犬国奇憚夢日記 第7話
大雪が続く1月終わりの夜は晴れの特異日。
この世界の夜空に浮かぶ2つの月が両方とも満月になる夜だ。
年に4回しかない両方とも満月になる夜の1回目。
2つの月から降り注ぐ蒼い光が紅朱館の中庭を明るく照らし、その真ん中では巨大な篝火が焚かれている。
寒空の酒宴。
大きなかがり火の近くに立ち、湯気の立ち上るお茶を飲むポール公とアリス夫人。
やがて来る今宵の宴の主役達を、ジッと待っている。
そして、すぐ傍らにはヨシとリサが寒さに耐え、じっと立っていた。
「リサ、お前は館に入っているんだ。未産の女が体を冷やしてはいかん」
「御館様、ご心配には及びません。後で大浴場で体を温めます。今宵は夫とここに」
そう言ってリサはヨシの手を握った。
「うむ、そうか」
ポール公はゆっくり頷き、紅朱館正門の向こうをじっと見据えた。
チラチラと舞っていた細雪がふっと消えた刹那。
開け放たれた正門の向こうに、闇よりも黒い二つの影が現れた・・・・
サクッ・・・・・サクッ・・・・・
・・・・やっと・・・・来たか
「この地を統べるイヌの主と巨大な館を守る主。寒空に立ってのお出迎え、まことに痛み入る・・・・」
遠くから声が聞こえてくる。
暗闇越しに伝わる良く通る声。
彼らは暗闇でも目が見えるのだろうか・・・・
黒い影が少しずつ輪郭を帯び、やがて、かがり火の赤い炎に照らされ、それがヒトにも人だと認識できるようになる距離。
リサはヨシの手を強く握った。
「・・・・やっと来たね。暗闇でも見えるのかな」
ヨシはリサの手を握り返し、視線を闇の方へと向けた。
「なんか見えていそうな気がするな。目の色がイヌと違うもの」
その先に立つのはイヌの姿をしているが、イヌとは明らかに違う毛並みと毛色の獣人。
蒼い月の光を反射するブラックシルバーの美しい毛並み、透き通る蒼い瞳。
ピンと立った耳とイヌよりも長く太い尻尾を持つ種族。
オオカミ
イヌの血族がこの地に入ってくる遙か昔より、ここスキャッパーを生活の場としていた一族の末裔達。
「アリス殿、ポール殿。わがクー族1000年の感謝を伝えるため、私たちはやってきた」
「クー族の使者よ。はるばるの来訪ご苦労様です。イヌとオオカミ、3000年の恩讐を乗り越え共に進む友として歓迎します」
「領主殿」
二人並んだオオカミは顔を見合わせ、なにかアイコンタクトした。
左手に立っていたオオカミは胸に手を当てると一礼して口を開いた。
「私の名は-岩山を超える風-。どうかお見知りおき頂きたい」
その隣。向かって右手に立つ男はそれに続き同じく一礼する。
「私は、-森を駆ける馬-。我が友、-岩山を超える風-と共にやってきた」
アリス夫人は二人の挨拶を受けると一礼し、振り返ってヨシを呼んだ。
「遠くよりやってきた古き兄弟に歓迎の印を」
「はい、アリス様」
ヨシはお湯割りを二人分作り、オオカミの男達に一つずつ手渡した。
「ヒトの男よ。この地を栄えさせたヒトの執事はいかがした」
「はい、その男は・・・・昨年秋に老衰で死にました、私はその執事の息子です」
「そうか・・・・そなたにはあのヒトの男の面影がある。まさかとは思うたが・・・・ヒトの生涯は短く儚いものだな」
「昨年はあのかがり火の裏で、皆さんのお越しをお待ちしておりました。今後ともよろしくお願いいたします」
一礼するヨシに対し、オオカミの男は両手のこぶしを胸の前で合掌するように揃え、深々と一礼した。
「我々はそなたの父に、長き恩讐を超える恩義を受けた。そなたの困りし事があれば、我らは一族を挙げ協力しよう」
左手に立っていたオオカミ-岩山を超える風-は、そう言うと杯を空けてお湯割りを一気に飲み干した。
すぐ隣に立つ-森を駆ける馬-と名乗ったオオカミも杯を飲み干すと口を開いた。
「滅びの危機から我らクー族を救ったのはそなたの父の知恵と勇気と、そして大地の意志だった。我らは大地の意志を汲み、そなたの
盾となり矛となりて、この合歓の地を簒奪せんと欲する者に立ち向かうことを約束する」
「お心遣い、痛み入ります。この地に生涯を捧げた父と共に、心からの感謝を」
深々と一礼したオオカミたちは振り返ると氏族の踊子達をよんだ。
赤や黄色や様々な飾りを身につけたブラックシルバーのオオカミ達が中庭に入ってきて、かがり火を取り囲んだ。
「これより、この地に没した者達の魂が月の女神の元へ行けるよう、二人の女神に祈りを捧げ、聖霊の舞を奉じる」
かがり火を囲むオオカミが大声で謡い始め、手に持った錫杖でリズムを取りながら踊り始めた。
オオカミの男女が入り乱れ、大きな炎の周りで踊りながら謡い始めた。
ヨシやリサの知らない言葉が連なり、其の意味するところはまったく理解できない。
この夜の為だけに凍った森から切り出した千年杉の割材は、松脂を爆ぜさせバチバチと燃え上がる。
爆ぜる火の粉が舞い上がり、失われた魂が月の女神に導かれ遠き世界へと旅立つようだ。
かがり火の炎が少しずつ小さくなる頃、トランス状態だった踊子達が正気に返り、祈りの宴は終焉を迎える。
高く積み上げられたかがり火の祭壇が崩れ落ち沢山の火の粉が舞い上がっていった。
「諸君、今年も良く訪ねてきてくれた。心ばかりの振る舞いだ。館へ」
ポール公はオオカミの氏族を紅朱館へと促す。
居並ぶオオカミの氏族達が左右に割れ、最奥より年老いたオオカミの老人が姿を現した。
全身の体毛が白く輝く白銀色のオオカミ。
赤樫色の長い杖-酋長の杖-を持ち、氏族の長であることを暗に示している。
「皆の衆。イヌの施しをありがたく頂こう。大地の恵みに心からの感謝を」
紅朱館のスタッフが勢揃いで迎える中、50人ほどのオオカミが大食堂に揃った。
「領主殿、そして、ヒトの執事よ。かつて滅びの危機に瀕した我らは500人を超えるにまで回復しつつある。春の節季までにあと10人
は新たな命がこの世界へと帰ってくるだろう。イヌとヒトの友情に我らは心から感謝する。この一年も、共に平和を」
「-太陽を称える岩-、クー族の酋長殿。今年も良く来てくれました。さぁ、今年の樽だし新酒です。共に味わいましょう」
「領主殿、我らの兄弟、-降り注ぐ光-の姿が見えぬが・・・・いかがされた?」
「あぁ、エミールは私の息子アーサーと共に王都へ出向いております。ご心配は無用に」
「左様か・・・・」
ポール公は話の流れが切れたのを見計らって、樽だしシングルカスクのウィスキーが注がれたショットグラスを持ち上げた。
「争いと諍いを乗り越え、共に大地の息吹で育った酒を飲もう。この地に1000年の平穏があらんことを!乾杯!」
大食堂の中に揃った皆が一斉にグラスを空けて新年を祝った。
スキャッパーが新年を迎える行事はこれを持って終わるのが慣例になっている。
食堂に揃う者が一斉に拍手し、紅朱館の尖塔にさがった鐘が鳴らされた。
「所で・・・・新たな執事殿」
「はい、何かご用でしょうか?」
「そなたの父に我らが贈った名を、そなたはご存じか?」
「はい、もちろんです。-オオカミと踊る男-。父はその名をとても気に入っていました」
「そうか・・・・。して、そなたは名を継いでくれるか?」
「名を継ぐ?」
「あぁ、そうだ。受け継がれる名がある限り、我が氏族は永遠だからな」
「そうですか・・・・では、ありがたく受け継がせていただきます」
そのやり取りを眺めていたアリス夫人はポール公と顔を見合わせて微笑んでいる。
-オオカミと踊る男-。その名にどれ程のドラマがあるのかをヨシは知らない。
「御館様。酋長様。父の名にはどんなエピソードがあるのですか?」
ポール公は水割りをもう一杯作って酋長に差し出すと、自分もグラスを煽って中身を飲み干した。
氷の浮いたグラスに琥珀色の命の水を注ぎ、氷が解けて行くのを眺めている。
「マサミがな・・・・、オオカミとイヌの間を取り持った日。それは・・・・・・
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月曜日、旧紅朱館の寒い朝。
早起きしたキックがメルと共に焼いたパンとスープでアリスの家族は朝食時を迎える。
「ねぇカナ、手元は見えるの?」
「はい、うっすらですが見えます」
アリスと並んで座るカナはジッと対象物を見ている。
すぐには判断できないようだが、それでもボンヤリと物が見えているような気配だった。
「よしよし、んじゃパン位は大丈夫だな。おい!マサミ!パンくらい取ってやれよ」
モゴモゴとパンを頬張るポールは、自分の食事もそこそこにアリスやポールへ給仕するマサミに声をかける。
笑いながらパンに手を伸ばすマサミなのだが・・・・
「これですね?」
「カナ、それは違う。塩の瓶だ」
マサミがカナを紅朱館に連れ帰ってからと言うもの。
朝食に限らず食事の時間がとても賑やかになった。
見えないなりに溶け込もうとするカナの努力は痛々しいほどで、アリスにもポールにもカナの存在は大切なものになっていた。
「さて、じゃぁ行ってくる。水曜日にいったん戻るからな」
「気をつけてねポール」
「あぁ、もちろんだとも」
ポールは前掛けをおろすと椅子から立ち上がった。マサミはすぐに立ち上がって、用意していた上着を手渡す。
週の5日を駐屯地で過ごすポールが"家族"と食事を共にする機会は、一週間のうちで10回も無いのだった。
上着を受け取ったポールはニッと笑って袖を通し服装を整えた。
「ポール様、どうぞお気を付けて」
「カナ、あまり無理をしないでくれよ。マサミもそうだが、俺もアリスも心配してるから」
「ありがとうございます。役立たずを飼ってくださり、感謝の言葉もありません・・・・」
カナの言葉にポールは言葉を詰まらせた。
悲しそうに笑うカナの笑顔が痛々しい。
「カナ・・・・飼っているなんて言わないで、あなたも私の家族だから」
「アリス様、有り難うございます。でも、家族なら何かしら役に立つもの。私にはとても・・・・」
「そんな事無いわよ。あなたが居て助かる事は沢山あります」
「え?・・・・まさか」
気休めは要らないとでも言いたげなカナだけど、アリスはそれを気にする風でもなく話を続ける。
「ホントよ。だってマサミに笑顔が増えたもの。私には嬉しい事よ」
「アリスさま・・・・」
「あんまり悲しい顔をしないで。大丈夫よ、きっと良くなるから」
「ありがとうございます」
どこかよそよそしいカナの振る舞いが、アリスやポールには寂しいものに感じていた。
その理由は言うまでもない事であり、今すぐそれがどうのこうのといえる状況じゃないのは二人にも分かっている。
しかし・・・・・
目が見えないと言うのは、この世界において絶望的なハンディだ。
それが本人の精神的負担になっている事はマサミもアリスも気がついている
全く労働行為が出来ない。それどころか無駄な存在。
その心の負担は、普通であれば鬱になってもおかしくない程なのだが。
「私に何か出来ることがあれば良いのですが・・・・申し訳ありません」
「カナ・・・・。見ようとする意志があれば少しずつ見えるようになるわよ。レーベンハイトもそう言ってるでしょ?」
レーベンハイト。
医師でもあるリコは紅朱館城下に居を構え、スキャッパーの医療に関するビジネスを始めていた。
さすがネコだと言うべきか。
その商才は逞しく、そして抜け目ない。
ネコの国の進んだ医療水準を持ち込みビジネスとして運営すること。
いずこの世界も、やっていることの基本は同じようだ。
「・・・・すいません。本当に」
「良いのよ、良いの。あなたの仕事はレーベンハイトの話し相手。その見返りに彼は格安で医療業務を行ってるわよ」
「でも・・・・」
「スキャッパーの貧民には医療なんて物に縁のない者が多かった。あれは金持ちのものって言っていたからね」
「アリス様・・・・」
重い話が続いて、息苦しいほどだった紅朱館の小さな食堂へメルが入ってきた。
「アリス様、リカルドさんがお越しです」
「分かったわ。カナ、あなたの仕事よ。ちゃっちゃと食べちゃいましょう」
「はい」
「マサミ、急いで準備して」
「はい、かしこまりました。カナ、サクサク食べて着替えよう」
「うん」
食事を終えたカナはマサミに手を引かれて食堂を出て行った。
その後ろ姿を見送ってからアリスは皆と顔を見合わせる。
どうにかしたい・・・・その思いだけが募るばかりだった。
カナの一日はリコに手を引かれレーベンハイト・メディカルオフィスへ行くことから始まる。
本人の見ようとする努力を促すこと。それがレーベンハイトの見立てた治療法だった。
通常、魔法で受けた傷は魔法で治せる。
しかし、魔法ではなく物理的に負った傷を魔法で治すことは魔法では難しい。
治療魔法の実態は生物に備わる治癒能力の一時的な活性化が主体であり、それには被術者の体力や精神力が重要になってくる。
だが、実際問題として、治癒能力を活性化したところで、内臓や神経の病に対して治療魔法はまったく無力だ。
事故や怪我で失われた臓器・器官などを魔術で取り戻す事も、事実上不可能といわれている。
そして、不可能を可能にする治療魔法の行使者には類まれな集中力と精神力が必要なようだ。
極稀に神の領域を持って不可能を可能にする魔道士が現れるとマサミは聞いている。
しかし、それだけの存在ともなれば、例え死にかけの病人を見ても・・・・
「天命よ・・・・」
と、それだけ言い残してその場を立ち去るものが多いのだと言う。
魔法の使える世界に医療機関が存在する不思議。
それは、魔法の効果がどれほど絶大でも失った物を取り戻す事は出来ないと言う事なのだろう。
かつて不老不死を夢見た魔道士達の夢の残骸。
治療魔法とて限界があると言う現実。
