猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

犬国奇憚夢日記08

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犬国奇憚夢日記 第8話

 
 
 オオカミが祈りを込めて舞った宴の翌朝。
 一晩中快晴だったロッソムは放射冷却でキンキンに冷え込んでいる。
 紅朱館の各部屋から出る小さな煙突からも白い煙があがり、地下一階の温泉大浴場は早朝より体を温めるイヌで賑わう。
 寒いながらも穏やかで活気がある、凍ばれた冬の朝。
 
 領主一家が揃う朝食時の紅朱館の専用食堂。
 今朝のテーブルにはオオカミの酋長が若いオオカミ2人を連れて同席し、ヨシとリサはメニューのサーブに大忙しだった。
 
「御館様、朝食中に失礼いたします」
 
 ポール公がちょうど二つ目のゆで卵を食べようとしたとき、専用食堂の入り口を開けてタダが報告にやってきた。
 
「タダ。朝飯時だと言うのに慌てて報告が必要な事か?」
「はい、申し訳ありません。ただいま玄関先にコウゼイさまがいらっしゃいました」
「コウゼイ?う~む・・・・」
 
 モシャモシャと食事を続けているのだが、ふと何かを思い出したポール公はヨシを呼んだ。
 
「ヨシ、下へ行ってコウゼイより届けものを受け取ってくるのだ。お前にも荷物が来ていることだろう」
「承りました。リサ、タダ、ここを頼むよ」
 
 ヨシの声を聞いたリサが微笑んで応える。
 
「うん、任せて」
 
 微笑を返し部屋を出て行くヨシ。
 タダが入れ替わりに入ってきてティーポットの隣に立った。
 
「タダ君。奥様と酋長様にお茶を」
「はい、リサ姉さま」
 
 僅かな間に執事らしい振る舞いを覚えたタダは、機械のように正確に動いて物事を進めている。
 その動きはかつてのカナが振舞ったように、動きの無駄がなく、そして、優雅な間を持つものだった。
 
「タダの動きはカナのようね」
 
 バターとジャムを塗ったパンをリサから受け取りひと齧りしたアリス夫人は、どこか嬉しそうにそう言った。
 
「そうだな。母親譲りなのかもしれないな」
 
 ポール公はそう相槌を打った。
 
「君もマサミ殿の息子さんかね?」
 
 スープを飲む手を止めた酋長は、驚いたような眼差しでジッとタダを見る。
 左右に座る二人のオオカミも手を止めてタダを見た。
 
「あ、はい。そうです。兄ヨシヒト、姉マヤに続き3人目です」
 
 不思議そうにタダを見つめていた酋長だが、ふと何かに気がついたように頷いた。
 
「そうかそうか。うむ、そう言う事か。そなたの兄の上に亡くなった兄弟が居ると聞いておるが・・・・」
「えぇ、存じております。亡くなった長兄はあちらの・・・・」
 
 タダは窓の外遠くを指差した。
 真っ白な丘の上。高くそびえる樅の木の下にある墓地。
 
「あの丘の上で両親と共に眠っています。でも、正直に言うと、長兄の話を私は殆ど知りません。実は名ですら知らないのです」
 
 酋長やオオカミと共にアリス夫人やポール公もその言葉に驚いた。
 
「タダ・・・・、そうか、おまえは知らなんだか」
「そう言えば、あなたには話をした事が無かったかもしれないわね」
 
 領主夫妻の言葉を聞きながらも、リサは新しいパンを焼きバターを塗っている。
 
「私が夫とその話をする事はあっても、タダ君と話をする事は稀ですし・・・・」
 
 酋長は食事の手を止めて立ち上がると、タダへと歩いていきその手を取った。
 
「そなたの父より我々一族は1000年の恩義を受けた。そなたの未来に困りし事があれば我々にも相談をされよ」
「酋長様、身に余るありがたい話でございます。これからもよろしくお願いいたします」
 
 クー族の酋長-太陽を称える岩-は振り返りアリスを見た。
 
「うむ。領主殿、館主殿。午後の茶会へこのヒトの若者を是非招いていただきたい。お願いできますかな」
 
 アリスはポール公へ視線を送る。
 その意味するところをポールはすぐに理解した。
 
「タダ、午後の仕事はなんだ?」
「今日は・・・・マリアさまがお出掛けですのでその付き人を」
「うむ、そうか。マリア。今日はどこへ行くのだ?」
 
 急に話を振られたマリアだが、事も無げに言った。
 
「今日はタダとミサの新しい服を買いに行こうかと思っておりました。春になったらラウィックへ出かけますので、その前に」
「そうか。コウゼイも来た事だし、新たな入荷があるやもしれんな。うむ、マリア、その予定は午前中に終るか?」
「はい、そうします」
「よし、タダ。午後は正装で茶会へ出よ、よいな」
「承りました」
 
 再び席に着いた酋長のカップへお茶を注ぐタダ。
 その優雅な振る舞いは天性かもしれないと彼は思っていた。
 
「出来る事なら君をオオカミの里へ連れて帰りたいものだ」
「お褒めに預かり光栄です」
 
 そんなやり取りを見るアリス夫人の目は優しくも、どこか厳しいものがあった。
 
「ところで、君やリサ君は朝食をどうするのだね?」
「あ、私たちは早くに起きますので、賄いの朝食を早めにとり、奥様と御館様の朝食に間に合わせています。御館様のカップにお茶を
注ぎながらお腹を鳴らすのはマナー違反ですから」
 
 リサは笑いながらそう答える。
 ポール公はその笑顔を嬉しそうに見ながらタダに視線を移し相槌を打つように言う。
 
「寝て起きると空腹だからな。動く前に食事を済ませるべきだし、それに若いものは食わせておかないと元気が無い」
 
 苦笑するタダは酋長の隣に座るオオカミの皿を下げ、ティラミスの小さな皿を置いた。
 
「僕らヒトは一度の食事で量を食べられないものですから、数回に分けて食べる事が多いです。でも、父は良く食べた方ですね」
 
 タダの言葉にアリス夫人は何かを思い出したようだ。
 なにかとても懐かしそうな表情でリサが置いたティラミスにフォークをつけた。
 
「出先で夕食をとる際は従者が従者らしく振舞う為に後から食べるべきだとマサミは言っていました。ですから、ここでの夕食は皆で
並んで食べるように私が決めました。特別な理由が無い限り、大食堂で私たちや従者達、そして領民らも同じ食事を取ります。その代
わりここでの朝食は学びの場としての意味も有り、このような形になっています。でも、実際は早起きして働き始めるこの子達に先に
食事をさせてあげたかったのです」
 
 酋長も笑いながら頷いている。
 
「練習で出来ない事は本番では絶対に出来ない。父はいつもそう言っていました。ですから・・・・」
 
 タダは酋長の前にある皿を音も無く持ち上げ後へ下げると、デザートのティラミスをそっと置きフォークを添える。
 
「粗相をすると後で父母からこってり絞られ、夕食時に同席を許されず皆様の食事が終るまでボーイ役でした。しかも、夕食抜き」
 
 ほほぉと笑う酋長やオオカミ達。
 アリス夫人もポール公も笑っている。
 
「夕食抜きですとお腹がすきますから、ですからもう必死で覚えました」
 
 フォークやスプーンが不安定に乗っている皿を音も無く持ち上げたリサは、雫一つ飛ばさずにお茶を注いだ。
 
「ところで、出先での朝食はどうされるのですかな?」
「あぁ、その時はケースによりますが・・・・ルカパヤンなどでは一緒に食べてましたよ」
 
 アリス夫人が視線を送った先。
 壁に飾られた大きなタペストリは、幼子を抱えるアリスとカナが二人並んで子供に授乳させている絵柄。
 ポール公はマサミと共に二人の母親の口へパンを送り込んだり、スープを飲ませたりしている。
 領民がアーサーとヨシの誕生を祝って贈った大きな刺繍のタペストリ。
 子供を連れて出かけたルカパヤンの楽しい朝を思い出していた。
 
「そう言えばあの朝も私はマサミと二人で朝食でした・・・・・
 
 
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 水曜日のルカパヤン、朝8時。
 ひんやりとした空気に包まれた大通りは昨夜の喧騒が嘘のように静まり、猥雑に輻輳していた沢山の屋台が姿を消している。
 そして、どこからやってきたのか、朝食専門に店を出す屋台がアチコチで整然と店開きしていた。
 
「アリス様。あまり美味しくはありませんか?」
 
 昨夜の一件がマサミとアリスの間に微妙な影を落とす朝。
 複雑な表情でトマトと魚介類のリゾットを食べていたアリスはマサミの声で我に返った。
 
「あ、決してそんな事はありません。ただ、色々と思う事が・・・・」
 
 マサミはアリスのカップにお茶を注いで言う。
 
「食事は楽しみましょう。そのほうが体にも良いです」
「でも、一人で食べても美味しくないわ」
「そうおっしゃらず」
 
 困った笑いを浮かべるマサミ。
 アリスはふと何かを思い立ったように時計を見る。
 
「マサミ。例の老人のところへは何時に行くの?」
「あ、特にアポイントを取ってはいませんが、朝食後でよろしいかと」
「なら、あなたも一緒に食べなさい。時間を短縮しましょう。朝は忙しいです」
 
 アリスの目論見をマサミも理解したようだ。
 要するに、理由は存在すれば良いのである。
 主とテーブルを共にしたところで、従者は従者たらんとすれば・・・・
 
「アリス様、失礼します」
「やっぱりこの方が落ち着くわ」
 
 アリスの向かいに座って食事を始めるマサミ。
 ルカパヤンで食事をする一番の楽しみといえば、イヌの国ではなかなか食べられない米を食べられる事だった。
 
「アリス様、ちょっとくだらない話をします」
「えぇ、聞きましょう」
「この米と言う食材。私の生まれた国では2000年以上昔から栽培し食べています。ヒトの世界では100年で4世代ですから・・・・」
「数字は苦手だけど言いたい事は理解できるわ。要するにあなた達にとってこれは特別な食べ物なんでしょ?」
「御明察の通りです」
「これをスキャッパーで栽培できるようにしましょう。頑張りなさい」
「仰せのままに」
 
 マサミはスプーンで掬ったリゾットを本当においしそうに食べる。
 それを見ていたアリスはふと気が付いた。
 
「マサミ。その米と言う食材。ここで買えるかしら?」
「はい?」
「カナに買って行ってあげなさいよ。彼女もきっと食べたいはずよ」
「お気遣い・・・・ありがとうございます」
 
 マサミは手を止めて深々と頭を下げた。
 顔を上げたマサミが必死に泣くのを堪える表情だったのは、アリスにとっても誤算だったようだ。
 
「あなたとカナは本当に良い夫婦なのね・・・・。ポールによく言っておかなきゃ、カナに手を出すなって」
「アリス様・・・・ いえ、それも・・・・ この世界の習いでしょう。妻も分かっていると思います」
 
 アリスより後から食べ始めたマサミだったが、ぱっぱと食べ終えると自分の皿を隅に寄せ、アリスの食事が終わるのを待った。
 
「あなたは食べるのが早すぎ」
「主を待たせる従者などありえませんから」
「 ・・・・そうね」
 
 フフッと笑ったアリスが最後の一口を食べ終えると、マサミは濃い目のお茶を注ぎジャムの乗ったビスケットを添えた。
 
「マサミ。今思いつきました」
「はい」
「このように外で食事をする時は朝食だけ一緒に食べましょう」
「しかし」
「良いのです。私がそうしたいんだからそうします。良いですね?」
「はい、仰せのままに。アリス様」
「で、スキャッパーへ返ったら夕食も一緒にしましょう。カナの目が治ってもね」
「でも、それでは将来困ります。私の子や孫の世代がご奉公する際、従者に必要な事を学ぶ場がありません」
 
 マサミのもっともな問いに対し、アリスは事も無げに言う。
 
「じゃぁこうすれば良いわ。あなたやカナは私より先に起きるでしょ?だから先に食べなさい。あなた達の子供や孫には朝食時に物を
教えてあげなさい。でも、夕食だけは一緒にします。皆で食べたほうが美味しいから」
 
 笑顔でそう言うアリスの孤独感はもっともなのだろう。
 かつて、多くの兄弟や父母、そして召使達に囲まれて育ったアリスには、一人で食事など耐えられないのかもしれない。
 ふと、核家族で育った自分とは違うアリスの苦悩をマサミは垣間見たような気がした。
 
