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無垢と未熟と計画と?04b - (2008/12/24 (水) 22:09:00) の編集履歴(バックアップ)


無垢と未熟と計画と? 第4話(中編)

 

 
「……?」
 目覚める一歩手前の意識と感覚に微かな違和感。
 そこで起きるか一瞬迷ったものの、結果的に眠さが勝ってもう一度寝なそうと毛布を引き上げて……
「んー?」
 眠れない。
 熟睡は無理でも朝の微妙な感じを楽しむ程度にはまだ眠気が残ってる筈なのだけれど、それが何故かできない。
 別に調子も悪くないし関節が痛む事も無い。あえて言うならば多少胸の辺りが重い程度だがそれだって今まで眠っていた反動か何かだろう。
 ――そう高をくくるろうとして、疼いていた違和感が今になって起き出す。
 そう、いくらずっと寝ていて筋肉が衰えるにしても、前回起きたときみたいになる筈であって、胸の辺り"だけ"重いなんてのは絶対にありえない。
 そんな至極当たり前の結論に達すると同時にもぞもぞと胸の辺りが"動いた"。
 これはもう決定的だ。
「……はぁ」
 一縷の望みに賭けて俺に掛かっていた毛布を退かすと、出てきたのは俺の胴辺りをぎ ゅっと抱きしめている女の子。
 しかも、ちっちゃくて、むやみやたらに元気で、常識的そうに見えてその癖、ご主人様以上にこっちの予想を軽く超えた事をしてくる子がそこに居たのだ。
 ――……ロレッタ・ヒュッケルバイト、その人である。
「ロレッタさーん……?」
 取りあえずは退いて貰おうと、ほとんど呻くように出た声を出すと、俺の胸の辺りにある"白い耳"がピクリ動く。
 しかし、どこをどうやって、こういう状態になってるのかよく分からない。が、現実として『ロレッタ』がベットに潜り込んでいる上に、何故か俺を抱き枕みたいにしているのだ。
 前回は背中に抱きつかれたが、今回は正面。いろいろな意味でマズイ。
 声を掛けてもさほど効果が出ないので、仕方なく力押しをしようと見た目以上に細い肩を掴んで引き剥がそうとしたが、
 右手を掴まれていて、片手しか使えないので調子が出ない。
「やぁ、だぁ」
 さらに、妙に後頭部がムズ痒くなるような甘い声を出して抵抗し、剥がされまいと恐らくは全力でより強く抱きしめてくる。
 もちろん、こっちがなりふり構わなければ剥がせるだろうけど、この幸せそうな寝顔を消してしまうには忍びない。だがしかし、
 このままの状態で彼女が起きるまで待つには色々な意味で精神的に非常に辛い。
 ここ最近、ご主人様やロレッタに寝ている間に抱きつかれていたり、無防備な寝顔を見る事が多くなったが今回は極めつけに
 大変で俺も男だから嬉しくない訳ではないが、節度って物があると思う。
「ロレッタ、ロレッタっ」
 もう殆ど崖っぷちに立たされたような心境で肩を揺らし、呼びかけて起こそうとするが、当然というか予想通りというか、効果なし。
 しかも、遮る物は互いの服のみで密着されているから、あっちが動くたびに押し付け られている物凄く柔らかい二つの大きなふくらみがぐにゃりと歪んだ感触が直に伝わるような格好になってしまう。
 そんな事を2、3度繰り返されただけで、俺の精神力とか理性とかその他色々大事な物がガリガリと削り、息をする事さえ億劫に思えてくるほどに追い詰める。
「~~」
 頭の中を空っぽにして耐えようと考えてもみるが、男としての生理はソレを許さず、妙に色っぽい吐息やら嗅ぎ慣れない女の子の匂いやらが余計な追い討ちを掛けて、もうダメと理性を手放す寸前に……微かな彼女の声が死に体の耳に入る。

 一瞬、幻聴かと思ったが耳を澄ませればそうではない事が分かって、終わりかけた理性が復活してあとはもう必死に声を掛ける。
「起きてくれ、ロレッタっ!」
 そんな必死な願いが通じたのか、薄っすらと瞼を開ける。
 微妙に焦点が合っていないが起き抜けなのだから仕方ないだろう。
「……はぁ、よかったぁ……」
 苦労を回想しながらほっと胸を撫で下ろし、苦笑いをしているとロレッタの瞳がまる で信じられない物を見たかのように見開かれて、
「き――」
「き?」
 間抜けなやり取りで一瞬の空白が凍り付き、
「きゃぁぁぁぁぁっ!」
「うわわっ」
 初めて聞いた絹を裂くような悲鳴が耳をつんざかんばかりに部屋に響いて、俺は驚いた拍子にベットから受身も取れずに転がり落ちる。
 打った所がそれなりに痛かったけれど、悲鳴を上げられた事が妙に衝撃的であんまり感じなかった。
「だ、大丈夫!?」
「あははは……多分、大丈夫」
 ベットの上からロレッタが慌てて顔を出して心配そうに声を掛けてくるが、なんとかそう答えるのが精一杯。
 痛みを感じないからすぐに動けるなんて事はないらしい。
 そうしてしばらく床と背中を馴染ませているとだんだんと体の感覚が戻ってきて、よいしょ、と年寄りっぽい掛け声に起き上がる。
「……うわ」
 そうして目に入った光景に目を逸らす。
「ど、どうし――…きゃっ!」
 俺のそんな不審な行動がで何事かと思ったらしいが、すぐに気づいて短い悲鳴と共に布擦れの音を立てる。
 ――たったの一瞬。もし、いるのなら神様にだって誓っていいが俺は一瞬だって見てない。
 ロレッタの上着が捲くれあがって折れそうなくらい細い腰と色の薄い白いお腹なんて見てない見てない。小さな臍なんて絶対見てない。
「き、着替えてくるからっ!」
 返事をしようと思った時にはもう出て行った後のドアが虚しく揺れていて、ちょっとどうしようもない。
「…………はぁ」
 ため息を一つ吐いて、入り口を閉めてクローゼットを開ける。
 そして、中に入っている落ちてきた時に着ていたのに良く似たワイシャツと学生ズボンに袖を通す。
 一般的にヒト用の服装は訳の分からない宝石が付いていたりと、無駄に煌びやかなのが殆どらしくて、ロクなものがない。
 なので、ネズミの男性用のを代用してるがやっぱり体型自体が違うのが端が余ったり足りなかったりする。が、それでは見てくれが悪いというリゼットさんの一声により、ワイシャツと学生ズボンの"コピー"を三日で仕上げてくれたものを着ている。
 あっちの世界とこっちの世界じゃ埋められない技術差はあるものの、着心地などはあまり差がなくて非常に助かっている。
 ……ヒトってのは住む場所、食べ物でさえ手間隙かかり、着るものでさえ苦労するのだから金持ち限定の"持ち物"って理由が嫌ってほど良く分かる。

 そんな半分自己嫌悪、残り半分驚きの入った考えを切り替えて、そう多くない身支度を整えて部屋の外へ出る。
『あ、ははは……』
 偶然、階段で顔を突き合せると、どちらともなく笑いが零れる。
 まあ、普通に考えるなら朝起きたら男が隣に居たなんて状態で悲鳴を上げないほうがおかしいだろう。起きたばかりの判断力が鈍っているあたりならなおさらの話だ。
 しかし、幾つか謎が浮かぶ。
「なんで、ベットに……?」
 自分でも気がつかない内に呟いた声に、階段へ足を掛けてテンポよく降りていたロレッタの背中が一瞬揺れて、ギクシャクした動きで降りていく。
 今理由を訊こうとしても、互いに変な空気になる事は前の経験からよく分かっている。それなら時間を置くとか、黙っておくとかした方がいろいろと過ごし易い。
 ……理由なんて、全くもって見当もつかないのが問題っていえば問題だが。
「にーさんっ朝ごはん届いてるから食べよー」
「あ、分かったー!」
 『朝ごはん』が『届いてる』といういまいち繋がらない単語に戸惑いながら、一気に階段を下りて、いつも朝食を取っているテラスへ急ぐ。
 まだ自分の調子が分からなかったので全力の6割程度で走ったが、それでも体の節々の動きが鈍くて自分がどれだけ寝ていたのか嫌でも実感させられる。
「――」
 勢い良く部屋へと入ると、ほぼ1週間ぶりにガラス越しの強烈な日差しが目に刺さる。それを手で遮ってゆっくりと慣らすと、記憶にある通りの……ここに来たときと変わらないテラス。
