鋼の山脈 三・黄金の海(下)
祭儀を越えてからは、夜通し地下で坐を組む修練も、ぐっと数が減っていた。
楽かといえばそうでもない。地下の闇の深さは相変わらず精神を不安定にさせるし、精神の練りが甘ければゼリエがこれから教えようとしている謡は扱えない。
ただ徹夜によって体力が削り落とされる心配がなくなっただけ、良いと言えるのかもしれない。
だが、その日の心配事は、そうしたものとはかけ離れた角度から飛んできた。
相変わらず、精神的に参らせてやろうという意図が見え隠れする集団修練を終え、ゼリエの個人教練に向かう。
その間中、ずっと体が熱を持っていた。正確には、集団修練の中ほどからである。
戦士団の頃も、激しい立ち回りをした後に、ちょうどこんな風に体の中が熱の塊になったことを思い出す。
過度の運動で体が過熱し、溜め込んである体力が抑制を失って、行き場のないまま暴れているているのだ。
こうなっては、風に当たって冷ますのもうまくいかず、おとなしく休むこともできず、寝台で身体を持て余して悶々とするか、遅い時刻でも川へ泳ぎに行くのだった。
他の戦士は、女を抱きに行った。
今、それと同じ状態にあった。
レムの様子がおかしいことくらいゼリエは察しているだろうが、何か言うこともなく地下に入れられる。
香は例の、眠りを妨げるものだった。意識が過剰に目を覚ますせいで、心の陰が地下の影に溶け込んで、大きく膨れ上がるのである。
それを御するのが坐の意義だが、この状態ではどうなるかわからない。
滾る身体を持て余しながら、うわの空のままで坐を組んだ。
坐の形に入れば、いつものように精神が研ぎ澄まされて落ち着くかと思ったのだが、ただの希望的観測に過ぎなかったらしい。
広い闇の中からぬめりとした腕が伸びて、あるかなしかの乳房の麓をかたどるように撫でた。
触れられた部分の肌の下に、ぞわりと神経が逆立つ感覚が走る。
組み打ちの修練以外で他者に触れさせたことのない箇所を、明確な意志を持った手が触れることへの嫌悪のはずだった。
だがその陰に、その感触を悦んでいる意識があることを、おぼろげながら感じ取っていた。
腕は胸を撫でるようにしながら、決して強い刺激を与える箇所に触れようとしない。
自分の乳首が尖っているのがわかる。微かな恐れと、そこを摘まんでほしい期待が胸中に膨らんでいるにも関わらず、腕は肌を撫でるばかりである。
男の太い腕の先には、あるべき身体はない。そもそも、腕すら存在しているものではなかった。
すべて、性欲が生み出した妄想だから、情事に及ぶ際の男が、本当にこういう愛撫の仕方をするのかさえ、知らない。
換気口から静かに通り過ぎる風が、じらすように腰を撫でた。
それを、耐える。一体何を耐えているかもよくわからなくなってきている。
祭儀を無事にやりおおせたせいで、年長の祭司からの嫌がらせが度を越し始めていた。
今までは修練中に失敗ともいえない失敗をあげつらって小言を垂れたり鞭を振るったりする程度で済んでいたが、それが効果がないと知るや
レムの居室に運ばれる生活品にまで手が伸び始めていた。
食事の材料が傷んでいたり、着替えを洗濯せずそのままにされたり、それらが運ばれてこなかったこともある。
戦士あがりには、どちらも手ぬるい限りだった。家でこういう扱いを受ければ苦しみもしただろうが、ここを戦地と思えば、刃がない分気楽ですらある。
毒を混ぜられたとしても、一度タワウレ氏族で毒を受けている経験があった。
まったく効かないとは言わないが、慣れてしまえば修練をおろそかにするほど慌てることもない。
そんな風にけろりと過ごしているたところ、少し前に、一日中腹痛が続いたことがあった。
レムの予想したとおり、ついに直接的な混ぜ物に移ったのだろう。刺すような痛みで、傷んだ食事では有り得ないものである。
毒に慣れていない者があたれば、嘔吐か下痢かに苛まれていたのかもしれない。
ただ戦士にとっては、負傷を抱えながら、知らぬ顔をして動くのは、敵を勢いづかせないための、必須の技能だった。
そうした、水面下の戦いというにはお粗末極まるやり取りの末が、今日のこれだった。
食事の中にやけに精力のつく野草が多いと思ったが、それに加えて催淫剤でも混ぜられたか。
不覚だった。男所帯に溶け込んで生きてきた手前、こうしたことにまったく慣れがない。
内腿がぬるぬるになっているのが、触れずともわかるのに、どうしたらいいか決められもせず、身をよじるばかりでしかない。
父が、子を生す以外に女を抱こうとしない理由がわかった。肉欲の熱は、意識を爛れ腐らせる。
自分の腕に噛み付いて、その痛みで意識を保とうとするが、完全には振り払えない。
この状態で戦えば、五手と保たずになます斬りにされる。
その想像が、両手両足を斬り裂かれて転がる自分に代わり、いやらしく笑いながらのしかかる暴徒の姿が重なり、必死でその光景を払いのけた。
噛み付いた腕から錆の匂いとかすかに甘い塩気が広がって、どうやら腕を噛み破ったらしいと、ぼんやりと理解した。
坐を組んだ足に力が入っている。足を突っ張って、内股を擦り合わせようとする衝動に耐えるしかない。
手の印などは、とっくに両手を握り合わせる形に変わっていた。
このままであとどれくらい耐えなければならないのかと、気持ちが折れそうになった時、地下に手燭の光が差し込んでくる。
闇に慣れた目に刺さる光の痛みで、少しだけ気が紛れた。
無駄に力の入りすぎた坐の形を直し、予定より明らかに早く入ってきたゼリエを迎える。
場の空気を察したのか、ゼリエはしきりに血の香りと淫猥な空気が満ちた岩室の臭いに鼻を鳴らしながら、歩み寄ってくる。
明らかに気づかれているのは、ゼリエの様子を見れば察しがついた。
見つかった、という罪悪感と緊張感が、だらだらと液体を垂れ流していた部分をきゅっと引き締める。
ゼリエは、表情を変えない。
「妙ですね。まだ、この系統の修練は課していないはずですが」
少しの思案顔の後、またレムを見た。
「今日はこれまでとします。もう下がって休みなさい」
体調不良程度で修練を切り上げるなど、ゼリエらしくない。
だがそれを尋ねる気力もなく、力の入れどころもおぼつかない体でどうにかバランスを保って立ち上がった。
体が動けば、それだけ気が紛れたように思った。
人気のない通路を壁にもたれながら這いずるように進み、どうにか尖塔の頂上にある居室に入る。
たいした道のりでもないのに、汗がじったりと染みている。
通路を戻ってくる間は、早く部屋に戻ろうとしていたせいであまり気にならなかったが、一息つける状況になったことで、移動で温まった体に再び火がついた。
寝台にうつぶせになると、また腰周りがざわめき始める。
顔かたちも定かではない見知らぬ狼に覆い被さられ、腰骨を掴んで押さえつけられ、後ろから乱暴に犯される想像が浮かんでくる。
自然と、自分から腰を浮かせる形になっていた。
そういう状況になった場合を再現しただけに過ぎないが、嫌がっているはずの行為を自分から行っているという相反する状況に、より一層気分が高ぶっていく。
埃っぽい寝台に顔をうずめ、シーツを握り締めた。
気力を込めて腿を閉じ、膝を伸ばす。染まりそうな意識を平衡に保とうとする。
アマリエが数人に寄ってたかって犯されている姿が、実際に見たわけでもないのに頭に浮かぶ。
仰向けで股を開かされ、男たちが代わる代わるのしかかっていく。
腰がぶつかる部分が、幼い頃に父の部屋で見た薄暗い光景に重なって見えた。目を離せない。
ふっと、視点がアマリエを見下ろしている姿になる。
苦しそうな、それでいて微笑を浮かべているような、何とも表しがたい表情で、打ち付けられる感覚に身を任せている。
その表情に、下腹部が熱くなった。
興味がないわけではない。知識も、ないわけではない。
ただこの一線が破られた瞬間、何かが終わる気がした。
自らの女の証に触れようとした指を握りこんで拳を作り、石壁を殴りつける。
まったくの力任せだったが、戦士団での修練の甲斐あって、体が勝手に拳の傷まない打ち方をしていた。
腫れるような感覚があったが、骨や筋は痛んでいないだろう。
次に切り替わったイメージは、自分がアマリエの立場だった。
両膝の間に、足をこじ開けようとして、ぬっと顔を出す男のイメージが現れる。
思い通りになるまいと体に力をこめたはずが、逆に体を固めたせいで、股間をイメージの顔に押し付ける形になる。
じん、と股から頭に、痺れが走る。
かなりの気力を費やして、両膝を引き寄せてイメージを足の間から追い出した。パラカの宿舎の光景も頭から振り払う。
うつ伏せのままでは、また後ろから刺し貫かれるように思える。
仰向けでは言うに及ばない。横向きで寝転がり、両手と両足を引き付けて、体を丸めた。
これでひとまず幻影からは逃れられたが、力を入れて丸まり続けていなければ、できた隙間からありもしない男の腕が、レムをなぶりものにしようと割り入ってくる。
腕を膝と肘で挟み潰す。もちろん実際に当たるわけではないが、動作によってイメージも潰れるのである。
まともに決まれば、骨にひびくらい入れられるはずである。
そうやって気を張り詰めてうごめいているのが、いつまでも続くわけもない。
運動の熱とたまった疲れで、元から真っ白だった頭が、次第に制御を手放していく。
もはや遮るものも何もなく、体をまさぐる幻覚に弄ばれながら、飽和するように気を失った。
ふと、自分が気を失うように眠っていたことに気づいた。
閉じたままのまぶたを通して、おそらく窓からの月明かりだろう、白く柔らかく鋭い涼しげな光が、優しく差し込んでいるのがわかる。
夜中まで眠ってしまっていたらしい。
体に他人の触れる感覚は、まだ続いている。ただ、朝から続いていたような、身体にまとわりつくようないやらしい感触ではなくなっていた。
頬に触れたのは、ほっそりとしたたおやかな女の指だと思った。それが、月の光と同じように、レムを起こさないように優しく触れている。
眠る前までの、幻覚の男たちは、目を閉じていてもその姿が浮かんできた。そもそもが性欲の具象化なのだから、オスであるという概念さえあれば、それで十分だった。
だが、今の相手は性別がわかった程度では、捉え切れなかった。妄想ではない、十分な存在感がある。そのくせ、手の感触はおぼろげなのだ。
頬をなでる手が離れ、前髪に触れる感触があって、レムはようやく目を開こうと思った。
薄目を開けると、宵の光で少しだけ目の奥が疼いた。
部屋の濃紺の闇の中に、窓から差し込む鋭い銀と重い赤の月光に負けないくらいの、力に満ちた金色が輝いていた。
見ただけで、いつかの祭司だとわかった。彼女が、寝台の上に座って、レムに膝枕をしていた。
起き上がろうとして、できなかった。
金色の祭司は、穏やかに微笑んだまま、レムの頭を撫でている。
なぜここにいるのか問おうとしたが、声は出なかった。混ぜ物の影響が残っているわけではない。身体の熱さは、目覚めた時に、きれいさっぱり消えている。
ただなんとなく、この奇妙に静かな調和を崩すのが憚られた。
目を細く開けたまま、撫でられるに任せた。
祭司の顔を見上げる。柔らかい巻き毛は穏やかながら力強く輝いて、やや垂れ気味の優しげな目は藍色をしている。
差し込む月光に縁取られ、夜の暗い部屋の陰から、きめの細やかな肌が青白く浮かび上がっている。
知らない顔だが、どこかで見た覚えがあった。
ふと、祭司の口元が動き、落ち着いた澄んだ音色が耳に届いた。
氏族の者なら誰でも耳にしたことのあるような、ごく身近な子守唄である。良い声をしているが、あまり上手いとは言えなかった。
ただ、その歌い方が、魂を打った。
ゼリエに教わっているような、本式の謡のの発声法に似ている。謡手の意思が聞く者の意思を震わせ、声にこめられた安らぎの願いを、直接に心に届けてくる。
音を通して、謡手の心の暖かさがはっきりと伝わってくる。
それは、正しい意味で子守唄だった。
声を聞きながら、もう一度目を閉じる。
彼女とは、色々なことを話してみたい。それまでは、彼女の気の済むまで、子守唄に付き合ってやろうと思った。
この膝枕も、とても気持ちが安らぐもので、寝心地も悪くない。
眩しい朝の光に揺り起こされ、レムは目を開いた。
結局、また眠ってしまったらしい。
体中には体力が満ち溢れており、昨日の惨憺たる有様が嘘のように、頭もすっきりしている。
昨日の夕食は食べ損ねたため、とにかく腹が減っていた。
あの祭司の姿は、陰も形もない。また、すれ違ってしまったようだった。
彼女も薄情だと思う。尖塔の頂上まで来られるのであれば、こっそりでいいから顔を見せに来てくれてもいいようなものではないか。
それを、一体どういうつもりなのか、自分が座っていた跡すら寝台に残さず、わざわざしわひとつない状態にして帰っていった。
よく考えれば、普通の祭司とレムの接触は禁じられている。指導役にばれれば、さぞやきつい仕置きが待っているのだろう。
寝汗とその他の体液でじっとりと湿った嫌な手触りの長衣を着替え、素肌を濡らした布で拭いて、部屋の前に運ばれている食事の膳を部屋に入れた。
並んでいるやや冷めた粗雑な料理の中に、昨日と同じものが混ぜ込まれているのが、なんとなく察せられる。