「仰せのままに、アリス様」
「はい、決まり。さぁ、行きましょう」
 
 いつの間にかアリスはマサミに相談することなくポンポンと物を決めていた。
 今までは必ずマサミに相談していたのだが。
 
「アリス様。その案件はスキャッパーに戻りポール様と相談して決めては如何でしょうか」
「そうね、返ったら言っておくわ。でも、反対なんてさせないから、大丈夫」
 
 そう言って笑いながら立ち上がり、食器の片付けもせず歩いていくアリス。
 マサミは慌てて荷物をまとめ食器を屋台の親父に渡すと代金を支払い、気ままな主を走って追いかけていった。
 
「アリス様! ちょっとお待ちを!」
 
 
 
 
 
 
 スキャッパーではなかなか見られないサイズの大型馬車が行きかうルカパヤンのメインストリート。
 陸上交通が馬車などの生物機関で運用される以上、輸送限界を上げるには複数頭立ての大型馬車を導入するしかない。
 さもなくば小型の馬車に荷物を満載にしてピストン輸送。
 
 一度に運べる物量の上限は、すなわちこの世界の経済限界。
 スキャッパーを含むイヌの国やカモシカの国、ネコの国といった中央大陸を縦横無尽にネットする陸上交通機関、鉄道がこの世界に
登場するのは、まだまだ未来の話・・・・
 
 例の老人はいつもの部屋で空を眺めながら今日も過ごしていた。
 
「スロゥチャイム公爵、よくお休みになられましたかな?」
 
 老人はゆっくりとコーヒーを飲みカップを置いた。
 
「えぇ、おかげさまで。その飲み物は独特の香りですね。きついけど良い香り」
「公爵にもご用意いたしましょう」
「いえ、今日は結構です。それよりも・・・・」
「せっかちですな。もう少し鷹揚とお構えなさるが良かろう」
 
 老人は笑いながら応えた。
 アリスは一瞬だけムッとしたようだが、怒っても仕方が無い事なんだと割り切ったようだ。
 
「少々、時間が惜しいものですから」
「心得ておりますよ。ヒトの世界ではこう言います。時は金なり・・・・」
 
 老人はテーブル上のベルをチンッ!と鳴らした。
 その音を聞いてか、隣の部屋からパンジャが姿を現す。
 両手で抱えた箱の中には大量の医薬品が納まっていた。
 
「御約束の抗生物質です。おそらく1個旅団程度の人員まで行き渡る量でしょう。うまく使ってください」
 
 パンジャがテーブルの上にドンと置いた量は相当なものだ。
 獣人の強い背筋力がならばともかく、並みのヒトにはいっぺんに持ち上げる事すら間々ならない。
 
「馬一頭で帰るのは・・・・難しいですね。重量的に」
 
 さすがのマサミも頭を抱えた。アリスとて同じだろう。
 老人は二人を見た後で言った。
 
「そうそう、マサミさん。そろそろこれが必要でしょう」
 
 そう言って机の下から取り出したのは、9mmパラのケースだった。
 銃火器の清掃に使うアルコールの瓶と共に老人はテーブルに並べている。
 
「ホローポイントでストッピングパワーは十分ですよね? あと、おそらく・・・・」
 
 老人が指差した先には棺桶のようなサイズの箱が二つ。
 無造作に床へ置かれていた。
 
「それを持って帰ったほうが良いでしょう。マサミさん。それを開けてみて下さい」
 
 アリスの半歩後ろに立っていたマサミが箱に歩み寄って蓋を開ける。
 そこには2丁の大型軍用自動小銃と、そして、マサミの想像をはるかに越える物が収まっていた。
 
「あの、これって・・・・対戦車ライフル?」
「ハッハッハ。そういう古風な言い方は流行りませんよ。今時は対物狙撃銃と言うべきです。まぁ、備えるに越した事はありません」
「備えるとは? あの・・・・何かご存知なのですか?」
 
 老人はもう一口コーヒーを飲み、車椅子を移動させてマサミのそばへ近寄ってその巨大な銃火器に目をやった。
 
 サイズだけならこの世界にも同程度の大型銃火器は存在するだろう。
 しかし、その驚異的な殺傷貫通能力では比類するものは無い。
 MBT以外のあらゆる地上車両と航空機に対して使われる、個人携帯レベルでは最強の銃火器。
 この世界では巨人系に属する大型獣人ですら一撃で屠れるだろうと、老人は期待しているのかもしれない。
 
「えぇ、まぁ・・・・そうですね・・・・うん。一つ言える事は、あなたの細君の件でちょっと雲行きの怪しい情報が飛び交っています」
「妻の件ですか?」
 
 老人は静かに頷いた。
 
「そうです。簡単に言えば責任問題ですよ。あの街、フロミアに登録されたヒトの女性が正規の手続きも、対価の支払いも無いまま他
国へ流れたとあっては、担当の役人が詰め腹を切るだけでは事は収まらないと言う事です。つまり、カモシカの国にとってすれば、軍
事力に屈服して諦めたと言う前例を作ってはいかんと言う事ですな」
 
 どこか楽しそうに話しをする老人。
 アリスの冷ややかな視線がそれを見つめていた。
 
「かといって、イヌの国相手にカモシカの正規軍を出すわけにはいきません。お分かりになりますかな?絹糸同盟の非常に間抜けな部
分ですよ。イヌの国が自己防衛の戦闘や戦争をする事を同盟は禁じていませんし、それに、自己防衛として他国に攻め込む事を禁じる
条文はありません。限りなく黒に近いグレー。故に、カモシカの国はトリックスターズ級の御尋ね者を使って奪還するでしょうね」
 
 マサミの悲痛そうな溜息がアリスにも聞こえる。
 
「取り出せますか?」
 
 老人に促されたマサミは箱の中からその対戦車ライフルを取りだそうとしたのだが・・・・。
 
「かなり重いですね」
 
 持ち上げるのにも腰を入れてグッと力を入れなければならない重量だ。
 バイポットの取り付けられた銃身の先端がまたかなりの重量になっている。
 
「約15kgあります。普通のライフルの感覚では扱いきれないでしょう。でも、1000mを越える距離から正確に射撃をしようと思ったら
これが必要になります。あとは50口径機関砲を持って行ってください。弾丸は2000発用意しましょう」
「でも・・・・私はこんな兵器、見るのも触るのも初めてです。まして扱い方・・・・射撃など・・・・」
 
 ちょっとだけ顔を青くしてマサミは驚いている。
 そんな表情を始めて見たアリスは、それがどんな意味を持つのか考えていた。
 
「まぁ・・・・そうでしょうね、平和な日本でこれを撃った事の有る民間人など居やしません。インストラクター代わりの者を同行させま
すから指南を受けてください。扱い方と戦い方を覚えましょう。やがて必要になります。馬を数頭用意させますから、まとめて持って
帰ってください」
 
 あっけに取られるマサミの隣。
 ジッと見ていたアリスは老人の言葉に少なからぬ警戒を抱いていた。
 
「・・・・・・・・まるで戦争の準備をしているようですね」
 
 冷たく言い放つアリスの言葉に老人は柔らかな笑みを返した。
 その笑みの意味するところをアリスは推し量る。
 しかし、悲しいかな、人の表情から真意を読み取る能力はアリスにはまだ無かった。
 
「いいえ、それは違います」
 
 微笑んだままの老人はパンジャを呼んだ。
 
「パンジャさん。ユウジさんを呼んでください」
「はい、かしこまりました」
 
 老人は車椅子を元の位置まで滑らせると、積み上げられた抗生物質の箱に手を置きアリスのほうを見た。
 
「あなたの僕に贈った物。それは、あなたの大切な僕が大切にする主と愛する妻を守るための・・・・階級闘争の道具です」
「階級闘争・・・・?」
「この世界、ヒトは奴隷階級だなどと世間では言われていますが、それは真実でしょうか。力ずくで奪いに来る盗人にヒトの力を思い
知らせてあげましょう。マサミさん、もう忘れてしまいましたか?ヒトの歴史は・・・・・・」
 
 その時の老人は真底楽しそうな表情だった。だが、その笑顔はアリスも息を呑む迫力ある凶相。
 マサミには復讐の2文字が浮かんでいるように思えた。
 
「ヒトの歴史は闘争と殺戮の歴史です。ヒトがヒトを殺すためにどれほど心血を注いだか。それを実証してあげましょう」
 
 目を見開き狂喜の表情を浮かべる老人。
 アリスはそれが何であるか、なんとなく理解した。
 
「しかし、この世界ではヒトは奴隷階級と国際法で決まっていますよ」
「ハハハ、スロゥチャイム卿、法とは永遠ではありません。現実を法に合わせるのは愚の骨頂。法を現実に合わせればよいのです」
 
 老人の笑顔の意味するところ。それは目的を達成できるだろうと喜ぶ表情かもしれない。
 アリスの知らない世界で辛酸をなめたヒトの男の遠大な目標とは・・・・・
 
「国際法・・・・。そうですか、ありがたい事に我々ヒトの階級は奴隷だと国際法が示してくれるわけですな。では、あなたに問いましょ
う。その国際法の正当性はいったいどこの誰が保障してくれるんですか?」
 
 かなり意地の悪い質問を浴びせかけた老人はジッとアリスの回答を待つ。
 
「それは・・・・この世界の多くの民衆が・・・・」
 
 おそらく、この回答は老人の予想の範囲だったのだろう。
 笑みを浮かべてアリスを見ている老人の部屋へ大柄なヒトの男を連れたパンジャが戻ってきた。
 
「ファーザー、お呼びですか?」
「えぇ、ユウジさん。こちらの方がどなたか分かりますか?」
「いえ、残念ですが」
 
 ユウジと呼ばれたヒトの男は黒衣の聖職衣を着た大男だった。
 両手には純白の手袋をし、首からは十字架を下げている。
 
「そうですか。ファーザー・ユウジにも知らぬものがありましたか・・・・。こちらは山を越えた先、スキャッパーを所領とする公爵スロ
ゥチャイム卿です。そしてお隣は執事のマサミさん」
「お初にお目にかかります。ユウジとお呼びください」
 
 そう言ってユウジは会釈した。
 マサミは笑みを浮かべ右手を出した。
 
「スロゥチャイム家全権執事のマツダマサミです。マサミとお呼びください。どうぞよろしく」
 
 マサミの出した右手を握り締めたユウジは会釈を返すとアリスの方を向いて笑みを浮かべた。
 
「お伺いしていた限りの想像よりも美しい方ですね。しつけの悪いヒトですが、どうぞよろしく」
「あなたが同行するのですか?」
「はい、そのようにファーザーより指示を受けました。御迷惑でしょうか?」
「いえ、よろしくお願いします」
 
 イヌの貴族からお願いしますなどと言葉を受けたユウジは明らかに困惑している。
 その姿を見て老人は笑っていた。
 
「スロゥチャイム卿。この世界の多くの民衆が思うその格差意識に噛み付こうと私は言っているのです」
「え?」
 
 驚くアリスの表情を確かめたかのような老人は薄ら笑いを浮かべ視線を切った。
 
「これからあなたの領地が戦場になります。国家単位の思惑があなたの領地を蹂躙するでしょう」
「それは・・・・なぜですか?」
「トリックスターズ。国際法の制約を受けない越境窃盗団。その実態はなんでしょうね?」
 
 老人はちょっと俯いて床を眺めた。
 窓から差し込む日差しがその場にいる者たちの影を床に映している。
 居並ぶものたちのシルエットには、長い耳が立っていたり無かったり・・・・
 
「犯罪者の作る組織が国際指名手配されながら公然と活動できる理由は何故でしょうか?。どこかの国家政府が裏側からそう言う組織
を支援していると言うことですよ。国家の組織や政府機関を使って出来ない工作活動や非合法活動を安全に行う組織と言うのがその手
の集団の実態と言うべきなんじゃないですかね」
 
 ファーザー・・・・
 そう呼ばれる老人は顔を上げるとコーヒーを飲み、カップをテーブルに下ろす。
 
「今回、その組織が活動するその目的はヒトの女を奪回する事です。スロゥチャイム卿、あなたはそのヒトの女と自らの領地を秤に掛
けてどちらを選びますかな?領地と領民の為にその女を差し出しますか?」
 
 老人はジッとアリスの目を見た。
 深く鋭く威圧感のある眼差しがアリスの心を貫く。
 しかし、アリスは思った。
 視線を切ったら・・・・負けだ、と。
 
「領主たれば領民の為、最善の選択をすると思えば差し出すことも止むを得まい・・・・。ですが、果たしてあなたの執事が納得しますか
ね?しやしませんよ、なぜならヒトだからです。納得のいかない抑圧には徹底的に抵抗してきたヒトだからです。その反骨心の炎に私
は油を注ぎたい。そして・・・・」
 