 感慨深いって訳じゃないけれど、やっと帰ってきたって感じがしてとても落ち着く。
「にーさん……?」
 怪訝そうなロレッタの声にうまくできたか分からない笑顔で返して、テーブルを囲む椅子の一つに腰掛ける。
「えっと、これが朝食?」
「うん、そうだよ」
 料理の見た目というのはそれぞれの人の癖がそのまま出る。
 例えば俺であれば、綺麗そうに並べてはいるけれど細部まで手が回っていなくて全体的に雑に見えたり、ロレッタであれば小柄で少食だから小皿が多かったりという按配だけれど、テーブルの上に並べられたソレはちょっとお目にかかったことのない部類だった。
「凄いよねぇ、センセ」
「あ、あぁ」
 テーブルの上に目が釘付けでそう答えるのが限界で、唖然とするしかない。
 そんな俺の感情を知ってか知らずか、ロレッタは続ける。
「ほんと、お店の料理みたいだよねー」
 そう。
 並べられているのは籠に入った出来立てらしいパンに様々なジャム。それにポテトサラダに、シリアルというスタンダードなのだが、一つ一つが手作りのような出来栄えなのだ。
 無論料理なのだから手作りなのは当たり前だけど、それこそ売ってもいいくらいの代物なのだ。
「凄いね、本当に……って、これどこから?」
「ん、にーさんの看病で朝食を用意できないから頼んだの……起きて食べる物がなかったら嫌でしょ?」
 そりゃそうだと頷いて、テキパキと紅茶などの準備を手伝う。
 こういう細やかな気の利かせ方は今の俺じゃ真似できないから、ちゃんと見習わないとなぁ。
「うん、それじゃ食べよっか」
 殆ど手伝えないうちに準備が終わり、俺と反対側にロレッタは座り、向かい合って目を合わせて、
「「いただきます」」
と、互いに手を合わせてパンを取っていく。
 ……うん、見た目以上においしい。
 字が読めないので主な買い物はロレッタの役目で俺は付いていくだけだが、これだけ食べ甲斐のあるのは初めてだ。しかし、悲しいかな。
 こういう物を食べると、いくらするのか気になってくる。
「これ、いくら位するの……?」
 野暮だとは思いつつこれを注文した本人へおずおずと質問すると、
「ん、いつも食べてるのとあんまり変わらないよ」
 そうあっけらかんに答えて、
「こんな風に美味しいからすぐ売れちゃって手に入らないんだけどね」
 あはは、と気楽に笑う。
 とにかく、この朝食は『行列のできる』なんとやらの商品らしい。
 確かに毎日食べれるのなら、それこそ、必死に行列にならんだりする人もいるだろうけど、俺やロレッタ、ましてや朝ぎりぎりまで寝てるご主人様には無理な話だ。
「せめて、このジャムの作り方でもわかればいいんだが……」
「"きぎょーひみつ"だと思うよ?」
「だよなぁ」
 今回1回ぽっきりの美味しい朝食をしっかりゆっくり味わって食べていく。
 うん、おいしい。
 そう感じているのは俺だけではなく、目の前に座っているロレッタも機嫌よさそうに 目を細め、にこにこして食べている。
 ……美味しいご飯は心と空気を和ませる最高の素材って何処かで聞いた事あるけど、全くその通りだと思う。
「あ、にーさん」
 苦さと甘さが個人的にちょうどよいマーマレードをパンにつけようとすると、思いついたように急に声を掛けてきて、
「今日病院いくんだけど付き合ってくれる?」
 怪我の具合を心配しているのか、少し遠慮がちな口調で俺に訊いて来る。
 今日の予定は……と、思案するがご主人様がここに居ない以上、仕事は殆ど無いからなんら問題は無い。つまり、予定は真っ白で文字通りの白紙状態。
 怪我の方も違和感も無いし、動いても問題ないだろう。
「うん、いいよ」
「あはっ」
 俺の答えにそれはもう嬉しそうに笑うロレッタに苦笑しながら、紅茶を啜ると何故だかさっきより美味しく思えたけれど、ご主人様が居たらもっと美味しくなるだろうなぁ……と、ソレだけが気がかりだった。



 いかに山脈の近くにあって、夜はときたまとても冷える頃であっても、季節は初夏。
 日がそれなりに昇れば、外での練習で暑さに慣れていても軽く汗ばむ程度には気温も高くなる。
「ほらっ、にーさん急いでっ!」
 だというのに、それはもう元気そうに俺の手を引いてロレッタは走る。
 速さはこっちからしたら小走り程度だが、引っ張ってる彼女の方は肩を派手に揺らして全力といった感じで大丈夫なのだろうか。
「そんなに走らなくても……」
 諭してみても、引っ張って走る事に必死な所為か聞こえてない様子。
 そもそも、だ。
 なんでこうして俺の手を引っ張って走ってるのかが良く分からない。
 その疑問を脇に置いとくにしても、今のロレッタの服装は所々にフリルがついて下も似たような白いロングスカートだからこうやって走るのには向かない上に、こうして全力でダッシュするような体力はそれなりに命に関わるはず。
「……よいしょっ」
「――きゃっ?!」
 引っ張られてる手を離さないようにして、同じ物を食べてる筈なのに信じられない位軽い体を抱き上げて、そのまま一気に加速。
 病院までの通りを突っ走る。
 一方、俺の腕の中にすっぽりと嵌り込んでいるロレッタは突然の事態に戸惑っているのか、目を点にして大人しくしている
 ……今はその方がいろんな意味で楽でいい。
「大丈夫?」
 多少は落ち着いたのか、おろおろと周りを見回す彼女にそう声を掛けるとコクンと小さく頷き、俺のワイシャツの肩口の辺りをつかんで、呼吸を整えながら前を見ている。
 どうやら、ご主人様みたいに高い所がダメなんていう事も無いらしい。
 そんなこんなで走っていると、もう病院が見えるくらいになって速度を緩めて殆ど歩くようなスピードに落とす。でも下ろさない。
 そんな俺の行動が不思議なのか、視線で問いかけてきて、
「半病人はもう少し大人しくしてなさい。ここで下ろしたらまた走るんだろ?」
「……うん」
 見抜かれてる事が気に入らないのか、不機嫌そうに唇を尖らせ、眉間に皺を寄せた表情をしているがそれでも大人しくしているあたり、この表情は見せ掛けなのだろう。
 しかし、どうにも違和感が付きまとう。
 最初見たときは、元気なそうに見えてその裏でがけっぷちにいるような病弱さの印象があったけれど、今じゃそんな感じは全くしない。
「……にーさん、わたしの顔になにかついてる?」
 ロレッタの顔を見ていたつもりなんて欠片もなかったのだが、無意識のうちに凝視していたらしくて、真っ直ぐな眼差しを向けてるくるが、どうにも恥ずかしくてそれに応えられない。
「い、いやなんにも」
「あやしいなぁ?」
 目線をあさっての方向に向けて時間稼ぎに誤魔化そうとするが、余計不審さを煽っただけのようで、ワイシャツの襟首を掴まれて
 互いの吐息が掛かる位まで詰め寄られる。
 今更下ろして逃げるというのもアリだが、薄情なのでそれもする事ができない。
 しかし、何で今日はこうも絡んでくるのか良く分からない。
「ロレッタ。なにか、あったのか?」
「…………べ、別に」

 攻守が逆転して震えた声音は微妙にウソ臭い。
 まぁ証拠はないし、何故そんな事をしたかは分からない。が、やっぱり――
「んー、ちょっとイイ事あった、かな?」
 ――変わったね。
 そう口を開こうとした直前、そんな事を小さな体をもっとコンパクトに竦めて呟いたのが聞こえて、言葉を飲み込む。
「それは、良かったね」
「えへへ」
 何がどうとかは分からない。
 ただ、感覚がロレッタが"変わった"と、伝えてきている。でも、多分いい方向じゃないかと俺は思っている。
「病院ってあそこだな?」
「そうだよー」
 それをできる限り見守ることができるのならそうしたい。と、思っている。
 そんなある意味、身勝手な事を考えながら、無事病院の玄関前へ到着してゆっくりと予想以上に軽いロレッタを降ろす。
 俺は適当にこの辺り見て回って、彼女の診察が終わった辺りで迎えにくればいいかな? もし昼前に終わるなら、昼食の材料を
 買っておく方が効率いいかな。流石に朝昼と外食なのはいろいろマズイ様な気もするし……うーむ。