またあの醜態を晒す羽目になるのかと思えば気が重いが、いつもより割り増しで好調な頭と身体が、今度はなんとかしてみせると息巻いている。
それに食べなければ体力も持たない。覚悟を決めて、食器を取った。
何しろ、目的ができた。
使い道が子守唄というのも、役目の重い祭司に知れたら大事だろうが、ゼリエやあの金色の祭司がやったような謡いを身に付ける気になったのだ。
過剰に発露させられる熱を、どうごまかすか。
扱いを間違えば昨日の二の舞であるだけに不安は拭い切れなかったが、意外にもうまくいく方法があっさり見つかった。
武技でも謡でも、力を入れるなら、臍の下に重心を置き、それを軸として全身から力を振り絞る。
臍下、すなわち下腹部は、ちょうど催淫効果で熱を持つ箇所だった。身体の中心に力の塊を得られることになるのだから、別のことに転化するのは容易い。
ただ、慣れない感情のうねりが頭の中を暴れ狂っており、意識を集中することができないでいた。
結局修練では、その挙動は力に満ち溢れたものでありながら、精緻さを欠いた粗雑なものに終始した。
「何ですか、今のは」
指導役が目を吊り上げるが、その様子を見てもまったく集中できなかった。
神妙な顔を作ることもできず、叱責を受けているにもかかわらず、浮ついた表情になるばかりである。
何か言われているのはわかっていても、内容はほとんど耳に入ってこない。
ただ指導役の表情が歪んだのを見て、相手の意図を理解することはできた。しかも次の行動が予測できてしまった上に、身体が勝手に応対に動く。
鞭で横殴りに頬を打とうとしていた手の進路へ反射的に、つっかえ棒をするように手のひらを出し、そのまま鞭の軌道を流して巻き落とす。
気付くのが遅ければ、そのまま反撃まで入れていただろう。
「何を……!」
顔面蒼白の指導役を、ぼやけた頭で見つめる。
間違いなく目の前で起こっている出来事なのに、壁ひとつ隔てた向こう側でのことのようなおぼつかなさがある。
このままでは何をしでかすか、自分でもわかったものではないが、制御を利かせようと意識を鋭く保った途端に、身体の中で暴れ狂っている力が正体を取り戻す。
昨日の状態にもう一度なるのは、どう考えてもうまくない。
自分が寄ってたかってなぶりものにされている妄想など、自己嫌悪がひどすぎる。
そんなおぼろげな意識であっても、場の空気が変わったことは察せられた。
緊張の走った指導役たちの視線を追ってみれば、例の能面のような冷たい表情のゼリエが、修練場へ歩み入ってきていた。
視線が合った瞬間に、ぼんやりと鈍感になった頭の中に、氷を直接入れられるような感覚が走る。
指導役や修練中の祭司に何事かを突き刺すように言っている。彼女たちが道を開ける中、ゼリエはまっすぐこちらへ歩いてきた。
急に顔を掴まれ、じっと目を覗き込まれる。まぶたを持ち上げられ、頭を下げさせられ、耳が細く体温の低い指につままれる。
首筋に指が当てられた。脈を取っているらしい。普段より、血の流れが速くなっているのは自覚している。
半ば頭を抱え込まれるような姿勢のせいで身動きがとれず、悪いことにゼリエの纏った女のにおいがふわと鼻先を撫でる。
自分も女であることを、嫌でも思い出させる。
「やはり、火見草ですか」
ゼリエが頭に回していた手を離し、見下ろすような調子で断定した。
もう少しでふらふらになるところだった。
「成長期の者には火見草を与えない決まりであったはずですね」
問い詰められて指導役たちがしどろもどろの様子を見せている間に、深呼吸を何度も繰り返す。
澱んだ池に水を入れて汲み出し、それを繰り返して池の水を綺麗にしていくように、体の中の澱んだ肉欲を新鮮な空気で追い出していく。
熱の源が下腹部にあるせいで、完全に落ち着くのは難しかったが、それでも周囲に注意を払える程度には頭がすっきりした。
「もうここでの修練はいいでしょう。来なさい」
指導役たちを締め上げにかかっているとばかり思っていたゼリエは、気がつくと目の前にいた。
慌てて言われたことを反芻し、修練場の出入り口へ向かって歩いていく彼女の後を追う。
途中で、ゼリエがつと振り返った。
「後ほど、今朝の調理担当を私のところへ連れてきなさい」
レムは言われた者の方を振り返ることはしなかったが、その相手の表情はなんとなく想像がついた。
いつもゼリエとの修練に使っている地下室に連れて来られ、やはり二人で向かい合って立った。
いつもと違うのは、普段の時間よりかなり早く来たということくらいである。
身体の熱さは、昨日ほどではない。
「ゼリエ、火見草って何だ。与えるとか与えないとかって、言ってたけど」
「火見草は、渓谷の底の方に自生している辛味のある草です。これから作った薬は、性的な衝動を強める効果があります」
レムが何を言おうとしているのか察しているらしく、瞳が燭台の灯火を反射して濡れたように光る。
「性欲が高まった状態は、感覚が鋭敏になりながらも、意識が拡散している特異な状態です。この状態は、通常では捉えることの難しい精霊を知覚するためには
最も適しているとされています。ですから、難しい儀式を要求される祭儀では、重い役を担う祭司はこれを使用して、陶酔状態で臨む場合もあります」
「成長期に使うな、っていうのは」
「体力の有り余っている若者に精力増強などしたら、制御できずに道を踏み外すのがせいぜいでしょう」
ゼリエの目が、レムの胸元の服の合わせ目から下へ、正中線をなぞって降りていく。
「あなたに与えられた火見草は、おそらく薬にして、そのままのものでしょう。本来であれば薄めて用い、性衝動が制御できる範囲で意識を広げるのが目的ですから。
本来ならば昨日の時点で気づくべきでしたが、あなたがよく耐えたおかげで、火見草を思い当たるまで時間がかかりました。
ですが、得るものもありました。量はわかりませんが、薄めていない火見草を耐えられたのであれば、次の段階へ進めるでしょう」
ゼリエの纏った空気が、目に見えるような重量感を伴った圧迫感をはらむ。
この空気は、以前にも見た。
「これからは、朝からもここで本式の謡を修練します。まずは、真似なさい」
ゼリエが息を吸い、声を放つ。いつかと同じように、魂に直接触れられるような感覚が襲う。
火見草で過敏になった意識が、石室の壁にさえ小波の立ちそうな力強い声をまともに受けた。
全身の五感が一斉に呼び起こされる。触れる感覚と、痛みと痒みと心地よさと性的な快楽がまとめて体中を駆け巡った。
頭の中が真っ白になっていく。
ぎりぎりのところで、踏み留まった。
「まだ、歌にも乗せていませんよ」
こらえ切れずに、膝を突いた。胴体の筋肉を引き締める。
あのまま意識を手放していたら、失禁していたかもしれない。
敏感になった状態では、あの発声はもはや攻撃手段ですらあった。
膝を突いたまま、頭を上げられない。神経系に、謡の余波がまだざわめいている。
頭の上から、ゼリエの視線が冬の雨のように降り注いできている。
「仕方ありませんね。まずは、声の出し方から学んでいきましょう。立ちなさい」
そう言われても、すぐには立てなかった。
感覚が落ち着いてきたのを確かめながら、ゆっくりと立ち上がる。
また何度か、深呼吸して意識を落ち着ける。気絶寸前まで持っていかれれば、気が引き締まってもいいようなものだというのに、
頭の中も下腹部からの熱さも、火見草の影響下から脱し切れていない。
表情だけは保っているつもりでも、ゼリエの目は冷静にこちらを観察している。
「拡散した意識を、ひとつところに集中するのです。声を用いて、耳ではなく、相手の存在そのものに謡いかけるように」
無理だ、と反射的に思った。どうすればそうなるのか、見当もつかない。
しかし、やるしかないことも知っている。なかば自棄気味に、ゼリエの声から受けた感覚を逆流させるつもりで、意識を絞った。
今の状態では下手をすれば、声を受けたときと同じように、気を失いかける羽目になりそうである。次は踏み留まれる確証はない。
恐る恐る声を出すレムを、明らかに駄目であるにも関わらず、ゼリエはじっと聞いている。
断崖城は夜になると、不寝番か夜通し修業を積む者くらいしか外に出てくることはない。
たまに夫のない女が、戦士のところへ通っていく姿が見られるが、抱かれに行く姿を見つかるのは恥であると同時に、
他者の恥を声高に言い立てる者は誇りを理解しない者だとして、その目撃者もまた後ろ指をさされるため、家族でもない限り見ぬ振りをするのが作法だった。
その真夜中の鉱山の、斜面の岩場に、黒狼が腰を下ろしていた。
「ここにおったか。こんな時間に何をしておる」
岩場には一抱えほどの岩が無秩序に転がっていて、足場は悪い。
声をかけたマダラの老狼は、岩場に足を踏み入れず、岩場の縁の程よい大きさの岩に腰を下ろした。
「若造どもが、噂をしておるぞ。貴様はもう娘を取り返す気力がなくなったとな」
藍色の深い夜の中で、黒狼の居場所だけ、墨を塗ったように黒い。落ち着きのある碧い眼が、小さく光った。
「謹慎が解けるまで、あと十日ある」
「知っておる。貴様がここにいるのだ。なら、噂が噂でしかないことくらい、わかる」
そう言って老マダラは岩場の下を見下ろす。路地部分から霊地に続く上り坂が、よく見える。
あの時は、上り坂にはあつらえたように葬列が進んでおり、二人の位置関係はちょうどこんな感じだった。
あの時のあの顔は、忘れようとしても忘れられない。
「らしくないな、ガルマリウド」
黒狼の地を這うような低い声に、老マダラはぎょっとした。
なんとなく揶揄するような響きを感じたのは、己の引け目のせいだろう。この男は、そうした遠回しの言い方を好まない。
引け目があるからこそ、こんな夜中に、こんなところにも来る。
他人に対して引け目を抱いたなどという事実こそが、"空を這う蔦"ガルマリウドにとって一番「らしくないこと」だろう。
「おれも老いたということだ」
言いたいことをほとんど言わず、老マダラは岩場を後にした。
度々黒狼に会いに来ているのも、実力行使を催促しているわけではない。
この騒動で戦士団と祭司団の関係がどうなるということも気にならなくもないが、騒動の中心である黒狼が家長権限の行使を決めた時点で、そのことは思慮の外に出た。
その二人きりの家族の行く末が、純粋に気にかかっていた。
らしくないと言われるのも、仕方のないことだ。
火見草によって微熱を孕んだような状態は、周りへの注意力が散漫になっているように見えて、うまく制御できれば確かに感覚が広がった。
身体の熱さで五感がおぼろげになったせいで、はっきり何とは言えない不思議な知覚の仕方ができるようになったと思う。
頭がぼんやりしている状態が意図的に続くようにしていると、目を閉じていても誰かが動く情景が、空気の動きまでわかる気がした。
最初は限りなく広がるかと思われた地下修練場も、今ではなんとなく広さを把握できている。
「では、やってみなさい」
向かい合ったゼリエが言う。
口を僅かに開いて、喉と下腹がまっすぐ繋がるようなイメージをする。
繋いだ経路を開き、下腹に溜まった熱を、鋭くした意識の冷たさで研ぎ澄ませる。
肉体の上から浴びせかけても、相手の芯を打ち鳴らせるように、太く、強く。
歌声とはかけ離れた、圧迫感のある唸りが搾り出された。
ゼリエは微動だにしない。
少し息をついて、もう一度同じ動作を繰り返す。
今度は、集団での修練でやったような、耳に心地よい素直な音色がでるように、太さを与えず、強さを抑え、そっと触れるように謡う。
声としては聞けるものになったが、今度は相手を震わすには程遠い出来栄えになった。
まだ、詞を紡ぐ余裕などどこにもない。
「呼吸を整えなさい」
もう一度試そうと息をついたつもりが、大きな溜息になったのを聞いて、ゼリエから静止が入った。
張り詰めた緊張感を和らげた瞬間、喉から下腹までの声の通り道に、叩きつける様な重さが来た。
たかが謡と侮ってはいけないのである。発声の工夫で身体の芯の筋肉を使う上に、ぼやけた意識で感覚を研ぐことがどれだけ精神力を使うか。
火見草を薄めて服用するようになったことで性欲も抑えられている。身体を火照らせる体力さえ惜しい。
深呼吸ひとつついただけで、胴の筋肉の隙間に刃が通されたような鋭い痛みが走る。
思わず息が止まった。
必要な呼吸を、たかが痛みで止めてしまうとは、戦士としては鈍ったと言わざるを得ない。
それでも身体の継ぎ目が痛まないよう、慎重に息を吸っていると、ゼリエが淡々と評価を始めた。
「この謡の本質としては、初めの方がよく謡えていました。ですが、叩きつけるような謡い方ですね」
「はい」
「聞かせるものということを思い出しなさい。それでは、戦で気を吐くようなものです」
言った後、思案する表情を見せる。今の技量がどれほどのものか、値踏みしているらしい。
「レム」
「はい」
「あなたは、処女ですか」
突然の質問に、意味がよく把握できなかった。
頭が意味を理解していくにつれ、下腹の熱さが蘇ってくる。どころか、頬や耳にまで熱がわだかまっていく。
「あ、え、それは、どういう意味」
「男と交わったことはありますか、と聞いています。よもや自慰で処女膜を破っているようなことはありませんね」