 やや興奮気味に話しをまくし立てた老人は少し落ち着きを取り戻すと、窓の外をむいて両手を広げた。
 
「これから落ちてくるヒトの為に。少しずつこの世界で増えていくヒトの為に。私の後に生まれてくるヒトの為に。奴隷ではなく自由
に生きる権利と資格を私は作りたい。これ以上この世界でヒトが理不尽に抑圧されないように。不用意にヒトの権利を踏みつければど
うなるかをバカな連中によく教育してやりたい・・・・」
 
 
                             ◇◆◇
 
 
「あら、気が付いたら話しが脱線してました。ごめんなさいね」
 
 笑いながらアリス夫人は話を続けていた。
 しかし、それを笑って聞く者はそこにはいなかった。
 ヒトの老人が示したあまりに強烈なヒトとしての意地。
 その意味をリサもタダも、そしてオオカミたちも黙って聞いていた。
 
「結局な・・・・・」
 
 ポール公が口を開き何かを言おうとしたところだったが、良いタイミングでヨシがドアを開け部屋に戻ってきた。
 
「遅くなりました。御館様、コウゼイ様にご注文のリングが届いています。それと・・・・あれ?」
 
 ちょっと不思議な雰囲気だった食堂の空気をヨシは読み取った。
 目をパチパチしながらポール公を見るのだが・・・・。
 
「お前宛の物も届いたか?」
「はい、受け取りました。各種の弾丸を1パレット拝領しました」
「そうか、それは良かった。今年の春季演習までに十分な射撃訓練ができるな。ヨシ、そろそろ追いつけよ」
 
 ポール公はまるで父親が息子に語りかけるように話をする。
 隣で聞いているアリス夫人は、その口調がまるでマサミのようだと思った。
 
「はい、父に追いつきます」
「うむ・・・・マサミはカナの手錠の鎖を射抜いた。そうだな、リサにかぼちゃを持たせて真ん中を打ち抜け。それ位してマサミ級だ」
 
 驚くような事を平然と言うポール公だが、リサは動じずに言う。
 
「御館様。かぼちゃを両手で持てば私も打ち抜かれてしまいます。でも、片手では重いです」
「そうか・・・・。ならばりんごを持ってもらうか!ハッハッハ!」
「外れたら大事ですね」
 
 リサはニコッと笑ってヨシを見た。
 
「もし外れたらちゃんと一撃で死にきるように撃ってね。痛いの嫌だから」
「う~ん・・・・。御館様、りんごじゃ無理です。せめてスイカ位にしてください」
 
 笑って応えるヨシの顔は笑いつつも半分は引きつっていた。
 
「ヨシは聞いた事があるだろうが・・・・。マサミはその巨大な銃を持ち帰り、古い紅朱館の前でそいつをぶっ放した事がある。アリスが
言うとおり、カナを奪回するべく賊の一団がやって来てな、俺は少ない手勢で迎え撃ったのだが、相手が一枚上手でな。結局カナを連
れ去られて往生したよ。で、そこにマサミが戻ってきて大活躍って・・・・。ご都合主義の冒険活劇みたいだったが、でも、あの時に見せ
たマサミの男っぷりはまぁなんだ・・・・」
 
 アリス婦人に視線を持っていくポール公の顔は、何とも言えない愉悦感に満ち溢れている。
 そして、話を振られたアリス夫人もまた、とても良い表情だ。
 
「男が惚れる良い男とでも言うんだろうかね。うん、そうだ、あの時のマサミは・・・・」
「あなたより格好よかったわよ。さすが、私の惚れ込んだヒトだけの事はあるって思ったわ」
「手厳しい意見だが、致し方あるまい。なんせ、あのカナの夫なのだ。それ位しなければ釣り合うまい」
「あの時のカナは・・・・ね。スキャッパーを救った女神になったわけだし」
 
 アリス夫人とポール公の会話は中身を知らない者には全く意味不明だった。
 だが、二人の表情から見えるものは、マサミとカナの物語が下手なお芝居などでは太刀打ちできないと言う事なのだろう。
 
「あの時、酋長殿がオオカミの一団を連れて来てくれねば、スキャッパーはすべて焼け野原だったな。改めて礼を申し上げる」
「いやいや、なにをなにを。マサミ殿の献身的な努力に感謝を示したまでの事。オオカミもまた義理堅いのですじゃ」
 
 まるで夕食時のように話の途切れない食堂だったが、アリス夫人は壁の時計を見て言った。
 
「さぁ、続きはお茶会のおしゃべりにしましょう。マリア、早く用を済ませなさいね。はい、朝食はお開き」
「うむ、そうだな。ヨシ、銃火器を出して整備しておけよ」
「承りました」
 
 食事を終えポール公やアリス夫人が席を立つと、若いイヌのメイドたちが食堂へ入ってきて後片付けを始める。
 ここしばらく、そのスタッフ達に指示を出し統制を取るのはタダの役目になっている。
 やがて、マリアと共にラウィックへ行くタダの執事修行。
 アリス夫人は離れたところから寂しそうな笑顔でそれを見守っていた。
 
 ――ごめんねカナ、あなたの子を他所の家に手放さないとダメなの・・・・
 ――でも、マリアはきっと大事にするわよ。だって、そう言う風に育てたから。心配しないで・・・・
 
 テキパキと指示を出し自らも動くタダに、横からそっと口を挟むヨシとリサ。
 アリス夫人はそれが遠き日のマサミとカナに見えていた。
 
 
 
 
 
 お昼前の執事公室。
 ヨシは領主夫妻が行う午前中の課業補助を妻リサに任せ、父の匂いが残るこの部屋で遺品とも言うべき銃火器の整備をしていた。
 
 幾度も話に聞いたルパカヤンの人物が生前の父マサミへと託した大型の軍用自動小銃は、スペアを含め2丁ある。
 200m圏内であればその命中率85%に達し、その能力は会敵距離100mの場合だとトラなどの獣人兵士でも十分な威力を発揮する。
 ローラーロッキングのボルトを開けて綿棒とピンセットを使い入念に清掃を施せば、焼鉄色の機関部から残った硝煙が香るようだ。
 
 ヨシが次に手を伸ばしたのは、ロッソム騒乱と呼ばれる騒動の最中にマサミが鹵獲したマウザーの狙撃銃。
 相当古い銃なのだがヨシは詳細を聞かなかったし、マサミも教えなかった。
 ただ、その命中精度は驚くほどで、針の穴を通すような射撃ならばこの銃の右に出るものはこの世界には無いのではと思えた。
 銃身に巻いた帆布を巻きなおし、銃身の中を掃除しながらスコープのガラスを綺麗に磨けば、この銃だけが持つ涼やかな殺意の如き
冷たい雰囲気が倍増されたかのような錯覚に陥る。
 
 そして、父が遺していった最大の銃火器。
 バレットM82、軍用大型対物狙撃銃。
 
「こんな巨大な銃でよく当たるよなぁ・・・・」
 
 ボソッと本音をこぼしたヨシだったが、実際の愚痴は別のところにある。
 分解したとは言え、各部の重量は恐ろしいほどで、銃身一本ですら両手でしっかりと支えなければならないずっしり感があった。
 当然、落としたとなれば亀裂が入るなど一大事になりかねない。
 
 まだヨシの幼い頃。
 父マサミの行う銃火器の分解整備を隣でジッと見ているのが好きだった。
 綿密に清掃しながら正確に組み立てて行くマサミが、まるで独り言のように話をするヒトの世界の様々なエピソードを聞くのは、学
校で学ぶどんな授業より楽しかった。
 この世界やヒトの世界の様々な事柄について、一つ一つ丁寧に、ものの見方から教えて行くマサミの声が大好きだった。
 
 そして、ヒトの世界の政治の話し。ヒト同士が殺しあう救いの無い世界の恐ろしい話し。
 そこに存在するのは国家と言う名の巨大な猛獣だった。
 
 父マサミはいつも決まって最後にこう言った。
 
 ――生き物同士が争うのは仕方が無い。でも殺し合いまで行かないようにしないとダメだ。
 ――物事を解決するのに銃は必要ないし、命を落とす必要も無い。ただ、時には誇りを懸けて戦わなければならない。
 ――ヒトの世界では古くからこう言うのだ。命を惜しむな、名を惜しめ・・・・と。
 ――ヒトの誇りを懸けて戦え。そして、必ず勝つんだ。勝たなければ命をかける意味は無い。
 ――でもな、戦わずに済むなら、それに越した事は無いんだ・・・・。
 
 とんでもない太さの銃身から発車される弾丸の威力は、およそ1キロ先に立つ大型の獣人ですら一撃で屠る威力らしい。
 銃火器の整備と射撃について厳しく練習をさせられたヨシだが、この銃だけは最後の最後まで撃たせてくれなかった。
 それだけ・・・・恐ろしい兵器なんだと、ヨシは漠然と思っていた。
 
 そして、父マサミの体が衰え、もはやこの銃を持ち上げるのが難しくなった日。
 ヨシは初めてこの銃を撃った。
 
「ヨシ、銃身は丁寧に扱えよ」
 
 口から心臓が飛び出るほどビックリしたヨシの振り返った先。
 何食わぬ顔で立っていたのはポール公だった。
 
「御館様。どうかされましたか?」
「いや、ちゃんと整備してるか監督に来た」
「そうですか」
 
 苦笑しつつ作業を続行するヨシのそばに座り、ポール公は作業を見守っている。
 軽やかに動くヨシの指先が、かつてこの場で銃火器を整備していたマサミのように思えていた。
 
「これはもうスペアが無い銃だ。大事に扱えよ」
「はい。でも、スペアが無いのはあっちのも一緒ですね」
 
 ヨシが指差した先。
 壁に据付の鍵付き銃火器金庫に納まる自動小銃G3A3は、整備を終えて鈍く光沢を放ち、涼やかにそこにあった。
 
「この世界では作れない精密加工品だからな。マサミが何度か挑戦したが、結局作れなんだ・・・・」
「そうなんですか」
「でもな、マサミはこうも言っていた。これを量産できてしまうと世界のバランスが狂うから、むしろ出来ない方が良い。とな」
「バランス・・・・ですか。でも、父の言いたい事を何となく理解出来ます。これが沢山あったら戦争三昧ですね、きっと」
「あぁ、そうだな。無駄な死を重ねるだろう。まぁ、これはスロゥチャイムのジョーカーだよ。ハッハッハ!」
 
 マサミが残した手書きのマニュアルに従い、分解清掃を施したバレットを組み立てて行く。
 各部の組み立て精度を上げる為に何度もねじを緩めては絞める作業を繰り返し、照準軸線からズレが無いよう組み上げた。
 マサミがあちこちに書き加えた注釈は事細かに記されていて、そんな字を追いながら几帳面だった父をヨシは思い出す。
 
「この銃で父はどれ位撃ったんでしょうか」
「そうだな・・・・100発や200発は軽く撃っているだろうな。でも、本当に殺す気で撃ったのは・・・・」
 
 ポール公はヨシの手から組みあがったバレットを持ち上げ、壁のシミあたりに狙いを定める。
 筋力に余裕がある獣人のポール公とて扱いに困るその重量だが、格好よくグッと構えて引き金を引き絞るのだった。
 
「たぶん20発程度だろう。なんせ、練習熱心な男だったからな」
「父はいつも言っていました。練習で出来ない事は本番では絶対に出来ないって」
 
 ウンウンと頷きながら銃を抱えるポール公を横目に、ヨシはベレッタのマガジンに弾丸を詰め始めた。
 6本のマガジン全てに装填し、鍵付きの引き出しへ本体と並べ納めると、首から提げた鍵を取り出して厳重に施錠する。
 
「20発しか撃った事が無くて、それで母の手錠の鎖まで打ち抜いたんですか・・・・、やっぱり凄いな」
「あぁ、アレは本当に凄かった・・・・でも、鎖を打ち抜いたのはあっちの小さいほうだ」
「バレットじゃないんですか?」
「これで撃っていたらカナも木っ端微塵だったな」
 
 ポール公からバレットを受け取り金庫に納めたヨシはこっちにも施錠する。
 整備道具を片付けテーブルを綺麗にすれば、まるで金属作業場だった執事公室がヒトの生活空間に戻ったようだ。
 
「かつてこの部屋でマサミと何度も話をしたのだが・・・・、マサミが最後まで俺に教えてくれなかった事が一つ有る」
「それはなんですか?」
「上手く当てるコツだよ」
「コツですか?」
「あぁ、俺は銃の射撃は下手でな。剣で切りあう方が楽な方だ。だから、従軍したマサミは俺を後方から支援してくれた」
「父も従軍したのですか」
「あぁ、一度だけな。もっとも、従軍したのはこのスキャッパー地域だけだが」
 