全ては神の手の上で踊っているに過ぎないと言う虚無感の源でもあった。
カナは仕事はレーベンハイトの用意したナース服っぽい物に着替えて受付に座り、医療の必要なイヌの民衆を待つこと。
明るいオフィス中でカナが座るのは太陽の方向にある大きなガラスドアの前。
必然的に強い光が差し込む場所となり、視神経への刺激を与えるのに良い環境だ。
そして、カナの知識を持って簡単な事前診察を行う事も、重要な意味を持っていた。
脳内で画像をイメージしながら話をすること。
レーベンハイトはこれに賭けていた。
「カナさん、無理をしてはいけません。10分ごとに暗い方を見て視神経を刺激しましょう」
10分ごとにチャイムの鳴る時計を傍らに置き、受付のすぐ後ろに置かれた真っ暗な箱の中を覗いて目を休ませるのも仕事のうち。
「診察毎に10分ずつ休憩を取ります。お茶を用意してください」
目が見えないなりに動くことを体得したカナは、薄らボンヤリ見える視界情報と手探りでテーブルの前に移動し、熱湯が出るボイ
ラーを使ってお茶を淹れ、レーベンハイトへと提供する。
盲目には危険な作業だが、必要に迫られて"見る努力を行う"ことも計算のうちなのだろう。
診察に来た患者をそっちのけで30分の雑談。今日の話題はヒトの世界の娯楽。
ヒトの世界の娯楽を想像し表現することは、カナにとってイメージトレーニングを働かせる良いリハビリにもなるのだった。
そして、カナの回復を観察することこそ、レーベンハイトにとって一番の娯楽・・・・
マサミと共にスキャッパーへ来て以来、カナはそんな毎日を送っていた。
しかし、平穏な日々がそう長く続く事は無く、予想外の事件は僅か数日後に起きた。
ある日の夕暮れ、雪の一日となったオフィス兼診療所の前に現れた人影。
うっすらとしか見えないカナにとってはお客が来た以上の視覚情報はない。
「いらっしゃいませ、怪我ですか?病気ですか?」
「あ・・・・あの・・・・」
「緊張すると血圧が上がります、落ち着いて下さい」
「わっ・・・・私の住む村でばたばたと人が倒れた。そして、しばらくすると死んでしまう」
「・・・・病気ですね?、あなたもどこか具合が悪いですか?」
「私は動けるので、ここに来れば悪魔払いをしてくれると聞いてやってきた」
切羽詰った声で訴える存在にカナは不思議な胸騒ぎを覚えた。
「悪魔払いは出来ませんが、病に苦しむ人をある程度救うことは出来ます。どんな症状ですか?出来るだけ具体的に」
「お・・・・お前はヒトか? お・・・・俺が怖くないのか?」
「怖い?どうしてですか?何か恐ろしい姿をされているのですか?あいにく私は目が見えませんので・・・・」
不思議なやりとりに気がついたレーベンハイトが診察室から出てきてカナの元へ行く。
受付と診察室の間にある廊下を歩き、ドアを開けて受付に出たところで、レーベンハイトは腰を抜かさんばかりに驚いた。
そこに立っていたのはイヌではなく・・・・オオカミだった。
それも、あちこち傷だらけになって血を流しているオオカミ。
「どうしてここにオオカミが?」
レーベンハイトは思わず声を裏返らせて驚く。
カナはやっと事情が飲み込めた。
「リコさん。この方の集落ではバタバタと人が倒れ亡くなっています。伝染病かもしれません」
「うん、分かった。君、とりあえず診察室へ来なさい。傷の手当をしよう、どうしたんだね?」
「イヌの兵士が私を追いかけてきた。でも、私は集落の兄弟を救いたくて・・・・慌てて走ったら転んで・・・・」
レーベンハイトも腹の底で唸るしかなかった。
危険を冒してまでここへ来なければならなかった理由にも興味が沸いたようだ。
診察室へと消えていったオオカミに変わり受付に飛び込んできたのは、配下の騎士を従えたポールだった。
「カナ!オオカミを追ってきたのだが、ここへは来なかったか?」
「そのお声はポール様ですね。オオカミがどうかされたのですが?」
「どうかもそうかもない、オオカミの国から見てイヌの国のこんな最深部まで入り込んだと言うことは、間者か工作員だ!」
「患者?ですか?大怪我をしたイヌなら来たようですが、あいにく私にはイヌとオオカミの見分けが出来ませんので・・・・」
「大怪我?あのくそ忌々しいオオカミめ!・・・・何かあったら紅朱館へすぐに知らせてくれ。頼んだぞ」
あわただしく出て行くポールは配下を連れて馬でどこかへ消えていった。
そんなに慌てることだろうか?。
ポールの慌てぶりをにわかに理解出来ないカナは手探りで診察室へと入る。
「カナさん、そこから右へ90度回り三歩前進、椅子があります」
「すいません」
手探りで歩いたカナは椅子を見つけ腰を下ろした。
オオカミの男は深い傷を縫い合わせ、浅い傷は消毒を施し、包帯でグルグル巻きになっていた。
「これならすぐにオオカミとは分かるまい」
レーベンハイトは満足そうに頷くと椅子に腰掛ける。
「で、何があったんだね?詳しく聞かせて貰おうか」
「実は・・・・オオカミの里がこの近くにあるんだが・・・・業病でバタバタと死に始めた。何とかならないだろうか?」
「それはどんな病ですか?」
「水と光を恐れ高熱を発し、やがて呼吸できなくなって死ぬ」
レーベンハイトとオオカミの会話を聞いていたカナはボソッと呟く。
「狂犬病みたい」
その呟きを聞いた二人がカナを見る。
目は見えなくとも視線を感じるのだろうか? カナはそのまま言葉を続けた。
「ヒトの世界でもある病です。初期症状は高熱と倦怠感、咳などですが、やがて水と光を恐れるようになり、その直後から昏睡状態に
陥ります。およそ一週間後、意識を取り戻す事無く呼吸不全で死亡。大体そんな感じですね」
カナの話を聞いたオオカミはレーベンハイトと目を見合わせて驚いている。
「あなたの言うとおりだ。光をとても恐れ水も飲まなくなる、光と水を嫌う悪魔が取り付いてる」
「いや、それは悪魔ではない。目に見えない大きさの虫が原因と言われている、ヒトの世界ではウィルスと言うそうだが・・・・」
「はい、その通りです。狂犬病ウィルス。私が知る限り、昏睡状態まで陥って回復した例は数件しかありません」
カナの言葉に息を呑むオオカミとネコ。
事実上、手の打ちようが無いと言う事なのだろう・・・・・
「なぜそんな病が・・・・」
包帯に巻かれたオオカミはガックリとうな垂れている。
気落ちした声を聞き取ったカナは素朴な疑問をぶつける。
「この世界にその病はなかったのですか?」
「カナさん、私が知る限り、こんな症状の病は初耳だ・・・・。これもヒトの世界から来たものかも知れないな」
「・・・・申し訳ありません」
「いやいや、カナさん、あなたが謝る事ではありません。それに、ヒトの世界から来るもの全てが良いものとは限らない筈です」
悲しそうな顔でうなだれるカナの肩に手を置いたレーベンハイトは、ため息を一つついて立ち上がった。
「さて、何か手を考えましょう。もしそれが深刻な伝染病なら拡大を防がないと大変なことになります」
「・・・・そうですね。今夜、夫に相談してみます」
「うむ、そうだな。オオカミがここにいることは伏せたほうがよろしかろう。君、怪我も酷いことだし検査入院だ」
◇◆◇
「いやいや、本当にびっくりしたよ。オオカミの集落が上にあるのは知っていたが、まさか真冬に降りてくるとは思わなかった」
ポール公はまるで人ごとのように話している。
上・・・・と言っても嶮しい山の獣道みたいな所を歩いて、たっぷり1日掛かる場所だ。
いわば天然の要害となっている場所のわずかな平地にオオカミの集落があるらしい。
まだ見ぬオオカミの村にヨシはイメージをふくらませる。
「で、まぁ、実際に言えば、カナの機転で話はうまく進んだわけだが、それともう一つ言えば、マサミの努力もあったって事さ。イヌ
にもオオカミにもそんな病は今までなかった。カナはそれを狂犬病と言った。目に見えない小さな虫の引き起こす病だ」
ポール公の言葉に耳を傾けてながら、時折ウンウンと頷いていたオオカミの酋長が話の途中から話しに加わってきた。
「我々オオカミは最初、光を嫌う悪魔が取り憑いたと信じておった。そして、山の洞窟へ連れて行き、そこで放してやると悪魔に取り
憑かれたオオカミは喜んで穴へ入り、そして・・・・」
言葉に詰まる酋長の言いたい事は察しが付いていた。
「では・・・・父が努力したと言うのは、その虫下しの薬なのですね」
「そうだ、察しが良いな」
いつものパターンだとヨシは直感した。
損得抜きで奔走する父マサミの行為が、結果的にスキャッパーとアリス夫人にとって良い方向へ動いて行く事。
時々思い出しては話をしてくれるポール公の気まぐれな昔話では、マサミはいつも猪突猛進のバカだった。
「我々の眼には見えない病を引き起こす虫、マサミはウィルスと言った。それがどのような物かは私も知らない。だた」
ポール公が目をやった先。
酋長の棒を持ったオオカミの長はウンウンと頷いてヨシを見た。
「我が一族は滅びの危機に瀕していた。我が一族の勇気ある若者が妻を救いたい一心で危険を犯しイヌの街へ降りていった。私はそれ
を聞いて驚いたよ。そして、若者の勇気に賭けてみた。そしたらな、以外な人物がオオカミの集落へ危険を冒してやってきた」
「意外な人物ですか?」
「アリスだよ、お前の父が軍馬を借り出してオオカミの集落へ行ったんだ。アリスを連れてな」
隣でアリス夫人が笑っている。
「カナがなぁ、あの晩マサミにだけ内緒で真実を教えおってな。マサミも一計を案じて、雪原にイヌが孤立してるそうだが、オオカミ
がスキャッパーに居るんじゃ軍は出せまい。だから俺が迎えに行って来るって言い出してな。ヒトが一人で行くと信じないだろうから
アリスを連れて行くと言い出し、仕方なく軍馬を宛がったら一目散に駆けて行きおった」
「そのお陰でこの人はね、あなたのお母さんとね・・・・・ウフフ!」
「違う!断じて違う!俺はカナに指一本触れてないって!嘘じゃない、本当だよ!」
必死で否定するポール公を見てアリス夫人が楽しそうに笑っている。
そして、オオカミの酋長も笑っている。
ポール公は気まずそうにウィスキーをもう一口飲むと、ボリボリ頭をかいている。
「御館様。なぜ父は御館様では無くアリス様をお連れになったのでしょうか?」
ヨシの疑問はもっともだろう。なぜポール公が行かなかったのか、ある意味矛盾する部分だ。
「それはな・・・・」
ポール公はヨシが思わぬ助け舟を出したことに軽く驚きつつも、話の続きを語り始めた。
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雪晴れの朝。
馬に跨って雪原を走るマサミ。背中にはアリスが乗っている。
隣の馬には包帯でグルグル巻きにされたオオカミが乗っていた。
「もう少し行ったら大きな岩がある。そこを越えて坂を下ると集落だ」
いつも跨る4本足の馬ではなく、ポールから特別に借りた軍用の6本足でマサミは駆けていた。
4本足とは違う独特の走り方に少し酔いかけたが、それより雪上でも十分な機動力を発揮する事のほうが重要だった。
万が一にも罠だった場合は、それこそ何より、アリスを守って一目散に逃げる必要があったからだ。
「何も目印が無い雪原ですが、良く分かりますね?」
「私はこの平原で走って大きくなった。-草原に落ちる影-と呼ばれるのは伊達じゃない」
マサミの隣を駆けるオオカミはそう答えた。
雪煙を上げて駆けて行く馬の上、マサミとアリスが見たものは雪に埋もれた集落だった。
遠めに見ても集落とは俄かに思えないほど巧妙にカモフラージュされた家の並び。
それはまるで雪上迷彩を着込んだ寒冷地戦闘仕様の歩兵のようだ。
「すごい・・・・。こんな集落があったのね。知らなかった」
アリスの素直で新鮮な驚きがマサミを驚かせる。
本当に知らなかったんだろうか?と思っていたが、どうやらそれは真実のようだ。
しかし、それ以上にマサミが驚いたもの。
オオカミの集落からやや南側の尾根上に立っている巨石・・・・
ストーンサークル。それも、完全な門型の並ぶ美しい環状列石だった。
「なぜここにストーンサークルが・・・・」
呆然とするマサミだったが、アリスを馬に乗せたまま手綱を曳いて、人気の無い寂しい集落へと入っていった。
「執事殿、領主殿。残された我々の兄弟はわずかになりました」
二人を案内したオオカミは、集落の真ん中にあるひときわ大きな家の前で立ち止まった。
「この中に悪魔が取り付いたオオカミを集めている。もう死ぬのを待つだけなんだ」
建物の小さな窓から中を覗いたオオカミは首を振っている。
何を見たのだろうか? 疑問に思っていたマサミだったが、ふと気がつけばオオカミに包囲されていた。
家から槍や剣を持ち出しオオカミは方陣を組んで待ち構えている。
不用意に近づけば串刺しは免れない・・・・
「わたしだ!剣を納めよ!客人がやってきたのだ!」
-草原に落ちる影-と名乗ったオオカミは大声で叫んでいる。
パッと見だが、およそ30人。
オオカミの群集が驚きの声を上げているが、マサミは気にしない。既に慣れっこだ。
「スキャッパーの紅朱舘からやってきた全権執事だ。マサミと呼んで欲しい。そしてこちらはわが主にしてスキャッパー領主アリス・
スロゥチャイム女公爵だ」」
訝しがるオオカミ達が口々に猜疑の言葉を投げかけている。
どこまで行っても水と油だろうか?。マサミもちょっとは怯んだようだが・・・・
「病人が居るなら、それを治療したい。領主アリス様の願いだ。私はその為にやってきた」
当たって砕けろ・・・・とは言うものの、勝算などあるわけも無く、ここは一発、腹を割った正直な話し合いで行くしか無い。