絶句する他に思いつかなかった。
ぼんやりと広がった感覚が自分の全身をくまなく捉え、血管という血管がすさまじい勢いで脈打っているのを感じ取ってしまっている。
イメージは何一つ実を結ばないくせに、直接的に性的な言葉だけで、下腹部から何とも言えないぞっとするような甘さが広がってきた。
今まではこんなことはなかったはずだった。
火見草のせいだと、無理やり言い聞かせる。実際そうだと思ったが、言葉だけで腰がとろけているような状態では、その判断さえ確証が持てない。
「な、ない」
逃げるように、突き飛ばすかのような語調で答えた。
戦闘で言うなら、相手を叩くためではなく、追い込まれた状況から逃げるために適当に振り回された腕だ。攻撃としても防御としても死に体である。
その逃げの手は当然効くはずもなく、ゼリエは別に追い詰めようとしているわけでもないのに、勝手に気持ちが追い込まれていく。
「間違いありませんか」
「ない。本当だ」
「処女で間違いありませんね」
処女、という単語を口に出すのもはばかられる。言うべきかと考えただけで、腰の内側の筋肉が縮み上がるような、病み付きになりそうな快感が後ろめたさとともに走る。
どうやら子宮のあたりではないだろうかと思い当たった時点で、自己嫌悪で逃げ出したくなった。
「そう、そうだ。何もしていない」
「そうですか」
「な、なんでそんなことを」
焦り過ぎて、聞かなくともよさそうなことを口走った。
余計なことを言った場合は、叱られることはないが、呆れた表情で一瞥される。
今回もやはり、そんな顔を向けられたが、その後があった。
「二日後の真夜中に、精霊とのつながりを盤石にする儀式を行います。それまでに、この謡をさらに高めなさい」
それが今の質問とどんな関係があるのか疑問に思ったが、先ほどいらぬことを尋ねて冷たい視線を受けたばかりである。問いかけを飲み込んだ。
今度はゼリエがその表情を察したのか、訊かずとも説明があった。
「精霊に、あなたの処女を捧げます」
頭が理解を拒んだ。
「精霊への感謝と崇敬を示すものとして、舞と謡があります。祭儀では、篝を焚くことで火をもたらす意味もありますが、あの場で燃されるものは
精霊への供物の意味を伴います。この度では、あなたを精霊の妻として捧げることにより、氏族としてもあなた個人としても、さらに精霊と強く結びつくこととなるのです」
言っている意味はなんとなく理解したが、どうにも実感としてはわからないままであった。
ただ、何か取り返しのつかなくなりそうなことをさせられそうになっているということは、おぼろげながら感じ取った。
「明日は、私は準備に費やしますので、修練は休みにします。自分で練習をしておきなさい」
まだきちんと考えが決まらないというのに、ゼリエはぴしゃりと言いつけた。
どうやらレムに是非はないようだった。
あれからゼリエの睨みが利いたのか、火見草は食事に混ぜずに、きちんと薄めたものが別に出てくるようになっている。
相変わらず冷めた料理を、半ば作業的に腹に収め、食器を所定の位置に戻してから寝台にごろりと横になる。
頭の中は、明日に迫ってしまった祭儀のことがごちゃごちゃになっていた。
捧げるということは、要するに処女を捨てるのだろうが、あの場面で方法を聞きそびれた。
まさか本物の精霊が降りてくるわけでもないだろうし、そうなれば何らかの祭具か、精霊役を担う男かになる。
祭儀に参加できるのは、女の専用である祭司のみだと考えれば、なんとなく見当はつく。
自分の処女は、父の決めた相手か、自然と愛するようになった相手かに任せるつもりだった。
精霊に捧げることになったのが、幸か不幸かはわからない。
儀式による性交で、数日前に薄められていない火見草によって感じた、体の中身が煮立つような欲情が満たされることはあるのだろうか。
祭司の生活にも慣れてきたとはいえ、相変わらず身を削るような日程が続いているのである。
仰向けに目を閉じる。
自修しておけと言われたが、健康的な生活とは遠い疲労をもたらす祭司生活が、身体の関節に重く凝っている。
それを、少しでも解いておきたかった。
霊地の鋭く冷たい風が、肌を裂くように吹き付ける。
この感覚も懐かしく感じるようになってしまった。
環状列石のひやりとした手触りも、すっかり久しぶりである。
音もなく吹く風が、音もなく草をなびかせる中で、金色の柔らかい髪が舞い踊っていた。
祭司になってからは祭儀以外で外に出られないため、ほとんど来ることのなくなっていた霊地にレムを連れてきたのは、彼女だと記憶している。
それが、先ほどからああして外の空気の肌触りや、日の光の感覚を楽しむかのように動き回っている。
子供のように飛んだり跳ねたりはしていない。背格好や見た目からはレムよりいくらか年上かと思っていたが、もしかすると意外と歳がいっているのかもしれない。
誘うように、レムを顧みる。
来い、というのだろう。実際に声をかけられた気もした。
腕を伸ばすと、柔らかい細い手が、少しだけ強くレムの手を取った。
手を繋いだまま、円を描くように回り舞う。やや目じりの下がったおっとりした顔を見ると、落ち着いた雰囲気はあったが、本当に楽しそうにしている。
レムの顔を見て、にこりと微笑んで見せた。
なぜか、少し気恥ずかしくなって目をそらした。
しばらくそうして踊ったり、彼女のあまりうまくないが心を打つ歌を聞いたり、声をそろえて歌ったりしていると、次第にそんな人見知りも忘れていた。
優しげな眼差しは包み込むようで、なんとなく、金色の祭司は自分より年上だと確信した。
やはり、どこで見たことがあるのかは思い出せない。
彼女に誘われて、環状列石のひときわ大きな石柱に上った。
並んで座り、空を見ると、明け方だった。今がいつ頃の時間帯なのか、さっきまでも知っていたような気もするし、今初めて確信した気もする。
重く澄み渡るような宵闇色が、地平線の端に射した光によって切り払われていく。
訪れたばかりの朝は、青空の色ではなく、薄い金色をした光の色をしていた。朝日など何度も見たことがあるというのに、その色彩がいやに胸を打った。
隣を見ると、朝の輝きを浴びた金色の祭司が、眩しそうに目を細めながら、レムを見ていた。
その目が、断崖城のある山の麓をなぞるように降りていく。彼女の視線を、レムも追った。
林があった。やや細いながらも、寒冷地の気候と野の獣に負けないように、精一杯立っている木々がいる。
獣道があった。住民を通し、時には盗賊を通し、あるいは獣も通し、いつも誰かに踏み固められている、足跡の川が流れている。
友邦の集落があり、彼らの飼う家畜の放牧地があり、彼らの作る畑がある。
コーネリアス氏族とはまた違う規範と矜持を掲げる者たちの、生きている証である。
それらを包むように、夜明けの紫色を湛えた山の稜線がカーテンのようにかかり、その上では夜の闇が地平線から現れる朝の光に溶けて、入れ替わりに地平線の下へ消えていく。
気がつくと、金色の祭司がこちらを見ていた。
何かを言おうとしているのは、すぐに察しがついた。
すぐに思い当たったのは、精霊に処女を捧げることになってしまったことだろう。
精霊を戴いて生活する狼の氏族では、精霊との結びつきが強まるのは喜ぶべきことのはずである。
精霊と結びつきが強まれば、祭司団の中でのレムの立場も強まるだろう。大部分を占める、指導役としての自覚に欠ける者たちを、変えられるようになるかもしれない。
考えたことが伝わったのか、彼女は表情を少しだけ悲しそうに曇らせた。
意を決したように、立ち上がる。
石柱は高い。座れるように磨いてあるわけでもなく、霊地の風も強く吹いている。落ちたらただではすまない。
レムの心配をよそに、よろめきながら立ち上がると、レムの前に回って両手を差し出してきた。
誘われている。
どこへ行こうというのだろう。手を取るのを、躊躇った。
彼女の後ろには、朝の緑と夜の紫に分かれた山並みと、眩しさと暗さの交じり合った空と、生活の営みがある。
ひときわ強い風が吹いた。
金色の祭司の、布地のたっぷりした長衣が激しくはためき、彼女の小柄で華奢な身体がバランスを崩したように見えた。
反射的に飛び出して、手を掴む。
足場が覚束ない。着地の狙いもつけずに跳んだせいで、石柱から足を踏み外した。
時間がゆっくり流れていく。慌てている暇はない。せめて彼女だけでも無事に、と、掴んだ手を引き寄せた。
どういうわけか、金色の祭司の方が、レムの首に腕を回し、頭を胸元に抱きかかえるようにして頬を寄せてきた。
地面が、近づいてくる。
顔面から派手に激突して、目が覚めた。
慌てて飛び起きる。先程までいた霊地の環状列石でもなければ、墜落の衝撃で大怪我を負っていることもなかった。
ただ、鼻が痛む。
自分と一緒に落ちていた毛布を寝台に上げ、絨毯の上に座り込む。
寝台から落ちるなど、幼い頃に何度かやったきりで、久しくないことだった。戦士としての身体の鈍りも、かなり進んでしまっているのではないかと思った。
明かり窓からは、朝日が差し込んできていた。
夢の中で見たほどの美しさはなく、いつもどおりの眩しい朝日である。
あの光景は何だったのだろうか。そして、あの祭司はレムに何を言いたかったのだろう。
もう、ここまで来て彼女が普通の狼だと思う気持ちはなくなっていた。トヲリとタワウレのような精霊の現身か、あるいは霊地の老狼のような常人を越えた何かか。
彼女のことを尋ねたとき、ゼリエは明らかに動揺していた。何か知っているに違いない。
今夜は、いよいよ祭儀である。
どこか、実感がないまま来てしまったという思いがないこともない。
処女かそうでないかは、自分にとって重大事だと思っていたのだが、そんなこともない。きっと相手の男がいないからだろう。
この儀式を終えれば、祭司団の中でそれなりの立場を得ることができる。ただ、何か見落としをしているような気もしないでもなかった。
それと、あの祭司が夢を通じて何を言おうとしていたのか。
朝食には、火見草が多めについてきている。
日が暮れ、濃紺の空の端が僅かに紫の陰りを残すに留まっている時間帯に、ガルマリウドは岩場にいた。
今日は早朝から、祭司がせわしなく霊地と城塞を往復している。何かしらの秘儀があるのは、十分に推測できた。
今夜は、黒狼はいない。
あの夜、黒狼を久々にここで見たのは、たまたまだと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
夜中に、この岩場に座っている姿を見た者が何人もいる。おそらく、上り坂を見張っていたのだろう。
ジグムントは、昔から何かあればこの岩場で断崖城の営みを眺めていた。
内に向かう性格で、他者と他愛もない話をするよりは、剣の速度を少しでも上げたほうがいいと考える男だった。
ひよっ子の戦士だったジグムントを、息子たちより筋が良いと見て、ガルマリウドは骨が削れるほどに苛烈な修練を与えたものである。
修練の後は若い戦士たちはつるんで遊びに出るのが普通だが、ジグムントは何か教訓を得た後、大抵一人でいた。
一人で考えを深める時間が必要だったのだろう。そして、岩場はうってつけの場所だった。
ジグムントが、修練場にも自室にもいないのであれば、大抵の場合、岩場で座っていた。
あの日も、やはりそうして眼下の葬列を眺めながら座っていた。
妻が妊娠した時に、もう交わる時期は過ぎたからと祭司団から通いを拒まれても、無理やり通い続けたジグムントも、さすがに臨月となってからは自粛していた。
生まれてくる子の名を考えていたらしいと、風の噂に聞こえていた。
岩場なら、それでもまだ遠いとはいえ、尖塔の頂上にもっとも近くなる。
ジグムントの妻は、身体が弱くて出産に耐えられるかどうかを危ぶむ声もあった。
妻が出産で死んだと知ったのは、その夫が最後だった。
知らせを止めさせたのは、当時の祭司長だったアルバレラで間違いない。
女ばかりの祭司団の勢力範囲内に男の身で踏み込んだだけでなく、妻との生活を続けるために祭司団の都合を跳ね除け続けたジグムントへの、意趣返しだったのだろう。
あの時のことは、忘れられない。
夫はもう既に承知しているものとばかり思い込んで、妻の葬列に参加もせずにぶらぶらしていると早合点して、今までの評価は見当違いだったのかと憤って、
いつも通りに岩場に座っていた黒狼に怒鳴りつけた。
自分が放った台詞は、一言一句違わず思い出せる。おのれの妻が死んだというに、葬式にも出ずにこんなところで何をしておるか、だ。
それを聞いて、ジグムントはガルマリウドの顔を見、岩場の向こうで斜面を上っていく葬列を見、尖塔の頂を見、またガルマリウドを見た。
戦士見習いの頃から知っている黒狼の、度を失った叫喚を聞いたのは初めてだった。
その後は、知れ渡っている通りである。
黒狼は、その頃に扱い始めていた鉄柱剣を持って祭司団に乗り込み、次に尖塔に送られるべく準備を進められていた、生まれたばかりの赤子を見つけ、取り返してきた。
その折、数百年ぶりに祭司団に死傷者が出た。剣や拳を受けたのではなく、ただ押しのけられただけであるという。