 まるで親子のような会話をしていたポール公とヨシだったが、そこへ2人分のランチパックを持ったリサが部屋に入ってきた。
 
「ねぇ、お昼にしよう! ・・・・って、あ!御館様、すいません!」
 
 紅朱舘の昼食は各自が適当にランチとするシステムになっている。
 まかない食堂のキッチンで作られる本日の昼食はサンドイッチだったり握り飯だったりするのだが、それをどこで誰と食べるかは各
自の裁量に任されていた。
 
「あぁ、気にするな。俺がヨシの邪魔をしていただけだ。夫婦水入らずだな。邪魔者は消えるよ」
「決してそんな事は・・・・」
 
 リサは小さくなりつつ赤くなった。
 
「今、御館様の分も・・・・」
「それには及ばんよ。ほれ」
 
 ポール公が笑いながら指差した先、アリス夫人が執事公室へやってきた。
 
「多分ここだと思ったわ。はい、あなたの分」
「おぉ、すまんな」
 
 ランチパックを受け取ったポール公が蓋を開ける隣。
 ヨシは直立不動になっていた。
 
「奥様、大変申し訳有りません」
「なにが?」
「いえ、ランチの手配が・・・・」
 
 あはは!と笑うアリス夫人はパックの中のジュースを飲みながらヨシを見る。
 
「お昼は勝手に食べなさいって決めたでしょ。気にしなくて良いわよ。それより、整備は終ったの?」
「はい、ただ今滞り無く」
「そう、じゃぁお昼にしなさい」
「はい」
 
 リサの隣に座り蓋を開けるヨシ。リサがヨシのカップにリンゴのジュースを注いだ。
 
「なぁアリス、この部屋に俺たちがいるものどうかと思うぞ」
「確かにそうね。あの二人が普通の夫婦に戻れる唯一の部屋だったしね」
 
 そんな会話をしつつサンドイッチを頬張るポール公を横目に、アリス夫人はジッとリサを見ている。
 スロゥチャイム夫妻の真向かい。ヨシとリサの背後の壁にはマサミ夫妻の大きな肖像画があった。
 
「リサ。あなたもその服が似合うわね」
「え?あの・・・・そうですか?」
「うん。良く似合う」
 
 アリス夫人の優しい眼差しが何を見つめているのか、ポール公も何となく理解した。
 
「その緋色の服にヨシはカナを見ているんだろ?」
 
 大きな肖像画の中のカナと同じ服の色。
 ヨシは壁の絵を見てからリサを見た。
 
「あ・・・・言われて見るとそうですね。私も今気が付きました。母さんの色だ」
 
 カナが普段着るようになった濃い緋色のメイド服。
 スロゥチャイム家の赤耀種と同じような色の服だ。
 その服の袖を通すメイドと言えば、ここでは婦長を意味する。
 ふんわりと広がったワンピースの裾から見えるセミブーツまでもが赤系でそろえられていた。
 
「この色の服はお母様が着てらした物ですよね」
「そうね。キックが見立ててカナが袖を通して以来、婦長の証ね」
「私は余り記憶に残っていませんが、それでもテキパキと働くお母様を覚えています」
 
 幼くしてスロゥチャイム夫妻に拾われたリサ。
 その記憶に出てくるカナといえば、いつも巨大な紅朱館の中を歩き回りせっせと働く姿だった。
 
「カナは早くに死んじゃったから・・・・、あれから婦長はキックだったわね」
「そうですね、私にはどちらかといえばその方が」
 
 アリス夫人の何気ない一言にヨシは寂しそうな笑いを浮かべた。
 まだまだ甘えたい時期に母を失った衝撃は計り知れないのだろう。
 気の回らぬ失言をしたとアリス夫人は思ったが、すかさずフォローを入れるのは人生経験のなせる業だろうか。
 
「あなたも早く一人前になりなさい。ヨシ君のサポートしてね」
「はい!」
 
 おそらく、リサはその言葉の意味を分かっていない。ヨシも分かっていない。
 アリス夫人の言葉を正確に理解したのはポール公だけだろう。
 
「リサ。婦長の覚悟と嫁の覚悟は良く似ているが微妙に違う」
「そうなんですか・・・・ まだ勉強が足り無いようです。申し訳ありません」
「しかし、その背負う物はあまり変わらん。まぁ・・・・なんだ。もうずいぶん前の話だがな・・・・
 
 
***********************************************************2***********************************************************
 
 
 カナを壊しかけた翌朝。
 ポールはどうやってカナを起そうか思案に暮れていた。
 前夜の様子から言って、カナはフロミアで相当手荒な扱いを受けていたはずだ。
 ポールが部屋へ行けば、再びトラウマを呼び起こすかもしれない。
 かといって、様子が心配なので見に行きたい。
 所在無げに夜明け前の部屋をウロウロするポール。
 その足音に気が付いたメルは、キックを連れて部屋へとやってきた。
 
「ポール様。どうかされたのでしょうか?」
 
 ポールはありのままに話した。隠し事をしても仕方が無いと思った。
 それに、信用信頼と言うものは包み隠さぬ姿勢こそが重要であると思っていた。
 
「私が部屋へと行きます。きっと、何も出来ないって負い目があると思うんです」
 
 キックはそう言うと、自分の部屋から持ってきたメイド服とエプロンのスペアを見せた。
 メルは不安そうな表情だったが、思案しても仕方が無いと思い始めている。
 
「マサミ様が居れば良いのですが・・・・」
「うむ、確かにそうだが。しかし、そうも言っていられない部分もある」
 
 皆で思案投げ首の部屋の中。
 やっと効いてきた暖房用の薪ストーブがゴーゴーと音を立てて燃え上がっていた。
 
「皆様、おはようございます。何かあったのですか?」
 
 部屋の中の者がビックリして振り返った先。
 ベットガウンを羽織ったカナが立っていた。
 
「あぁ、カナ・・・・おはよう」
「おはようございますポール様。昨夜はありがとうございました」
「いや・・・・そういわれると、俺も・・・・、なんだその、つまり・・・・困る」
「そんな事は・・・・ 私、自分の立場を思い出しました。何も出来ない厄介者です、ご迷惑をおかけします」
「カナ・・・・」
 
 ポールは返す言葉を失って息を呑むしかない。
 キックもメルも何を言って良いのか分からなくなっていた。
 
「私、見えないなりに頑張りますので、どうかお側に置かせてください。夫と共に何か役に立てるよう頑張りますので、どうか」
「カナ・・・・あぁ、分かった。そうしよう。とりあえず着替えるんだ」
「仰せのままに、ご主人様」
「カナ、俺の事は名前で呼べ。これは命令だ」
 
 ポールは少し強い口調でそう言った。
 軍人らしいはっきりとした口調の言葉だ。
 
「仰せのままに、ポール様」
「うむ、それでよい。キック、すまんがカナに服を着せろ。動きやすい服だ」
「はい、ポール様。カナさん、こっちへ」
「キック様、すいません」
 
 全てに遜る姿勢のカナ。それは奴隷としての立場と言う意味なんだろうか?
 そう思ったメルはカナの手をとり、その手に自分の手を重ねた。
 
「カナさん。私の手が分かる?もうずいぶん働いた手です。この手は仕事を知っています。苦労を知っています。でも、あなたはそれ
を知らない。だから同じ仕事は出来ないの」
「はい、申し訳ありませんメル様」
「でもね。あなたは執事の妻です。私達がマサミ様と呼ぶ執事の妻です。このスキャッパーを良くしようと朝から晩まで走り続けるあ
のヒトの執事の妻なのです。そうでしょ?」
「はい・・・・」
「だからね・・・・」
 
 メルは重ねたカナの手を取って自分の頭に乗せた。
 
「あなたが私達に命じなさい。あなたは執事の妻、それゆえにあなたは婦長です。この小さな御屋敷に奉公するメイド達の責任者なの
よ、わかる? ここが、スキャッパーが、イヌの国が良くなるようにマサミ様が頑張ってるなら、それの補助を出来るのはあなただけ
なんですよ。だから、目が見えなくても、何をすれば良いか分かるんだから、あなたが私達に命じなさい。あなたの手足になるように
私やキックが動くから。キック、そうよね?」
 
 メルが急に話しを振った先。
 キックはビックリしつつも、メルやカイト老がカナの手助けをしなかった理由をやっと理解した。
 
「もちろんです。マサミ様がいつも何かを考えてられるとき、私達は何して良いか分からないんです。だから、カナさん・・・・、いえ、
違いますね。カナ様、私達に指示を出して欲しいんです。私はマサミ様に拾われてここで暖かく生きていけるようになったんです。だ
から、その恩返しと言うわけじゃないですが、私も出来るだけマサミ様の役に立ちたいんです」
 
 キックがたどたどしく言う言葉を聴いてカナは涙を浮かべている。
 メルはそんなカナに畳み掛けるように言葉を続けた。
 
「カナさん。あなたにしか出来ない事があるって理解してね。あなたは奴隷じゃないの。ご主人様に伽を立てるだけの遊び道具じゃな
いの。あなたが頑張らないとマサミ様が潰れてしまうでしょ。だからね」
 
 メルは頭に乗せていたカナの手を握り、その甲にキスした。
 
「あなたはアリス様とポール様の家、スロゥチャイム公爵家の婦長。私とキックはスロゥチャイム家の召使であなたの部下よ。それゆ
え、あなたが様付けで私たちを呼ぶのは筋違いなの。様付けするのは私達の側なの。そうでしょ、婦長様」
 
 静かに語るメルの背中越し。
 山並みの向こうから強い日差しが差し込み、紅朱館に今日も朝がやってきた。
 茜に染まる朝焼けのその中に輝く太陽が姿を現す。
 その力強い輝きがカナの弱い視力ですら、メルをシルエットとして見せるのだった
 
「見えます。メルさんの姿がシルエットで見えます・・・・見えるんです・・・・」
「そう、それは良かったわ。次は私の顔まで見えるようになってくださいね」
「婦長様、私も見てくださいね」
「ありがとうございます・・・・」
 
 涙を流すカナがポールを見る。
 ポールが思わずもらい泣きしそうになっているのをキックは始めて見た。
 案外、涙もろい人物なんだ・・・・ とメルも思っていた。
 
「ポール様。このような言葉をいただきましたが、どのようにしたら良いでしょうか」
「・・・・・・・・カナ、スロゥチャイム家の婦長を命ずる。領主アリスが拒否しない限り、俺の命は有効だ。スロゥチャイムを頼む」
「メルさん、キックさん。未熟者ですが頑張りますので、どうか私を支えてください。よろしくお願いします。あと・・・・」
 
 カナは涙を流したまま笑顔を浮かべた。
 
「婦長様はどうかやめてください。カナと呼んでいただければ良いですから。どうか、お願いします」
 
 メルは笑顔でキックと顔を見合わせた。
 
「そうね、カナさん。これからも宜しくね」
「カナさん、早速着替えましょうよ。私が御手伝いしますから!」
 
 キックかカナの手を取り部屋を出ようとした先。
 入り口にはカイト老が立っていた。
 
「ほっほっほ。カナさんも丸く収まりましたな。ますますこの年寄りの仕事が無くなっていきますが・・・・、坊ちゃま、そろそろこの年
寄りにも暇を」
「おいおいカイト。この歳で坊ちゃまもあるまい」
「何をおっしゃいますか。すっかり年寄りになってしまいましたが・・・・15の時からレオン家に奉公してもう250年ですぞ。先代ニール
公、先々代ルーム公と合わせ3世代を見てまいりました。マサミ殿、カナさんが坊ちゃまを支えてくださるでしょう」
 
 ポールが生まれたばかりの頃から知っているカイト老だ。
 笑って言うのだが、その中身は結構鋭い物がある。
 しかし、ポールは事も無げに言葉を返す。
 
「カイト。まだ役目はあるぞ、俺の子にレオンのしきたりを教えてくれ。そうしないとレオンを再興できんからな」
 
 やはり、長年の関係で築いた関係は磐石なのだろう。
 
「相変わらず坊ちゃまは人使いが荒いですなぁ・・・・ほっほっほ。さて、カナさん。いやカナ婦長。しっかり奉公してくだされ」
「はい、承りました。キックさん、手伝ってください」
「はい、婦長様♪」
「キックさん!」
 
 笑いながら部屋を出て行くキックとカナ。
 その後姿をポールは見ていた。
 
「カイト。これで良いんだろうか?」
「坊ちゃま・・・・いや、ポール様。自信をお持ちください。それで良いのです」
「うん・・・・。そうだと良いのだが・・・・」
 
 
 キックの手伝いで着替えてきたカナが最初に向かったのはキッチンだった。
 外の明かりが入る早朝の時間帯はカナの僅かな視力でも物が何とか見えるようで、あれこれ手を動かし物の配置や道具のレイアウト
を頭に入れていた。
 