マサミは直感でそう思っていた。
それに、どう頑張ったところで、短時間で分かり合おうとしようとしても、そんな事は無駄以外の何物でもない。
ヒトの世界を見れば分かるとおりなのだろう・・・・・。
「ヒトの執事とその主よ。そなたはここへ治療しに来たのか?それとも」
続々と集まってくる群集のオオカミから、唐突にそんな言葉が出てきた。
殺される・・・・。マサミの背中に冷たい物が走る。しかし、怯んでいる暇は無い。
「殺したいなら殺せば良い。怪我をしたオオカミをここまで運び、事態の改善に向けた努力をしようとして、雪原を超えてきたヒトを
捕まえて殺すことがオオカミの美徳や道徳なら、とっとと殺せば良いだろう。まぁ、殺されるのは悔しいところだが、オオカミは所詮
その程度だったと思って諦めるさ」
マサミは不敵な笑みを浮かべつつ、あくまで冷静を装ってそう言った。
訝しがるオオカミの中から小さな子供を抱えた娘が出てきた。
「誰でも良いからこの子の悪魔をはらってください!お願いします・・・・」
もう虫の息になって苦しむオオカミの子供がそこに居た。
男の子だろうが、鼻先は乾ききり、無残にひび割れて血を流している。
口から飛び出ている舌先は血色を失い、目は光を嫌って硬く閉ざされていた。
もはや手の施しようが無いのは明らかなのだが・・・・
「私の生まれた世界に似たような病があるけど・・・・、もしそれと同じ病なら、もう手の施しようが・・・・無い・・・・申し訳ない」
マサミの言葉を聴いた母親は声を上げて泣き始めた。
乾ききった鼻先に舌を這わせ水分を補ってやるのだが・・・・
「それをしてはいけない!あなたにも病がうつる!」
「でも、この子が苦しんでいるのに!ヒトはそんなことも!」
怨嗟の声を上げて泣く母親だが、もはやオオカミの子は微動だにしていない・・・・
「この子はもう死んでいるんだ!悪魔が次のオオカミを殺すために生きているフリをさせているだけだ!」
マサミはそう言うと母親から子供を取り上げて手をひねった。
しかし、昏睡状態の子供は泣くことも声を上げることもなかった・・・・
「分かったかい? この悪魔が取り付いたらもう手遅れなんだよ・・・・さぁ、死を待つだけのオオカミを集めるんだ」
オオカミ達が一斉にざわめき立った。
手遅れの言葉が何を意味するのか分からないわけではないようだ。
ただ、イヌ以上に同族擁護の傾向が強いオオカミには辛いことなのかもしれない。
「うそだ!」
「いや、手遅れなら逆に村を救うべく・・・・」
「でも、この子はまだ息をしている」
様々な声が上がるオオカミ達の間から赤樫色の杖をついた老人がやってきた。
「ヒトの男よ、そしてイヌの領主よ。おぬしらはこの聖地を守るオオカミを救ってくれるのか?それとも我々を滅ぼすか?」
その言葉にマサミより早くアリスが答えた。
「先ほども言った通り、私は平和を願っています。同じスキャッパーに住み、イヌと争う意思が無いのであれば、可能な限り助けたい
と思ってます」
杖を突いた老人は目を閉じてジッと何かを考えているのだが・・・・
「皆の衆、我々は滅びに瀕している、今はこの領主の言葉とヒトの男の知恵を信じよう。死を待つものを集めるのだ」
「酋長、集めてどうするのだ?」
どこからかそんな言葉が飛び出した。
酋長はマサミに目をやって言う。
「それはこのヒトの男に聞け」
その言葉を聞いたオオカミの民衆が、一斉に視線をマサミへとやった。
沢山の視線を集めると言うのは、それだけで十分プレッシャーになるものだが、この場合の視線には好意ではなく敵意に近い物が多
分に含まれている。
そしてそれは、対応を一歩誤れば死に直結していると実感する。
「皆さん、これから非常に厳しい事をお伝えしなければなりません。しかし、こうせねば未来が無い事も理解してください」
マサミは出来る限り悲痛な表情を演じているつもりなのだが、上手く行くかどうかは神のみぞ知る。
「ヒトの世界にもこのような病がありました。そして実はもっと深刻な病も有ったのです。僅か数ヶ月で10万人がバタバタと死んでし
まう恐ろしい病。私たちはそれをペストと呼びました。この病の恐ろしい所は、感染すると治療する事が出来なかったのです。そして
非常に強い感染力を持ってました。病に苦しむ者が寝ている部屋に入って、その空気を吸うと感染すると言われました。ですから…」
マサミは一旦言葉を切って下を向き溜息を一つついた。
ガックリとうな垂れるさまを十分に印象付けて、そしてまた顔を上げる。
「感染した者を一つの家に集め、入り口を封じてから家に火を放ちました。まだ生きている患者も居ましたが、実際は死を待つだけだ
ったのです。ですから、家の中に一振りの太刀を置き、火に焼かれるのが嫌なら自ら命を絶てと言って・・・・。 私がこちらの世界に来
た時代ではペストの治療が可能となりましたけど、その時代は全く出来なかったのです。ですから、感染していない者を守る為にはそ
れしか手段が無かったのです。大変辛い話ですが・・・・、いまこの街にある病はペストと同じ病、狂犬病です。何の対処もしなければ、
必ず全滅します。ここから先は皆さんで判断してください」
民衆の中から様々な声がもれ始める。疑う声、なじる声。そして、恨みの声。
でも、この窮地は自らの判断で乗り越えるしかない。イヌが手を貸せば遺恨が残るのは火を見るより明らかだ。
「イヌと共存する事を選ぶなら、私はあらゆる方法を使って必ず救いがあるように努力します。でも、そうでないなら・・・・。この谷間
の街でひっそりと滅びを選んでください。パッと見ですが、もうだいぶ女性が少なくなっていますね。純血のオオカミを残すには女性
が重要なのは言うまでもありません。しかし、病人を看病するのも女性の役目でしょう。わかりますか?この病は一族を死滅させる巧
妙な悪魔の罠なんですよ」
マサミの言葉を聴いていたオオカミたちが言葉を失って呆然としている。
やむをえない事なのだろう。あまりにショッキングな言葉が続いているのだから、一時的な思考停止は仕方が無い。
「皆さん・・・・反論が無いと言う事は同意して頂いたとみなします。いいですね?」
オオカミ達は悲痛な表情で頷いている。
何とか最初の危機は乗り越えた。マサミはそう確信した。
「まず最初に、健康な女性は一番風上の所へ集まってください。それから、もう動かない者、動けない者。まだ動けるが発症してしま
った者は風下の家に集めてください。そして・・・・」
マサミは担いできた袋から石鹸を取り出した。
原始的な製法によりスキャッパーで生産される石鹸だが、狂犬病ウィルスはこの程度でも十分に殺菌効果を得られるはずだ。
「今健康な人はこの石鹸で手足だけでなく全身をよく洗ってください。錯乱した病人に噛み付かれた場合にはすぐに石鹸で洗ってくだ
さい。とにかくこれ以上の感染者を出さないことが重要です」
必死になって説明するマサミをアリスはやや離れてみていた。
マサミの言葉を信用するかどうか。アリスには半信半疑だった。
そもそも、突然やってきたヒトの言葉を信じろと言うほうが難しいかもしれない。
そしてもう一つ。
領主が執事を連れてきたのは理解できるとして、なぜレオンが来ないのか?
それこそオオカミ達にとって一番の気がかりと言って良いのだろう。
ヒトの言葉によってオオカミをだまし、油断した隙にレオンが来るんじゃないか。
春になって雪が解ける頃、ヒトの執事が記録した地図を頼りにイヌの軍勢がオオカミを鏖殺しに来るのではないか。
その恐怖はオオカミの中に潜在的に残っているはずだ。
2000年前の絹糸同盟発足に伴い、オオカミの血族が北方山岳地域へと移り住んだ後もここで生きる種族たちにとって、今の今まで
様々な迫害を繰り返したイヌの民衆を今統べていたのは、あの鏖しのレオンなのだ。
「執事殿、領主殿・・・・大変言いにくいのだが・・・・領主殿の夫はレオン公と聞き及び申します・・・・」
酋長は恐る恐ると口を開いた。
何を警戒しているのかは聞くまでも無いのだろう。
言いたい事を理解したアリスは、下を向いて一息つき、言いたい事を整理すると顔を上げて言った。
「わが夫となったポールは酋長の言われるとおりレオンの血を引くイヌです。鏖しのレオン。そう呼ばれたレオン一族です。しかし、
それはイヌ以外の種族によるプロパガンダです。夫ポールは敵に対して一切の容赦がありません。しかし、味方にはとても寛大なので
す。ですから太古のようにイヌと並んで生きるなら、夫は寛大な存在であるでしょう。しかし、猜疑心と誅敵心に駆られて争うのであ
れば、夫は軍勢と共にやってくるでしょう。でも、私はそれを防ぎたいのです。私はイヌとオオカミの不毛な争いがこれ以上続かない
ようにしたいのです。イヌとオオカミはかつて同じ種族だったはず。イヌとオオカミが仲良く暮らす世界を私は作りたい」
アリスの弁を黙って聞いていた酋長だったが、ふと何かを思い出したようだ。
「公爵スロゥチャイム様。あなたの言を私は信じよう。私はクー族酋長-太陽を称える岩-。どうぞお見知りおきくだされ」
オオカミの視線が一斉にアリスへと集まった。その視線の鋭さにアリスが気圧されている。
どうしたものかと躊躇している主を見てマサミは口を開いた。
「モタモタしている時間はありません。さぁ、どんどん動きましょう。健康な人は風上へ行ってお湯を沸かしてください。熱やダルさ
がある人は街の真ん中へ。そうでない人は・・・・」
一瞬言葉をためらったマサミの言に酋長が言葉をつなげた。
「死を待つオオカミは風下の集会場へ集めよ、建物ごと焼き払う」
◇◆◇
久しぶりにロッソムの街へと降りてきたオオカミたちは、里では口に出来ない珍しい食べ物や甘いものを食べて盛り上がっている。
もう何年も交流が続いているのだろう。
久しぶりに顔をあわせた親交のあるイヌとオオカミが同じ話題で笑いあい、大食堂は賑やかだった。
その片隅、アリス夫人とポール公は酋長を交えヨシとリサに歴史を語っている。
「あれは・・・・つらい決断じゃったよ。沢山の死を待つオオカミを運びこんだ後、だいぶ衰弱していたオオカミがな、自ら歩いて建物に
入り内側から鍵を掛けて油を撒いたのだ。一族を守るため、皆と共に月へと行く。酋長、後を頼むと言ってな」
悲痛な表情の酋長から話を聞くリサは涙目になっている。
ヨシもうっすらと涙を浮かべつつ、唇を噛んで必死にこらえていた。
「酋長様、つらい現場だったのですね」
「あぁ、そうじゃ。あの火で80人のオオカミが月へと旅立った。残されたオオカミは100人足らずじゃった。そなたの父が決断を促し
てくれねば、我々は滅んでいたかも知れん」
「父はオオカミの皆様をも救いたかったのですね」
酋長は向かいに座るヨシの手を握り、そこにリサの手を重ね、それを両手で包んだ。
「そなた達の父母が我々に施してくれた恩義は、わが一族の窮地を救ってくれた。改めて礼を言わねばならん。わしの命が続く限り」
ポール公はグッとウィスキーを飲み干してテーブルへとグラスを置いた。
窓の外、ちらちらと雪の舞い始めた夜更けに目をやり、遠くなった日を思い出しているようだ。
そんなところへリサが口を挟んだ。
「ところで酋長様。その病は治まったのですか?」
何を心配しているか、それは言うまでもないのだろう。
その病が再び広がれば大変なことになる。
リサはそこを心配したのかもしれない。
その答えを言ったのはアリス婦人だった。
「集会場を焼いた後にね、健康な人とまだ平気な人を分けて徹底的に洗ったのよ、石鹸で。そしてね、マサミはオオカミの酒をあちこ
ちに撒き始めたの。こうするとウィルスが死ぬといって。でもね、すでに感染してる人はどうしようもないので、マサミはルカパヤン
へ薬を取りに行ったわ。その日のうちに山を降りて夕暮れの頃に紅朱館へ帰ってきて・・・・」
「そうだったな。話を聞いてビックリしたよ、マサミが先に報告をし始めて、あとからアリスが話をしてくれた。オオカミの街へ行っ
てきたってな」
ポール公は懐かしそうに思い出している。
「あの頃、俺は週のうち5日を駐屯地で過ごしてな。月曜日の朝にここを出たら水曜の日中に少しだけ帰ってきて、土曜の朝に紅朱館
へ戻るまで駐屯地へ居ずっぱりだったよ。だから、マサミはカナも連れて行くと言い出した。でもな、カナは自ら残ると言ってな」」
「カナがまだまだ目が見えない頃だったからね。私はマサミとルカパヤンへ行ったんだけど、この人ったら私もマサミも居ないのを良
いことにね・・・・」
アリス夫人が楽しそうに話をしているのだが、ポール公は飲みかけのウィスキーを吹き出して否定している。
「だから違うんだって!」
「そんなに否定しなくても良いじゃない。あの時、マサミとカナは別々のところにいたんだけど、同じように振舞っていたの。あの時
の二人が居なかったら、私もポールも道を踏み外していたかもしれないんだし」
アリス婦人の意味深な言葉にヨシは目を見開いた。
「アリス様、あの、お話してくださいますか」
「えぇ、良いわよ。でも、あなたやリサに取ってはつらい話かもね」
ヨシもリサも黙って頷いた。
「あの日・・・・・
**********************************************************3************************************************************
アリスと共にマサミがルカパヤンへたどり着いたのは、夕暮れの太陽が山並みの向こうへ落ちる頃だった。
体中に雪を載せ吹雪の峠を越えて来た二人は見覚えのある通りを抜け、かつて身を寄せた預かり屋の前に馬を寄せる。
