西の方角には薄い雲があり、これから天気は悪くなっていくようだ。朝からラクシャクでは喧騒が辺りを包み、相変わらず世間話に興じたり、体を動かしている人が多くいる。住宅街もその例に漏れないが、商店街に比べればその規模は小さい。
 ルーナは出かける準備をして、ネルは朝食の用意をしていた。ルーナの表情は、ほんの少しだけ明るみを帯びている。昨晩の気分転換は、どうやらうまくいったようだ。その証に

「今日は、少し天気が悪くなるみたいね」
「ああ。なるべく早めに墓参りは済ませておきたいところだよ」
「そうね」

 いつもの他愛ない会話。それが出来るほどには昨日の衰弱から回復している。
 朝食を済ませたルーナとネルは、それぞれに上着を羽織って家から出る。ルーナはハープを両手に抱え、ネルは二人分の手荷物を持っている。これから列車で首都インフェリアーレへ向かい、さらに飛空挺に乗ってリムへ行くのだ。
 顔を隠すほど大きなフードを被っているルーナは、ネルに付いていく。ネルは、ルーナとはぐれないように歩調を合わせ、周囲を警戒しながら駅舎へ向かう。飛空挺が離陸する時間には、まだまだ余裕がある。
 列車に乗り、インフェリアーレに到着する。次は飛空挺の発着場へ向かった。あらかじめ購入しておいたチケットを見せると、乗務員は自分達を案内してくれた。間もなく、飛空挺はリムへ向けて離陸するようだ。

 彼女の奏でる音色は、少しだけ明るみが増していた。


—音色の彼方 前日譚 了—


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※2016/03/24 更新

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最終更新:2016年04月07日 18:07