「なにか料理できれば良いのですが、なかなか難しいですね」
「不用意に刃物を持てば怪我をします。監督してくれればなんでも言われたとおりやりますよ」
 
 キックとメルの二人と話をしながらキッチンで動くカナ。
 その表情が本当に楽しそうに見えるのは、心の重荷が少しでも軽くなったからだろうか。
 あれこれ指示を出しながら野菜のスープを作る3人を見ていたポールのところにカイト老が来た。
 
「ポール様。ちょっと気がかりな事が」
「どうした」
 
 カイト老の視線がちらりとカナを見る。
 もっとも、カナは視線が向けられた事ですら気が付かないのだが・・・・
 
「今朝方より市街地で見慣れぬカモシカの男達が動き回っています。恐らくカナさんではないかと」
「カモシカ・・・・ 狙いは何だと思うか?まさか」
「その、まさかでしょうな。間違いないと思います」
「どうするか・・・・クソ!こんな時に・・・・」
 
 カモシカの男達がやってきた。推定される理由にポールは頭痛がする思いだった。
 この地域から出征した兵士達はまだ殆どが北伐の戦線に残っていて、城下の軍役にある兵士は所定の2割程しかいなかった。
 
 だからといって、そう簡単に事を運ばれてたまるか・・・・
 ポールは冷静に段取りと作戦を考え始めているのだが。
 
「フェルディナンド様に繋ぎましょうか」
「うむ、そうだな。至急そうしてくれ。城下の予備役を招集し、場合によっては撃って出る。実包を装填させろ」
「はい、かしこまりました」
「それから、普段どおりカナはレーベンハイトに預ける。護衛を付けろ。3人一組で3組は要るな。あと特殊作戦軍を使う」
「・・・・・・・・坊ちゃま。機動魔法戦ですか?」
 
 スープ皿に出来上がったスープを注ぐカナの笑い声が聞こえる。
 こんなに楽しそうにしているカナをポールは始めてみた。
 
「俺は・・・・ あの笑顔を失いたくは無い。それに、失ったらマサミに申し開きが出来ない。完全殲滅戦だ。すぐにとりかかれ」
「分かりました。大至急集めます」
 
 あぁ、良い匂いだ、出来上がりましたな・・・・
 そんな声を残してカイト老は駐屯地へ歩いていった。
 入れ替わりでカナが入ってくる。
 
「ポール様。お口に合いますかどうか・・・・。私と夫が育った国の伝統食です」
「いや、上手そうな匂いだ。これは何て言うんだ?」
「はい。けんちん汁です。温まります」
「うむ、早速食べよう。メル、キック。早く用意しろ」
「はい!」
 
 視力の弱いカナ以外、その場の皆が異様に引き攣った笑顔のポールに気が付いていた。
 僅かに首を振りメルとキックに沈黙を促したポールは一口スープをすすり笑った。
 
「カナ。これは美味いな!」
「ポール様。どうかされたのですか?」
「ん?カナ・・・・」
「お声が緊張されています。あと、いつもより呼吸が深いです」
 
 カナの顔をじっと見るポールだったが、カナの次の一言は予想外だった。
 
「なにか危険が迫っているのでしょうか?何となく・・・・虫の知らせですね」
「カナ・・・・。凄いな。何もかもお見通しと言うわけか」
「目が見えない分、そのほかの事に敏感になっているのでしょう」
「うむ・・・・実はな・・・・」
 
 一つ深呼吸したポールは意を決したように口を開く。
 
「今朝方よりロッソム全域で見慣れぬ者が居ると報告があった。カナ、念のためお前に護衛を付ける。日中はレーベンハイトのオフィ
スから出歩くな。それと、何かあったらとにかく逃げろ。逃げてここへ来て釜戸の中でも風呂の中でも隠れるんだ」
 
 自分の作ったけんちん汁を啜るカナは見えない視線をポールに向けて笑う。
 その笑顔は悲壮なまでの清々しさがあった。
 
「ポール様。婦長を仰せつかった以上は私もここの一員です。隠れるなら、何か役に立つ事を」
「うむ、ならばカナ。出来る限り生き残り、そして指示を出し続ける役目を命ずる。よいな」
「それは・・・・」
「命令に対する反論は認めない。軍隊とはそう言うところだ。必ず生き残ってマサミを待て」
「・・・・はい、仰せのままに」
 
 そのまま黙って食事を続けたポールとカナ。
 玄関へカナを迎えにやってきたレーベンハイトをポールは呼び止めた。
 
「ポール公。御用ですかな」
「うむ、今朝がたより・・・・」
「カモシカの男達ですな」
 
 ポールは腹のそこで唸った。
 
「この街の者ではないカモシカが紛れ込んでおります。今朝方の散歩で尾行を受けましたので巻いておきました。おそらくカナさんを
奪回しに来たのでしょう。聊か・・・・物騒ですな」
 
 笑いながら平然とそう言ってのけるレーベンハイト。
 予想外と言うより想定外の『出来る』ネコの様だ。
 有る意味で、スキャッパーにネコの間者を招きいれたに等しい部分があると思った。
 
「おぬし、軍隊経験者か?」
「軍隊では有りませんが・・・・まぁ・・・・ 生まれたときから医者ではなかったと言う事ですな」
「・・・・あぁ、そう言う事か。よろしい。夕方までカナを預かれ。護衛を付けるのでお前もオフィスから出歩くな」
「承りました。さて、そう言う事でしたらカナさん。今日はそのままの格好で結構です。それに、その服はとても似合っている」
 
 リコの褒めたカナの衣装。キックが用意した服は紺ではなく漆黒のメイド服。
 純白のエプロンを掛け、ふんわり裾の広がったワンピースの裾を気にするカナ。
 編み上げのセミブーツを履く足元がちらりと見えている。
 
「そう言えばさっきから気になっていたのですが、私が来ている服とキックさんの服は色が違いませんか?」
「えぇ、そうです、色が違います。私のは紺ですがカナさんは真っ黒です。マサミ様の上着の色と一緒です」
「でも・・・・ 何故ですか?」
「だって、カナさんは婦長様ですから、同じ服ですと・・・・ね」
 
 そう言ってキックは笑った。
 どんな深刻な状況でもニコリと笑えるキックは場を和ませる存在だ。
 自ずとその場の緊張が解れ、雰囲気が良くなるのは自明の理だろう。
 
「でも、エプロンが白でワンピースが黒だと、目立ちますよね・・・・」
「目立たなきゃ駄目ですよ。カナさんに万が一に事があっても、目立てばすぐに追いかけられますしね」
 
 キックの際どい一言でカナはちょっと緊張の色が強くなった。
 自分を奪い返しに来る事の意味を何より良く分かっているのはカナ自身だから。
 
「さて、カナさん。行きましょうかね。出来る限り普段通りにしましょう。ただし、何かあったらすぐに手術室へ駆け込み内側から鍵
を掛けてください」
「はい、わかりました」
 
 レーベンハイトとカナが歩き始める頃になって黒曜種や輝金種、灰色の毛に覆われた寒白種のイヌの兵士が揃った。
 皆、普段着のような格好をしているが、上着の中には短剣や小弓で武装している。
 そして、皆一様に左手へはめた色とりどりの魔法環。
 
「カナ。レーベンハイトも聞け。イヌの国軍の魔道部隊兵士だ。何かあったらこの男達を盾にしろ。いいな」
「でも、盾ですと、この方々がお怪我をされてしまいます」
「大丈夫だ、少々撃たれても切られても、こいつらは死なないよ。そう作ってある。そうだな」
 
 居並ぶイヌの大男達は笑ってうなずいた。
 
「カナ様ですね、お話しは承っております。我々にお任せください。ご安心を。では軍団長殿、お気をつけて」
「うむ、頼んだぞ」
 
 
                             ◇◆◇
 
 
 ランチのパンを食べ終えてジュースも飲みつくしたヨシとリサだったが、ポール公の話はとどまるところ知らなかった。
 
「そろそろお茶会の支度しないと間に合わないわ。ポール、続きは今度ね」
「おっと、そうだな。もうこんな時間か、いかんいかん。ヨシ、リサ。ちゃんとアイロンを掛けて来い。良いな」
「でも、一つだけ。母さんの服は赤でした。何で最初は黒だったんですか?」
「・・・・まぁ、なんだ。それにも色々とドラマがあるんだが・・・・。続きは今度だな」
 
 ポール公は意味深な笑顔を残しアリス夫人と共に執事公室を出て行った。
 リサはそそくさとアイロン台を取り出し、部屋のスチームパイプをアイロンに引き入れて予熱している。
 
「ねぇ、Yシャツと一緒にズボンもアイロンしてあげようか」
「そうしてくれるとありがたいなぁ」
 
 ヨシは着ている服を脱ぎ始めYシャツとズボンをリサに渡した。
 リサがズボンの折り目を揃えアイロンの準備をしている間、ヨシはリサが掛けているエプロンの紐を引っ張り、ワンピースの背面に
あるチャックを下ろす。
 
「まだ駄目よ。支度中」
「平気だって。順番にいこうよ」
 
 後ろからエプロンを脱がし、ワンピースの肩を降ろしたところで、首もとにあったブローチが落ちかけた。
 
「あ!」
 
 リサの肩越しヨシが手を伸ばし手の中に納まったものの、勢いでリサの首筋にキスするヨシ。
 
「なぁ兄貴・・・・って・・・・ あっ・・・・ リサ姉さんも・・・・ 邪魔して・・・・ゴメン」
 
 偶然部屋のドアを開けたタダがそそくさと部屋のドアを閉めた。
 
「タダ君、絶対誤解してるよ・・・・」
「うん・・・・まずいね。でも、誤解されちゃうよなぁ」
 
 そう言いながらヨシはリサの首筋へもう一度キスした。
 
「アァ・・・・もう!だめよ・・・・。今夜ね」
「うん、そうだね。残念だけど・・・・」
 
 アイロン掛けしながら妙な雰囲気にモヤモヤしつつ、二人の不思議な新婚生活は進んでいった。
 
 
 
 
 
 紅朱館午後3時。
 大ホールでは深夜の酒宴に対する答礼として、オオカミの主催する午後のお茶会が開かれている。
 冬になる前に摘んでおいた滋養茶と深い森の奥にある香木を使ったパイの茶会。
 この日ばかりはヨシやリサやそれ以外の従僕たちですら、お客さんとして席についている。
 それは全て、オオカミの一族がマサミの献身的努力に報いるとするものだった。
 
 この日、アリス夫人の隣に座る長女マリアのその隣。
 タダとミサのカップルが卸したての服を着て座っている。
 やがてマリアと共に峠を越えて行く二人には初めてのお茶会・・・・
 
「タダ君、ミサ君。君達の主が許すなら、我々はこれを君達の主のもとへ届けようと思う」
「酋長様、お心遣いいただきありがとうございます」
 
 そう言って笑うタダはマリアに視線を送る。
 その意味するところを読み取れるかどうかは、主の力量次第と言ったところだろうか。
 マリアが山を越えて嫁入りすると決まった日から、アリスが熱心に、しかし、冷静にマリアへと伝えて言った事。
 それは、相手の心を読む力。
 
 遠い日。
 ルカパヤンでヒトの老人に教えられた、頂点に立つ者の矜持。
 配下に従えるもの達へ気を配り、そしてその心を読み取る力。
 アリス夫人が長年かけて体得したその一番重要な部分を、娘マリアに伝えていかないと・・・・
 
「酋長様、私の夫となる人が了解をしなければならない事ですが、それでも構いませんので是非送ってくださいませ」
「マリア君は平気なのかね?」
「えぇ、タダとミサ宛てにすると問題でしょうけど、私宛なら問題ありません。それに・・・・」
 
 マリアはタダとミサへ微笑みを返すと酋長の方へ改めて向き直り言う。
 
「こうなる事は最初から分かっていたんです。ですから、私の為に母が辛い決断をしてくれました。私と共に生まれ育った地を離れる
タダとミサにも、なにかしてあげたい・・・・そう思っています。身一つで嫁入りだと思っていましたけど、兄弟のように育ったヒトが二
人も付いて来てくれます。ラウィックは見知らぬ土地ではありません。でも、私はどうしたって余所者。だから、あの地で肉親と呼べ
る二人に私からの感謝を・・・・。ね、そうよね」
 