マサミはアリスを馬から下ろすと主の肩や背中の雪を払い、続いて自分の体中の雪を払って店へと入った。
今日もあのライオンの大男が入り口で客の相手をしている。
「やぁ、いつぞやはお世話になりました。あの方に取次ぎを願いたいのですが」
最初、パンジャは自分に話しかけてくるヒトの男が誰だか分からなかった。
しかし、それなりの気品と雰囲気を持つイヌの女を見て、それがマサミだと思い出した。
「おやおや、誰かと思えばヒトの旦那さんですな、マサミさん・・・・でしたっけ。奥さんはお元気ですか?」
「えぇ、おかげさまで・・・・ね。それよりも」
「はい、分かってますよ。ちょっと待ってくださいね」
パンジャはロビーの奥へマサミを通すと、大きな本棚をグッと動かし、隠し階段を出現させる。
それがアリスには面白いようで、興味深そうに眺めている。
「秘密の隠し階段というわけね」
「えぇ、その通りですよ。この階段を上ってください。お帰りのときは・・・・。あの方が教えてくれるでしょう」
「パンジャさん、ありがとうございます」
謝意の言葉もそこそこにマサミは階段を上がった。
後ろから興味深そうにアリスがついて来る。
「アリス様、今から私が会うヒトはこの町の実質的な支配者に並ぶヒトです。どうかご注意ください。この街では・・・・」
「えぇ、分かってるわ。心配無用よ。この街にはこの街の掟がある。そういうことでしょ?」
「はい、御明察の通りです」
薄いドアの前。立ち止まって息を整えたマサミがドアをノックする。
コンコン・・・・
「マサミさんですね。どうぞお入りください」
「失礼します」
ガチャリとドアを開け部屋の中に入ったマサミとアリス。
そこにはあの車椅子の老人が静かに音楽へ耳を傾けていた。
マサミが目を丸くして驚くもの。
ミニコンポから静かに流れてくるカンターテ。
「すごい・・・・マサミ、これはヒトの世界のものなの?」
「はい・・・・信じられない・・・・」
アリスが驚く隣、マサミは零れ落ちそうな涙を堪えきれずにいた。
「主よ、人の望みの喜びよ・・・・この世界でバッハを聞くとは思わなかった・・・・」
「・・・・マサミさん、あなたは神を信じますか」
車椅子の老人はポケットから小さな十字架を取り出した。
そして、椅子の下にあるポケットからは聖書が出てくる。
「これからまだまだ。あなたには試練があるのでしょう。私に残された時間は少ない。これをあなたに差し上げます。どうかこの世界
で神の試練に打ちひしがれた者達に魂の救済を与えてください」
「あなたは・・・・聖職者なのですか?」
「いえ、私は罪の穢れにまみれた愚か者です。しかし、この世界で絶命した神父の遺志を継ぎました」
「そうですか。でも・・・・私は無神論者です。ヒトの神が居るのなら私はその神に問いたい。これは何の試練なのですか?と」
「・・・・そうですか。では、こうしましょう。いつかこの世界に神父や牧師が落ちてくるかもしれません。その時まで、これを預かって
ください」
「わかりました」
マサミが受け取った聖書をアリスは興味深そうに眺めている。
「さて、マサミさんと共に起こしになられた方」
「私ですか?」
「えぇ、おそらくスロゥチャイム卿と御見受けいたしますが」
「その通りです」
「なぜこの街へおこしになられた?。ここは酷い街ですよ」
老人の鋭い眼差しがアリスの目をジッと見て、まるで値踏みでもしているかのようだった。
「マサミがお世話になったと聞いたので謝意を伝えるべく・・・・。私はマサミの主ですから」
「そうですか」
「なぜそのような事を聞くのですか?」
「えぇ・・・・そうですね、単純な興味・・・・と、しておきましょうか。まぁ、そのようなものです」
老人はニコリと笑い視線を切ると、車椅子の向きを変えてテーブルの脇に移動した。
「さて、スロゥチャイム卿、ならびにマサミさん。今日はどのようなご用件ですかな?」
「実は・・・・狂犬病が近くのオオカミの村で猛威を振るっている。抗生物質を作りたいのですが」
「・・・・要するに狂犬病のワクチンですね?」
「あるんですか!」
「残念ですがワクチン類は一切ありません。ただ、抗生物質があります」
「やはりそうですか。で、抗生物質はペニシリンですか?・・・・」
老人は軽く手を左右に広げ肩をすぼめた。
「そんな古いものではありませんよ」
「え?」
僅かに笑みを浮かべた老人が手を伸ばした先。
テーブルの上にある小さな呼び鈴を突付くと、澄んだ音が部屋に響いた。
チリリリリリン・・・・・
ガチャリ・・・・・・
「お呼びになりましたか?」
唐突に開いた扉の向こう。
そこには幼い少年が一人立っていた。風貌からしてライオンの少年かもしれない。
驚くマサミとアリスを他所に老人は手短な指示を出した。
「えぇ、そうです。サーヤを呼んでください」
「はい、かしこまりました」
幼い少年は丁寧にお辞儀をして部屋を出て行った。
その仕草をアリスは複雑な表情で眺めている。
「ヒトにお辞儀をするのが不思議ですか?」
「えぇ、そうですね。あまり・・・・見慣れないものですから」
ヒトは奴隷階級にある。
それを常識として育ってきたアリスにとって、見慣れていないと言う表現は最大限の配慮であるとマサミは直感した。
実際は見慣れていないのではなく、あまり気分が良くないと言うべきなのだろう。
厳然と存在する種族の壁。そして、身分階級の壁。
ヒトに頭を下げる事は、ある意味で屈辱的なことなのかもしれない。
アリスですら、マサミに対する好意とは別の次元で、どこかにヒトとそれ以外との線を引いているのだった。
そのアリスの憮然とした表情を老人は読み取ったのだろうか。
誰にともなく、静かな口調で語り始める。
「この街はすべての種族に平等をもたらす街です。それがこの街一番の掟です。敬う相手は年長者なのです。ですから、種族間の階級
格差はこれを全否定しています。その主義主張に賛同するものだけがこの街の住人です。ヒトの扱いに関し素人も多々おりますが、基
本的には平等です。ま、例外も多いですがね」
驚くアリスを気にかけるでもなく、老人は平然とそう言ってのけた。
アリスが今まで持っていた常識では無いものがそこにあった。
ただ、不思議とアリスの心を騒がす不快感は収まりつつあったのも事実のようだ。
全てに平等と言う概念が、後にスキャッパーで革命的な発展をもたらすことになるのだが・・・・。
「お呼びになられて?」
唐突にドアを開けて入ってきたのはネコの女性だった。
アリスもかなりグラマーなのだが、それに輪を掛けたグラマーなネコだ。
浅葱色のワンピースを着てキャミソールの上着を掛けたその女性が持っているものは銀色のタブレットPC。
「サーヤさん、在庫を検索してください。たしか、ストレプトマイシンかテトラサイクリンがあったはずです」
「しばしお待ちを・・・・」
ネコの女性は長い爪を伸ばしてタブレットPCを操作し、やがて何かを見つけたようだ。
「ファーザー。バイコマイシンでは駄目なのですか?上位互換でありますが?」
ファーザー・・・・
神父・・・・か。
マサミは腹の中で唸った。
やはりこのヒトも神への信仰に安らぎを求めたのだろうか?
「サーヤさん、バイコマイシンは切り札です。それより下級を処方します。耐性を持つウィルスの登場まで上級の投入は避けます」
「かしこまりました。どの程度用意すればいいでしょうか?」
「そうですね・・・・」
ファーザーと呼ばれた老人は車椅子を流して窓の外に目をやった。
「マサミさん、スロゥチャイム卿。残念ですが、病に苦しむオオカミを全て救うことは出来ません。また、ウィルスに対抗するワクチ
ンもありません。ただ、ウィルスに抵抗する抗生物質があります。狂犬病や破傷風などでの初期症状のうちに抗生物質を投与し、なん
とか回復を図ってください。もはやそれしか手段がありません」
老人は車椅子を返してマサミたちをまっすぐに見た。
「死ぬべきは死に、生きるものは生きます。それが大地の摂理。残念ですが」
話を聞いていたアリスだったが、マサミの方を向いて口を開く。
「マサミ、抗生物質ってなに?」
「うーんと・・・・なんて説明しようか・・・・。アリス様、病を引き起こす目に見えない虫が居るのですが、その虫は普通の虫下しでは退治
できません。ですから、その虫にだけ作用する魔法の薬ですね」
「・・・・なんかよく理解できないけど、これもそういうものだと覚えれば言いのね?」
「はい、そうです」
「分かりました。して・・・・」
アリスの視線が老人に向けられる。
「その抗生物質、いか程するものですか?」
「スロゥチャイム卿。御代は結構です。病に苦しむものを御救いください。そうすればあなたの評価になるでしょう」
「しかし、どのような物にも正当な対価があるもの。一銭の代金も払わずに持ってゆくのは宜しくありませぬ」
やれやれとでも言いたげな表情で車椅子の老人は笑った。
その笑顔は多分に侮蔑の意味を込めているのだとアリスは思った。
世間知らずの一人娘が領主になって・・・・。
幾度か耳にした領民らの陰口。
ふと、それを思い出している。
目を閉じた老人は両手を左右に広げ言った。
「スロゥチャイム卿、恐れながら申し上げる。あなたの所領においてどれ程死人が出ようと私は一切関知しない。しかし、その病が他
所へと流出し、それが拡散し、収拾がつかなくなる事を私は恐れているのですよ。ヒトの世界ではそのようなことが何度もあり、その
都度、国境や人種や民族を越えて病の徹底根絶を目指しました。なぜなら、ヒトは歴史の中で何度も滅びの危機に瀕したからです。あ
なたも領主と呼ばれる立場にあるならば、いま少しは様々な事を学ぶべきですな。法と秩序を守るのは王や領主ではなく領民です。王
や領主は法や掟を飛び越え最善の選択肢を選び、その責任を負うのが仕事なのです。わかりますか?」
口調は丁寧だが、その仕草にアリスは心中穏やかならぬものがあった。
キッと結んだ唇にも、僅かに震える垂れ耳にも、僅かならぬ怒気がにじみ出ている。
しかし・・・・
「アリス様。ブルーブラッド・・・・覚えてますか?」
絶妙のタイミングでマサミに声を掛けられたアリスはハッと気が付いた。
おそらくマサミは気が付いている。自分が苛立っていることに気が付いている。
アリスはそれが悔しくてたまらなかった。
歩けなくなったヒトの年寄りに道を説かれるのではなく、自分の至らぬ部分のためにマサミが気を使っている事が惨めだった。
あの時。
私はこのヒトの男の立派な主になってみせると心に誓った筈なのに・・・・・
「スロゥチャイム卿・・・・。あなたの従僕はあなたを信頼していますよ。ヒトの世界、イヌがヒトを信頼して仲良く生活していた世界と
まるっきり反対ですがね。それでも中身は同じです。あなたの従僕はあなたに万全の信頼を寄せている。あなたはそれに応える義務を
負っている。申し訳ありません、あなたを少し試しました」
老人はやわらかく微笑むと胸に手を当て頭を下げた。
そして、再び車椅子の向きを返して窓の外を見る。
夕暮れの群青がすっかりと漆黒の闇になっている。
「この通りの先にホテルがあります。スィートルームを用意させますので一夜をお過ごしください。明日の朝までに必要なものを用意
させます。暗闇の峠を越えていくのはあまりに危険です。それはそうとマサミさん、奥さんは大丈夫ですかな?」
「はい、おそらくは・・・・。妻もフロミアを知っています、全て・・・・分かっているでしょう」
老人はゆっくり頷いた後で車椅子の後から杖を取り出すと、床をドンドンドンと3回叩いた。
ややあって下から階段を上がって来る足音がし、ドアを開けた先にはパンジャが立っていた。。
「お呼びになりましたか?」
「えぇ、お呼びしました。パンジャさん。スロゥチャイム卿とその僕をルカパヤンホテルへご案内してください。例の部屋へ」
「はい、分かりました。では、参りましょう」
パンジャはマサミとアリスの荷物を持って部屋を出て行った。
「あの、一つ伺います。あなたの足は動かないのですか?」
部屋を出ようとしたアリスは唐突に質問を浴びせる。
その問いに老人は少しだけ表情をゆがませて答えた。
「この世界、ヒトの世界から来た者には厳しすぎる現実があります。私にもつらい記憶があります。そして・・・・」
老人はひざ掛けを取って見せる。そこには・・・・
「この足からは骨を引き抜かれてしまい肉しかありません。故に立つ事も脚を動かす事も出来ません。しかも、まだ痛みます」
口に手を当てて驚くアリス。
その表情を確かめるように見る老人は車椅子の向きを返した。
「嫌なものをお見せしましたね、申し訳ありません。ですが、これもこの世界の真実です。さぁ、ホテルへ」
老人に促されアリスはマサミと建物の外へ出た。見上げる窓にはあの老人が居る。
マサミは丁寧にお辞儀をしてアリスの後を追いかけた。
暖かいはずのルカパヤンも、この時期の夕暮れはだいぶ冷え込んでいるが、さすがに通りには雪が積もっていることは無い。
しかし、峠の向こう。
スキャッパーの側から吹き降ろす空っ風が街の中を吹きぬけ、明け方はそれなりに冷え込むのだろう。
パンジャが案内したホテルの前ではウサギの支配人が二人の到着を待っていた。
「お待ちしておりました。スロゥチャイム様と御連れの執事様ですね。どうぞこちらへ」
支配人が案内したのは大きなスィートルーム。
部屋の中には一際大きく豪華なベットが一つ。
その隣の部屋には小さく貧相なベットが二つ設置されていた。
それの意味するところをアリスもマサミも瞬時に理解する。