「あ、りょーにーさんっ」
「んー?」
 この後の計画を頭の中で練っていると、何かを思い出したかのような声で呼ばれて、そちらに首を回し、かがんでロレッタへ目線を合わせる。
「センセが『怪我してたヒトも連れてきなさい』って言ってたから、いこ?」
「あ、あぁ分かった」
 なんとかそう答えて、初めてここの病院の中へ入る。いつもの付き添いでは入り口まで来て、終わる時間を聞いて迎えに来る……という流れだったから普通は中には入らない。
 正直な事を言うと、俺は病院があまり好きじゃないものあるからだ。
 呼ばれたからには仕方ないと、意を決して中へ入ると普通の病院の待合室で外来の人が数人居るだけで意外と少ないし、特徴的な消毒液の匂いもしない。
 しかし、俺の過去の記憶が否応なく掘り返されて、気分が悪くなる。
「にーさん、顔青いよ……?」
「あ、いや……」
 表情は隠せても顔色は隠せなかったらしい。
 それでもせめてもの悪あがきにロレッタの視線から顔を隠す。が、
「もしかしてっ――!」
「いや、怪我はなんとも無いよ」
「ほんとにー?」
「ほんとに大丈夫」
 余計心配させてしまった。
 かなり言い難いが勘違いさせたままだと後々面倒事が増えてしまう。
「……これは、ご主人様とかに秘密な?」
 受付らしき所にロレッタが予約している旨を伝えて戻って来た所を見計らい、こんな 状態になっている原因をそう前置きする俺。
「……注射のな、は、針が苦手なんだ……」
「!」
 結構衝撃の真実だったらしく、ロレッタの表情が凍りつく。
 大の男が注射の針を嫌がるなんて気味が悪いことこの上ないが、嫌な物は嫌なのだ。
「理由、聞いていい?」
 恐る恐るといった感じで尋ねて来たのに一つ頷いて続ける。
「小さい頃、風邪引いた時に注射したんだが……そんときの医者が下手だったみたいでさ、あはは……」
 それ以上はもう苦笑いしかでない。
 流石に10年以上前の事だから殆ど覚えてない。が、その時の痛みと恐怖だけは色褪せていない。むしろ、歳取って病院に行かなくなる度に強くなっているような気がしないでもない。
「苦手な物は誰にでもあるよね?」
「そういってもらえると、助かる」
 あはは、と、どっちも力が入ってない苦笑い。
 こういう弱い所は薄っぺらいプライドからしたら見せたくはないのだけれど、この場合は仕方ない。
「……でも、羨ましいなぁ」
「なにが?」
「"苦手"が羨ましいのっ」
良く分からない。
「ほら、そういう"もの"って体験しないと分からないけど……わたしにはそういうのないからねー」
一応表情は隠したつもりだったはずが、バレバレだったみたいで妙に明るく笑うロレッタ。
本人は軽く言ってるつもりなのだろうけど、その無理矢理な笑顔が余計に痛々しい。が、それを見ない振りはちょっとできない。
だから、
「これから……見つければいいだろ? 俺も手伝うからさ」
今の俺にはこれが精一杯の言葉。
正直なところ、ありきたりとか凡庸とかいうレベルだとは思うけれど、そんなのでもロレッタは「そだねー」といつもの明るい表情に
戻る。
……彼女が"苦手"を見つけた時に、俺がその近くにいるかどうかは分からないけど、ね。
「あらあら、仲がよろしいですねぇ」
「「!」」
聞いたことの無い間延びした柔らかい声が上から降ってきて、警戒しながらその方向へと首を回す。
「センセっ!」
そこに居た人物は初めて見た人で、名前を聞こうと思った矢先にロレッタが勢い良く抱きつく。
 女の人で多分ネズミ。その証拠にご主人様やロレッタと似たような耳でリゼットさんとは形が違う。
 ロレッタが"センセ"と言ったという事は、多分お医者さんって事で、裾の長い白衣を羽織っているのがらしいといえばらしい。
 黒瞳なのは他の人と変わらないけれど特徴的なのは肩辺りで揃えられた緩やかなウェーブの掛かった髪の色。
 ご主人様の蜂蜜色に近い金なのだろうけど、もしウェーブしてしなかったら強い光に 透かさなければ分からないほど色が薄い。
「はいはい、ロレッタ様。そちらのカレが混乱してますから離れてくださいな」
「はーい」
 渋々といった感じで離れて、
「にーさん、この人がわたしの主治医のプリシラ先生」
「ど、どうも。よろしくお願いします」
「はい、こちらこそ」
 医者というだけでガチガチに固まった俺に柔らかく笑うプリシラ先生。
 なんというか、話しているだけで時間が遅くなったような気がする雰囲気があって、なんとなく親しみやすい。
「で、こっちが――ってセンセ知ってるでしょ?」
「まぁ、そうねぇ」
 なんとなく、こういうやり取りがご主人様とリゼットさんと似ているように見えるのは気のせいなのか……?
 というか、俺ってそんな有名のなのか。
「ロレッタ様、診察室へどうぞー」
「あれ、にーさんは置いていって……」
「聴診器と触診するんですから、当然上半身裸に――」
「あかもう! ほら、センセ! 早くっ」
 そんなごたごたしながら、俺が口を挟む暇なく奥の扉へ消える二人。
 なんというか、ご主人様とリゼットさんみたいで微笑ましい。
「……っ」
 周りで診察を待っていた人達は全員終わったのかいつのまにか居なくなっていて、この待合室にいるのは俺一人。
 そう実感すると、なぜか言葉にしたくても上手くできない恐怖がふつふつと湧き上がる。
 病院が怖い? ――それだけじゃない。
 一人が怖い? ――そこまで人に飢えてない。
 何も無いのが怖い? ――この世界に『落ちた』時に一度は全部失くしている。なにより、この肘の病気が表面化した時点で7割方の目標を失くしている。
 ……じゃあ、何が怖い?
「生きてるのが、怖い?」
 正確には、『生かされてるのが怖い』。
 あの大きな斧のような物をもった黒ネコからご主人様を護った時には、"命に代えても"などと柄にも無い事を考えて行動したような気がする。
 そしてその結果が、庇って背中を切り付けられた。
 どの程度の物だったかは分からないけれど、浅くは無かった筈。が、現実にはもう塞がっている。
 どう考えても、何か特別な、そう、【魔法】の様な物を使っている。それがどんな物かは具体的には分からないが、金銭に換えたら結構な額になるに違いない。
 命はお金には代えられないなんて良く言われるけれど、やるほうだって、自分の技術を磨くためにそれなりの努力とか時間を懸けている。
 それは医者でもスポーツでも変わらないはずだから、それなりの代価を取るのは当たり前で。
 結局のところ…………俺は、そこまでして生かされていい人間なのだろうか?
 今回の事だけじゃない。
 最初落ちてきた時、池に落ちたらしいが覚えていないから、ご主人様が助けてくれなければあの時点で息が出来ずに死んでいた。
 あの人が泳ぎが出来るかはしらないけれど、服を着たまま――しかもあの泳ぎずらそうな――で、自分より重い物を岸へ挙げるなんて、それこそ必死にやってくれた筈。
 一歩間違えれば二人揃って水の底に沈んでいたかもしれないのに、だ。
 もしかしたら、俺は物凄い負担をここ掛けてるんじゃ――
「――だぁっ! やめやめっ!!」
 恐ろしくネガティブな方向に行きそうになった思考を振り切るために頭をがむしゃらに振る。
 どうも最近、物事を悪い方向へ考えそうになる癖が付いてしまっている。どうにかしないとなぁ。
「にーさーんっ!!」
 はっ、と呼ばれて顔を上げた時にはもう遅い。
 小柄で軽量な体なのに、腹の辺りに異様なに強烈な衝撃が響いて、漏れそうになったうめき声を男の薄っぺらいプライドに賭けて辛うじて殺す。
「も、もう終わったの?」
「うんっ」
 なんとか笑顔を取り繕って、そう声を掛けると目尻に涙すら浮かべてもう嬉しさが爆発するのではないかと思うほどの満面の笑みを浮かべて頷くロレッタ。
 ここまで真っ直ぐに心をぶつけて来る人と会った経験があまり無いから、少しばかり戸惑ってしまう。
「わたし、わたしね!」
「もう、ここへ来なくてもいい。もう大丈夫。と、いったんですよー」
 は?