 にっこりと笑っているマリアだが、その瞳の表情だけは泣きそうだった。
 ミサはマリアの心の機微を敏感に読み取る事に長けている。
 それだけでなく、多くの人の心を正確に理解している。
 つまりそれは、人の顔色を伺う事に長けていると言う事なのだろう。
 
 この世界に生まれ程なく母を無くし、その顔を知る事も無く育ったミサにとってはアリスとカナが母親だった。
 どんなに公平に接したつもりでも、人の子と自分の子にはどうしても差が出てしまう・・・・。
 ミサは何となくそれを知っていたし、父たるヒロもまたそれを教えていた。
 だから、アリス夫人が自分の為にマリアを育てたと気が付いた時。
 その時からミサにとってマリアは主となったのかもしれない。
 
「マリア様のお心のままに。私はそのお心遣いだけで十分です。それ以上を望みません」
 
 ミサの言葉を聞くアリス夫人もポール公も、そしてヨシやリサや酋長達や・・・・
 やがて夫となるタダですらも、その言葉の意味の深さに心を震わせる。
 いつも控えめに立ち、ややもすれば、その存在が希薄に思えてしまう程のミサ。
 その理由をタダやヨシはよく分かっている。
 
「ヒトと言う生き物は・・・・本当に素晴らしいですな。ポール殿」
「あぁ、酋長殿の言われるとおりだ・・・・。マリア、背負う荷は重い。しかし、逃げず屈せず務めを果たせ」
「はい、父上」
 
 深い溜息を一つついてポール公は顔を上げた。
 
「タダ。お前もまた重き荷を背負うのだ」
「はい、心得ております」
 
 キッパリと答えるタダを見て、酋長は遠い日を思い出した。
 
「タダ君、そして、ヨシ君。君らの父親が遠い日、オオカミの里へヒトの世界の薬を届けてくれねば・・・・私はここでこうして君らと話
しをする事もなかっただろう・・・・」
 
「酋長様・・・・」
 
「-オオカミと踊る男-。私を含めてオオカミの里に住む者の総意として君らの父親にこの名を贈った。マサミ殿のおかげで我々は守
るべき聖地を奉戴すると同時に、麓のこの町へ降りゆき生活は大きく変わった。なにより、意識が変わった。オオカミはイヌと仲良く
やっていける。それを気が付かせてくれたのはそなた達の父親のおかげだ」
 
「酋長様の賛辞に父も喜んでいる事かと思います」
 
「・・・・あのヒトの男は本当にすばらしい存在だった。己の死を越えてなお先の世界へ思いを馳せ、その種をまいて水を与えていったの
だろう。そなた達のような次世代の芽がこの地に根付き、そして立派な花を咲かせる頃には・・・・オオカミもこの街へ降りているやも知
れぬな・・・・」
 
 遠い昔へと思いを馳せるように酋長は天井を見上げ目を閉じた。
 その脳裏に浮かぶものが何であるか。
 それを知るすべはヨシやミサたちには無い。
 
「自分の事を勘定に入れず、ただひたすらに自らが大切にする者の為に愚直なまでに尽くす姿勢。ヒトと言う種族の持つ自己犠牲の精
神。あの夜、君らの父親が見せたその姿は今でも我々の間では語り草になっているよ・・・・
 
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 酷い吹雪に巻かれ完全に視界を失った状態をホワイトアウトと言う・・・・
 1時間ほど前から同じ文言がマサミの脳内でリフレインしていた。
 
 無理を押して雪の峠に挑みオオカミの集落を目指したのは夕暮れ時。
 主アリスとユウジの二人を連れて馬で峠を越えたマサミは、そのままオオカミの里へ向けて出かけたのだった。
 暗くなる前に峠の頂点へと立てば、きっとオオカミの集落の明かりが見えるはず。
 そう思って進めるところまで馬で走ったマサミだったが、肝心の峠手前で雪が深くなり馬で進めなくなってしまった。
 雪に強い大きな蹄の雪馬とはいえ、これほど雪が深くては駄目だろう。もはや歩くしか方法は残されてない。
 マサミは覚悟を決めて馬から降りると荷物を馬に乗せ、手綱を引いて歩き始める。
 ドンドン明かりが失われていく時間帯。
 導く明かりもGPSの誘導も無い状態で僅かな除雪跡を頼りに峠へと挑んだのは、無謀以外の何者でもなかった。
 
「まずいな・・・・」
 
 あまりにリアルな死の恐怖が少しずつ精神を蝕むみ、強烈な寒気は少しずつ体力を削った。
 手足の感覚が失われ、もはや叩いても触っても弁慶の泣き所は何も感じなくなっている。
 小一時間歩いては立ち止まり、その場でジャンプしたり足の指を動かしたりして血行を促進してやるのだが、逆に言えば指先で冷え
切った血液が全身へと巡る事になり、体温を奪っていく行為でもあった。
 
 ヒトの世界であればシンサレートなどの機能性繊維を使って僅かな水分を熱に変える事も出来よう。
 使い捨てカイロや小さなストーブで暖を取る事も出来よう。
 しかし、この世界にはそんなものなど存在しない。
 
 僅かに有るといえば、紅朱館を出るときにポールが持たせた一度だけ体力を回復できる魔法を秘めた腕輪。
 そして、アリスが首に巻いていた少しずつ熱を発する魔法がエンチャントされたマフラー位のものだ。
 目を開けていられぬ程の吹雪が除雪されていたはずの道を埋めてしまう。
 雪原を踏んでその踏み応えで道を確かめながらマサミは歩いていた。
 
「本気でまずいな・・・・」
 
 時より強くなる吹雪がマサミを巻き込み、すでに山へと登っているのかそれとも沢へと降りているのか、それすら分からなくなり始
めていた。
 空の色は茜色から群青色へと変わり、早ければ15分でその色を完全に失うはずだ。
 僅かに見える高い山の尾根と記憶の情報を頼りに歩くものの、約10分毎のサイクルで吹き荒れる吹雪が視界を奪い、その都度に寒さ
に耐える姿勢をとる事も辛くなってきた。
 
「俺の人生はここまでなのか・・・・くそっ!」
 
 自らを奮い立たせ足を踏み出すものの、すでにその足を上げる事ですら苦痛になっている。
 筋肉が悲鳴をあげ、吸い込む息で肺が凍りそうな程に痛みを発している。
 長い毛の馬だけは元気一杯なのだが、ヒトの方がもはや限界だった。
 
「かな・・・・すまない・・・・俺、ここまでかもしれない・・・・」
 
 誰に語りかけるでもなくそう独り言を吐いてマサミは峠の方向を見た。
 酷い吹雪の隙間から一瞬だけ峠の鞍部が見えるのだけど、それですらまだまだかなりの距離を持っているように見えた。
 無意識に手を伸ばしたポールの腕輪。
 
 ――マサミ、これを使うときは片手でしっかり握り、そして反対の手で腕輪を叩き折れ・・・・
 ――傷を回復する事は出来ないが、疲労を回復し体力を戻す事が出来る・・・・
 ――忘れるなよ、傷を負う前に使うんだ。そうしなければ意味が無い・・・・
 
 ここで使っては・・・・
 オオカミの集落に着いてから使わないと駄目だ・・・・
 
 現状の窮地を乗り越える為にポケットの中をまさぐって取り出したのは・・・・ヒトの世界の100円ライター。
 どんな時でも一発で火を点けられるこの道具がどれ程便利なものなのか。
 この世界に落ちてきてマサミは何度も痛感している。
 
 荷物を雪の上に降ろし包みを解くと、マサミは薬の入っていたダンボールの箱を壊し雪を掘り始めた。
 15分も掘ればヒトがすっぽり納まる程度の穴となり、そこへと入ってダンボールに火をつける。
 マタギの男達がそうやって雪山で暖を取るシーンをテレビで見た事があり、それを真似てみたのだった。
 
「よしよし。案外暖かいもんだな・・・・」
 
 他に燃すものが無い状態であったが、それでもわずかに暖を取れたのは大きな福音だった。
 多少でも温まった空気を吸い込んで人心地をつけると、穴から這い出して木立の皮や雪で折れた枯れ枝を集める。
 僅かに燃え残っていたダンボールを種火に焚き火を始めると、火のありがたみと言うものをこれ以上無く実感するのだった。
 
 しかし、余りのんびりもしていられない部分があるのも事実だ。
 出際にキックが持たせてくれたパンをかじり腹に収めると、パンを包んでいた厚い紙袋ですらも火にくべた。
 
「さて、どうしたものか・・・・ 暗いとヤバイよなぁ・・・・」
 
 穴の外を見ればもはや暗闇しか見えないでいる。
 太めの枝の先端をナイフですだれ状に切り込み、そこへ火を移すとマサミは立ち上がった。
 
 穴の外は僅かな間に吹雪が収まりつつあるようだ。
 かなり回復した視界を頼りに歩き出す。
 膝ほどもある雪を蹴りながら歩くのは堪えるものだが、それでも歩かねば目的地へと達せ無いのだ。
 もはや命ある限り歩くしかなかった。
 
 暗闇の中、松明にした枝の明かりを頼りに進み、太め枯れ枝を見つけては火を移し変えてなお歩いた。
 冷え切り感覚の失われた足を松明で暖めて歩けたのも福音と言えよう。
 漆黒の闇で炎の明かりを得ると言うのは、心細さを紛らわす実に心強い援軍なのかもしれない。
 
 吹雪が収まりペースアップして2時間ほども歩いただろうか。
 峠の鞍部へと達したとき、マサミの視界に有り得ないものが飛び込んできた。
 
「嘘だろ・・・・まさか・・・・」
 
 峠から見たその光景を一言で言い表すなら『壮絶』だろう。
 オオカミの集落の西半分が炎に包まれ、その明かりを前に多くのオオカミが呆然と立ち尽くしていた。
 
 過日、マサミが教えた一族を救う最後の方法。
 ヒトの世界にあったペストから生き延びた街の話。
 まともな感染症対策の薬品が無い世界での・・・・最後の手段。
 
「そうか・・・・ 遅かったのか・・・・」
 
 がっくりと肩を落とし集落へと坂道を転がり落ちるように歩くマサミ。
 その姿に気が付いたオオカミたちが集落の外れまで歩み出てマサミを迎えた。
 
「執事さん!こんな吹雪の夜になんてことを!」
「私は大丈夫です、それより・・・」
「大丈夫なわけ無いだろ!」
「それより、まだ発症していない方も、症状が軽い方もこの薬を飲んでください。一人4錠ずつ大至急です、出来れば暖かいもので飲
んでください。急がないと被害が拡大・・・・」
 
 マサミを取り囲んだオオカミの視線が痛いほどだ。
 しかし、マサミは声を嗄らして説明を続ける。
 その説明をさえぎって声を発したのはオオカミの酋長だった。
 
「執事殿、大丈夫か?」
「えぇ、大丈夫です」
 
 酋長は振り返ると若いオオカミに何かを命じた。
 若いオオカミは近くの家に入ると鏡を持って戻ってきた。
 
「執事殿。自身の顔をよく見られよ」
 
 マサミが鏡を覗き込む先。
 自分の顔が真っ赤になっていて、鼻の頭や耳たぶなどは血色を失い白くなっていた。
 そして、唇の周りは見事な紫色になっている。見事なまでの凍傷一歩前状態。
 
「ハハハ、こりゃ良い顔をしてますね」
「執事殿、これを使うと良い」
 
 酋長は皮の袋から細長い瓶の様なものを取り出した。
 青く透き通る独特の形状をしたその容器には、何か液体のような物が入っている。
 
「これは?」
 
 酷く震える手で受け取ったマサミは近くでシゲシゲと眺める。
 気の抜けた状態が一番危ない訳で、気を張っているつもりなのだが、どうにも寒さに負けそうだった。
 
「エリクサーと言う魔法の薬じゃ。どれ程酷い怪我であっても必ず回復する魔法が込められている」
 
 エリクサー?あれか?RPGなんかで出てくる、あの強烈に効果の有る回復薬・・・・
 ホントかよ・・・・と言わんばかりの表情でマサミはその瓶を見る。
 
「・・・・良いのですか?これは大変貴重なものではないのですか?」
「その通り大変貴重なものじゃ。オオカミの里に残された最後の一本じゃよ」
「そのような貴重な物を私がいただくわけにはいきません。面倒とは思いますが風呂を沸かしていただければ結構です」
 
 キッパリと断わるマサミの言葉に酋長は驚いていた。
 このままでは凍傷となり指だけならず足までも切断しなければならない可能性がある。
 酷寒冷地に生きるものにとって凍傷は避けては通れない業病の一つだ。
 