「ではごゆっくり。夕食が必要でしたらお申し付けください。まぁ、この街では通りで食べたほうが楽しいかと存じます」
慇懃にお辞儀をして支配人は出て行った。
その姿を見送ってマサミが口を開く。
「おかしい・・・・、なぜ支配人はアリス様と私が来ることを知っていたのだろう・・・・」
「言われてみればその通りね。でも、考えても仕方が無いわよ。この世界には無い・・・」
「そういう事じゃないんです」
マサミは部屋の中をじっくりと観察し始める。
花瓶に生けられた花を持ち上げ花瓶の中を見てみたり、ベットメイクされたエキストラキングサイズのベットをベースマットまでめ
くってみたり。
調度品を細かく調べ、カーテンの裏側にまで目を光らせた。
「マサミ、いったい何を探しているの?」
「あまりに事がスムーズに流れるときは、無意識に思うんです。罠じゃないか?って。盗聴器や監視カメラを探しています」
「スムーズ・・・・? とうちょうき? それ・・・・なに?」
あ、そっか・・・・マサミは我に返った。
この町にいると、ついつい自分の世界・・・・ヒトの世界と錯覚してしまう。
この世界を生きていく上で絶対に避けねばならない悪い癖だ。
「監視するための小さな機械があるのですよ。それを探しています」
「そこまで心配しなくても平気よ。カナも居ないんだし・・・・・」
「アリス様、あなたを守るためです。私はあなたの従者ですから」
「マサミ・・・・」
「あの日、私はあなたの父ジョン・スロゥチャイム卿と契約したのですよ?お忘れですか?」
「・・・・ありがとう、マサミ」
話をしながら探しものをしていたマサミだったが、アリスの言葉に手を止めた。
アリスの視線の先。マサミまでの距離がこれ以上なく遠く感じたのは、アリスの気のせいではないようだ。
「アリス様・・・・、私だけでなく、妻カナを大切にしてくださり心から感謝しています。ですが・・・・私はスロゥチャイム家執事です、あ
なたの奴隷なのです。従僕にありがとうなどと気安く言ってはいけません。私には私と私の妻を大切にしてくださる主を守る義務があ
るのです」
「マサミ・・・・ あなたも私の家族よ・・・・ 」
「アリス様。どうかお願いです。家族の意味を勘違いしないでください。この世界で無碍な扱いに斃れるヒトはきっと多いでしょう。
この世界のどこかで無体な扱いをされ死ぬ苦しみに耐えるヒトが沢山居るはずです。先ほどの老体もまた酷い扱いを受けたのでしょう。
奴隷とはそういうものです。身分階級とはそういうものなのです。でも、私は幸いにして暖かく扱ってくださる主に出会えました。で
すが、どれ程大切にされようと、ヒトはイヌほど長生きしません・・・・私はあなたより先に死ぬんです。ですから、私の子孫達が長く大
切にしていただけるように・・・・・」
マサミは腰を折って頭を下げる。
「私は私の地位や名誉や誇りなど一切問わず、愚直なまでにあなたに尽くします。あなたが私の主だからです。ですから、アリス様」
頭を上げたマサミは再び部屋の中を探し始めた。
おそらく、普通に手を伸ばせば届く範囲のところを全部調べ終わったマサミが最後に目をつけたのは、天井。
豪華なシャンデリアの下がる天井付近をマサミは凝視して、何かを探しながら言葉を続ける。
「アリス様、あなたは領主なのです。貴族なのです。奴隷の主なのです。ですから、軽々しい言葉遣いや、軽はずみな振る舞い。思慮
の欠ける行為などは、アリス様の名誉だけでなく、私や妻やスキャッパー領民の名誉ですらも落としてしまいます。いいですか、貴族
とはそういうものです。物を落としても自分で拾ってはいけません、私や妻や配下の者を呼びつけ拾わせるのです。アリス様、貴方は
ただ命じれば良いのです。そしてそれに責任を負うのです。それが貴族です」
アリスは複雑な表情でそれを見ている。
「アリス様、消毒が終わりました。おそらく、この部屋は安全です」
「マサミ・・・・」
アリスは目を閉じてしまった。
きっと・・・・・・マサミの表情を見たくないのだろう。
「マサミ・・・・ ご苦労・・・・」
「それでよいのです」
アリスが再び目を見開いたとき、マサミはいつものように柔らかな笑みになっていた。
「アリス様、食事にされますか?それともご入浴を?」
「そうね、うん、食事にしましょう。マサミ、どこか美味しいところを調べなさい」
「承りました」
マサミが部屋を出て行った後、アリスは大きなベットの隅に座った。
この大きく豪華なベットと、隣の部屋にある小さく粗末なベットの違い。
あの時、ヒトの老人が何を言いたかったのか、アリスはそれを考えていた。
しかし、実はそうやって考える事こそが老人からのメッセージなんだと気が付くには、アリスはまだまだ精神的に幼かった・・・・
◇◆◇
「何を思って相手が自分に言葉を掛けてくるのか? 言葉の上っ面をそのまま受け取ってはいけないし、それはあまりに危険な事であ
って、その言葉の真意を見抜いてそれを理解しろと言いたかったのよね。マサミや、あの老人は」
アリス夫人はグラスのふちを見つめながらため息を一つついた。
深いため息の意味するところ。それはなんだろうか?
ヨシの見つめる先、イヌの領主の女性は何かをじっくりと考えているように、融け行く氷の滲むさまを見ていた。
「結局、それまでの私はマサミに、あなたの父親に甘えていたのよ。それがマサミには辛かったのね、きっと」
「アリス様・・・・」
「あなたやリサやこの世界で生まれたヒトはあまり感じないのでしょうけど、ヒトの世界から来たヒトはね、皆同じように苦しんでい
たようね。自分たちの常識が一切通用しない世界で理不尽に抑圧されているって感じたのでしょう。だから・・・・」
ヨシとリサは息を呑むようにして話に聞き入っている。
その姿を酋長はジッと見ていた。
かつてオオカミの集落にやって来たヒトの執事は、今、目の前にいる若いヒトの男と大して歳が変わらなかったはずだ。
それでも、この若き執事が幾分幼く見えるは、この世界で育ったヒト特有のものなのかもしれないと思っていた。
「あの晩、私はマサミと、超えてはならないと思っていた一線を越えました。マサミは私の中に線を引いたのね、きっと」
「アリス様。父は・・・・」
「あなたの父の主はあくまで私の父ジョン・スロゥチャイムだったの。でも、あの晩、私はあなたの父の主となりました」
「え?お話が良くつながらないのですが。アリス様」
「私が甘えていたのは、父の従者であったスロゥチャイム家の執事。でも、アレからは、私の従者。その違いよ」
「・・・・・・・・・・」
ヨシはまだ理解できていないようだ。すぐ隣のリサも話しが上手く繋がっていない。
不思議そうな顔の二人にアリスは寂しそうな微笑を浮かべた。
「マサミに甘えても許されたのは私が主の娘だったから。でも、主は死んだの、だから、私がマサミの主人になったの。だから、私は
甘えるんじゃなくて・・・・・・・・、マサミに、あなたの父に奉仕をさせる存在になったの」
「・・・・・・そういうことですか」
「わかった?」
「よくわかりました」
「だから・・・・ あの日以来、あなたの父の心は私の手の届かないところにあったのよ。だから、私は孤独だった。でもね、子供達が生
まれて育って家族が増えたとき、私はマサミに感謝したわ。今の幸せはマサミのおかげだって」
アリス夫人が視線をやった先。小さな額に収まったマサミとカナの小さな絵。
顔の大きさに比べ不釣合いなほど大きな眼鏡を掛け、夕食の下拵えに精を出すカナ。
その横で味見をしながら使用人達に指示を出すマサミ。
芋の皮をむくカナの右肩にマサミが左手を沿え立ち、右手の指で者を指差しながら口を開く画だ。
「マサミの心が居た所はいつもカナの隣。カナの心はいつもマサミの隣。夫婦ってそういうものだとマサミは教えてくれたのね」
リサはヨシの袖を引いて目で何かを訴えた。
その意味する所をヨシも理解できないわけじゃない。
「アリス様。その晩、父と何があったのですか?」
「聞きたい?」
「はい。妻も・・・・リサも聞きたいと」
妻も・・・・
そう言ったヨシの顔をアリス夫人は優しく笑って眺めた。
「あなたの父も良くそういったわね。妻が・・・・ そう言ったわ」
ピッチャーに入っていた水をグラスに移して一口飲んだアリス夫人は、しばらく俯いて何かを考えていた。
黙って言葉を待つヨシとリサ。ポール公もジッと待っている。
「あの晩・・・・・
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「アリス様。近くに砂漠料理を出し店があるそうです。行ってみましょう。変わったものが食べられますね」
「砂漠料理?変わったものと言うけど、それはなに」
「はるか西の砂漠に砂海と言う不思議な海があるそうですが、その海で取れる海産物だそうです。凄いですね、かなり遠くの場所だそ
うですが、ここでそれが食べられます。恐らく乾物などの利用でしょう」
マサミは持ってきた荷物の中から上等な上着を取り出して、アリスの後ろに立った。
「アリス様、外はそれなりに冷えます。御召し物をもう一枚」
アリスは振り向かずにマサミの出した上着へ袖を通した。
マサミの手が肩や袖周りの衣服を整えかるくボタンを留めるのだが、アリスは立ったまま。
「アリス様、それでよいのです」
「そう。さぁ、行きましょう」
「はい」
マサミは自らの上着に急いで袖を通すと鏡の前で整える。
「何をやっているの?」
「私がだらしない格好で歩けばアリス様が恥を掻きます。そうならぬように」
ピシッと整えたマサミがアリスの小間物を入れたカバンを持ち部屋のドアを開けた。
「どうぞ」
二人して出て行くのだが、この夜、マサミは意識してアリスの半歩後ろを歩いた。
かつてスキャッパーに付いた頃の二人の、あの関係では無くなっている事にアリスは少なからぬ衝撃を受けていた。
紅朱館やロッソムに居るのならともかく、ここは私の領地の外。
ならば、ここでの私は他者から見れば立派な貴族でなければならない・・・・
階段を下りながらアリスは振り向かずに声をかける。
「マサミ。どっちへ行けば良いの?案内しなさい」
「通りに出て右手の方向へおよそ250m。交差点を右に折れさらに200m程です」
アリスは返事をせずに通りを歩き始めた。
夕暮れから夜を迎えたルカパヤンの街にあの活気がよみがえっている。
たくさんの屋台が埋め尽くす大通りのど真ん中。
半歩後ろを歩くマサミはアリスの為に手を伸ばし、雑踏の中で道を開いていた。
「アリス様。スキャッパーにこのようなレストランを作りましょう。様々な地域から客を集め料理を提供するのです」
「それで、何が出来るの?」
「はい、ネコの国やそれ以外から客を集め、食事をさせてお金を落とさせます。泊まりでくればさらにお金を集められます。温泉と旨
い食事と良い酒があれば客が来るでしょう。スキャッパーの主力産業を立ち上げるのです」
アリスは急に立ち止まって通りを埋める屋台の群れを眺めた。
皆、旨そうに食事をし、笑い、酒を飲み、そして金を払って去っていく。
産業の無いスキャッパーにとって最適のもの。
それをマサミは見せたかったのだとアリスは気が付いた。
「マサミ。どれくらいでこれが出来る?」
「そうですね。およそ10年かと」
「よろしい、帰ったらすぐに取り掛かりなさい」
「仰せのままに」
今までとは違う余所余所しい会話に、アリスはだんだんと悲しくなっていた。
このヒトの男の心が遠くに行ってしまったように思えていた。
いつもやさしく微笑み、そして物を教えてくれる存在。
アリスにとっては失った兄や父と同じ匂いのする存在だったはずだ。
しかし
今のマサミは自分の傍らには居ない。
今のマサミが居るのは自分の足元だ。
私は今、このヒトの男を見下ろす位置に居る。
「アリス様。ここです」
嬉しそうにドアを開け、ボーイを呼び話しをするマサミが、手を伸ばしても届かない所に居るような気になっている。
椅子を引こうとするボーイを呼びとめ、マサミが変わりにアリスのための椅子を引いた。
「どれを食べましょうか?」
メニューを広げあれこれ説明してくれる声も、どこか空ろで虚しく聞こえている。
オーダーした料理が運び込まれ、大皿に盛られた料理を小分けにし自分の目の前に置いてくれるマサミ。
席に着いたアリスの傍らに立ち、自分は食事をせずアリスへ料理をサーブしワインと水を注いでくれるボーイ代わりのマサミ。
「あなたは食べないの?」
「後ほどいただきます。出先で主と同じ席に着き食事をする執事など、少なくともヒトの世界にはおりません」
キッチンから料理長と名乗る蛇の男が出てきて挨拶をしていくのだが、その声もアリスにはどこか知らない世界の御芝居のように聞
こえていた。
「今日はとても変わったものを食しました。予想外に美味しいですね。とてもすばらしい」
まるで自分ではないかのよう言葉遣いで料理長を褒めるアリス。
それはアリスにとって、必死に立派な執事足らんと頑張るマサミへの気配り。
食事を終えて立ったアリスにそっと上着を着せレストランの外へ出れば、支配人が料理長を連れ立っている。
ぜひまたお越しくださいとお辞儀をする二人。
アリスはマサミに目配せをしてチップを切らせた。
「執事様。御土産を用意いたしました。どうぞ」
かなり大きな箱に入った、砂海料理の段重ねテイクアウトメニュー。
そうか・・・・
これが主と僕なのか・・・・
アリスは寂しそうにその箱を眺めた。
「さぁ、ホテルへ戻りましょう。冷えてしまいます」
一抱えもある荷物を持つマサミは、アリスに出発を促した。