「あぁもう、センセ! 言おうとしたのに……!」
「嬉しいのは分かりますけど、ブラウスの最後のボタンが掛け間違えてますよー?」
「え? わわわっ……」
 なんというか、話の筋が読めない。
 そもそも、『もう、ここに来なくていい』という意味が……あぁ、なるほど。
「ん、おめでとう」
「ありがとっ」
 さっきよりは多少落ち着いたものの、いつもより生気に満ちた笑顔とテンションのロレッタ。
 それに巻き込まれて少々困り気味のプリシラさんだけど、どことなく嬉しそうに見える。
「ロレッタ。そろそろ、ね?」
「えー?」
「どうどう」
「わたしは馬じゃなーいっ!」
 おめでたい事とはいえ、このまま放っておくと夜まで喜んでいそうなので、俺が止めに入ってなんとか落ち着かせる。
「むー」
「ははは……」
 これ以上ない喜びに水を注されて、"機嫌がよくない"と全身で表してはいるけれど、こうして大人しくしてくれてるあたり、
 自分がはしゃぎ過ぎという自覚もあるらしい。
「さて、今度はアナタですよー」
「あ、はい」
 近くの壁に寄りかかって、俺たちの様子を目を細めて見ていたプリシラさんはそう声を掛けて、診察室(?)の方へ歩いていく。
「にーさん、がんばってねー」
 いつのまにか和らいだ病院への恐怖とロレッタの元気な声援を背負って、俺はプリシラさんの白衣を羽織った背中を追っかけた。
 願わくば、なんの問題もありませんように……。



「……流石は街の医者。上手なものですねぇ」
 俺の背中の傷を見たプリシラさんの第一声はそれだった。
 間延びしたような声音はさっきまでと同じだけど、微妙に悔しさが混じっていたのは同じ医者としてのプライドの所為か。
「傷の具合は、どうなんでしょうか?」
 さっきまで脱いでいたワイシャツをしっかり着直して、体を余し気味の大きな回転椅子に座るプリシラさんに聞く。
 朝着替えた時は、忙しくて見る暇なかった上に、傷口が塞がっているのは分かっていても怖くて見れなかったからだ。
「えぇ、傷口の痕は残りますけどほぼ完治していますねぇ」
「あ、そうなんですか」
 あまり覚えてないがバッサリやられて、生きてるだけで儲け物なのでなんかしら問題があるんじゃないかと思っていたが
 そんな事もないようだ。
「……それじゃ、本題にはいりましょうか?」
「……えぇ」
 椅子を少し回して俺に真正面に向くプリシラさん。
 なんとなくだけれど、怪我を診るだけじゃない気はしていたけれど当たりのようだ。
「もう、何度も聞かれたかもしれませんけど、アナタは"ここ"に居たいですか?」
「もちろんです」
 自分でもびっくりするほど滑らかに言葉が出た。
 そんな反応に驚いたビックリした表情を一瞬したプリシラさんだけれど、すぐに柔らかく笑う。
「うんうん、いい反応ですねぇ」
 見た目的には少なくとも真面目な事してるご主人様以上に見えるが、そういう素直な反応されるといろんな意味でどうにもやりづらい。
「実は私(わたくし)、アナタとバッカス様との約束の内容を知ってまして……お手伝いできないかなぁ、と」
「!」
 ここに居たいと即答はしたものの、特に有効打がある訳もなく、俺がご主人様の障害となりえる証拠さえなければなんとかなる
 という我ながら後ろ向きで受け身な戦い方を考えていたが、これは予想外。
「理由を伺っても、いいですか?」
 未だに信じられなくて恐る恐るそう尋ねると、んー、と数秒唸って、
「アナタがここに悪いヒトには見えませんし、なにより、本当に悪いヒトなら態々庇って傷を負うような事しませんよねぇ」
「う、うーん」
 そこまで評価されるような事だったろうかと思う。が、こんな所で悩んでいても仕方ない。
「そこで、アナタにはヒュッケルバイトの家系について知ってもらおうと思いましてぇ」
「はぁ」
 自分でも分かるほどの気の無い返事。
 なんで、家系の話になるのはよく分からない。
「あら、興味ありません?」
 当たり前だが、自分でも分かるというのは他の人から見ても分かるという訳で、悲しげに眉尻を下げるプリシラさん。
 あたふたと慌てて言い訳しようと考えを回すが、いい案が出てこない。
「ふふ、バッカス様はあぁ見えて秘密主義ですから、こういった事を知ることであの人 を驚かす事が出来るかもしれませんよ?」
 さっきまでの表情はどこへやら、ニコニコと思わずつられてしまいそうな笑顔を浮かべている。が、新しい悪戯を思いついて試したくてウズウズしてる感じが混じっている。
  騙されたような気がしないでもないが、バッカスさんを驚かすかもしれないという提案はとても魅力的に聞こえた。
「乗り気みたいですねぇ……それじゃ、ちゃんと覚えてくださいねぇ?」
「は、はいっ」
 そう始まった話によれば、ご主人様の家系は『病弱』で『短命』な『女性』が殆どというある意味、すぐに絶えてしまいそうな血脈であること。
 実際、六代前は四十歳前後、八代前に至っては三十歳前後で病気で死んでしまっているらしい。
 しかも、髪の色や血液型ならヒトも遺伝するが、ネズミに至っては体質や性格、マダラになる可能性すら遺伝してしまう為、長く続く家系ほど遺伝子的不純物に強くなり、結果的に性質を変えづらい。
 それでもここ200年、外(この場合、血縁の違う人)から婿なり嫁をとるなりして大分良くなっているとの事。
 しかし、だ。この場合一つ疑問が浮かぶ。
「ご主人様、元気で病弱なんて感じじゃないですけど……?」
 そう、それが謎だ。
 ロレッタは『短命』はともかく、ほかの条件に一致しているが、ご主人様は違う。
「妾の子……と、考えたい所ですけれど、ヘーゼル様にべったりだったグレン様がそんな事できるはずありませんから、劣性遺伝とか
突然変異の塊、なのでしょうねぇ」
 しみじみとそんな所まで俺に話していい内容なのだろうか?