 この集落に暮らすオオカミの祖先がなぜここへ住み着いたのか。
 それを今になって知る方法は無いし、彼らの間にもそれは伝承されてはいない。
 ただ、厳しい環境に生きてきた彼らには、凍傷は隣り合わせにある生活の一部だったのだろう。
 予防し対策を立てる手段が伝承されてきたように、事後策として昔から伝わる凍傷治療の最後の切り札。
 その最後の一本を酋長はオオカミではなくヒトに使うと決断した。
 
 それはマサミにとって返す事の出来ない大きな借りに思えていた。
 
「執事殿、このエリクサーは失われた体の機能ですら回復させてくれよう。しかし、失った体の部品を再生させる事までは出来ないの
じゃ。あなたの顔がその状態では足やその指はもっど酷い事になっているだろう。最悪、凍傷で切り落とさねばならなくなる」
 
 酋長は経験上それが避けられないと知っていた。
 酷寒冷地で普段から余り風呂に入る習慣の無い種族故かも知れない。
 外部から熱を入れ体組織が凍らぬようにする対抗策を知らないのかもしれない。
 
「やむを得ない事ですね。でも、ヒトの世界でも同じようなものは有ります。ヒトの世界ではお湯で揉んで凍傷を治します。ですから、
私は私の知識で・・・・・」
 
 マサミは薄っすらと笑みを浮かべそう言った。
 その昔、冬山登山で学んだ経験が生きていた。
 
「そんな事が・・・・本当に出来るのかね?」
「えぇ、ヒトの世界ではもっと寒い環境で生活している地域が有りますから」
 
 酋長の驚きはもっともだろう。
 体毛の無いヒトがもっと寒い場所でどうやって生きているのだろう?
 不思議そうな顔だったがしかし、ここでこのヒトの男に借りを作ったままでは・・・・
 
「執事殿、良く聞いてくだされ。あなたは我々一族の為に一命を賭してここへ来てくれた。そして、この魔法の薬を我々に無償で提供
し一族滅亡の危機を救ってくれた。我々は我がオオカミの血族全体の命をあなたに救ってもらった恩義が有る。だからこれを受け取っ
て欲しい。恩義には身を切ってでも報いよとオオカミの古い教えにはある。あなたの為にこれを使いたい」
 
「・・・・つまり、借りを作ったままでは困る。そう言うわけですね」
 
 酋長は静かに頷いて言った。
 
「太古の偉大なる魔道士ウィルケアルベルティが残した魔法の薬じゃ。この里に残されていたはずのレシピはもう無い。故に最後の一
本となったこれを我々は大事に守ってきた。だがな、我々のために命を削った執事殿の為とあれば、多くのものは納得しよう」
 
 燃え盛る炎の前に立つマサミは手に持った瓶を酋長へとつき返した。
 
「お気持ちだけありがたくいただきます。しかし、主の許し無くこのような貴重なものを頂くと後々になって私の主が困るかもしれま
せん。酋長様のご好意を踏みにじる訳ではありません。これは、イヌとオオカミの特殊な関係において、私の主がイヌの社会で糾弾さ
れる可能性がありますから・・・・、私はそれを警戒しているのです。大変申し訳ありません」
 
 酋長は深く溜息をつくと下を向いてしまった。
 
「マサミ殿。あなたは自分の体よりも主を大切にすると言われるのか?」
 
 マサミは酋長の言葉にゆっくりと頷いた。
 
「もちろんです。そして、今の私の主の下には私の妻もおります。主の身に何かがあれば、私は妻をも失う危険性がある・・・・」
 
 酋長の目を真っ直ぐに見据えてマサミははっきりとそう言った。
 あまりにも強い意志の主張。
 -太陽を讃える岩-オオカミの酋長は振り返り元気なオオカミを集めた。
 
「我が一族の窮地を救ってくれたヒトの男が風呂を所望している。大至急風呂をたてよ。熱く熱く湯を沸かすのだ」
 
 その場に集まっていたオオカミ達が一斉に自宅へと跳んで帰りそれぞれの釜戸で湯を沸かし始める。
 各家から一斉に火を焚く煙が上がり、まるでオオカミの集落全てが火事にでも見舞われたようだった。
 
「酋長様。この間にこの薬をまだ亡くなっていない方に飲ませてください。一度に4錠ずつゆっくりです」
「そうだな。執事殿は火の前から離れなさるな。これは・・・・私の仕事だ」
 
 酋長はマサミから薬を受け取るとその場を離れ歩いていった。
 決然たる意思を持って歩いていく酋長の背中をマサミは目で追う。
 悲壮感漂う背中が吸い込まれてていったのは・・・・集落の真ん中にある集会場だった。
 
「あの・・・・ヒトの執事様」
 
 ガタガタと震えながらも酋長を見ていたマサミに声を掛けたのは、大きな帽子を被った小柄な若いオオカミの娘だった。
 
「私に何か?」
「・・・・お召し物が濡れていては寒さが応えます。お着替えを」
 
 娘が持っていたのはオオカミの男達が来ている独特の民族衣装だった。
 藍染の深い色合いになった半纏状の綿入りシャツ。
 そして、その上から羽織る上着は深山フクロウの綿毛を詰めたダウン状の物。
 袴の様なデザインのズボンはパッと見ながらもジーンズの様なデニム生地に綿を詰めた物だった。
 
「・・・・実は寒くて凍えていました。お借りしても宜しいですか?」
「えぇ、どうぞ」
 
 震えていたマサミは感覚を失った足で立っていたものの、もう既に上手く力が入らず歩く事すら出来なかった。
 オオカミの娘が驚いて歩み寄ったところへマサミは寄り掛かり、そのまま倒れ込んでしまい娘に覆いかぶさる。
 驚く娘の両手に冷え切ったマサミの体温が伝わってきた・・・・
 
「執事様、大丈夫ですか?こんなに冷え切って・・・・」
 
 マサミは力なく笑って答えた。
 
「えぇ、大丈夫ですよ、暖めれば治ります。ヒトの体も案外丈夫なんです」
 
 どっこいしょ・・・・とばかりに起き上がろうとするものの、もはや体が動かなくなりつつあった。
 雪の上に何とか転がったマサミはポールから預かった腕輪を左手で握ると、胸の前に当てて右の手で叩いた。
 しかし、もうそれほどの力も残っていなかったようで、上手く砕くことが出来ないでいる。
 
「執事様!」
 
 娘が驚いて声を出すと、各家に入っていたオオカミが集まってきた。
 
「とにかく家の中へ運ぼう!」
 
 誰とも無くそう言う声が出て、マサミはオオカミの酋長の家へと運び込まれる。
 朦朧とする意識の中、沢山のオオカミがマサミに話かけるのだが、それに堪えるのすら億劫になっていて・・・・
 
「あぁ、眠い・・・・寒いと本当に眠くなるんだな・・・・」
 
 そう言うとマサミはウトウトし始めた。
 
「執事様眠っちゃだめ!」
 
 オオカミの娘や若い衆が冷え切ったマサミの服を脱がし、オオカミたちも服を脱いでマサミの体に抱きついた。
 前後を娘が挟み、その周りを厚い毛皮に覆われた男達が囲んだ・・・・
 
 朦朧とする意識の中、マサミの胸板に女の胸の感触が伝わる。
 
「かな・・・・どうしたんだ・・・・かな・・・・」
 
 コクリコクリと頭の揺れるマサミ。
 周囲の家から鍋やらヤカンやらに湯を沸かしたオオカミたちが集まり、小さな風呂桶程もある大鍋に湯を集めている。
 さすがに熱過ぎると見えて雪を投げ込み温度を下げるのだが、それでも50℃近い温度が有ると見え、もうもうと湯気が立っていた。
 
「執事殿を早く!」
 
 その場に戻ってきた酋長が促し下着まで剥ぎ取られたマサミが鍋に放り込まれた。
 
「・・・・うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!!!!!」
 
 朦朧としていたはずのマサミが絶叫する。
 氷のように冷たくなっていた筈の体が熱湯のような湯船に投げ込まれるのだ。
 「熱い」を通り越し「激痛」となってマサミに襲い掛かる。
 
「鍋の湯を足すのだ!急げ!」
 
 大鍋の中で悶え苦しむマサミを横目にオオカミは湯を足し続ける。
 やがて鍋から湯が溢れ始め、カマドの周りが水びだしになり始めた。
 少しずつ落ち着いてきたマサミは湯にもぐり顔を揉み解している。
 鼻の頭が激しく痛み、耳たぶはまるで火が付いたようだった。
 
「カマドに火を入れよ。下から暖める」
 
 酋長がそう指示すると、オオカミの男達が薪を集めカマドに火を入れた。
 巨大な五右衛門風呂となった鍋の中でマサミが煮られている。
 
「あぁ・・・・筋肉が痛い。関節も痛い。これはたまらないな・・・・」
 
 苦痛に顔を歪めつつもマサミの体に血色が戻ってきた。
 手足の指先がジリジリと痛み、背骨の関節は砂でも挟まったかのようにゴリゴリと言う感触を伝えていた。
 
「執事殿。大丈夫か?」
 
 心配そうに覗き込む酋長の表情はこわばっていた。
 もしこの場でスロゥチャイム家の執事に何かあったら・・・・
 一族を預かる立場に置いて、常に最悪の状況を想定する事はもはや本能といって良いレベルだろう。
 大鍋の中で煮られるように暖を取るマサミの顔が紅潮し、血流が改善され回復して来ていることが見て取れた。
 
「酋長様、おかげさまで良くなりました。大変申し訳ありませんが、手ぬぐいをお貸し願えませぬか?」
 
 言葉無く頷いた酋長の後ろ、例の帽子を被った若いオオカミの娘が小さな手ぬぐいをいくつも用意してきた。
 大きなバスタオルではなく、小さな手ぬぐいを使う意味をマサミは考えた。
 そして・・・・
 
「執事殿、濡れた手ぬぐいは使い捨てにされよ。せっかく温まったのだ、冷やす事は無い」
「なるほど・・・・ 御明察の通りですね」
「オオカミの知恵じゃよ」
 
 さて、そろそろ出るか・・・・
 そう思うマサミだが、オオカミ達の視線が集まる中で立ち上がるほどの勇気は無い。
 素っ裸の男が公衆の面前で、しかも若い女性が居る前で立ち上がるなど・・・・
 
「執事殿、いかがされた?」
「いえ・・・・さすがにこれだけ衆人環視の場所で立ち上がるのが憚られたものですから」
「ハッハッハ!左様か。が、執事殿。先ほどそなたを暖めたオオカミの娘はそなたと生肌を合わせましたぞ?」
「え゙?」
「酷く朦朧とされておった。そなたが名を呼んだ方は・・・・主ではなかったが?」
「・・・・無意識に妻の名を呼んだようですね・・・・面目ない」
 
 湯にもぐり顔を暖める振りをして恥しさを紛らわすのだが・・・・
 
「皆の衆。後片付けじゃ。焼けた家からオオカミの骨を拾うぞ。女達は飯の支度じゃ。かかれ」
 
 気を利かせた酋長の言葉でオオカミがその場を離れた。
 僅かに残った者たちを前に、マサミはやっと釜茹でから脱する事が出来た。
 
 水気をふき取り、オオカミの娘が用意してくれた服に袖を通す。
 やや大きいものの、ロッソムより更に寒い寒冷地で生活するゆえか、断熱性は段違いだった。
 
「酋長様。もう一度鏡を見せてください」
「ほれ、あそこにある。いくらでも使いなされ」
 
 壁に掛けられた鏡を見ながら、マサミは鼻の頭や耳たぶを触り、凍りかけた細胞が融けきったかどうかを確かめた。
 マサミとてヒトの世界の酷寒冷地で育った人間だ。凍傷の怖さは嫌と言うほど知っている。
 鏡を覗き込むマサミの後。
 服を用意してくれたオオカミの娘が、今にも泣きそうな表情で自分を見つめている事にマサミは気が付いた。
 
「どうされましたか?」
「いえ、何でもありません」
「あの・・・・かえって気になりますので。遠慮なく」
 
 もじもじとするオオカミの女性は何か思いつめたような表情だったのだが・・・・
 
「執事様のその服は夫の形見です」
「・・・・それは申し訳ない事をしました。すぐに」
「いえ、良いのです。夫はマダラでした。執事様を見ていたら夫を思い出して・・・・」
 
 涙を浮かべている女性が握っていたのは酋長より預けられたエリクサーの小瓶。
 
「執事様、これがあれば夫は助かりました。でも・・・・」
「でも?」
「でも、夫だけ助かるわけには行かなかったのです。この村の男も女もたくさん死にました」
 
 なんと言葉を返して良いかわからないでいるマサミだったが、オオカミの女性はマサミの目をジッと見ていた。
 
「どうかこれを持って行ってください。この小瓶ひとつでオオカミの血が流れます。これの為に骨肉の争いを何度もしています。これ
を一族を救った者が持って行ったとなれば誰も文句をいえません。どうか、一族を救うと思って」
 