「支配人と料理長、ごちそうさま。ごきげんよう」
アリスは微笑を残し歩き始めた。
本来なら馬車でも立てるべきなのだが、歩きで来たのでは締まらないなぁ・・・・・
マサミの思う先。アリスは僅かに震えている。
「アリス様。大変ご立派でした、貴族らしい振る舞いですね。ありがとうございます、従僕も鼻が高いです」
「マサミ。これで良いのね」
「えぇ、もちろんです。ジョン公もきっとお喜びでしょう」
「父上・・・・」
アリスが思い出す父の姿。
威厳を持ってマサミに指示を出し、あごで使うその姿。
貴族の姿。
色々な思いが頭の中をグルグルと回っているのは、ワインに酔っただけではないようだ。
ホテルの部屋へ戻りマサミが風呂の支度をする間。
アリスは勝手に土産の蓋を開け、瓶詰めのビールを飲みながら砂海料理をつまんでいた。
「アリス様、風呂の用意が出来ました。お酒をお召しになられてのご入浴は危険です。ご注意を」
「マサミ、危ないなら一緒に入ってくれる?」
「それは・・・・主の命ですか」
アリスは下を向いてしまった。
重苦しい沈黙が部屋を漂う。
「マサミ。私は・・・・だれ?」
マサミは躊躇う事無くはっきりと言った。
「私の主です」
アリスの肩が震えている。
握り締めた手も震えている。
「じゃぁ、私の命ならあなたは」
顔を上げたアリスの顔は、涙にぬれつつも怒気に満ちていた。
奥歯を食いしばって立つアリスはいきなりマサミの頬を叩いた。
バシッと音がなり一瞬よろけつつも、立ちなおすマサミ。
アリスは反対の頬にも力を入れて叩いた。
膂力に優るイヌの力で叩かれては、ヒトのなかでも威丈夫なマサミとてよろけてしまう。
「これでもあなたは怒らないの?」
「主に噛み付くしつけの悪い僕などおりますまい」
「ならば・・・・」
アリスはマサミのネクタイごと襟をつかみ、下へと引き降ろした。
マサミはされるがままに下へ崩れ跪く。
「私の足にキスをしなさい」
「はい、アリス様」
マサミは跪いたままアリスの靴を脱がせ、土下座の体制で足の甲へキスをした。
「これでよろしいですか?ご主人様」
「私は名前で呼びなさい」
「失礼しました」
アリスは床にペッとつばを吐いた。
「それを舐めなさい」
マサミは何ら躊躇うことなく目を閉じてアリスの吐き出した唾に舌を伸ばした。
「アリス様。これでよろしいでしょうか」
マサミは悲壮な笑顔でそう言った。
その笑顔にアリスは泣き出してしまった。
「立ちなさい」
「はい、アリス様」
両手で顔をおさえ声を上げて泣きだすアリス。
マサミはそれを黙ってみている。
「マサミ・・・・ 胸を・・・・貸しなさい」
「はい、どうぞ」
マサミの胸に顔をうずめアリスは泣き続けた。
声を上げて泣くアリスの肩をマサミはそっと抱きしめた。
「マサミ。あなたの心はもう私の隣にはいないのね」
「アリス様、それは違います。いつも傍らにおります。しかし、それは隣ではなく後なのです。アリス様の隣はポールの・・・・」
マサミはハッとして言葉を切り一歩下がった。
「大変失礼致しましたアリス様、どうかお許しを。あなたの隣にあるべき者は私ではなくポール公です。私はその後ろに」
アリスの美しい顔が泣き崩れ、見る影も無いほどだ。
マサミは一歩前に出ると自らの上着をアリスの頭から被せ跪いて言った。
「アリス様、いや、ご主人様。どうか人前でその様なお顔をなされませんよう。従者も・・・・悲しくなります」
「マサミ・・・・ごめんね・・・・ごめんね・・・・」
「アリス様。主は僕に謝る必要などありません」
「でも、悪い事をしたら謝るのは・・・・」
「お父上を思い出してください」
目を閉じて何かを考えるアリスの脳裏に浮かんだもの。
それは笑顔でマサミにものを教えるジョンの姿。
ふとした弾みの中で出た言葉を思い出していた。
――御館様、主人は主人らしく振舞ってください、従者に世話になるなどと言う主人は居ません
――そうだな、出来の悪い主人を許せ
――仰せのままに
「マサミ・・・・」
「はい」
「出来の悪い主人を許しなさい」
「・・・・仰せのままに、アリス様。ちょっとお疲れなのです」
マサミはスッとアリスの背後へ回り服を脱がせ始めた。
「マサミ!」
「アリス様、風呂が冷めてしまいます。どうかお早く。お背中を流しましょうか?」
下着姿になったアリスは振り返ってマサミを見た。
「いや、一人で入るから邪魔をしないように。食事を済ませておきなさい」
「仰せのままに」
深々と一礼するマサミの前をアリスは立ち去った。マサミに見せないように涙を流しながら・・・・
風呂のドアが閉まる音を聞いたマサミは素早く部屋を片付け、レストランの支配人が持たせてくれた食事にありつく。
――結構美味いな・・・・
――でも、一人で喰っても美味くないよな・・・・
アリスの孤独に気が行かないマサミではない。
今日までの二人の関係を思えば、その心中が如何程かを推し量れぬわけでもない。
ふと気が付けば、マサミの頬を熱いものが流れている。
アリスが半分ほど飲んだビールを一気に飲み干し、もう一本付けてくれたビールも一気飲みすると、こぶしを握り締めて震えた。
――これで良いんだ、良いはずなんだ・・・・
涙を流しながら食べる砂漠料理の味がいかほどであったか。マサミがそれを語ったことは無い。
ただ、それまで確かに寄り添っていた二つの心が大きく離れていったのをアリスもマサミも感じていた。
◇◆◇
「ヨシ、女にも抱かれたい時があるの。私はあなたのお父さんにね、伽を立てろと何度も命じています。あの晩も風呂上りのまま私は
マサミに抱きなさいって命じてね。マサミは頑張ってくれたわ。でも、私が満足してベットで眠る頃、マサミはそっと風呂に入ってか
ら泣いていたの。あなたのお母さん、カナにね、すまない・・・・すまないって」
「アリス様・・・・私にもそれを命じますか?」
「そうしたら私の為に頑張ってくれる?、私はあなたのオムツを替えてあげた事もあるのよ」
「アリス様が命じるなら、私は・・・・」
アリスはそっと微笑むとリサを見た。
「リサ、あなたは許してくれる?」
「奥様。私は・・・・」
リサは俯いてしまった。母親代わりだったアリスの言葉だ。リサにはきつい一言かもしれない。
「アハハ!そんな事しないわよ。ヨシ君、良い事?一滴残らずあなたの妻に注ぎ込みなさい。マサミの孫を早く見たいですから」
「はい、承りましたアリス様」
「主従と言う関係には越えてはならない一線があるの。その線を挟んで並び立つ限り、両者は幸せな筈よ。そうよね」
アリス夫人の視線が行った先。黙って口ひげをいじるポール公もまた深いため息をついた。
「ヒトが誰かを主としていなければ理不尽な扱いをされるのは分かっていよう。しかし、その主からも理不尽な扱いをされる事は実際
多々あるようでな。俺はそれをカナから聞いたのだ。あまりに辛いカナの話をな・・・・」
ポール公はもう一度溜息をつくとウィスキーをグラスに注いでそのまま飲み干した。
その表情にアリス夫人がニヤリと笑って噛み付く。
「それでもこの人ね、ヨシ。あなたのお母さん押し倒してね・・・・」
「だから!」
「ふふ~ん・・・・まだ言うんだ・・・・私はカナから直接聞いたんだけど、それでもシラを切りますの?」
「え゙?ほんとか?」
「なんだ、カマを掛けてみたらこんなにあっさり引っかかるなんて・・・・」
ニターっという感じの笑みを浮かべてアリス夫人が見ている。
非常にばつの悪そうな表情でポール公は小さくなっている。
「女房ほっといてヒトの女にうつつを抜かすなんて・・・・酷い人ねぇ」
しまったという表情で落ち着きの無いポール公。
だが、なんとなく覚悟を決めたようにヨシをジッと見た。
「ヨシ・・・・。俺にも若かった頃があった。話しておきたいが、良いか?」
「もちろんです、御館様。母が生前話をしていましたから」
「どんな話だ?」
ヨシはいったん俯いて何かをつぶやいた後、リサの手をぎゅっと握って顔を上げた。
「この世界のヒトは誰かの持ち物だと。私や私の兄弟や、そしてリサや、多くのヒトがこの世界では物扱いだと。でも、誇りだけは忘
れないで生きろと。どれ程ヒトから物を奪っても心の中のものは、誇りだけは奪えないからと、そう言ってました」
「ならばヨシ、これから私が言うことは懺悔ではなく自慢話になるな。覚悟して聞けよ・・・・
***********************************************************5***********************************************************
夕暮れ時の紅朱館城下、ロッソムタウン。
カナはレーベンハイトに手を引かれ紅朱館へ帰ってきた。
いつもは入り口で夫マサミが待っているのだが、今日はアリスの共をして出かけている。
それ故か、玄関よりやや離れてメルが待っていた。
「カナさん、おかえりなさい」
「あ、メルさん・・・・。すいません・・・・。お手を煩わせて」
「良いのよ、今日はマサミ様がお出かけ中でしょ。リカルドさん、どうもすいません」
「いやいや、ではメルさん、後はお願いします。カナさん、今日も御疲れ様でした。明日もよろしくお願いしますよ」
「はい」
いつも柔らかな笑みを浮かべているレーベンハイトだが、細い目の奥にある肉食獣の鋭い視線がメルを貫いている。
イヌのおばさんをジッと射抜いた視線が僅かな間に何を読み取ったのだろうか。
レーベンハイトはカナの右肩をポンポンと2回叩いて踵を返し、帰って行った。
右肩を叩かれたカナの表情がこわばる。
レーベンハイトがカナの右肩を叩くのは「気をつけなさい」の意味だった。
「さぁ、カナさん、ここは寒いですから、中へ入りましょう」
メルはカナの手を取らずに紅朱館へ歩いていった。
夕暮れ迫る紅朱館の前、薄暗い中をカナは僅かな視野情報だけで歩く。
しかし、カナの視力では凍った通りの凸凹までを読み取ることが出来ない。
やや離れたところでメルはカナを見ていた。
「こっちよ、こっち。早く」
「・・・・すいません」
ちょっと慌てたカナは、迂闊な一歩を踏み出してしまった。
運悪くそこは完全に凍ったところだ。案の定、足を滑らせてカナは転んでしまった。
「早く立って。紅朱館の中が冷えますからドアを閉めます。自分で開けてください」
「・・・・申し訳ありません」
すでに氷点下のロッソム。ドアを開けていては建物の中が冷えてしまうのだ。
メルは玄関の前に立ちドアを閉めた。カナの耳にはドアの閉まる音だけが聞こえる。
外出用の上着を着ていないカナはガタガタと震えつつ、慎重に歩みを進めた。
完全に暗くなっては、もはや歩くことすらままならない。
一歩一歩、慎重に歩き玄関前の階段まで来た。しかし、実はここから先が難しいのだった。
全部を除雪していない階段は、真ん中の通路だけ僅かに雪を掻いてあった。
明かりを失いコントラストの落ちた世界。僅かしかないカナの視力には、どこが階段だかまったく見えないでいる。
慎重に足を出して踏んだ感触を確かめるカナ。しかし、片足で立っていればバランスを崩し転んでしまう。
「あれ・・・・どこだろう・・・・」
半分泣きながらカナは手探りで階段を探した。
氷点下の夕暮れ、パウダースノーの積もった所を素手で触れば身を切るような冷たさだ。
幅5mほどの階段を片隅から手で探っていき、除雪してあるところやっと見つけたカナは、ほぼ四つん這いで階段を上り始めた。
氷の貼った階段に手を付いて上るのは苦痛だし、それに、屈辱的でもあった。
7段ほどの階段を上りきり立ち上がったカナは、何かの気配に気が付いた。
「どなたかいるのですか?」
「何をいってるの。私ですよ」
「え?メルさん?入ったんじゃ・・・・」
「あなたがここから落ちて凍死でもしたら私はポール様に殺されちゃいます。あなたのお付も仕事の一部です」
「・・・・すいません、ほんとに・・・・」
悔しさのあまり、カナはハラハラと泣き始めた。
ほほを涙が伝い、そして、凍った。
あまりに無力な自分が悔しくて仕方が無かった。
「泣いてる暇があったら早く中に入りましょう」
「はい」
寒さに震えながらカナは手探りで凍ったドアを弄りドアノブを見つけ扉を開いた。
ホッとする暖かさに包まれるのだが、震えが止まらぬ程に体が冷えている・・・・・
「雪が解けて服が濡れますよ。着替えてきたらどうですか? 一人で出来る?」
「はい・・・・。いえ、やります。着替えます」
カナはキッパリとそう言って右手を前に出し歩き始めた。
出来る限り目を大きく開いて、僅かな視界情報を頼りに歩く。
しかし、端から見れば夢遊病患者の様なものだ。
右手を左右に振り障害物を探しながら歩くカナをメルは見ていた。
「メルさん・・・・カナさんに厳しすぎ」
キックがキッチンから顔を出してボソリと言った。
それを聞いていたカイト老はキックの頭をぺチンと叩き言う。
「あなたにも、いつか意味が分かります」
カナは手探りで階段までたどり着き、ゆっくりと登って行った。
その姿を見届けたメルが溜息をつき床をじっと見ている。
「メルさん。辛いですな」
「カイトさん・・・・。カナさんの目。見えるようになりますかね」
「さぁ、どうですかね。ただ、何時までもあのままと言うわけには行きますまい。或いは執事殿が・・・・」
「マサミ様も辛いですね・・・・。何とか見えるようになってくれれば良いのですが」
カイト老とメルが見上げる先。
2階からドスンと言う音がして、その後で静かにすすり泣く声が聞こえてきた。
「どれほど頑張っても報われない物がある。マサミ殿はそう言ったよ」
「マサミ様がですか? 以外ですね」