ガルマリウドは、足元に気をつけながら、ジグムントが座っていた岩に腰を下ろした。
唯一あの時だけジグムントが見せた表情を思い出せば、何も知らぬ者を騙し討ちで突き殺したような無残さが胸に苦く広がる。
逆にあの時に、多少規律を逸脱しても、本腰を入れてジグムントの後援に回っていれば、祭司団の停滞は今頃解決していたはずなのだ。
眼下に広がる上り坂を見下ろした。
もう、老いを言い訳にしなくとも、ガルマリウドの立ち入る余地はない。
木製の扉の鍵を開け、石の螺旋階段を一段ずつ上っていく。
尖塔には、初めて足を踏み入れる。今、塔の頂上にいる娘がいなければ、自分が入るはずの場所だった。
そのこと自体には、何も遺恨はない。祭司の中で最も優秀である者に、尖塔で特別修練を施すとは言うものの、これから本格的に修練を始めようという年代の者から
選び出すとなれば、祭司としての力量の正確な評価はほぼ不可能である。
尖塔の上の彼女がそこにいるのも、ただ血筋に優れた祭司がいたことと、祭司職につく際の適性検査が良好だったというだけのことらしい。
そう思えば、この結果は自分の実力不足を証明するものではないのだ。
何も、気にするべきことはない。
ひたひたと、足が石段を踏む冷たい音が、石を積み上げた塔によく響く。
食器配膳係に立場を盾に交代を求めてまで、こうして尖塔に登っているのは、ひとえに尖塔の上の彼女のことが気にかかっただけであった。
会ったこともなく、名前も知らず、耳に入るのは噂ばかりの彼女は、尖塔の上でどういう生活を送っているのだろうか。
聞けば、尖塔と修練場、そして祭儀の場をひたすら往復し、修練に明け暮れる日々だという。
自分なら耐えられる。自分の家では祭司団に上がる前から、日課なら祭司団の修練に劣らないものを課されていた。
ならば、自分の代わりに塔の上に行った娘はどうなのだろうか。
苦しい日々にやつれてはいないか。修練以外で他者と語らうことを許されない生活で、心が陰を帯びてきていないか。
普通の出自の娘なら、何かしらの不調をきたしていてもおかしくないはずだ。
階段を上りきり、分厚い木製の扉の前に立つ。
傍らに、空になった食器の載った盆がある。部屋の中からは、何の物音も聞こえてこない。
扉の鍵を開き、糸ほど開いた。慎重に、隙間の幅を広げていく。扉の向こうで、窓から差し込む月明かりが、部屋の中の色を単一に染め上げている。
指が二本入るほどの隙間が開いて、ようやく陰影が輪郭として捉えられるようになった。
採光窓のそばの寝台に、行儀良く横になっている少女の姿があった。
豊かな髪の広がりに比して、毛布の盛り上がりは控えめで、自分より年下のように見えた。
尖塔に選び出された基準には、より年齢が若い者という条件もあったのかもしれない。
蝶番が軋まないように注意しながら扉を少しずつ押し開け、部屋の中へ身を滑らせた。
頭の中では、自分の予定していなかった大胆すぎる行動に、半ば混乱状態になっている。だが、ここまで来て遠くから寝顔を見て帰るだけでは
どうにも収まらない気持ちになっているのも事実だった。
もう少し近づいて、せめて表情に衰えが残っているのを見てからでも問題ないはずだ。
足音は、敷物が吸っている。
それでも一歩近づくごとに、一歩分だけ相手に自分の体温が伝わっていくような気がして、必要以上に慎重に足を進めた。
皮膚の下が、緊張のあまりひりつく感触を覚えている。
寝台の傍らに立ち、娘の顔を見下ろした。
肉付きは悪くないが、あまり血色はいいとは言えないように思えた。
取り立てて欠点が見つかるわけではない。だがこの、氷細工のような脆さを感じさせる雰囲気はどうだろう。
ふと、花が開くように娘が目を覚ました。まだ心もとない視界に目を細めて、こちらを見る。
他の祭司と尖塔の祭司との接触は禁じられている。本来は慌てるべき場面だったが、どうしてか、彼女が自分を認めるのを見守った。
「こんばんは」
ごく自然に彼女の口元に笑みが広がるのを見て、初めて狼狽した。
禁を破ったことに、ではない。
彼女にどう応じたらいいのか、なぜか思いつかなかった。
――――
日が落ちて二つの月が夜空に現れた頃、尖塔に迎えが来た。
指導役たちより一段落ちるものの、それなりに地位のある祭司ばかりが現れた。
全裸になるよう求められ、ゼリエがレムの素肌に文様を描く。水気を帯びた筆の感触がこそばゆい。
しかし、祭司になって日も浅いとはいえ、こういう儀はなかった。
「ゼリエ、これは」
訊けば教えてくれるゼリエには珍しく、応えはない。
記憶にある限りでは、タワウレの精霊刻印くらいのものである。これも、そうした系統のものなのだろうか。
全身にくまなく文様が行き渡ったところで、儀礼服を渡された。
細かい刺繍の行き届いた華美なものだったが、薄い布地で作られた、前開きだった。それが何を意味しているかは、素肌に直接着るものであることでおおよそ察せられた。
「それでは、手順を教えます」
祭司たちの前で説明を始めたところを見れば、さほど秘する祭儀でもないのだろう。
聞いている限りでは、レムがすることはほとんどないらしい。周囲の祭司たちが謡い舞うのであって、レムは祭壇に使う手ごろな石柱の上で祈っていればいいらしい。
「『川の雪融け』の後に、あなたの番があります」
ゼリエから、鉄でできた塊を渡された。
剣の握りを少しだけ大きくしたような棒の形状で、両端は丸くのっぺりとしており、側面に何か細かな文字がびっしりと浮き彫りにされていた。
「これは、断崖城の鉱山で、まだ鉄が取れていた頃の鉱石で作られた、精霊の男根を象った祭具です。衣服の前をはだけ、それを使って自ら処女を貫きなさい。
腰を下ろして膝を立て、少しずつ入れていくのです。火見草はあらかじめ服んでいるでしょうから多少は楽になりますが、
潤滑液を用いたり、体重や腕の力などで一息にしてしまうことはいけません。あくまで、自分の意思で捧げるのです」
言われて、光景を思い浮かべる。
半裸で自分の性器に棒を挿し入れている光景は、間抜けだった。
火見草の火照りがなければ、人前でそんな格好をすることなど恥ずかし過ぎて想像することもできない。
「純潔の血のついた祭具は、あなたと精霊の結びつきを証するものとなり、精霊の花嫁の純潔の血は強力な加護の呼び水となるでしょう。
一度達するまで、男女がそうするように、自ら行いなさい。何をするかくらいは、今更説明するまでもありませんね」
ただ、ふと、楽になるような手助けなしで処女を散らす光景を思い浮かべて、自決のようだなと思った。
一通りの手順説明が終わった後、祭司たちに付き添われ、ゼリエの後に続いて、やけに肌に空気が触れる衣装で尖塔を降りていく。
気持ちの落ち着かなさは、初めて祭司の長衣を着けたときの比ではない。
加えて、この後にもっと重大なことを行うのだ。
食事にやや多めに添えられた火見草のおかげで、既に高揚状態になっている。
居住区にいるはずである、他の修練中の祭司たちは、普段と変わらず、レムが通る際には生活音ひとつ漏らさない。
短い間だったが修練を共にした彼女たちと、結局親しく言葉を交わす機会には恵まれなかった。
心残りでもあり、こうして足元のおぼつかない姿を見られずに済んで安堵してもいた。
もし祭司団に残ることがあるならば、まず祭司の仲間と自由に会話を交わせるようにしよう。
城塞を出ると、外は宵闇が満ちていた。
不寝番も、話が行っているのか、夜間灯火をいくつか落としている。
先導されるままに霊地に続く道を進み、上り坂に差し掛かったところで、ふと山の斜面を見た。
大小さまざまな岩が無秩序に地面から突き出し、また転がっている岩場に、誰かが座っていた。
他の祭司たちは気がついていないらしい。あるいは、見えていて知らないそぶりをしているのか。
長老議会最年長の、気難しいマダラの姿がおぼろげに浮かんだが、すぐに視線を向かう先へ戻した。
夜の霊地は、高く、広く、遠い。
ひときわ高い標高は生活の営みからかけ離れており、広大な短い草の原はどこまでも続くようで、霊地の外のすべてが遠い。
城塞地下の狭く暗い修練場も、外のすべてと繋がりを絶たれている。質は違えど方向性は似通っているのではないか、という気もしてくる。
あの金色の祭司は、来ているだろうか。また会いたいと思う反面、現れたところでゼリエや他の祭司たちとどうなるかも心配だった。
坂を上りきったところで、先を進んでいた祭司団が人だかりを作っていた。
「どうしたのですか」
予定にないことだったらしい。レムのやや後方に付き添っていたゼリエが、彼女たちへ歩み寄った。
「その、それが」
人だかりが僅かに崩れて、霊地の風が頬を撫でた。
いつも感じていたような、鋭く冷たい、心を澄み渡らせる静謐な空気ではない。
身体が自然と、前へ出ていた。祭司たちを押しのけ、ゼリエの前を通り過ぎ、霊地の草原へ飛び出す。
霊地の風に変わって肌に感じられるのは、空気が硬化したような緊張感と、肌に直接押し付けてくるような圧迫感と、崖を前にしたような途方もない断絶の気配である。
レムは知っている。この感覚も、霊地で知った。
風に波紋を描く草の海で、組み上げられたり、据え付けられたりした祭礼具の雰囲気を、滑稽なものにしてしまうような、触れただけで肌が裂けそうな空気があった。
夜の闇に溶ける群青色が浮かんでいる。そして一箇所が、夜の闇の中でもはっきりとわかるほど、墨を刷いたように黒い。
その黒の中に、夜空の星に例えるには、滲み出る脅威の気配があまりに色濃すぎる、小さな碧い宝珠がふたつ光っている。
先に来て準備を整えていたらしい祭司たちが、祭礼具の作る祭儀の範囲にも入れず、遠巻きに立っていた。
人だかりから出てきたレムを見て、レムを隠すように前に出たゼリエを見て、父は顔を上げた。
「物々しい限りですね」
ゼリエが、肩で風を切るように足早に歩み寄っていく。
他の祭司が近寄れないほどの圧迫感など、なんでもないかのようである。
口ぶりと、背の様子に、ゼリエらしくない雰囲気を感じた。
「それで、何ですか」
「娘を迎えに来た」
「今まで見捨てておいて、ですか」
「謹慎期間が終わった。明日よりまた戦士格に復する」
「日割りは、太陽が地平線の上に出た時を以って区切りとするものでしょう。まだ日の出までは時間があります。
それに、あなたは何の権限で来たのですか。長老議員としてなら言うに及ばず、祭司団に入った時点で、家族と縁を切るとは聞いているはず」
違和感の正体が、なんとなくわかった。
ゼリエの語気が荒いのである。いつもの冷ややかに突き刺すような物言いではなく、感情的に叩きつけるように声を張っている。
この光景は、覚えがある。
幼い時分に、父と同室で寝起きしていた頃、よく部屋の外で聞こえてきていたやり取りだ。
「お前たちの言う権限は、ない」
「ならば、お帰りなさい。長老議員といえど、祭司の間にわがままは通しませんよ」
「だが、私は娘を迎えに来た。そうである以上、連れて帰る」
二人を中心に、高密度の空気が渦を巻くかのようだった。
他の祭司たちは、身動きすらできずに落ち着かない様子で事の推移を見守っている。
「力ずくでも、と? まるで野蛮ですね」
「価値観、概念、正否、善悪、そうした不定の揺らぎの介入する余地のない、誰もが納得する明確な形で、一切合財が決着する。私たちには、最も慣れ親しんだ解決だ」
「私を殺していきますか」
「必要であれば」
ゼリエの背が、敵意を孕んだのが見えた。
いつかレムにも向けた、あの様々なものが混ざり合って、敵意の形に落ち着いた、感情の泥である。
「女は祭司になるというのが、氏族の規律であると知っているはずです。本来在るべき役柄に戻ったというのに、あなたはまたそれを乱そうというのですか」
ふわりと、何か柔らかい風が吹いた気がした。
気を張っていないと祭司たちと同じように右往左往するばかりになってしまいそうな空気だったが、その風のおかげでレムは少しだけ余裕を取り戻した。
その風に背を押される感じで、レムは二人の傍に歩み寄る。
二人の目が、レムを見た。
「あなたはいいのです。言いつけたとおり、祭儀の準備を始めなさい」
ゼリエの表情が、吊り上がっていた。憤りを色濃くした感情の泥が、冷ややかな容貌に宿っている。
父は、レムを見ただけだった。
「あの」
「黙っていなさい」
叱り付けられて、口をつぐんだ。そもそも何を言おうとしていたのかすら、決めていない。
今、自分はどうすればいいのだろうか。
父は無視するでもなく、かと言って槍玉に挙げるでもなく、いつもの通りに黙っている。
「あの、私は」
「黙っていなさいと」
「言え」
レムに身体ごと向き直ろうとしたゼリエを、父の低い声が断ち切った。
「私はその、今まで祭司を続けてみて、こういうのも悪くないと思った。必要なことだし、そのための技術もしっかりしてるし。
今こういう儀をやるのも、その、なんて言うか、祭司団でそれなりの立場を得るのも大事かなって思ったんだ。だって、祭司団は年上が絶対的に強いし、
小さい子は余計なおしゃべりもしちゃいけないし、そういうのは直していかないと、って」
ゼリエは何事か言いたげであったが、父の無言の牽制によって、踏み出せずにいる。