 そんな疑問を置き去りにして、プリシラさんは続ける。
「ただ、ラヴィニア様は性格的に危うい物を抱えてますから……」
「危うい物?」
 少し見ていたらご主人様の危うい所なんてこうして暮らしていれば幾つか思い当たる。しかし、医者であるこの人に言われるほどの物は無い……と思う。
「えぇ、教育の過程なのか、それとも個人の資質なのかはわかりませんけど、あの方は『私利私欲』が薄いんです」
「……なるほど」
 『私利私欲』といえば言葉は硬いけれど、要は他人を重視して自分を省みないという事だが、言われてみればそういう傾向は確かにある。
 どうにもご主人様は、自分の命は軽いと思っているフシさえあるからその傾向は余計強いのかもしれない。
 しかし、だ。
「でも完全に悪いって訳じゃないですよね」
「えぇ、そうねぇ。立場上、そういう心構えが必要なのは否定しないわ」
 けどねぇ。と間延びした声で前置きして、
「そうならないように動くのも必要な資質でもあるわ……だから、アナタがそれを抑え てくれればいいと思ってるの」
「……」
 なんというか荷が重い話だ。
 確かに俺は、そういう意味で自分の場所を取れればいいと思っている。が、ちゃんとできるかは別の話。正直な所……
「自信、ない?」
「え、えぇ」
 まるで俺の心の中を読んだように先回りされる。
 なんというか、表情が顔に出やすいとよく言われたが、こうも簡単にされるとちょっと情けない。
「ゆっくりじっくりやっていけばいいと思うわぁ……情けないなんて思わずに、ね?」
「!」
 うわ、読まれてる。が、何故か悪い気はしない。
 言われていることは確かだからだ。
 『初めから何でも出来る人間なんて居ない。スタートラインは同じだけど、掛けた時間と努力と情熱は必ずそれに報いてくれる』
 ……そう言ってくれたのはねえさんだったか。
 あの人の場合、本当に最初からなんでも出来たような気がするけれど、もしかしたら  努力したりする所を見せてくれなかっただけなのかもしれない。
 そう考えると、俺は急ぎすぎなのかもしれない。
「心積りは決まった?」
 がんばればなんとかなる。
 それはマメだらけ右手が証明してくれている。
 頭もよくなければ機転も利かない俺が十年以上で野球をやってきて、あの辺りじゃそれなりの腕になったのだ。同じだけの、いや、それ以上の力を掛ければプリシラさんの言ったような事もできるようになるはずだ。
 肘の怪我だって、手術や時間を掛ければ治る物だったはず。なのに、たった数年できないだけで一生が終わった気で居た自分が恥ずかしい。
 一生ってのは、死ぬまで続くんだから。
 でも、これから自分の全部をつぎ込むのはそこじゃない。
 ご主人様やロレッタの為に、だ。
 生かされてるのが怖い? ここに居ていいのか? ――何をバカな事を。それに見合うように全力を尽くせばいい。
 時間を掛けて、ただただ黙々と全力を尽くすのは嫌いどころか、得意中の得意だ。
 野球にそれだけ出来たんだ、これからの事に出来ないことは……無い!
「――はい、決まりました」
 これから迷うことだってあるだろう。悩みだって出る。
 でも、それは贅沢な物だ。
 それだけの余裕を彼女たちから与えてもらっているのだから。
「うん、いい顔してるわねぇ」
 さっきまでと同じ、こっちまで引き込まれそうな笑みを浮かべてるプリシラさん。
 そんな表情が頼もしく見えるのは俺の心境の変化の所為か。
「こういう事は言っていいのか分かりませんけど……アナタ方は私達から見ればまだ"子供"なんです。だから、大変な時は、"大人"に頼ってくださいな」
「は、はい」
 "頼ってくださいな"という言葉が意外だっだけれど、非常に心強い。でも最小限にと心に留めておく。
「さて、と」
 言いたい事は言い切ったのか、目の前のプリシラさんが立ち上がる。
「そろそろこの辺にしておかないとロレッタ様が待ちくたびれてしまいますねぇ」
「あぁ、確かに」
 懐中時計を見れば既に30分は過ぎていて、比較的気の短い彼女には何もせず待っているにはつらいかもしれない。
「あ、最後に一つだけいいですか?」
「えぇ、いいですよぉ」
 そもそもこうなった原因。
 つまり、
「なんで、バッカスさんとの約束を知ってるんですか?」
 俺の処遇を議会に掛ける……という事になれば、他の人が知っててもおかしくないが、プリシラさんはそうじゃない筈。
 そんな風に考えていると、あぁ、と、納得したような表情を浮かべ、
「ちゃんと自己紹介しておきましょうか」
「お、お願いします」
 その答えと自己紹介がうまく繋がらなくて戸惑うが、ちゃんと名前を知っておくのは悪い事じゃない。
「では」
 そう前置きして、一息。
「――教育局長フランシス・ウィルフレッド・アリンガムが娘、プリシラ・ウィルフレッド・アリンガムです。以後お見知りおきを……いえ、もう少ししたらプリシラ・クロフォードになっちゃうのかなぁ?」
 と、悪戯っぽく、それでいてどこかのんびりとした表情を浮かべ、
「以後、よろしくお願いします。フジミ・リョウ君」
「あ、はい。よろしくお願いします」
 まさか、プリシラさんが教育局長のフランシスさんの娘だなんて予想していなかった。いいとこ、知り合いの知り合い程度だと予想していたが真正面から裏切られた。
 って、クロフォードになる?
 どこか、でこのファミリーネームを聞いたことがある。しかもごく最近だ。
「あれ、分かり辛かったかなぁ? えっと、要は結婚するんですけれど……」
 両手の人差し指をこねくり回し、少し頬を朱に染め、照れながらヒントを出してくれた事で"結婚"と"クロフォード"の二つが一本の線でつながる。
 つまり、この人は――
「ええええええええええええええええええええええぇぇ!」
 まだ会った事ないけど、『教育』担当のフランシスさんの娘でありながら、もうちょっとしたら『軍』担当のロジェさんの奥さんッ!?
 そんな衝撃に継ぐ衝撃に自制なんていうブレーキが外れて、もうありったけの肺活量 で叫んだ俺だった。



 いろいろ暴れて悪戯したくて内心ウズウズしてるのに、一生懸命仮面を被る借りてきた猫の気持ちとはこういうものなのだろう。
 いままでなんとも思っていなかったが、これからは涙ぐみながら遊んであげようと思う……そんな機会がもうあるとは思えないが。
「やっぱり、手伝おうかー?」
「ダメー!」
「……はい」
 色々生活に必要な物や昼食や晩御飯の材料を買い込み、屋敷へ帰ってきていざ用意という所になってロレッタから、『お手伝い禁止令』なるものが宣言されて、それこそ"借りてきた猫"のようにテラスで壁に寄りかかって待つ俺。
 頑張ると気合を入れた手前、こうなるのは嫌なので掛け合うと、信用できないと思われたと勘違いしたらしく、ヘソを曲げられて、追い出されてしまった。
 そうなると、ご主人様と同じようにとても頑固なので交渉する事すらできず、未練がましくこうやって声を掛けている。
 まあ、料理の腕に関しては年季の入っているロレッタが上なので味は心配ないし、あの小さな体を効率的に動かして広い厨房をどう動き回っているのか考えるのも楽しい。 

 しかし、なにかの拍子で怪我や火傷なんてされた日には、誰に謝っていいか分かったものじゃない。
 しつこく口を出してミスされても困るので一つ溜息をついて気晴らしに外を見上げると、
「あ」
 空に浮かぶ綺麗な二つの月。
 しかも片方はもう少しで満月になろうかというほど円に近づいている。
 こっちの月の周期は分からないけれど、それでもそれなりの時間がかかるから、嫌でもあのアクシデント(だと思いたい)から経ったか分かる。
 二人がなんてあんな事したのかはよく分からない。
 ロレッタからの説明も要領を得ない物だし、第一、彼女だってその場に居た人間だ。
分からないようで分かる。分かるようで分からない。
 もうぐちゃぐちゃだけど、鈍いフリってのはやっぱり――
「できたよー♪」
 そう感慨深く月を眺めていると、楽しそうなロレッタの声と共に台車が走る騒がしい音が近づいてきて、俺も立ち上がって出入り口のドアを開ける。
 そうして遅れること数秒。
 聞こえてきた音の通りにガラガラと大きな音を立てて、台車と押している本人が部屋で少々危険な速度で飛び込んできて、見事な急停止を披露する。
「なんか、量が多いくないか……?」
「うんっ、腕によりを掛けたからねー」
 そんなやり取りしながらも、テキパキとテーブルへ皿を載せていくロレッタだが、明らかにこれは量が多すぎる。
 春巻のような包み物から、見たことの無い食材が使われている炒め物。さらには、この辺りの食卓には珍しい肉料理まで雑多にある。
 しかし、どう見ても二人分の分量を明らかに超えている。
「食べるならそっちのから食べてねー、にーさん」
 そう指で指された所にあったのは、よくわからないが彩り(いろどり)が綺麗な野菜と何の動物のか分からないけど食べやすい肉の生春巻き。
 さらにその隣には、それにつける為のタレが数種類並んでいるからビックリだ。