「あぁ、・・・・そうだね」
二人で顔を見合わせ、また天井を見上げている。
すすり泣く声が聞こえてる間は生きているだろう。
そんな風に思っている部分もあったかもしれない。
「カイトさん・・・・手伝ってきて良いですか?」
キックがキッチンから顔を出して恐る恐る聞いている。
カイト老はマサミの相談役でもあり、スキャッパー経営に忙しいマサミの補助として、実質的な紅朱舘の執事であった。
「キックさん。これは本人が乗り越えなければならない壁なんですよ」
「でも、ちょっと冷たすぎます。着替えるのだって大変ですよ」
「えぇ、そうですね。でも、本人がやるといった以上、本人に任せます。それが大人のルールです。無理ならば助けを呼ぶでしょう」
「でも・・・・」
次の一言を言いそびれたキックも天井を見上げている。
何時の間にかすすり泣く声は聞こえなくなっていた。
そして、足踏みでもするかのようなドンドンと言う音だけがしている。
3人揃って心配そうに見上げていたのだが、不意に背後から聞きなれた声がした。
「お前達。随分と冷たいじゃないか」
カイト老が振り返った先には、馬の鞍を肩に掛けたポールが立っていた。
「おやおや、ポール様、今日はお泊りでは無かったのですか?」
「いや、カナが心配でな。色々と難癖付けて帰ってきたよ。フェル爺さんもカナを心配しているしな」
「さようですか。うむ。メルさん、テーブルクロスを上等の物に変えてください。キックさん、レイアウトを変更です」
カイト老はテキパキと指示を出しポールから鞍を受け取ると、馬毛ブラシで綺麗に掃除して鞍乗せに据えおいた。
「ポール様、お食事は?」
「俺の分もあるか?」
「もちろんでございます。メルさん、ポール様のお皿を」
「かしこまりました」
テキパキと動く紅朱舘の3人組。たったこれだけでこの地域が動いていると言うのも凄い話だ。
駐屯軍陣地と行政機関がそれぞれ独立した建物になっていて、紅朱舘が単なるスロゥチャイム家の家でしかないのだから、当たり前
といえば当たり前なのだが。
ポールは2階へあがり自室で着替え始めた。
いつもならマサミやアリスが服を用意してくれるのだが・・・・・
「おかえりなさいませ、ポール様」
急にカナの声を聞いてビックリしたポールが振り返った先。
彼女は入り口に立って微笑んでいた。
「カナ・・・・、大丈夫・・・・か?」
「はい、なにか変ですか?」
「いや・・・・その・・・・服が」
「変ですか?後ろ前に着てしまいましたでしょうか。ワンピースなら間違えないと思ったのですが・・・・」
「そうでない。その服はキックの服ではないか?」
「え?」
予想外の指摘にびっくりするカナ。
今、彼女が着ているのはキックがいつも使っているロング丈で長袖なハイネック・スタンドカラーのワンピース。
いうなれば、一番クラシックなスタイルのメイド服に使われるものだった。
「どうりで動きやすいと思いました。いつも着ているのはちょっときつかったものですから」
「そうか・・・・。うむ、とりあえず・・・・自分の服に着替えるか?」
「そうですね、この服を着てしまってはキックさんに迷惑が」
そんな会話をしていたところへキックがやってきた。
「ポール様、食事の用意が・・・・って、あれ?カナさん?」
「あ、キックさん、ごめんなさい。間違えてキックさんの服を着てしまったようで」
「それは良いんですけど・・・・カナさん凄く似合います。ちょっと待って下さい」
キックは自分の衣装入れからフリルの付いたスペアのエプロンを出した。
「カナさんエプロンしましょう。ほら、手を通して」
どこか嬉々としてカナをメイドルックに仕立てて行くキック。
なにがそんなに楽しいのだろう。カナもポールもちょっと良く分からない状態だ。
「エプロンのひもはふんわり結んで、カラーの蝶々結びもキチンと作って。ほら出来た!」
凄い!可愛い!うわー! キックは一人で喜んでいる。
なにをそんなにバカ騒ぎを・・・・と、カイト老はメルを連れて上がってきた。
「ほほぉ、未来先取りですかな?」
「そうね、早くそうなってもらわないとね」
二人の声に気が付いたカナが下を向いてしまった。
「それじゃダメですよカナさん。ほらカチューシャを乗せて。そうしないと仕事になりませんから」
メルは新しいカチューシャを取り出して、カナの髪をそろえ頭に乗せた。
位置を微調整してカナの長い髪を後でまとめリボンで止めると、立派なメイドの出来上がり。
出来るものならペチコートでワンピースのスカートをふんわり広げると、より良いのだが・・・・
「カナさん。早く自分で着られる様になってね。私もそろそろ引退する年ですし」
「メルさん、・・・・すいません」
「カナさんはいつも謝ってばかりね。申し訳ないと思うなら早くよくなってね。みんなあなたを心配してるんだから」
「はい・・・・ほんとにすいません」
肩を落とし謝ることしか出来ないカナ。
ポールは少しだけ、いたたまれなくなった。
「まぁ、良いじゃないか。ボチボチよくなるさ。それより食事にしよう、実は腹ペコなんだ」
「そうですな、メルさん、キックさん、下で用意を。ポール様もさぁどうぞ。カナさん、私の肩に手を置いて、行きますぞ」
皆で食卓を囲み夕食を共にする習慣は既にこの頃からあったようだ。
メイド姿のままカナは食事を始める。
手元がおぼつかないので、逆にエプロンをするのは良い事かもしれない。
ゆっくりと確かめながら食事をするカナにあわせ、皆がゆっくりと食べる夕食。
カナにはそれが嬉しい事だった。
しかし、同時に足を引っ張っていると言う部分も感じていた。
食後、オオカミの集落の事で皆が楽しそうに談笑している。
キックは出来る限り音を立てぬようにそっと立ち上がって皿を片付け始めたのだが・・・・
「キックさん、すいません、本来なら私の仕事なんですが・・・・」
「あ・・・・聞こえましたか・・・・。良いんですって。それより、ポール様。お風呂の支度が出来ていますよ」
「そうか、冷えた事だし、風呂にするか」
ポールは前掛けを下ろすと立ち上がって奥の風呂場へ入っていった。
カナはポールの気配が消えたのを確かめて、キックにそっと言う。
「キックさんすいません。ポール様のお召し物を用意していただけませんか」
「あ、はい、すぐに。でも、カナさんが持って行くんですか? 」
「えぇ、何も出来ないものですから、せめてポール様のお背中を流そうかと。今日はアリス様もご不在ですし」
背中を流す・・・・今日はアリス様もご不在・・・・
その意味するところを分からないほどキックも子供ではない。
「カナさん・・・・」
「何か役に立ちたくて・・・・ごめんなさいね、ほんとうに・・・・」
一瞬、重苦しい空気になった食堂だったのだが、メルは黙ってキックの持っていた皿を取りキッチンへと消えていった。
「今すぐ用意します」
「すいません。この服も濡れてしまいますね」
「あ、気にしないで下さい。汚れたり濡れたりするのはメイド服の勲章ですから。でも、濡れたらすぐに着替えましょうね」
キックは2階へパタパタと上がって行きポールの下着やガウンを用意してきた。
「カナさん、はい」
「ありがとうございます」
カナはそれを受け取ると、見えないはずの目で廊下を歩いて風呂場へ消えていった。
その背中をカイト老が見つめている。キックも視線を切れないで居た。
「カナさん・・・・相当思いつめてますね」
「まぁ仕方が無いじゃろう。あれしか役目が無いようなものだしな」
キッチンの中、メルは深い溜息をついた。
「あの子にも何か出来る事を用意してあげないとね・・・・、マサミ様が本当に何でも出来る方ですから、余計に・・・・」
奥に深い紅朱舘の最奥。
風呂場の脱衣場にポールの衣服を置いたカナは風呂場のドアをノックした。
「ポール様、入ります」
「カナ?どうした?」
「お背中を流しましょう。失礼します」
屋内履きの靴を脱いだカナは風呂場へ入っていった。
毛の長いイヌの男性にとって、風呂場で背中を流してもらうのは大きな労力の軽減であった。
シャンプーの泡が落ちるまで、手桶を使い何度も湯を掛けて綺麗に流してもらうのは、皮膚病などの予防にもなる。
背中を綺麗に流したカナがもう一度シャンプーを手にとってアチコチ洗い始める。
肩も胸も腹回りも、そして、下半身も。
カナの手が不用意に触れた先。
ポールのペニスがムクムクと膨らみつつあった。
「あの・・・・ ポール様?」
「すまんなぁ・・・・ 駐屯地暮らしだとな・・・・ どうしても溜まる訳だ」
「伽を・・・・」
「カナ・・・・」
「今宵はアリス様もご不在ですし」
「しかし・・・・」
言葉の続きを言う前にカナはシャンプーまみれの手でポールのペニスを洗い始める。
ムクムクと大きくなったペニスへ湯を掛けて泡を落とすと、カナがポールの前で膝まづいた。
「ポール様、失礼します」
カナはポールのいきり立ったペニスにそっと手を触れた。
暖かく柔らかいヒトの手がポールの敏感な部分を刺激する。
ちょっと手で擦って完全に口の中へと納めたカナは、ピチャピチャと淫猥な音を立てて舐めていた。
「カッ・・・・カナ・・・・・」
「ポール様、男の子は我慢です」
ちょっと意地悪そうにそういったカナは、裏筋からツーっと舌を這わせて、鈴口を刺激する。
ポールは風呂場の床に足の指を立てて掻き毟っているのだが・・・・
「カナ・・・・随分上手いな・・・・」
「フロミアで・・・・ いろいろ、有りましたから」
いきり立つペニスの根元をグッとおさえでキューっと吸われた時、ポールの背中がピクリと震えた。
「ポール様・・・・、どうぞ、我慢なさらず・・・・フフ」
見えないはずのカナの目がポールの瞳をじっと見ている。
上目使いでジーっと見ている。
ピチャリペチャリと淫蕩な水音が風呂場に響いている。
ヒトのものよりやや太い筈なのだが、カナは気にせず顎を使って、そして笑っていた。
その笑顔がポールには辛かった。
「カナ・・・・ 大変だったのだな」
長い髪をカチューシャで止めたカナの頭に手を伸ばし、ポールは優しく撫でている。
カナは目を閉じて飴でも舐めるかのように舌の上で転がしていた。
一心不乱に舐め続けるカナの舌先がねっとりと絡みつき、ポールは尻の穴にグッと力を込めた。
だが・・・・
「カナ・・・・すまん・・・・出る!ウッ!」
ドクッドクッドクッと脈打ってポールはカナの口の中へ白濁をぶちまけてしまった。
カナは嫌なそぶり一つ見せる事無く、ゴクッと喉を鳴らしてそれを飲んだ。
溜まっていたものを全部吐き出し、ピクッピクッと震えるポールのペニスをカナが強く吸っている。
カナは口から出したペニスを、シャンプーを僅かに手にとって洗い始めた。
「お粗末さまでした」
綺麗に洗って手ぬぐいでふき取るとカナは立ち上がった。
「カナ・・・・、ちょっと後ろを向いてみろ」
「・・・・はい」
カナは何をされるか分かっていながら、素直に背中を見せた。
ポールは半ば慣れた手つきでエプロンのひもを解き、ワンピースのジッパーを下ろしてカナを剥いていく。
何をされてもカナには嫌そうな仕草が全く無かった。
下着まで綺麗に剥き取られて、露な姿をさらけ出していた。
手でどこも隠す事無く、自然体で立っている。
「カナ、こっちへおいで」
「はい」
肌の弱いヒト用のシャンプーをスポンジに取って、ポールはカナを丁寧に洗い始めた。
柔らかな首筋もアリスに比べ小振りな胸もポールは丁寧に洗う。そして、カナの小股の割れ目まで。
「アッ・・・・」
小さく声を出したカナだが、それでも一切無抵抗でされるがまま・・・・
手ぬぐいで髪をまとめ、カナの体に付いた泡を丁寧に流したポールはカナの体を拭き始める。
タオル越しの手がカナの体中をまさぐり、カナは僅かに震えた。
ポールが手を伸ばした先、茂みの奥の泉からタラリと秘蜜を垂らしつつも、カナはされるがまま・・・・。
「ありがとうございますポール様。返って御手を煩わせ・・・・」
「まぁ良いではないか」
「御背中をお拭きします」
カナはポールの背中を丁寧に拭き水気を切った。
濡れた体毛はまだ水気を含んでいるが、ポールは構わずカナの持ってきたガウンを羽織った
そして、ポールは愕然とした。カナの服が無いのに、今更気が付いたのだ。
「カナ、自分のものを持ってこなければダメではないか」
「あ、そうですね、気が付きませんでした。このまま上に」
「それはいくらなんでもマズイ」
ポールは壁に掛けてあったスペアのバスタオルでカナを海苔巻きにして抱き上げた。
「戦利品だ。さて、どうしてくれようか・・・・」
「どうぞご随意に、ポール様」
「おいおい、冗談だよ」
「私も夫も、ポール様とアリス様の持ち物です。お気遣い無く」
「カナ・・・・ そうか、そういうことか。でもな、無理をしないでくれ」
抱き上げたままポールは歩いていった。
階段手前でキックが心配そうに立っていた。
「俺の服を用意したのはキックか?」
「はい」
「俺のと一緒にカナの分も用意せねば駄目ではないか」
「あ、そうだ!、今気が付きました。すいません。カナさんの着替えを用意します」
「あぁそれはよい。俺がやろう。このまま上で着替えさせる、心配するな」
目を閉じたまま、されるがままに任せるカナはポールに抱き上げられ小さくなっていた。
「キックさん、かえってすいません」
「カナさん、ごめんなさい」
「いえ、大丈夫ですよ」
キックは風呂場へ行ってカナの着ていたメイド服を片付けた。
ヒトよりはるかに鼻が利くはずのキックがクンクンと鼻を立てる。
「あれ?・・・・御館様の・・・・アレの臭いがしない・・・・飲んじゃったのかな・・・・カナさん」