「でも今まで戦士で生きてきて、あっちに戻りたいって気持ちもある。両方ができればいいんだろうけれど、そうもいかないのかな」
役割分担が為されたのは、そうする必要があったから、ということは知っている。
「この後どうしたいかっていうのは、何も決まってないんだ。今の祭儀だって、処女を捧げるって、本当にいいのかなって。
精霊と結びつきが強くなるって言うけど、私がタワウレで会った精霊は、そんなこと気にしそうな狼……いや、なんだろう。とにかく、そういう性格じゃなかった」
父の表情が、僅かに動いた。
ゼリエに首が向く。
「リディだけでは、足らぬか」
威圧感以外の理由で、ゼリエが言葉に詰まった。
「どういう意味ですか」
「精霊の花嫁を娶ろうなどという男はいるまい。レムを祭司団から出さぬつもりか」
「何を言うのです。精霊のために身を捧げるのは、祭司としては当然のことでしょう」
「リディの命を吸って、精霊は加護を強めたか」
あの時の動揺が、再びゼリエに表れていた。
父の表情は変わらない。だが、相手の身体に押し付けた鉈に力をこめるように、言葉を押し出す。
「リディの時間を塔に閉ざして、我らの氏族が栄えたか」
何があっても鋭く切り返していたゼリエが追い込まれている姿は、初めて見た。
少なくともレムには、氏族が発展しているという実感はない。今もどこかでこっそりと様子を窺っているような気がするビスクラレッドも、何も言っていなかった。
父も、それ以上何も言わなかった。ゼリエの小刻みに震える拳を一瞥し、ゆっくりと歩き出した。
そのまま、相も変らぬ存在感を放ちながら、レムの傍らを通り過ぎる。
どうしろ、とも言われなかったが、こうなればもう居残る理由もない。
祭司たちには申し訳ないが、処女を捨てなくてもよくなって、内心安堵もしていた。
祭司団の状態をそのままにして、元の戦士に戻るのは気が咎めたが、残ったところでどこまで立ち回れるか、わからない。
また尖塔に押し込められれば、それまでだ。
既に距離が離れてしまっている父の後を追って、霊地から降りる方向へ向き直った。
その時、背中から抱きすくめられた。
背に当たる柔らかな身体の感触は、おそらくゼリエのものだろう。振り向こうにも、胴にしっかりとしがみ付かれ、身体の向きを変えられない。
締め付ける力は、祭司のひ弱な力だとは思えなかった。
振りほどけない。背中を取られて力が入る体勢ではなかったが、それ以外にも腕力以外の何かがあった。
「ゼリエ、何を」
「行かせるものですか」
声を聞いた瞬間、今まで幾度となく垣間見えたゼリエの敵意の矛先が、見えた。
冷徹な性格は、何も思わないのではない。本来、そう思ってしかるべき感情を、冷たさの下に押さえつけているのだ。
自分の腕を折ってしまいかねないくらいの力がこもっている。その強さが、今まで押さえつけていた感情の重さだった。
「どうして」
声に込められた感情は、すなわち今まで押さえつけてきていた感情だった。
悲嘆と苦悩と憤怒と諦観と、それらすべてを飲み込むことのできない不出来な己を滅してしまいたいという害意が、あの敵意の正体だ。
「どうして、この子が私の子ではないのですか」
父が足を止めて、こちらを振り返っていた。
「本来であればあなたの妻になるのは、リディではなく私だったはずです。そうでしょう、最も優れた祭司と最も強い戦士であれば、私とあなたが適任でしょう。
それならこの子は私の子でありました。祭司団の明日を担う者になると、元々そういう狙いで縁談を設けたのです。それを、いつまでも再婚もせず、未練たらしく」
腕の締め付けが緩んだ。レムを懐に抱え込むように、ゼリエが身を乗り出す。
「どうしてリディなのですか。どうしてこの子を連れて行こうとするのですか。この子は、祭司団の導き手となることを定められて」
父が、遮るように口を開いた。
「レムはお前の自己顕示の道具ではない」
ただ一言で的確に心臓を射抜かれて、ゼリエの動きが止まった。
「後進を育てるのであれば、好きにすれば良い。だが、私とリディの娘はレム一人だ。リディは、子が生まれたら、自分の知らない世界中の物事を数多く見聞きすることを望んでいた。私は、その願いを果たす」
こちらを斜め正面に捉えたまま、父は告げた。ゼリエが弾かれたように叫ぶ。
「あなたなど、剣を振るばかりの陰気な乱暴者ではありませんか。所詮はリディが他に男を知らなかったからに過ぎないのですよ。あの子が普通に暮らしていて、他の男を見知っていれば、どうなったでしょうね」
「もし、他の男と結ばれる方が、リディにとって幸福であったのなら」
ほんの僅か、間があった。本人も気づかないくらいの小さな躊躇だっただろう。溜息をつくように、父は吐き出した。
「私は、それでいい」
横目で様子を窺うと、ゼリエは見たこともない表情をしていた。
魔物のようだと思った。もしくは、追い詰められて破れかぶれの反撃に出る前の姿だ。今まで随分厳しくされてきたが、いい気味だとは少しも思わなかった。
ゼリエは、ゼリエなりに真摯にレムを育てようとしていた。
父の言動は、戦士としては正しい。相手の急所を端的に突き、すぐに勝負を決めてしまう。
戦士なら、それでいい。一撃で相手を倒せば、後腐れはない。
今は戦士の立合いではないのだ。深く抉れば抉るほど、恨みが深くなっていく。
「ゼリエ」
何か、言わなければならない。そう思って、何も思いつかないまま、声をかけた。
「もういい、ゼリエ」
振り向いた顔は、目を見開いた恐ろしい形相をしていた。
今までひた隠しにしていたものを垣間見るようだった。これを鎮めなければ、ゼリエはもうこの先ずっとこのままになってしまう。
「もういいんだ」
何が、と、問われる前に、何かに導かれるかのように、頭の中に語るべきものの筋が、おぼろげながら組みあがっていくのを感じた。
振り向こうとするゼリエの顔には、突然横槍を入れられた憤りが、もはや隠されもせずにあふれ出している。
レムの顔を見た瞬間、何に不意を突かれたのか、戸惑いの色が走った。
「ゼリエも一生懸命だったのは、知っている。でも、そんなに自分を追い詰めるくらいになっちゃ、つらいだろ」
何故か一瞬、驚きの中に恐れが見えた気がした。しかしその表情は、すぐに紛れて消える。
「何もかもたまたまだったんだよ。ゼリエが優れた祭司だって言うのは、わかってる。でも、一番の相手と結婚させてもらえなかったから、認められなかったって思ったんだろ。
でも結婚なんて、誰が一番で誰が二番かなんてのは、選ぶ者の感じ方で変わるじゃないか。だから、ゼリエの相手が思った通りじゃなかったのは、何か別の意味があるんだ」
これで納得してくれるかどうかは、わからない。しかし、何もしないよりはましであるはずだった。
何より、自分の言葉の道筋をつけてくれた何者かの意思が、絶対に大丈夫だと確信を持っている。
先程までの勢いが収まって、茫然と聞いているゼリエを、まっすぐ見つめる。
「家っていうのは、結婚っていうのはさ、務めの結果がどうこうじゃなくて、一緒に生きていこうって相手を決めるためのものだろ。だからさ、そういうつもりで相手が決まっても、たとえ相手が父様だったとしても、ゼリエは多分、やっぱり何か不満だったと思うんだ。思い出して。いつかどこかにきっと、祭司がどうのとか立場がどうのとか、そういうの以外でゼリエを愛してた者がいたはずだから」
ゼリエの目が、少し引き締まった。
言葉は理解されていない。理屈も共感を得られていない。説得としては、失敗の部類だ。
だが、心に届いたのが、はっきりとした手応えでわかった。
「もういいだろ、無理しなくても。一番じゃなくても、誰も気にしたりするもんか」
肩を掴むくらいの勢いで、前に出た。ゼリエを正面から、しっかり見据える。伝えるのは言葉でも理屈でもなく、自分の心だ。
ゼリエが、逃げるように顔を背けて俯いた。こんな仕草を見るのも、初めてのことだ。
「私を、恨んでいるでしょう。外面では味方の振りをして、その実は妬み見下していたのですから。あなたが気づいていないはずはないでしょう」
目を見ようともせず、今にも消えてしまいたそうに、ゼリエがか細く呟いた。
ゼリエが向かっているのは、自分ではない誰かだということは、すぐにわかった。
「そんなこと、いいよ」
レムの感情が反応する前に、言葉が出ていた。
ゼリエの懺悔を受けた自分ではない誰かが、レムの口を通して応えようとしているのだ。
その意思の流れに、身を任せた。ゼリエに対して敵意はない。何者かの意のままに語ることで、ゼリエが少しでも楽になるのなら、それでいい。
「私は、ゼリエがいてくれたお陰で、すごく楽しかったんだからさ」
ゼリエの手を取った。はっと顔を上げたゼリエの手を引いて、そっと抱き寄せる。身長差があるため、胸に顔の下半分を埋めるような形になった。
普段の自分なら、絶対にやらない。だから、自分ではない誰かは、こういう仕草をごく自然に行っていたのだろう、と思った。
おずおずと肩に回された手が、小刻みに震えているのを感じた。
――
鍵穴に鍵を差し込み、分厚い木の扉を開く。
尖塔の鍵を持ち出すのも、もう慣れたものだった。
「大丈夫? 誰にも見つかってない?」
「大丈夫よ。見られても誰も気にしないわ」
「それじゃ危ないじゃない」
部屋の主は、相変わらず心配性だ。慎重なのはいいことだが、何度も忍び込んできている自分には、事実上黙認されていることがわかっている。
何かしらの効果を認めてなのか、普段からの謹厳な修練態度から見逃されているのかはわからないが、何度かひやりとする場面があっても、一度も咎められていない。
だというのに、この子は今もこの様子であった。端的に言えば、少し足りない。
幼い頃から尖塔の上で生活してきたため世間知らずなところが大きく、愛嬌があるとはいえ、これで結婚など、本当にやっていけるのだろうか。
「私よりあなたよ。ついに、結婚相手までアルバレラ様に決められるんですって? 大丈夫なのかしら?」
「ううん、わからないけど、ちょっと心配かな。戦士さんの中で強い人なんでしょ? 優しい人だといいけど」
一番強い、とは言わなかった。彼女も、最も強い戦士と縁組をされるのは、アルバレラお付きの自分だと考えているようだ。
最も、何度か張り合うように、一番強い戦士と結婚するのは自分だ、と冗談めかして主張したこともあった。彼女がそれを汲んでいるのかもしれない。
「相手が、じゃなくて、あなたが、よ。結婚したら家を持つんでしょう? 祭儀以外何もわからない状態で、その後どうするの?」
「どうするんだろう。私、なにも考えてない」
「そんなので大丈夫なの?」
「ああ、大変。どうしよう、普通の人たちって、結婚はどうやってるの?」
くるくると目まぐるしく感情の変わる表情は、見ていて飽きない。とても、尖塔にずっと押し込められていたとは思えない。
「アルバレラ様が良いように取り計らってくれるでしょ。それよりも私ね。何しろ、優秀な子を産むための縁組なのだから」
「そういえば、ゼリエちゃんも旦那さん決めてもらうんだっけ? いい人だといいね」
「何度か見たことがあるわ。父さんが随分目をかけてるみたい。言葉遣いも荒っぽいし、力も強いし、すごく怖いわよ。あんたなんか食べられちゃうわね」
「ええ、そんなあ」
馬鹿正直に怖がっている顔を見て、嫉妬がちくりと心に刺さる。
尖塔で起居するのはこの子が最初だが、その才能を認められてのことだ。祭司長付に抜擢されたとは言え、普通の祭司と同じ修練の自分とは、文字通り扱いが違う。
後ろ暗い気持ちを押し隠したまま友人付き合いを続けるには、彼女は純真でありすぎる。
晴れやかな心栄えに、自分の闇が照らし出されて、悲鳴を上げるのだ。
だからといって通いをやめてしまうには、彼女は良い友人でありすぎた。
今度の縁組で、かねてから自分が思っていた通りの「実力に沿った」序列付けが為されれば、本心から彼女と向き合えるだろう。
そうすれば、暗い思いに胸の内を突かれながら彼女の笑顔に応じる必要もなくなる。
「ね、ゼリエちゃん」
「何よ」
「家族できても、仲良くしようね」
「フフ、何を言い出すかと思えば」
問われて、考えた。
元々彼女が自分より上の扱いを受けているのが気に入らなくて、顔を見てやろうと忍び込んだのがきっかけの付き合いである。
その根本であった立場のずれが直って、まだ彼女に固執する必要が、果たしてあるのか。
「当然じゃないの。いちいち言うようなことなの?」
自然と返事が出た。いつもやっているように、呆れた様子で鼻から息をつくおまけつきだ。
リディが、くすぐったそうに笑っている。
――
父と二人並んで、霊地に続く坂道を降りる。
わからないことばかりだったが、今は聞くのをやめておいた。
素肌に直接着た特別の長衣が落ち着かない。父を見ると、いつもと変わらず、まっすぐに前を見たまま一足一足が重々しく、歩みを進めていた。
ふと控えめな光が顔を撫でたように感じて、空を見る。
夜の重い紺色の空から、輝く色の朝が、ゆっくりと起き上がるように、地平線に姿を現していた。
いつか夢で見た光景だった。
「謹慎期間は終わりだ」
鎧の上に朝日を纏って、父が低く呟いた。