「ロレッタ、ちょっといいか?」
「んー、なにー?」
「こんなに作って、余したら勿体無いんじゃないかなぁと思うんだが」
 貧乏性と言われればそうだが、出された物は無理してでも全部食べる事にしている俺としては捨てられるのは忍びない。
「だいじょーぶだいじょーぶっ」
 と、ロレッタは気楽な返事をして、
「わたし達は痛みやすい物から食べていって、余ったら真夜中に帰ってくるねーさんに お夜食にすればいいし、それでも余ったら朝食にすれば全部なくなるよ」
 小皿を並べながら、すらすらとこんなに料理が並んだ理由を聞かされて俺も納得。
 馬車の中じゃ水気も無ければ味気もない保存食ばかりでこうしたちゃんとした料理は食べたいと思うし、よくよく見ると量こそ多いが単品で見れば片手でも食べれそうな物ばかりが揃えられている。
 って、まさか、
「これ準備する為に、俺を台所に入れなかったとか……?」
 遠慮気味にそう聞いてみると、あはは、と笑って誤魔化されたが多分そうなのだろう。
 全く、変な所で隠し事するんだから、と呆れてみても絶対反省しないのがロレッタらしい。
 なんにしろ、食べ物には罪は無いので声と両手を合わせて、
「「いただきますっ」」
 そうして最初に手をつけたのはさっきの生春巻き。
 それを魚の香りのするタレにつけて、食べてみると塩味と野菜や肉の下味がちょうど混ざってとっても口通りがいい。
 こっちに落ちてくる前、ねえさんが手巻き物が好きだったので付き合わされて食べ行った事があるのだけれど、そこのと良く似ている。
 味自体はそっちのお店の方が流石に上だけれど、ロレッタの作った物もそんなに差がある訳じゃないのだから凄い。
 俺がこの域までたどり着くのは何年掛かるか分からないし、そこまで行けるかすら分からない。そもそもここに居られるかという瀬戸際でもある。
 それでも、それでも、だ。
 せめてこれくらいは料理が上手になりたい。だから、これも精一杯頑張ろうと思う。
「ロレッタ、いつか、余裕が出来たら料理教えてくれるか?」
「……ンぐっ。にーさんになら、いつかと言わずいつでもいいよ」
「ん、ありがとう」
「ふふん、ちゃんとわたしから合格点貰った時に言ってよねー」
「善処します」
 そんな穏やかに冗談を混ぜたり、真面目な話をしてる内に互いに手をつけていない皿が数えるほどに減ってきた頃。
「にーさん、にーさんっ」
 親指ほどの大きさの芋っぽい物が入った揚げ春巻き風味が美味くて、一口二口で食べているとそうロレッタが俺を呼び、何事かと視線を向ける。
「わたしのコレとにーさんのを交換しない?」
「……いいぞ、ほら」
「えぇと、そうじゃなくて~」
 箸で彼女の皿へと移そうとしたのだが、何故か止められる。
 何か間違えたか……?
「はい、あーん」
「う……」
 左手を添えて、右手のフォークで俺が食べていたのと似ている揚げ春巻きを拾い、どこかで見たことある仕草で俺の顔の前まで持ってくる。
 今の無しと叫びたいが、"いいよ"と一度は言った手前、今更翻す訳にはいかないし、この期待と不安の混ざった瞳を暗くするのは少しばかり意地が悪い。
 となれば、答えはもう決まっている。
「あはっ、おいしい?」
「あ、あぁもちろん」
 中身はちょっと辛味を効かせた肉類ってのだけしか分からないが、確かに食欲が沸きそうではある。しかし、誰も見ていない
 とはいえ、食べさせてもらったという事実に打ちのめされる。しかし、それに浸ってる暇すら無い。
「普通、そうだよなぁ」
「?」
 確かにこの目の前の小さくで可愛らしいこの小さな子は、『交換』と言ったのだ。
 あちらからこちらへやってもらったのだから、当然の如く、気の重いお返しをせねばならない訳で……ぼやいてみても意味が無いのだからやる事は一つだろう。
「はい、あーん」
「あ~ん♪」
 ロレッタの口には少しばかり大きいので箸で3分割程度して、親鳥が子鳥に餌をやるような心境で一つずつ食べさせて何とか終わらせる。
 そうして、なんとか終わらせる事ができたが、思い込みのお陰かそれとも慣れの所為か分からないが、前より少し心理的に楽になってきたような気がしないでもない。
 前者なら成長の証だが、後者なら色々な意味で危険すぎる。
 少し前、何の抵抗もなく、そんな事する自分を想像した事があるが気分が悪くなった事があるが、そうなっている内はまだ大丈夫、だと思いたい。
 それ以降は、こっちが頭を痛めるような事は言ってこなかったが、時折、思い出しているのかクスクスと笑ったり、顔を赤らめながら口元が緩んだりといつも以上に落ち着きがない。かと言って手の打ちようもないのでおとなしく食べて話していると、そのうち、互いに「お腹いっぱい」と漏らしたのは料理の載ってる皿が全体の1/3程度になったくらいで。
 予め用意しておいた食後の紅茶をちびちびと啜ってのんびり後片付けを始める。……とは言っても、俺が動く前にロレッタがそそくさと手際よくやったのでやれる事は少ない。
 なんというか、役立たず感を嫌が応にでもかみ締める。
 今までみたいに暗くて狭い思考に陥る事はもうしないが、それでも、『もうちょっと なんとかなったんじゃないか』と思ってしまう。
 一歩間違えれば傲慢で自惚れの過ぎた考え方だけども、『次から気をつければいい』で終わらせたくも無い。
「なぁ、ロレッタ」
「んー、なにー?」
 元々用意していたのか大皿に残り物をフォークとナイフを器用に使って盛り付けている彼女にそう声を掛けて、今更ながら
 迷う。が、振り払う。
 今訊けなきゃ、ずっと訊けないような気がしたからだ。
「……俺って……役に立ってるのか?」
 意外に小さい度胸を奮わせて、そんな疑問を投げかけたロレッタは一瞬ポカンとした表情を浮かべ、何がおかしいのかクスクスと小さく笑い出す。
 これは、マズったかな……?
「ご、ごめんね。でも、にーさんがいきなり変な事言い出すから」
「自分でも分かってるから別に傷つきはしない。……気にするな」
 とは言ったのものの、グサグサと突き刺さる。が、何とか気合で持ち直す。
 一方ロレッタの方は、むー、と唸っていたのでしばらく待っていると唐突に口を開く。
「一人で取る食事って、にーさんは楽しい?」
 一瞬、考えを巡らせるが出す答えは決まっている。
「楽しくはない、だろうな」
「だよねぇ」
 生まれてから一度も誰かと食事をした事ないような生活環境ならともかく、普通は嫌だろう。
「とうさんやかあさんが死んでねーさんが忙しくなると、わたしひとりで食べるようになったの。特に昼食と夕食がね」
 そう、何かを思い出すようにぽつぽつと語り始め、俺は黙ってそれに耳を傾ける。
「最初は心配してきてくれたリゼットねーさんやネリー達と一緒に食べたりしてたんだけど、どうしても合わない日とか忙しい時期があるからどうしようも無くて、ほとんど自棄になって料理とか一生懸命勉強したの」
 若いよねーと付け加えて苦笑している姿は、寂しさや悲しさといった暗さを感じさせず、ただ昔を懐かしむような印象がやけに頭の中に残る。
「新しい料理とか上手に出来ると嬉しいんだけど、やっぱり一番嬉しいのは誰かに食べて貰って『美味しい』って言わせる事なんだよね。まあ、ちゃんと分かったのはねーさんのお陰なんだけどね」
「ご主人様は、出された物をそれはもう美味しそうに全部食べちゃうからなぁ」
 そんな俺の言葉にうんうんと何度も頷いて同意するロレッタ。
 食い意地が張ってるという言葉は、普通は褒める場合に使われないが、この場合にだけは許されてもいいような気がしないでもない。……と思わせる魔力があるに違いない。
「だから、にーさんが来てこうやって一緒に食べてくれるだけでわたしはありがたいし、十分役に立ってるよ」
「そんなの、誰でも……!」
「誰でも、じゃない」
 静かに、しかし、良く通る声音に俺は黙らざるえなくなる。
「もし乱暴だったり、悪い考えを持ってたりしたら、わたしはこんな事話してないっ! 優しいけど不器用で、でも一生懸命がんばるにーさんだから話してるの!」
 時間が止まったかのような一息の間。
「同じ人間なんて居ないのに、『誰でもよかった』なんて思わないでよ……っ!」
 涙に潤んでもいなければ、怒りに震えてもいないただの大声なのに、胸が締め付けられるような感覚がして、馬鹿な事を考えた自分自身を殴りたくなる。
 俺も散々、"拾われたのがご主人様達でよかった"と感謝していたのに、いざ自分の番になれば"誰でもいい"だなんて考えるなんてのはフェアじゃないのだから、ロレッタに怒鳴られても当たり前の事だ。
「馬鹿な事言ってすまなかった」
 誠心誠意を込め、額をテーブルにつけるかつけないか位まで下げる。
 しかし、ロレッタは頭を下げられるとは慣れていないらしく、慌てたような雰囲気が伝わってくる。
「謝るくらいなら、頑張って」
 何度かの押し問答の末、何度言っても聞かない俺に業を煮やしたのか、宥めるかのような響きがある。
「わたしは一生懸命頑張ってるにーさんが、す……~~……だ、だからね?」