エプロンとワンピースを洗濯場へと持ち込みたらいに湯をはって洗物をつけておく。
振り返って廊下の向こうを見るキック。
――カナさん・・・・御館様とベットかな・・・・いいなぁ・・・・
ふと、そんな事を思ったキック。
体の奥が熱くなるのを感じていた。
裸のカナを自分の寝室に運び込んだポール。
さて、どうしたものか?と思っていたのだが。
「ポール様、あの、ここで事に及んではアリス様にばれてしまいますよ?ヒトよりも鼻が・・・・」
「そうか・・・・ って、おい!」
「違うのですか? そうですか・・・・」
「期待していたのか?」
「いえ、そうではありませんが・・・・」
ニヤリと笑ったポールは再びカナを抱き上げると、マサミとカナが使っている部屋に入って行った。
カナとマサミの二人が抱き合って寝るベットにカナを寝かせた。
「カナ・・・・ さっきも言ったが、無理をするでない」
「ポール様。今の私に出来る事はこれくらいです・・・・ どうぞお好きなように・・・・ 私はポール様の持ち物ですから」
「持ち物などと言ってくれるな。お前は我が友、マサミの妻だ」
「でも、その前に私は従僕なのです、ヒトですよ」
ポールはカナを包んでいたバスタオルに手を伸ばした。
カナの鼓動が聞こえるほどだが、それでもカナはされるがままに任せていた。
「カナ・・・・ 俺はヒトの女を抱いた事は無い。不調法かもしれんが」
「ならばせめて・・・・ やさしくして・・・・ ください・・・・ 」
あらわになったカナの乳房を捕らえ、その先端から丘の周りにイヌのざらついた舌が這う。
二の腕や胸板に生え揃うイヌの体毛が敏感になった女の肌をなでたてる・・・・
「アッ・・・・ アァ・・・ ポール様・・・・・」
右手と舌を使って乳房を攻めるポールの左手が、カナの一番敏感な泉へと伸びていく。
トロリとした感触の秘裂へと攻め入る指先の体毛がクリトリスを刺激して、見えないはずのカナの視界が真っ白に輝いた。
「ウア゙ァァァァァ! ア・・・・ウン・・・・ ハァ・・・・ウ!」
背骨を仰け反らせてベッドシーツを握り締めるカナだが、それでも、ポールの気まぐれな戯れに抵抗するそぶりが無い。
「カナ・・・・ 」
カナの両足を持ったポールは大胆なM字開脚まで持っていった。
その膝へカナの手を沿わせ自らにその姿を取らせるのだが、カナは決して嫌がる風ではなく・・・・
「ポール様・・・・ あハァ・・・・ ウ!フゥ・・・・ 」
体を左右に仰け反らせて、あふれかえる快感の波によがり狂うカナの姿に、ポールは再びムラムラとしていた。
一度は全部吐き出して萎え切っていたペニスがムクムクと硬くなっていく。
ポールは一度手を止めた。左手の中指が泉の中に入ったままだが。
蜜壷の中をかき回す指を回したり軽く曲げたり。
そしてリズミカルに出し入れしながら、親指でクリトリスを弄る。
カナは首を振ったりしつつも、声を上げて快感の波に漂っている。
不意に左手を抜き放ったポールはカナの股間に顔をうずめ、イヌの長い舌で蜜壷をかき回し始めた。
のた打ち回るカナの体が不規則に震えつつも、されるがままの姿に変わりは無かった。
今度はどれ程屈辱的な仕打ちをしようか。ポールはカナが恥しがる体位を考えている。
「カナ・・・・ どこが感じるんだ?」
「アァ! ポールさ・・・・ ゥアァァ! イグ!」
ポールはカナの両足を持ち上げ、秘裂の露になったその泉へ顔をうずめる。
そして、その長い舌で肛門を弄り始める。
鼻先で貝の割れ目を捲りあげ、舌先でアナルをマッサージしてやるのだが・・・・
カナはまるで糸の切れた操り人形のままだった。
「ポッ ポール様・・・・ そこは・・・・」
「汚くないよ。カナ、お前は私の持ち物なのだろ? 持ち物を綺麗にしていくのも持ち主の仕事のうちだ」
もはや言葉にならない言葉でよがり狂うカナ。
ポールは舌と指でカナを攻め続けるのだが、ふと手を止めるとカナをひっくり返し、ポールはバックの位置に膝立ちになった。
「カナ、入れるぞ・・・・ 痛かったら痛いと言えよ?」
「ハァハァハァ・・・・ お願いします・・・・ どうぞ・・・・ 」
肩で息をするカナはそう答えた。
ポールはいきり立ったペニスをカナのヴァキナに添える・・・・
マサミ・・・・ 許せ・・・・
グチョッと音を立ててポールの太く長いペニスがカナの中に差し込まれた。
ベットの枕を両手で抱え込んでカナが耐えている。
ポールは構う事無くリズミカルに抜き差しを繰り返し、両の手で重力に引き伸ばされる乳房をもてあそんだ。
クチャックチャックチャッと水音が響き、カナは上半身を支えていた腕の力が抜けてベットに崩れている。
ポールはそれを許さず片腕を後に引っ張り上げると、自分の腰に手を当てさせ、カナの尻を抱くように腰を振っている。
「カナ! どこへ出せばいい?」
「アァァァァァ! ウゥゥ! ンンンンナアアアアア!」
「どこへ出せばいいか?」
「ヒグゥィ! アウ! ンアア! アアッァァァァァァァァァ!!!!!」
「どこへ出して欲しいかこたえろ!」
「アァァァァァァァァァァァァアアアアアアアア!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
「どこだ!」
「ァングンァァァァングフ!!!!!」
ぐったりと力の抜け切ったカナの体がベットに崩れかかるのだが、ポールはカナの両手を後へと引っ張りあげた。
もはや言葉にならず、金魚のように口をパクパクとさせるだけのカナが頭を左右に振る。
それはカナが始めて少しだけ見せた、嫌がるかのような素振・・・・
「それ!それ! どうだ!」
もはや言葉にならないカナの声が部屋に響いた。
だが、ポールはそれを意に返さずカナを揺らし続ける。
不意に腰を止めてカナの中から抜き放つと、カナは不意に動きを止められて震え始めていた。
「ヒトの夫婦はこちら側からやるそうだが・・・・」
もう言葉にならず、ただ震えているカナを、ポールはひっくり返して前から差し込んだ。
カナの両足を広げると奥へ奥へと突き刺すように腰を使い始める。
ストライドの長いピストンで揺らしていたポールだが、やがて限界に近づいたのだろうか。
どこへぶちまけたら良いのかをポールは考えた。
しかし、どこへ放ってもこの部屋に跡が残ると気が付く。
「えぇい!ままよ!」
ズポッ!といやらしい音を立ててカナの胎内から引き抜いたペニスには赤い物が付いていた。
でも、ポールは気にせず力の抜けたカナの体を抱え挙げると、半開きだった口を押し開けてそこにペニスを突っ込んだ。
グピュ!ドクッドクッドクッ・・・・・
ポールが少しだけ冷静さを取り戻したとき、カナは酷く震えていた。
顎をガチガチと鳴らしながら、口の中にたまっていたポールのザーメンを残らず飲み干すと、半ば無意識にポールのペニスを綺麗に
舐めて、精管に残っていたものまで吸い出した。
「もっ!申し訳ありません!ごっ!ご主人様!こっ!これで・・・・よろしい・・・で・・・しょう・・・・か」
ガタガタと体を震わせ涙声で御伺いを立てるカナ。
震える手でポールのペニスを綺麗にし、そこへ頬を摺り寄せている。
「嫌がってしまいました、申し訳ありません、どうか、お許しください、どうか・・・・これ以上・・・・酷いことはお許しを・・・・」
カナは涙を流して懇願している。
「カナ・・・・」
「ご主人様、汚いヒト風情を抱いてくださり、ありがとうございました。どうかお許しを」
ポールはカナを優しく抱き寄せた。
「満足だよ。大丈夫だ、もう十分だよ。カナ・・・・」
糸の切れた操り人形のようなカナが僅かに震えながら体を預けている。
その頭を撫でてやっていたポールだが、震えていたカナの体からフッと力が抜け気絶するように眠りへと落ちた。
ポールの二の腕を枕に眠っていたカナだが、突然夢でも見ているかのような表情でスッとベットを抜け出した。
訝しがるポールが見つめる先。
半ばミイラになった我が子の眠るベビーベットへ行くと手探りで布団をなおし、その体を優しく叩きながら子守唄をうたい始めた。
「そうか・・・・ あの街で・・・・ お前はそうやって生きてきたのか・・・・」
裸のまま我が子を優しくあやすカナは母親の顔になっている。
ポールは何も言わず背中にそっと毛布を掛けた。
暗闇の中、カナの優しい子守唄が続く。
ポールは黙ってその歌声に耳を傾けていたのだが、その声が唐突にフッと途切れ、カナはドサリとその場に崩れ、眠りに落ちた。
それを抱き上げようとしたポールの目の前、不意に嘔付いたカナは喉からゲポッとポールの精液を吐き出す。
ポールは首を振りつつタオルで丁寧に拭くと、カナを抱き上げてベットへ寝かせ毛布をかけた。
ポールがジッと見つめる先。
うわごとのように「申し訳ありません・・・・」とカナはつぶやき続ける。
そのまなじりから一筋の涙がこぼれ落ちるのをポールは見ていた。
噛み締めた奥歯から血が流れている事すらも気付かずに・・・・
◇◆◇
「ヨシ・・・・ いまさら申し開きなど出来んし、それにしたところでどうになるものでもない。でもな・・・・」
ポール公はグラスに残っていたウィスキーを苦そうに飲んで溜息をついた。
その深い溜息に、ヨシはポール公の苦悩が沢山詰まっているのだと思った。
「後になってな、俺は・・・・カナに聞いたのだ、あの街で。フロミアで何があったのだ?とな」
「はい」
息を呑み言葉を待つヨシの目を見て、ポール公はいっそう厳しい表情になった。
「そうしたら・・・・ カナはこう言った。ヒトの世界から落ちてきた女は最初、我々を獣といって嫌がる。その抵抗が消えるまで、言い
換えれば抵抗するだけ無駄だと諦めて、されるがままに受け入れるようになるまで。入れ替わり立ち代り、様々な種族の男達に犯され
続けるのだそうだ」
顔を振りながら下を向くポール公の、真底忌々しいと言わんばかりの表情。
その横顔がヨシとリサの心を締め付ける。
「その過程で、あまりに酷い仕打ちで壊れてしまう女も多いのだと言う。僅かでも抵抗するそぶりを見せれば、指をねじり落としたり、
手首に焼いた針を刺したりして酷く痛めつけられたり、民衆や様々な種族の男達の前で、死よりも恥辱にまみれた仕打ちを・・・・、公開
強姦されたり、裸のまま晒し者にされたりして辱めを受けるのだと言った。それでもカナは病気を持つ息子の為に、お前の兄だった子
の為に、必死になって自分を繋ぎとめていたのだろう・・・・」
ヨシは押し黙ったまま聞いていたのだが、リサは途中から泣きっぱなしだった。
「あの夜を最後に、俺はカナに、お前の母親に指一本触れてない。あ、いや、それこそ飯時やそんな他愛も無い時はともかく」
「御館様も苦悩されたのですね」
「ヨシ・・・・ すべての男にとって母親とは特別存在だ・・・・ すまん・・・・」
「御館様!」
ヨシはまだ涙を流しているリサの肩を抱き寄せて両手で抱きしめた。
リサは・・・・ヨシにされるがままだった。
「私は御館様の従僕です。先ほどアリス様が仰られたように、父と同じく、私は・・・・ ですから、私に謝るなど・・・・」
いつの間にかヨシも涙を浮かべている。
その目に光るものの意味を、ポール公もアリス夫人も良く分かっているのだった。
「後日、マサミが帰ってきた後、俺はマサミにだけ正直に言ったのだ。すまない、カナを壊しかけたと。そしたらマサミはお前と同じ
ことを言ったよ。謝る必要など無いから、その分、大事に扱ってほしい・・・・とな。俺は好きなように使いつぶしてくれて良いから、妻
と子はどうか大切に扱ってほしいと・・・・な」
ポール公はため息を一つついて天井を見上げた。
きっと、零れ落ちそうな涙を堪えているのだとヨシは思った。
「俺はな、マサミにこう言った。マサミもカナも俺には大切な存在だ。お前達二人は俺達夫婦の宝物だ。だからマサミ。もし、俺がい
ないときにカナを嬲る者が居たら、その時はお前が一切の容赦も矛盾も無なく殺せと命じた、冷徹に任務を果たせととな。それはお前
が殺したんじゃない、俺が殺したんだと、俺はそう言ったのだよ。誰が相手でも容赦なく。責任は俺が取ると言ってな」
「御館様・・・・」
「ヨシ、お前もそれを引き継げ。すべて俺の命だ。お前は俺が守る、だからお前はリサを守れ、そして子孫を残せ。良いな」
「仰せのままに・・・・」
ジッとリサを見るヨシをポール公は懐かしそうな目で見ていた。
遠い日、カナに手を出したとマサミに言った後、マサミが見せた複雑な表情を思い出していた。
――マサミ・・・・あの時俺はお前に殺されても文句を言えないと思っていたんだが・・・・
――マサミ・・・・ほんとにこれでよかったのか・・・・
――マサミ・・・・俺は間違ってないか・・・・
――マサミ・・・・すまん
――マサミ・・・・出来の悪いイヌの男を赦してくれるか・・・・
抱き寄せたリサの頭に頬を寄せて目を閉じたヨシ。
アリス夫人もクー族の酋長もジッとそれを眺めているだけだった・・・・・。
「皆、俺の詰まらん話で場をしらけさせ申し訳ない。アリスとマサミの話は明日にしよう。酋長殿、イヌの不始末を笑われよ」
酋長は持っていたグラスの中身を飲み干し、からのグラスをテーブルへ戻すと目を閉じ首を振った。
「館の主よ。そなたの勇気に私は心からの敬意を表する。自らの不始末を赤裸々に語るなど、なかなか出来ぬものよ・・・・」
その言葉に、ポール公は安堵の表情を浮かべた。
「そう言ってくれるなら救われるな」
それは、共に重い荷を背負って歩く男同士の言葉なのかもしれない。
新年を祝う宴の席。
しかし、そこには確かに種族を超えた男同士の言葉があった。
第7話 了