結局、謹慎中の戦士を連れ出した件については、長老議会も祭司団も、それ以上深く追求することはなかった。
復帰後に剣を携えて霊地に上ったレムを、変わらない様子で出迎えたビスクラレッドは、落ち着いたものだった。
「なんだか、何も変わらないままだったな」
「なあに。百年二百年かかってできた体制じゃぞ。小娘一人が頑張ったところで、そうやすやすとは崩せんわい」
「そうかもしれないけど」
「まあ、一番突っ張っておったのが、落ち着いたようじゃからな。後に残っておるのは二流がいいところばかりじゃて、百年もかからずにましになるはずじゃ」
それでもまだ何十年もかかるだろう、というのが不満だったが、それよりも気になることがある。
「ゼリエは、どうなるかな」
例の一件以来、今までの謹厳な務めぶりがすっかりなりを潜め、時折外を魂が抜けているようにふらふらと歩いている姿さえ見かけられる程だという。
あんな表情を見た後だからこそ、心配だった。
「今まで突っ張ってきた分が全部すっぽ抜けたからのう。とはいえ、気力を取り戻すのは本人じゃ。こっちも、すぐに効く薬なんぞ、ないぞ」
「そうかも、しれないけど」
同じ言葉を繰り返すしかないのが、嫌な気分だった。
「そうだ、おじじ」
「なんじゃ」
「おじじみたいな、なんだかよくわからないものって、他にもいるのか?」
「なんだかよくわからないとは挨拶じゃのう。そりゃまあ、得体が知れんようになるくらい年を食っちゃいるが、わしはちゃんと生きちょるぞ」
台ほどの石柱の上で、肘を突いて横になったまま、老狼はうなった。
「だがまあ、そうじゃな。お前が何を気にしとるかはわかるからのう。一応、精霊と同じ理屈で、何かの記憶が残ることがあるっちゅうことだけ、教えといてやるわい」
「それじゃあ、あのさ。金色の毛並みの」
「教えてやらん。自分で探せい」
なんだか良くわからない扱いをしてしまったのを拗ねたのか、老狼は背を向けるように寝返りを打ってしまった。
その後は何を聞いてもふざけた返事しかしなくなった老狼に石を投げたい衝動を抑え、露地区画の目抜き通りに降りた。
レムの五十日間の謹慎など、何でもなかったかのように、相変わらず氏族の様々な職の者の中に、物好きな行商人、友邦から訪れた留学生がちらほら目に付く。
友邦の者たちは、下働きという名目で適当な家族に付けられる。その家族がお目付け役と身元引き受けを兼ね、彼らはある程度の自由を保障されるのである。
確か、父も何人か下働きを使っていたはずだ。
人通りの中に、祭司団で見覚えがある娘の顔を見かけた。
以前のことはわからないまでも、レムが戻ってきてからは、祭司が外に出ているのを見かけるようになってきていた。
普通の祭司は外出を禁じられているわけではなかったが、家に帰る以外はやはりあまりいい顔をされなかった様子だったのだ。
それが頻度が上がってきたとなれば、祭司団も少しずつ変化が生じているのかもしれない。
噂に頼るまでもなく、ゼリエの落魄ぶりはすぐに目に付くほどであった。
城塞の中の祭司団区画に留まっていることも少なくなり、断崖城のあちこちでぼんやりしている様子が見られるようになった。
既に祭司長の地位も返上したという。
氏族では、何かを探しているようだ、と囁かれていた。自分ではない何者かが彼女に語った、ゼリエを愛していた者の存在を求めているのだろう。
残念ながら、家族ではなかったらしい。
道行く狼たちの中に、ゼリエが見つからないかと探しながら歩いた。
今、顔を合わせて何をしようというのかは、まったく思いつかない。ただ、レムはゼリエに悪い感情を持っているわけではない。
単純に心配しているだけだった。咎められるようなことではないが、なぜか彼女を気にかける理由の言い訳を探していた。
眠る前に、ジグムントは鎧を脱ぐ。
鎧自体が凄まじい重量で、並の者なら拘束具以外の役に立たない。
それを朝に纏い、夜に外す。凄まじい重量ゆえに、普段から身体を鎧に慣らしておくのである。眠る前に鎧の手入れをするのが、習慣だった。
挟まった抜け毛や繋ぎ目の湿り気を取り、鎧を部屋の片隅に安置する。凝った身体を軽く動かして、ほぐす。特に来訪者がなければ、それで眠るところである。
箔付けをしたい若い祭司も、夫を亡くしていて子が欲しい女も、来るのであれば先触れがある。
その日は、そのまま床についていい日のはずだった。
部屋の明かりを消し、寝台に腰を下ろして、ふと部屋の外に気配を感じた。
既に夜もかなり更けた時間で、起きているのは不寝番ぐらいのものだった。
来訪の先触れは来ていない。そうした作法を知らずに来た友邦の者かもしれない。時々、高名な戦士の子を生みに来る女が、予告なく訪れることがあった。
その他にも内密な話がしたい戦士が来た可能性もあったが、そうだとしても昼にそれとなく話を通してくるし、部屋の外で逡巡していることもない。
部屋の外から漂ってくるのは女の匂いである。
眠る準備に入っていた身体を引き起こし、部屋と廊下の間仕切の分厚いカーテンをよけた。
そこに立っていたのは、青みがかった灰銀色の毛並みの、やや年長けた女である。
彼女の厳しい雰囲気と冷たい容貌がまず目に付くが、柔らかい布地に浮かぶ肉感的な肢体が男たちの目を引き付けずにはおかない、扇情的な魅力がある。
彼女がジグムントの部屋を訪れること自体は、珍しくはない。以前から幾度となくこうして顔を合わせ、その度に娘の扱いについて随分と激しい言い合いをした。
それも、先日レムを連れ戻す際の霊地でのやり取りで、決着したと思っていた。
「何の用だ」
「いえ」
歯切れが悪い。
今までのようであれば、尋ねる前から刺すように用件を浴びせかけてきたはずである。例の一件、持ち前の鋭さはすっかり影を潜めてしまっている。
代わって、どこか地に足が着いていないおぼろげな印象を漂わせており、落ち着かない様子でジグムントの顔や、辺りの壁や床に視線を走らせていた。
意を決したようにジグムントの顔を見上げた時も、視線に以前のような芯の通った力強さはなかった。
「あなたに抱かれに来ました」
その一言は、ゼリエが自ら退路を断ったかのような響きを持っていた。
「何のつもりだ」
「あなたが、快楽のために女を抱かないのは聞いています。それなら、私はあなたの子を生みます。それで、いいでしょう?」
心境の変化を尋ねたのだが、求めていた答えは返ってこなかった。それでさえ、溺れる者のような苦しい呼吸の下から吐き出している有様である。
「正気か」
「もちろんです」
ゼリエとジグムントが、娘を巡って対立しているのは周知である。拒絶しても、戦士の務めを果たさなかったと後ろ指を差すものはいないだろう。
「入れ」
間仕切りを開いて、ゼリエを招じ入れた。
今まで幾度となく押しかけてきた割には、ゼリエはジグムントの部屋の中を、落ち着かない様子で見回している。
間仕切りを閉める音に、怯えたように振り向いた。
友邦で連れて来られた娘の態度が、大体このような様子になるのを思い出した。
心を許していない男に身体を許すことへの拒否感が、彼女たちに硬さを与える。そうした場合にするように、肩に柔らかく手を添えて寝台へ導こうとした。
ジグムントの手が触れた瞬間、ゼリエの表情がほんの僅かだけ、鋭さを取り戻したように見えた。
「必要ありません。移動くらい、自分で出来ます」
冷たい言い草も、戻ってきていた。
とは言え、どこか自暴自棄の気配も捨てきれないまま、ゼリエは身にまとった長衣を解き始める。
素肌の覗いた箇所から、湿り気を帯びた女の匂いが広がった。相当、汗をかいていたらしい。
「まさか今からやめるなどと言い出しませんね」
先に寝台に腰を下ろし、ゼリエが挑発するように言う。
調子を取り戻したのではなく、追い詰められて前に出るしかなくなっただけ、という印象でしかなかった。
ジグムントも帯を解いて衣を脱ぎ、寝台に腰を下ろすと、ゼリエが下を見下ろして目を丸くしている。
言わんとしていることは、およそ察しがついた。
怖気づいたか、などと聞くことはせず、ゼリエに向き直ると、意を決したように、彼女の手が伸びてきた。
股間を掴まれる。少し力が入りすぎている。
茎を包み込むように、手のひらがぎこちなく動き始めていた。
ゼリエは、自分が主導すると言わんばかりの表情で、挑発的にこちらの様子を窺っている。虚勢であるのは、確かめるまでもない。
男の性器を弄ぶようなやり方を覚えるような女ではなく、覚える場もないと思っていた。
「どうです?」
表面をなぞるように、常より大きめの肉の棒を撫で回し、ゼリエは高圧的に言った。
下手に出ることも、並の女のように受身に回ることも、今までのかかわりで築いた面子が許さないのだろう。
時折、妙なところに力が入った。こうした場面においては自分のほうが経験がある、という演出をしようとして、見事につぼを外している。
随分と不器用になったものだと、感慨すら抱いた。
意識を切り替え、陰茎に伝う刺激に身を任せる。と、手の中でみるみる膨張していく男性器を見つめて、ゼリエが固まった。
閨に訪れた女の大体が、子供の腕ほどのものを目の当たりにして、こういう反応を見せる。まだ幼さの抜けない娘などは、その夜以降姿を見せないこともあった。
「やめてもいいが」
今更彼女に退くという選択肢などないことを知りながら、そう口にしていた。
案の定、見る間に眉が吊り上がった。
「何を言うのですか」
焦りを滲ませながら、陰茎を擦る作業に集中しようとしていた。
優位な立場に立ちたいのだろうが、やたらと撫で擦られているだけのままでは、痛みがあるばかりである。
やや前傾になったゼリエの肩を起こさせ、はっとした表情の彼女を寝台に横たえ、その上に覆いかぶさった。
「あっ」
何か嫌な思い出でもあるのだろうか。ゼリエが小さな悲鳴を発して身体を強張らせる。
すぐに行為に及ぶことはせず、身体の下の女に少しだけ体重を預けながら、その首筋に顔を埋めた。
柔らかく溶けるような芳香が、甘やかに匂った。腕が、拒むように胸板に当てられている。構わず首筋に舌を這わせると、ゼリエの喉から引きつるような声が漏れた。
小刻みに震えている。二度夫を持ったことがある女の態度ではない。
先程までの威勢はどこへ行ったのか、小さくなって怯える姿は処女のようでさえあった。
ならば、急くべきではない。
顎に手を添えてそっと自分の方を向かせ、顔を近づける。ゼリエは少し顔を背ける仕草を見せたが、暴れることはなかった。
少しだけ開いた唇をなぞるように、舌を這わせる。眉間に薄くしわが寄ったのが見えたが、なんとか受け入れようと必死に耐えているのがわかった。
口腔内に舌を差し込み、口の中を刺激する。押し殺された喘ぎが、ゼリエの鼻から漏れた。
舌を絡めたまま、手のひらで頬を撫で、肩を撫で、腕をさする。次第に、身体に入る硬さが、和らいできているように感じた。
腕から手のひらを離し、腹に触れる。柔らかな肉のすぐ下に、臓腑の張りのある暖かさがあった。
その形を描き出すように、優しく手を動かす。
唇を離すと、唾液が糸を引いてきらめいた。
ゼリエの上気した頬に、少しだけ余裕が戻っていた。
「リディとも、こうしたのですか?」
一瞬だけ、自分の動きが固まったのを感じた。
ジグムントの反応を楽しむかのように、瞳がかすれた光を湛えている。
すぐにゼリエの股間に手を差し入れたのは、動揺が表れたからかもしれない。
ゼリエの喉から引きつるような吐息が漏れる。
すでに潤っていたそこの湿り気を、指に馴染ませるように押し付ける。
息を詰めて不安そうに視線を送っているゼリエの膝を立てさせ、指先に緩急をつけて裂け目を揉みほぐす。
頃合を見計らって、指先を中に埋めた。
「ひっ!?」
予期していただろうが、それでもゼリエは小さく喘いだ。構わず、ジグムントは指先を中心に、中から穴を広げるようにゆっくりとほぐしていく。
ゼリエは、しおらしい態度に戻って、おとなしく指の動きに身を任せている。
ジグムントの動作が、快楽のためではなく、純粋にこの後のためにやっていることだと、おぼろげに察しているのだろう。
指が、根元まで埋まった。
指先が内壁を押すたびに、ゼリエが苦しげな吐息を漏らすようになってきていた。
手のひら全体が、しっとりとした暖かさを帯びる。
ジグムントは、ゼリエから指を引き抜くと、膝の間に割って入った。
ゼリエの視線が、自分の股座から、ジグムントのそれに移る。これから自分を貫くであろうものの凶器のような大きさに、再び恐れの色が浮かんだ。
「そ、それを……」
何か言いかけて、唇と共に噛み潰してしまった。
己の先端を、ゼリエの入り口に宛がう。少し滲み始めていた先走りとゼリエの湿りを馴染ませるように、少し押し付けるようにしながら先端で擦った。
荒い吐息が聞こえる。小刻みに震える腰を掴んで、少しずつ先端を埋めていく。
ゼリエの全身に力が入っている。歯を食いしばる強さまで伝わってきそうな両足を脇に抱え、指で裂け目を押し広げた。
苦しそうな鼻からのうめき声が漏れるが、まだ頭も入っていない。
応急処置のときに怪我人の肉を切り裂くようなつもりで、慎重に腰を進める。ゼリエがシーツを握り締める指が、青白くなっている。
頭が入った。みぢ、と裂ける音がする。