 最後の辺りがよく聞こえなくて、思わず頭を上げると何故か首の辺りまで茹でた様に真っ赤になっているロレッタが居て、訊き直すのを躊躇う。
「あはははは……さっきの無しっ!!」
 聞こえていないのが俺の表情で分かったのか、口早にそう言い放つ。
 そうなってしまうと、俄然興味が沸くが、訳の分からない迫力に押されて何度も頷くかざるえなくなる。が、どちらとも無く口を開きづらい雰囲気になってしまい変な間が空いてしまう。
「そ、それじゃ、これを冷蔵庫に入れてくるからっ」
 そんな空気に耐えられなくなったのか、ロレッタはさっさと盛り付けを終えて慌しく台車を押していく。
 追いかけて皿洗いくらいは手伝いたいが、この状態ではさぞかし暗い台所になるのは 目に見えているが、明日になれば、互いに苦笑いしていつも通りになるだろう。
 だけど、自分で動いて自分で何とかしないと、意味が無い。
「……よし」
 そうして一旦自分の部屋に戻って幾つか本を見繕い、今の季節には使われて無い暖炉と3人位余裕で座れそうなソファのあるリビングへ急いで入ってみれば、奥の方から皿の擦れ合う音と水音が混じって聞こえてくる。
 とりあえずは間に合ったらしい。
 その大きなソファに腰掛けて、少しばかり待つとさっきまで聞こえていた音が途絶え、いかにも軽そうな足音が近づいてきて、
「ロレッタ」
「!?」
 その主は、器用にも竦みながら跳ねた。そりゃもう写真に残せるくらいに。
「え、あ、そ、け……!」
 余りの驚きっぷりににそれだけに留まらず、言葉にならない単音を壊れたラジオみたいに繰り返して……って、微笑ましく見てる場合じゃなかった。
「落ち着いて、落ち着いてな?」
 何度も繰り返して宥めていると、言葉通りに落ち着いてきたのかガチガチに固まっていた表情が和らいでくる。
「大丈夫か?」
 そう訊くと、コクコクと首を縦に振って頷いたのを確認して、思いついた策、もとい、本題を切り出す。
「ご主人様は今日の真夜中に帰ってくるんだよな?」
「うん、そうだけど……?」
 それがどうしたの? と、言わんばかりに可愛らしく首を傾げる。
「帰ってきて誰もいなかったら、寂しいんじゃないかなぁと思ってさ……できる限り、 起きてるつもりなんだが……一緒にどう?」
 仲直りという本音があるにはあるが、こっちもこっちで本音。
 今、俺のできる事はそう多くはない。だから、やれる事をやるしかない。
 ……初心に返ってみれば、そんなもんだ。
「うん、いいよっ」
 少しばかり迷ったような顔をしたが、すぐに決心したのようでニコニコとソファへ寄って来て俺の隣へ腰掛ける。
 しかし、さっきから何かがおかしく見えどうにも落ち着かない。
「ついでにまだ字が読めないのが多いから教えてくれないか?」
 そう前置きして、持ってきた本――装丁や題名から小説っぽい事は分かるが――を掲げて見せる。
 専門書とかもあったのだが、基礎知識がないのでよく意味が分からないので小説を勉強の教科書にしているが、これもまた普段使われないような言葉が多く分かりづらい。
「んーどれどれ……」
「えーと、5ページのここからなんだが……この単語見たことなくてな」
 そうやって、ご主人様が帰ってくるまでの時間潰しをしていたけれど、ロレッタはいつも以上にはしゃいだ所為かうつらうつらとしていて、
「んー…むぅ……」
 いつの間にか可愛らしい小さな寝息を立てていて、
「……ぐぅ」
 ずっとベットの上だったのに今日いきなり歩き回ったからか、俺も自分では気がつかない内につられて眠っていた。


「ただいまぁ~」
 なんとか日が変わる前に帰ってこれたのだけれど、もうクタクタ。
 玄関のドアを開く行為すら億劫に思えて仕方ない。
「……あれ?」
 この時間なら落とされて筈のリビングの明かりが広いロビーに何故か漏れている。
 ロレッタも――目が覚めて起きていれば――"りょー"も必要がなければこんな時間まで起きていない筈だからありえないし、
 旧式とはいえ対侵入者用の魔法式が張り巡らされているので泥棒が入った可能性も低い。
「あー……」
 何が出てきてもいいように拳を握り、神経を尖らせながらリビングを覗いてみて納得。
 大きな頭と小さな頭が寄り添うようにソファから飛び出していたからだ。
「あぁ、もう……」
 小さい椅子を見つけて、二人の正面に陣取ると大体何があったか分かってくる。
 "りょー"の左手には本が引っかかる感じで掴まれていてテーブルにはペンと紙が置か れていて、まるで勉強中のような状態になっている。
 ただ、分からないのはロレッタが"りょー"の右手、というか右腕に全身を巻きつけるかのように抱きついて眠っている事だ。
 ……まあ、寝ている内にああなっちゃったんだろうなぁ
 起こして『自分の部屋に行って寝なさい』と離すのはこの時間だと遅すぎるし、なにより、ロレッタの表情が今まで見た事無いような嬉しそうだから、できる限りそうしてあげたい姉心もある。
 だから、
「仕方ないなぁ」
 そう呟いて、シャワーを浴びる為に自分の部屋へ歩いていく。
 馬車の中にお風呂なんて付いている訳がないので濡らした布で自分の体を拭いたりして 誤魔化すけれど、この長い髪だけは水分を通さないと埃まみれになってしまうので、こうやって定期的に洗ったりしなきゃならない。
 ほんと、分からない人にとっては無駄の何者でもない手間だ。
 切ってしまえば、そういうのに費やしてきた時間を別の事に使う事ができる。けれど、それはできない。
 この髪は、私だけの物じゃない。
 『伸ばした方が似合う』と勧めてくれたお婆様。
 伸ばし方や手入れの仕方を教えてくれたかーさん。
 最初はなんだかんだ言っていたけれど、最後は認めてくれたとーさん。
 少しづつ伸びるのを一緒に楽しみにしてくれたロレッタ。
 高価なはずの手入れの品を融通してくれたリゼット。
 ……そして、べた褒めしてくれた"りょー"。
 そんなたくさんの人の助けがあって、この髪と私はいるからだ。
「あったあった」
 替えの下着やパジャマを引き出しから取り出して、お風呂場へ急ぐ。
 お風呂場と言っても頑張って二人くらいが入れる程度の湯船がある程度で、私はほとんど使わない。
 体の芯まであったまるから嫌いではないけれど、髪を常に気にしなきゃならないし、なりよりそれなりに貴重な水を大量に、一人で使うから無駄遣いと指摘される可能性があるからだ。
「ん~♪」
 シャワーノズルから出る湯量をできるだけ絞って浴びても、気持ちのいい物は気持ちがいい。
 長い髪の毛を洗うしんどさも、十数年繰り返せば体が覚えて寝ていても出来そうなくらい慣れてしまう。
 そうして、たっぷり時間を掛けて汗などを洗い流して、パジャマに着替えてまた自分の部屋へ戻ると、懐かしいとさえ思える
 自分の大きなベットが部屋に陣取って、それを中心に棚などの小物が扱いやすいように配置されている。
 正直、もうくたくたでそのままベットに倒れこみたい誘惑をぐっと堪えて、クローゼットを開けて一番大きなブランケットを引っ張り出して、ロレッタ達を起こさぬよう足音を立てずに早歩きで急ぐ。
「あらら」
 抜き足差し足の要領でリビングに入り、二人の様子を覗き見てみると、どこかうなされているような表情で寝息を立てている"りょー"と、その左腕に先ほどまで以上に幸せそうにしがみ付くロレッタ達の表情が正反対で思わず声が漏れてしまう。
 慌てて口元に手を当てて塞いだけれど、熟睡しているからか、どちらも眉一つすら動かさない。
 ……という訳で、
「お邪魔しますー」
 口の中だけでそう呟いて、持ってきた大きなブランケットを広げて掛ける。そして、空いている"りょ-"の右側に座り、
 その腕を抱き寄せて頬擦り。
 服越しのに掴んだ腕の感触はごつごつしてて、決して抱き心地は良くない。けれど、暖かい。
「……りょー」
 耳元で囁いても、寝言の一つも言ってくれない。 けれど、この血の通った暖かさが嬉しい。
「……ぐす」
 嫌われていたらどうしよう。
 そう考えると得体の知れない『感情』が"きゅ"と私の心臓を絞るような感触が伝わって、服を掴んでいる指先が震える。
 それだけの事をしでかしてしまったのだ……などと気休めを考えてみても意味はなく、余計にその『感情』を煽る。
「やだ……」
 そうか、私は――
「そんなの、やだぁ……」
 彼が死んでしまう以上に、嫌われるのが……怖いんだ。
「……っ」
 瞬間、悪い考えばかりが頭の中に増えて、振り払おうと目を瞑って自分の顔を"りょー"の肩へと押し付ける。でも、最近とても脆くなった涙の堤防が今回も易々と破れて彼の服に染み込む。
 一頻り(ひとしきり)そうして、落ち着くと今度は眠気がゆっくりと覆いかぶさって瞼が少しずつ重くなってくる。
「おやすみ、なさい」
 そして残るのは、"りょー"の体温と吐息だけ。それ以外は深い眠気にさらわれて消えていくけれど、今は怖くない。
 全部、起きたら言うんだから……覚悟しててよね、"りょー"?


「……あ?」
 寝苦しさのあまり、目が覚めた俺だがいつもなら頭の回転が鈍いはずなのに今回に限っては、妙に明瞭として起きたばかりとは思えないほど。
 が、直後にそれを後悔せざるえなくなる。
「な、なんなんだ、コレ……」
 左側で文字を教えてくれていたはずのロレッタが寝ているのはいいとして、なぜその反対側にご主人様が寝ているのだろうか。
 それだけならまだしも、なんで二人とも俺の腕を抱き枕にしているのか余計に意味が分からない。
 とりあえず目を覚ましてしまった以上、なんとか抜け出そうとロレッタに掴まれている左腕を引き抜こうと、
「ぅわ……っ」
 二の腕あたりに、――遠回しに表現して――とてつもなく柔らかい何かの存在を感じ られるほど強く押し付けられ、気合で我慢して抜け出そうと腕を引くと引きずられるかのようにそれが動くのが否が応でも感じ取れて心臓に物凄く悪い。
 事実、胸が痛いほど鼓動して、いままで感じたことの無いくらいに口の中がカラカラになって自分の体ではないように感じて仕方ない。
「っ」
 十分落ち着かせてから反対側にいるご主人様から腕を抜こうと何度か揺らすが、何故か全く動かせない。
 それこそワインの固いコルクのような感じにだ。
 しかし、時間を掛けたり、捻りを入れればやがては抜けるそれとは違い、痛くない関 節技を掛けられているようで、解く方法なんて知らない俺にはどうしようもない。
「……ははは、はぁ」
 殆ど諦めている心境でも往生際悪く揺らして拘束を緩ませようとしてると、それが寝ているご主人様には居心地というか気分が悪かったらしく、掴んでいる俺の左腕をより強く抱きこんだ。
 それだけならまだしも、行儀よく(?)座っていた頭が傾いて肩の辺りにもたれ掛かって、生暖かい吐息が耳の裏側に当たり、シャンプーのいい香りも相まって背中からどっ、と冷や汗が吹き出る。
 さらに、手の方もなにやら薄手のパジャマの感触の下の何やらちょうどいい弾力のある太ももに挟まれて、なにやら動かしてはいけないような気がしてくる。
 もうここまで詰まれると、笑うくらいしか出来なくなってしまう。
 しかし、しかし、だ。
「なんで、貴方達はこうも俺相手に無防備になれるんですか……?」
 ヒトとはいえ、俺は男であり、彼女らは女の子。
 その事実だけ考えると非常に危険な状態と断じられても仕方ない。だから、もうすこし警戒心を持って欲しいと思う。
 だが現実は非情で、実際はこうなってしまっている。
 信頼してもらえてるという考え方は出来ない事はないだろうけども、これは明らかに……いや、止めておこう。
 ――勘違いだった時、恥かしい思いはしたくない。
「おやすみなさい、ご主人様、ロレッタ」
 擦り寄られて両側から伝わってくる女の子の香りやら、くすぐったい触感やらを気合で無視しながら、俺は目を閉じる。
 ここから眠るのは至難の技かもしれないけれど、無理矢理にでもやらなきゃならない。彼女らからの信頼に応えるためにだ。
 そんな使命感に似た思いを抱いていると、そのお陰か少しづつ節々の感覚が無くなっていく。
 が、
「ぅ」
 寝返りの代わりなのか、ご主人様が抱き方を変える。
 その所為で、せっかく慣れて麻痺してきた感触が変わって沈みかかっていた意識が急浮上。
 まあ、ご主人様の寝相が悪いのは、あっちの街にいた時に良く分かっているが、まさかすぐには動かないだろう。ロレッタは寝相のいい方だと本人も言っていたからまぁ安心していいだろう。
「よし」
 そう気合を入れなおしてまた目を閉じる。
 一旦眠ってしまえばこっちの勝ちだ。
「うぅ」
 が、また目を覚まさざるえなくなる。
 その原因は左腕……ではなく、右腕の方。
 与えられていたあのむやみやたらに柔らかい感触が、より強く押し付けられたからだ。
 何事かと思って首を回してみれば、すやすやと穏やかだったはずの寝顔がどこか苦しげに眉間に皺を寄せていて、毛布が掛かっていて直接見ることはできないが、俺のワイシャツを掴んでいる指が微妙に震えているのがワイシャツの震えからわかる。
 多分、怖い夢でも見ているのだろう。
 両手を塞がれているので頭をなでる事は出来ないし、寝ているから声も掛けれない。だから、腕をそのままにしてやる事しかできない。
 そうして、しばらくすると表情も元の穏やかな物に戻って、強く抱かれていた腕も少し解放されて一息つくと、唐突に反対側から引っ張られる。
 今度はこっちが悪夢らしい。
「あ――」
 正直、油断があったと思う。でも、悲鳴を上げなかっただけまだマシだ。
 ご主人様に腕を引かれたらと思ったらいきなり"首に噛み付かれた"のだ。……いくらんなんでも予想の範疇を超えている。
 ガブですよ、ガブ。……耳たぶをやられたのもご主人様だからこの人は変な噛み癖でもあるのかもしれない。
 まあ実際の所、首元に犬歯のような物が軽く刺さっている位なのでチクリとしている程度でそこは我慢できるが、彼女の舌先がちょろちょろと舐めてくるのが滅茶苦茶くすぐったい。
 幾度と無く、声を上げそうになるほど執拗に噛み所を変えるなどピンチを乗り越えて、顎が疲れたのか解放された時にはご主人様側の首が唾液でベトベト。しかも冷えてくるので余計にタチが悪い。
 まあコレで寝れると一息吐いたのもつかの間。今度はロレッタの方から……などと、二人交互に「狙ってるのか!?」と叫びたくなるほどタイミングよくアクシデントに見舞われ、目を閉じることすら許されない。
 そうこうしているうちに、窓から朝日が入ってきて朝を知らせる時間になってしまい、
「誰か、誰か……」
 殆ど無意識に呟いてブレーキ。
 続きで「代わってくれ――っ!」と、喉が枯れるくらい全力で喚きたい俺だった。

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