苦痛の唸りが、結合部を伝わってきた。
ジグムントは、ゼリエの顔をそっと窺った。
二度も夫を持った経験があって、まさかどちらからも手を付けられていないということはないだろう。
ファルケはともかく、ジエリオから逃れるのは、女の体力では無理だ。
ただ、しばらく経験していないと、処女膜が再生するとは聞いたことがあった。
どれも、推測の域は出ない。そもそも、ただジグムントの大きさに耐え切れず、膣口が裂けているだけということもあり得る。
少し、押し付ける力を上げた。
酸欠のように上を向いて口を開閉するゼリエの様子を窺いながら、少しずつ押し進める。
かなりの時間をかけて、根元まで収まった。
内臓に障っているのか、ゼリエは今にも嘔吐しそうな顔をしている。それでも、強がった表情を作ってみせる。
「もう、終わりですか」
涙の溜まった目に虚勢を張り、強張ったままの体を起こす。
「これでは、リディもつらかったでしょうね。こんな男が相手では」
結局ゼリエは、こういう関係でしか、自分と接することが出来なくなったのだろう、と思った。
根元まで入った陰茎を、一息に引き抜いた。
「ぐひっ!?」
拷問にかけられた者の悲鳴だった。
今度は、先程のように加減はせず、すぐにまた根元まで突き刺す。
「あぐっ」
引き抜いた折にちらりと見える陰唇が、無残なほどに広がりきっている。
しかし、もう気遣うことはしなかった。
腰の一打ちごとに、ゼリエが押し潰した悲鳴を上げる。
後ろに回した腕が、逃げるかのように寝台を掻いていたが、逃がさない。
指が埋まるような豊かな尻肉を両手で掴み、ゼリエの身体を貪ることに没頭する。
ゼリエの上半身が狂ったように暴れまわるが、腰をしっかりと固定されているせいで、何の意味もなしていない。
少し垂れた感じのある豊かな乳房が、波打って跳ねていた。
射精感が湧くまで、少し時間がかかった。
小さくうめくことで、ゼリエに知らせる。聞こえたかどうかは、わからない。
体中の力が腰に集まっていくのを感じながら、そのすべてをゼリエの体内に放った。
胎内に熱を感じたゼリエは、体を弓のようにそらせて、細く長い悲しげな声を、尾を引くように上げると、力尽きたように寝台に倒れた。
人形のようになったゼリエから、陰茎を引き抜く。
膣口からこぼれた体液は、案の定まだら模様になっていた。
「もう、終わりですか」
立ち上がろうとしたジグムントの腰の毛を、ゼリエが掴む。
顔には再び虚勢が戻っていた。
「私は、まだ、満足していませんよ」
明らかに意識が朦朧としているだろう。腕が毛を掴んでいる以外は、まだ寝台から起き上がってもいない。
既に建前は果たしたのだから、帰らせてもよかった。
ゼリエの体を起こしてうつ伏せにさせ、尻を上げさせる。
「こんな、格好を」
腰を掴んで、ジグムントは一瞬だけ考えた。
白い濁りに塗れたまま赤く腫れて、見るも無残な女性器が視界に入る。
そこに、また突き立てた。
ゼリエから獣じみた叫びが上がるが、今度は最初から一切加減しなかった。
女の苦痛を和らげるための様々な手練手管も、知らないわけではなかったが、使わなかった。
ただ、ゼリエを苦しめる方法で、ひたすら犯し続ける。
ゼリエは狂ったように寝台を掻き毟り続けている。
仰向けになって体の上にゼリエを寝かせ、下から突き上げた。
両足を肩の上に来るように抱え上げ、ゼリエ自身の体重で自分の膣を抉るような姿勢で犯した。
正常位で両膝を大きく開かせ、ただ男根をしごいて射精するためだけの肉の壺のように、ゼリエを責め続けた。
ゼリエは、そのすべてを受け止めた。
責められている間は、苦痛と快楽の混ざった責めから逃げようと必死にもがいていたが、責めが止むと何度でもジグムントを挑発した。
六度目になって、さすがに寝台に倒れたまま動かなくなった。
もう良かろう、とジグムントは立ち上がって、脇によけておいた衣を身に纏う。
こうした通いは、内密に行われるもののため、普段であれば女は自力で帰らなければならない。もしくは、同じく内密に控えていた女の家族が引き取っていくか、である。
ゼリエは、どうしたものか。
「もう、おわり、ですか」
振り向くと、寝台に手を突いて立ち上がっているゼリエの姿があった。
股間からどろりとした液体が、太腿を伝ってとめどなく流れている。
「私は、まだ」
寝台から手を離し、ジグムントへ向かって一歩踏み出して、人形の糸が切れたように、その場に崩れ落ちた。
近寄って抱き起こすと、今度こそ気を失っていた。
とりあえず寝台に横たえ、水で湿らせた布で体を拭って衣を着せる。
朝までにゼリエが自分の住居に戻っていなければ、恥になる。かと言って、通い先のジグムントが送っていくわけにはいかない。
「済んだか」
それまでゼリエとの性交に没頭していたせいもあったかもしれないが、それであったとしてもそれまで気配がなかった。
地に伏せる剣士のような耳をした、老いたマダラがゆっくりと姿を見せる。
「ガルマリウドか。どうした」
「いい歳をして恋慕に狂った馬鹿な娘を、引き取りに来ただけよ」
ガルマリウドは、足を引きずるようにして、濃密な匂いの残る部屋へ足を踏み入れる。
「顛末は聞いたか」
「祭司の噂を集めさせた。この愚か者は、無条件の愛とやらいう言葉に魂を抜かれおったのだろうな」
ガルマリウドは、寝台に横に立った。
「恋慕か」
「男への執着が、今まで尾を引いていたのであれば、恋慕と呼んでも差し支えなかろう。挙句貴様が自分に愛情を持っているかも知れぬなどと、ありもせん妄想を抱きおって。
まったく、つまらぬ女に育ったものだ」
ゼリエの顔をじっと見つめ、ガルマリウドは小さく呟く。
「本当に、つまらぬ」
己に突き立てるかのように、吐き捨てた。
たかが五十日、剣を握らなかっただけで、体力が随分落ちているのを実感した。
謹慎前と同じように霊地で蛮刀の型稽古をしてみて、早い段階で筋肉が疲労を抱えるのが感じられた。
老狼には剣速が落ちたと、にやついた笑みを向けらる。思うように行かない不満は拭い切れなかったが、無理な独修を重ねること自体、あまり良いとは言えない。
レムのような軽量の戦士にとっては、体力よりも、技の切れが落ちたことの方が重かった。この衰えは、また父に立ち合いを頼んで勘を取り戻すしかない。
胸にわだかまりを抱えたまま、霊地を降りて目抜き通りを通りかかった。
工廠の近くに差し掛かったところで、親方の苛立った声が聞こえてきた。
武器工は、傭兵の質の高さで大陸に名の知れたコーネリアスの戦士団を支える、重要な職である。
それぞれに癖の違う多種多様な武器の、繊細な調整を請け負っている職人たちが、神経質になって、怒鳴りつけるがごとくに会話しているのは、珍しい話ではない。
蛮刀は新しく打ち出したものをもらったばかりなので、工廠に用はなかったが、妙に気になって、覗いてみることにした。
立腹を隠そうともしない親方に、おとなしく怒鳴りつけられているのは、女の姿だった。
しかも、こういった場所に来るには似つかわしくない、ゆったりした作りの祭司の長衣である。
「ゼリエ」
「おう、どうした。剣が気に入らなかったか」
レムを目聡く見つけ、親方が不機嫌さを抑えて声を上げた。
「いや、大丈夫だ。ただちょっと気になったから」
「そうかよ」
親方がゼリエを一瞥する。
噂どおり、茫洋としていて以前のような気迫がなくなっている。
「用がねえなら、俺は戻るぜ」
言い捨てると返事も待たずに、親方は奥へ引っ込んでいった。
その背を目で追いながら、ゼリエが所在無く立っている。
祭司が工廠に来るのは、祭具の製造を頼む場合がほとんどで、そうした場合は大抵用意したリストの受け渡しで事足りる。
たった一人で、置いていかれるような状況にはならないはずだ。
「ゼリエ、どうしたんだ」
「いえ」
声をかけなおすと、なぜかばつの悪そうな顔をした。
「銀の帯玉を、探しているのです。随分前に捨ててしまったのですが」
玉をくりぬいて環状にし、帯に通す飾りである。確かに、不要な金属は工廠で鋳熔かされ、再利用される。
「もう溶かされたのかもしれないな。でも銀がそんなに急に必要ってこともないだろうけど。いつ頃、持って来たんだ」
少し、間があった。息を吐くのと同じような密やかさで、ゼリエが答える。
「二十年は前……あなたが生まれるより、昔ですね」
「それじゃあ、あるわけがないじゃないか」
思わず強い調子で言ってしまった。親方が苛立った調子だったのも、そんな昔の話を持ってこられたからだと思えば納得がいく。
しかし、ゼリエのすっかり消沈した姿を見ていると、今しがたの言葉の非難調が、言いすぎたように思えてきてしまう。
「そうですね。ありませんね。わかっていました」
言いながらも、ゼリエは諦めきれない様子で工廠の奥を窺っていた。
「大事なものなのか」
「いいえ。贈られた当時は、無用の長物だと思いました。今でもそう思います」
「贈り物を捨てたのか」
「そうです」
次第に、わからなくなってきた。贈り物を捨てたことは非難に値するが、今はそれを気に病んでいるような気もする。
気に病んでいるわけではないが、違う目的で贈り物を必要としているとも取れる。
「レム」
「ん」
「木彫りの腕輪を捨てたら、どこへ行くのでしょう」
「それも、贈り物なのか」
「そうです」
「捨てたのか」
「ええ」
「いつ頃」
「帯玉の、十日ほど前に」
探しに行ったところで、無駄だろう。こういう聞き方をするということは、不要になった物を譲り渡すようなことはしていないはずだ。
「がらくた置き場じゃないか」
「それは、どこに?」
「行ってもいいけど、先に燃やされてるかもしれない。燃やされていなくても、もうぼろぼろかも」
一応、前置きはした。だがゼリエのこの様子を見て、行かないなどという選択肢が成立するかは疑う余地もない。
「それでも、結構です」
思った通りだった。
断崖城山麓方向の盆地が、がらくた置き場と呼ばれている、いわゆるゴミ捨て場だった。
燃やせるものは火種や燃料として使い、灰にしてから、そうでないものは工廠でも再利用できなくなったら、ここで捨てられる。
探し物が木彫りの腕輪となれば絶望的だったが、ゼリエは祭司用の長衣の裾や袖を煤まみれにしながら、よく探し続けていた。
「なあ、誰から贈られた物だったんだ」
「何ですか」
「その、腕輪とか帯玉とか」
煤で真っ黒になったゼリエの手が、動きを止めた。
「夫です。もう死にました」
「なんで捨てたんだ」
「無用だと、思ったのです」
レムが生まれたときには母が既にいなかったため自分の家はわからないが、戦士団では夫婦仲の良い家が多かった。
夫からの贈り物が無駄だと捨てる心理が、わからない。
「今でも、無意味な物だと思っています」
「なら、なんで探してるんだ」
ざくざくと、煤と錆だらけの金物をかき分ける音だけが響く。
ゼリエは答えなかった。
手伝うにも手伝わないにも、どうにも踏ん切りがつかず、レムは言葉もなくがらくたを掘り返し続けるゼリエを、じっと見ている他になかった。
日が暮れて、陰で手元が見えなくなってきて、ようやくゼリエが身体を起こした。
「少し前に、祭司の功績や家柄などを考えずに私を愛している者がいるはずだ、と言いましたね」
落ちかかった夕日で、すっかり不明瞭になったがらくたの山をじっと見つめながら、ゼリエが言う。
レムは曖昧に頷いた。あれは、自分の言葉ではない。しかし、ゼリエの心にはしっかりと届いていたらしい。
「その心当たりを、探していました。もう思いつくものはすべて探ってみて、あとは、これだけ。いえ、最初に思いついたのに、後回しにしていました。
ファルケなら間違いないと、すぐに思い当たったのに」
「見つかったのか」
「いいえ。やはりもう、ありませんね」
手のひらについた灰を見下ろし、握る。
細かな煤が、ほろほろと指の間から漏れてこぼれ落ちていった。
「長々と付き合わせてしまいましたね」
「いや」
場所を教えるだけということもできた。ここまでついてきてしまったのは、やはりレムも気がかりだったからだろう。
「そうだ、その人の家族に」
「いえ、いいのです」
やけに落ち着いた声だった。
「私の愛した者たちは、すべて天と地に帰りました。そういうことで、いいでしょう」
煤にまみれた長衣の袖が、はらりと翻る。
「戻りましょう。夜は冷えますよ」
レムに先がけて、ゼリエはがらくた置き場を去っていく。
後について行く前に、一度だけがらくたの山を振り返ると、赤紫の落日を浴びて、煤とくずの山が、景色を遮るように積み上がっていた。
ゼリエは、振り向かなかった。
その日レムはたまたま夜戦修練をしようと、一人で深夜に起き出した。
荷をまとめて背負い、断崖城の大門へ向かう。あらかじめ話を通しておいたので、不寝番はすんなりと通してくれた。
夜も随分更けた時間だというのに、眠そうな様子ひとつ見せず、不寝番は出入りの名簿にレムの名を記す。
「そうだ」
ふと思い出したように、外に出かかったレムに不寝番が声をかける。
「ゼリエがさっき、大荷物抱えて出て行ったからよ。なんでも緊急で祭儀用の探し物だって話だ。お前なら一度祭司団にいたことあるから、秘儀とかでも大丈夫だろ?
途中で見かけたら一緒に行ってやってくれ。いくら近場でも、祭司一人じゃ危ねえ」
なんだってこんな夜中に出るんだろうな、と、不寝番は頭を掻いていた。
嫌な予感がした。
ちょうど夜通し駈ける修練だったので、走って探す分には問題なかった。
濃紺の夜空に、それより重苦しい色の山並が、辺りの景色に重くそびえている。
昼に比べてそんなに広いようには見えないのに、いくら走っても自分の居場所がほとんど動いていないように感じられた。
星は、時間の流ればかりしか示さない。
藪をひとつ抜けたところで、星明りを照り返してうすぼんやりと宵闇から浮き上がる青みがかった灰銀色が視界に入った。
確かに、何か探し物に行く割には、荷物が多すぎる。
「ゼリエ」
二度呼ぶと、ようやく振り返った。
最近見せていた、ぼんやりとした様子ではなく、少し芯の強さが戻ってきたような雰囲気があった。
「どうしました」
「それは私が聞きたい。こんな夜中に一人で出かけるなんて、危ないじゃないか」
「それはあなたも同じことでしょう」
「私は戦い方を知っているし、逃げ方だってわかってる。ゼリエはどうなんだ。祭司は、走ることも少ないじゃないか」
一気にまくし立てて、じっとゼリエの顔を見つめた。
ゼリエはしばらくレムの目を受け止めていたが、やがて鼻から気を吐いた。
「あなたに見つかったのも、何かの縁なのかもしれませんね」
「どういうことなんだ」
「私は、流れます。もう氏族に帰ることはないでしょう」
高山地帯特有の、冷たい風が吹く。空気の壁のようだった。
「どうして」
「もう、断崖城に私の居場所がありません」
「だからって、それじゃあ」
死にに行くようなものだ。言葉に出せなかったが、伝わったようだった。
「勘違いをされても困ります。いいですか、私はもう祭司団で今までのように生きていくつもりがなくなりました。
しかし、一度は祭司長まで務めた身です。氏族に残ったところで、今までの生き方に引きずられ、結局は何も変わらないままでしょう」
「いや、そうじゃない。断崖城の外は危険なんだ。近場だから友邦が助けてくれるだろうけど、それでも獣や盗賊はいるんだ。どこへ行くかも決めないで」
「私は、死にに行くのですよ」
ゼリエは、目を逸らさずにはっきりとそう言った。
「先日の祭儀で、これまでの生き方を崩されました。そして新しく見出した生き方を受け入れてくれる者は、もう氏族にはいません。
いえ、いるかもしれませんが、それが周知されるまで奇異の視線に晒されるつもりは、ありません」
日が暮れるまで、素手で煤の山を掘っていた姿が、目に蘇った。
「一度組み上げた生き方を変えるには、死ぬしかないのです」
「だからって」
「もし」
反駁しようとした鼻先を、押さえられる。
「もし、この旅路で命を落とすことがなければ、また会うこともあるでしょう。私は、晴れやかな気分なのですよ。
今まで思い煩っていたものから、解き放たれました。あとは、明日も命があるかどうかの、とても簡単な決着だけ」
レムの目の前で、青い灰銀色の髪がさらりと揺れる。
レムには押し迫ってくるような黒い重苦しいものにしか見えなかった山並みを、ゼリエは希望でもあるかのように振り仰いだ。
「地下を、思い出しますね。あの場所より、ここは暗く、そして広い。リディに、良い土産話が出来そうです」
背を向けたまま、山道をゆっくり歩き出した。
「そうでした」
少しだけ、振り返る。どんな表情をしているか、見ることは出来ない。
「金色の祭司なら、どこにでもいますよ。探してごらんなさい」
見えない横顔が、ほんの少しだけ微笑したような気がした。
ゼリエと別れてから、夜を徹して駈け通した。
夜戦修練でもあったが、ただ無性に走りたい気分でもあった。
汗だくになるまで走って、近くに水の匂いを感じた。頭の中の地図と引き合わせてみると、この辺りにそれほど深くない川が流れている。
北部山岳地帯の川は、暖かい地方で暮らしてきた種族には厳しい冷たさだが、ここで育った者たちにとっては少し注意を要する程度でしかない。
辺りの様子に耳を澄ませて、近くに何も脅威がないことを確認してから、行軍用物資の荷を降ろし、服を脱いだ。
汗にまみれた体に、冷たい夜気が切りつけるようである。
流れる水に足をつけると、重みのある冷たさが足先を覆った。
少しずつ、体を慣らしながら水に入る。体温と引き換えにすっきりした感覚が、神経を目覚めさせていく。
水底から足を離し、水の流れに身体を委ねる。水の冷たさと違う冷たさが、身体の前半分を撫でていく。
その場で反転し、川に潜った。
走り通しだった疲れと、川の冷たさと水圧で、頭が締め付けられるように痛んだが、構わずに身体をくねらせた。
息を継いでは潜り、身体の火照りと水の冷たさの区別がつかなくなってきたところで、ようやく一休みする気になった。
水底に足をつけて、ふと川面を見る。
銀の月と赤い月が、少し控えめに照り返している。そして、川面に映った顔が、似ていた。
見たことがあると感じた、あの金色の祭司の、知らないはずの顔。
戦士としての修練で精悍に鍛えられた顔の輪郭が、長らくの祭司生活と、揺れる水面で穏やかなふんわりした容貌を描き出していた。
流れによって凹凸が生じた水が月光を弾いて、顔の周りに柔らかな輝く巻き毛を形作る。
何かを感じて、両手を目じりに当てた。
いつもどこか力が入っている吊り気味の目を、そっと下ろしてみる。
いた。
目じりに当てた両手のおかげで、おどけたようになっている、金色の祭司の優しい顔が、じっとこちらを見返していた。
川面に波紋が走った瞬間、その顔がほんの少しだけ笑ってみせたような気がした。
レムは、堪らなくなって両手を差し出して身を躍らせた。相手も、迎えるように両手を伸ばす。
だが、水に沈む音とともに体に当たった感触は、夜の川の冷たさだった。
突如叩きつけられた現実の息苦しさに我に返り、水飛沫を跳ね上げて川から立ち上がる。
辺りには、誰もいない。
川も、変わらない調子で流れ続けている。
頭から体中を伝って滴り落ちる水を感じながら、レムは両の手のひらで、自分の顔に触れた。
探していた者を、ついに見つけた。
水はまだ、顔に当てた手を伝わって、流れ続けている。
空を仰いだ。
心の底から湧き立つ衝動に任せて、声を上げた。
精霊に謡いかけるための発声で、意味も言葉も為さないまま、ただ感情の渦に任せて吠えた。
体と心を震わせて紡いだ魂の震えが、水面を叩き空気を震わせ、山肌を撫でながら天へ昇り、二つの月に弾けて消えた。
――
幼い頃、自分にはなぜ母がいないのか、父に尋ねたことがある。
父から与えられる戦士の修練がつらく、女の戦士が自分だけしか見当たらず、不満と不安でいっぱいだった時期のことだった。
父はいつ見ても表情を動かさず、本当に自分を愛してくれているのかと疑問を抱いていた。
他の家族がそうであるように、もし母親がいれば優しく甘えさせてくれただろうと思っての、駄々をこねるような問いかけだった。
突然そう尋ねられて、父の表情が変わったのが、初めてわかった。
普段から硬い表情が固まったに過ぎない。それでも、自分が聞いてはいけないことを聞いてしまったのだということは、十分に理解できた。
返事はただ一言、元々体が弱かった、とだけだった。
母の直接の死因は出産だということと、父は傍から見て笑えてくるほどの親馬鹿だということは、後になって年長の戦士から聞いた。
母がどのような狼だったのかを知っている者は、戦士団の中にはいなかった。
血筋から見て祭司の適正が飛び抜けており、今のレムと同じように尖塔の一室で、修練に明け暮れる日々を過ごしていたという。
氏族で最も強い戦士と最も秀でた祭司から、優れた子を生ませようという、誰が言い出したかもわからない画策に、第一番目に選ばれる程度ではあったらしい。
「何も知らぬ女だった」
父が、彼方を見やったまま小さく呟くのを、レムは霊地の草地に仰向けに倒れたまま、聞いていた。
やはり尖塔にいた期間での衰えが、かなり響いてきていた。反応できた踏み込みに、まるで対応が間に合わない。
父が修練している姿は見ないというのに、一体どうやってこの体のキレを維持しているのだろう。
空を見ていると太陽が眩しいので、首を横に傾けた。
「城塞の中と霊地への道以外も、ほとんどわかっていない有様だった。私が様子を話してやったら、まだ家にいた幼い頃と変わっていないと喜ぶくらいだった」
投げつけられたダメージが、まだ腹の中に残っている。
どこかで、老狼が聞いているだろう。あとで茶化されるかもしれない。それでも、尋ねるならここでだと思った。
父の顔を見上げていると、その選択は間違っていなかったと思えた。
「初めて引き合わされたときは、目に見えるくらい怯えていた。食い殺されるかと思ったらしい。血の臭いを、嗅ぎ取られたのかも知れん。
いつだったか、人形のように扱うな、と泣かれたこともあった。それを言われるまで、私は他の氏族と同じように、戦士の務めと思っていた」
碧い眸が空を仰いだ。
すすり泣く女を前に、例の威圧感のある顔でじっと見つめている姿が、容易に思い浮かんだ。
何の感慨もないように見えて、父はどうすればいいかを考えている。きっとそのやり取りがあって、ようやく義務的な関係から一歩踏み込むようになったのだろう。
「本当に何も知らぬ女だった。私の他愛のない話でも、よく心を動かした。初めは、乞われて戦士として出向いた時の話をしていたが、様々に問われて
自分がろくに答えられぬ程度だということに、ようやく気づいた。私が本を読むようになったのは、その頃からだ」
父の顔が、横を向いた。目で追った先に、尖塔がある。
あそこには、レムに代わって誰かが押し込められているのだろうか。噂はまだ、流れてこない。
「息子を欲しがっていた。男であれば、自分のように塔に閉じ込められることもなかろう、と。それでさえなければ、息子も娘も多く欲しいと言っていた。
祭司として家族の縁を切る前は、多くの兄弟に可愛がられていたのだそうだ。それが、懐かしいと」
父の声に、溜息をつくような色が滲んだ。
「心の美しい女だった」
それきり、父は黙り込んだ。レムが起き上がれば立ち合い修練の再開である。
今までであれば、それ以上尋ねずに、蛮刀の位置を確認して起き上がっただろう。
「父様、母様はどんな狼だったんだ」
碧い眸が小さく動いて、レムを見て、すぐにまた霊地の彼方へ向く。
「初めに見たときは、子供かと思った。青白い肌で、しまりのない細い手足で、身長は私の半分ほどしかなかった。そう、その時から、身体が弱いのが悩みだと言っていた。
私は祭司団から二日に一度通うように言われていたが、その一度でもつらそうにしていた。そのくせ、祭儀であれば何日でも謡い続けたそうだ。うまくはないが、声が魂を打つ響きがあったという」
口を噤む父に、もどかしい思いをした。ここからが大切なのだ。
「毛並みの色は」
疑問ではなく、確認だった。父が再び、空を仰ぐ。
「そうだな。当たり前すぎて、忘れていた。赤月の暗い光でもよく映える、麦の穂の海のような」
父の碧い眸に眩しい太陽の光が混ざって、あの祭司の髪の色が映し出されている。
「美しい、黄金の色をしていた」
三・黄金の海 了