 切々と語る女性の後ろ。
 酋長は目を閉じて言葉を聴いていたのだが、何か思い当たる節でもあるのか、顔を上げてマサミを見た。
 
「執事殿・・・・、私の願いではなく、私の娘の願いを・・・・聞いてくれぬか。酋長ではなく、一人の父親として、そなたに頼みたい」
「一人の父親・・・・ですか」
「左様じゃ。一人の父親として、息子が命を賭して守っていた物を・・・・そなたに」
 
 オオカミの娘が差し出した小瓶をマサミは何も言わず受け取った。
 小さな小瓶に収められた液体がどれ程の効果を発揮するのか。
 骨肉の争いを一族で繰り広げたとなれば、その効果は推して知るべし・・・・
 
「酋長様。ひとつ伺いたい」
「なにかな」
「手前の妻は・・・・光を失ってしまいました。精神的な理由だと思いますが・・・・実は、子を失って落胆のあまりかと・・・・。それを治す事
は出来るでしょうか?」
 
 酋長は力強く頷いた。
 
「かつて、この村に住んでおった者が崖から落ち、頭を打って光を失った事がある。その時もこの薬で光を取り戻した。おそらくは大
丈夫じゃろう。不可能を可能にする魔法が込められておる。これに出来ないのは死んだ物を生き返らせる事だけじゃ」
 
 マサミは手の中の小瓶へと目を落とす。
 青い小瓶が手の中に合った。
 
「では、酋長様。これは私の主への上納品として私が預かる形にしようと思います」
「うむ、聊か不満はあるが致し方ない。そなたは一族を救ってくれたのじゃ」
「大変申し訳ありません。しかし、こうせねば」
「わかっておる。そなたの大切な主の為に。そして、何より大切な・・・・」
 
 マサミは目を閉じて首元を手で触った。
 エンゲージリングを通したネックレスがそこにある。
 
「お気遣いいただき恐縮です」
「なんのなんの。それよりもそなた、腹は減ってはおらぬか?」
 
 マサミは自分の腹をさする。
 思えば、キックが持たせてくれた僅かなパンを食べただけだった。
 
「言われてみれば・・・・腹ペコです」
「そうじゃろうな。今宵は多くのオオカミが月へと旅立った。黄泉送りの晩は宴と決まっておる。執事殿も一緒に宴へ」
「私はヒトですが良いのですか?」
「あぁ、良いじゃろうて、黄泉へと行った者が黄泉返るように祈る宴じゃ。そなたも席について欲しい」
「では」
 
 マサミを連れて歩き出す酋長。マサミの後ろには酋長の娘が続いた。
 集落の中心にある大きな篝火が燃え盛り、その周りに多くのオオカミの男達が集まっている。
 
「一族のために命を掛けた執事殿が臨席する。さぁ、朋輩を送る為に踊ろうではないか」
 
 酋長の声にあわせオオカミの男達が歌いながら踊り始める。
 その独特の節回しに、マサミはすっかり遠くなってしまった故郷の盆踊りを思い出していた・・・・
 
「さぁ、執事殿、一杯呑まれよ。オオカミの乳酒じゃよ。冷えた体には効くぞ」
「では、御相伴に預かります」
 
 酋長が差し出した杯を煽ったマサミは酋長へ杯を返した。
 再び酒で満たされた杯を酋長が飲み干し拍手が沸き起こる。
 オオカミの女達が作った料理が並び、大きな篝火の前で寒空の酒宴が始まった。
 
「執事殿、せっかく温まった体を冷やしてしまうのぉ」
「いえ、ご心配には及びませぬ。おかげさまですっかり温まりました」
「うむ、そうか。これサリナ。執事殿に酌を」
 
 酋長に声を掛けられ大きな帽子の女性がマサミの隣に座った。
 
「執事様。どうぞお召し上がりください」
「えぇ、ありがとうございます」
 
 再び杯に注がれた酒を飲みマサミは篝火を見ている。
 
「酋長様。あの炎はどんな意味が?」
「うむ。我ら一族は言い伝えでは3000年の昔からこの地に住んでおる。かつてこの平野がイヌとオオカミの王国であった頃から我らは
ここに居る。そして、あちらの月の祭壇を奉戴し、1000年に一度の祭祀の為、ここに居続けておる」
「そうなんですか・・・・」
「我らの使命は月の女神が永久に安泰であるために、あの月の祭壇を使って祈る事じゃ。そして、遠い昔はその祭壇で生贄を捧げたの
だと言う。しかし、いつの頃からか、その生贄の代わりにこうしてこの集落で死んだものを篝火にかざし、我ら生者の名代として月へ
向かわせるべく、その炎で焼くようになった」
 
 焼くようになった・・・・
 酋長の言葉に耳を疑ったマサミだったが、篝火の周りをよく見れば、半焼けになったオオカミの遺骸やほとんど骨になったそれを再
び篝火へ放り込む者が居た。
 篝火の炎が高々と上がり、バチバチと爆ぜる薪の火の粉が月へと舞い上がる蛍のようだ。
 
「では、この宴は儀式も兼ねているのですね?」
「そうじゃ・・・・」
 
 篝火の周りを踊るオオカミの動きは統制の取れたリズムのあるものだった。
 太鼓と笛と鐘にあわせ踊る盆踊りのそれとまったく一緒の動き・・・・
 
「酋長様。私も踊りに加わって良いですか?」
「執事殿?」
「私の故郷にも似たような風習がありました。実は・・・・懐かしくて泣きそうです」
「そうか。随意にされよ」
 
 マサミは隣に座っていたサリナと言う女性に杯を預け踊りの輪に加わった。
 見よう見真似で踊るマサミをオオカミが笑う。
 つられてマサミも笑いながら踊った。
 その姿を見ながらサリナは酋長の隣に座った。
 
「お父様・・・・。執事様より子種を貰おうと思います。あの方とは子を生せませんでしたから」
「サリナ、そなたの好きなようにせよ。我が息子に尽くしてくれたそなたの成す事を、わしは何も反対せんよ」
「ありがとうございます」
「うむ、そなたの子はわしの孫じゃ・・・・」
「お父様。ありがとうございます」
「しかしまぁ、なんだ。執事殿は効いてはおらんのかのぉ」
「薬が古いのでしょうか?」
「そんな事は無い。ウィルケアルベルティの残した魔法の媚薬じゃ。必ず子を生す筈なんじゃが・・・・」
 
 笑われていたマサミの踊りが様になってきたのをオオカミ達が認めたようだ。
 多くの謡う声が段々とボルテージを上げていき、その場がゆっくりとトランス状態に入って行く。
 その輪の中、マサミは不意に訪れる激しい動悸と戦っていた。
 それは紛れも無く・・・・女を求める男の本能そのもの。
 ズボンの中で屹立したペニスの先端から、タラタラと粘っこい液体が漏れている。
 
 ――どうしたんだろう・・・・
 ――おかしくなりそうだ・・・・
 
 モヤモヤとした満たされぬ思いが頭の中に広がっていて、なんとなく靄でも掛かっているかのような不安定な思考だった。
 しかし、そんな中で一つ気が付いていた事がある。
 何かを確かめるような眼差しで見ていた酋長とその娘と名乗ったサリナと言う女性の視線。
 一服盛られた・・・・
 しまった!と思ったのだが、時既に遅かったのかもしれない。
 
「皆の衆!もう十分じゃ・・・・さぁ、黄泉返る者を迎えよう。新しい命がこの地へ降りられるように」
 
 酋長の言葉に踊っていたオオカミの男女が我に返ったようだ。
 夫婦が番となってそれぞれの家へと消えていった。
 大きな篝火の前、立ち尽くすマサミの前にやってきたサリナは大きな帽子を取った。
 その姿にマサミは息を呑む。
 サリナの頭には・・・・耳が無かった。
 
「あなたは!」
「執事様・・・・どうか私のお願いを聞いてもらえないでしょうか」
「オオカミでは無いのですか・・・・」
「えぇ・・・・。騙してしまいました。申し訳ありません。ただ、こうしないと・・・・」
 
 懇願するような眼差しがマサミを貫く。
 ジッと見つめるサリナの後、スッと寄って立つ酋長はおもむろに口を開いた。
 
「執事殿。どうか、我が息子の嫁となったこの不幸な娘の願いを聞き届けてやって欲しい。どうか・・・・」
 
 何かを訴えるような眼差しでそう言った酋長は自らの家に入るとドアに鍵を掛けたようだ。
 篝火の前でマサミはサリナと二人きりになった。
 
「あの・・・・あなたは・・・・」
「執事様、私は子供が欲しいのです。でも、夫だった男はオオカミでした」
「生物の壁ですね」
「えぇ。でも、酋長から貰った魔法薬は生物の壁を越えて子を生せる物でした」
「え?そんな事が出来るのですか?」
「いえ、出来ません。いや、本当は出来るのかもしれませんが、私とあの人の間では無理でした」
「では・・・・」
 
 俯きながら話をしていたサリナ。その目には何かを決意した者のみが持つ光があった。
 スッと伸ばした手がマサミの手を握り、グッと引き寄せつつサリナは歩き出した。
 
「執事さま。こっちへ」
 
 サリナに手を引かれマサミが歩いていった先は酋長の家の隣。
 こじんまりした小さな家だ。
 玄関のドアには鋭いオオカミの牙が飾られている。
 マサミを家に引き入れたサリナは玄関の鍵を掛けた。
 
「どうか・・・・私を・・・・抱いて・・・・ください」
「サリナさんと言いましたね」
「執事さま。どうか言葉は無用に」
「私は妻帯者です。私の主もまた女性です。私には貞操を通すべき女性が二人も居るのです」
 
 サリナは再び俯いた。
 僅かに震える肩が痛々しいほどなのだが・・・・
 
「どうしてもダメですか?」
「申し訳ありません」
 
 その場に崩れたサリナの肩をマサミは抱き上げた。
 これ幸いにマサミへと抱きつくサリナ。
 そのままサリナの手がマサミの股間をまさぐった。
 
「執事さま。こんなに・・・・硬くなってますよ・・・・」
「きっと気のせいです」
 
 サリナの手がズボンの中へと進入してきた。
 肩を抱いていたマサミの手が咄嗟に離れそうになったけど、サリナはその手を押さえてしまった。
 
「執事さま。どうかこのままに・・・・ほら、これほど・・・・」
 
 ズボンに突っ込まれていた手を引き上げるサリナの指先。
 ヌラヌラと糸を引く液体があった。その指を舐めて艶かしい表情を見せるサリナ。
 頭の中で何かが弾け飛びそうになるのを、マサミは必死に繋ぎとめていた。
 
 しかし、そんなマサミの努力をあざ笑うかのようにサリナはゆっくりとマサミの穿いていたズボンを下ろした。
 下着越しに屹立するマサミのペニスへとキスしたサリナは、もったいぶるようにマサミの下着をおろした。
 天を突くが如くに立ち上がり糸を引く液体にまみれたその肉棒をサリナは舐め始める。
 
「あぁ!ダメです。サリナさん!だめです!」
 
 後ずさりしようとしたマサミの腰を両腕で掴み、サリナはピチャピチャズルズルと音を立てて舐めている。
 その舌使いがあまりに上手いので、ほど無くしてマサミは爆発寸前になってしまった。
 
「サリナさん・・・・気持ちは分かりますが・・・・」
「分かってませんよ。絶対分かってません。だって・・・・」
 
 今にも泣きそうな表情で上目遣い。
 マサミは言葉を失うが、サリナは意に介さず自らの着ているものを脱ぎ捨て、一糸纏わぬ姿になった。
 
「執事さま。私を妻にとは言いません。愛人も妾も望みません。行きずりの娼婦だと思って、どうか子種を私にください」
 
 僅かに後ずさりして玄関のドアに背中をつけたマサミ。もはや逃げ場は無かった。
 サリナはペチャペチャと音を立てて舐めながら、自らの秘裂に指を入れてその秘蜜が満ちてくるのを待った。
 
「執事さま・・・・ おねがいです」
 
 
                             ◇◆◇
 
 
 お茶会には到底似つかわしくない猥談とも言える話。
 しかし、その場の雰囲気はこれ以上なく重かった。
 誰かが何かを言い出すまで、とてもじゃないけど会話の先を取るのが憚られる空気。
 
「酋長様。それでは私たちには兄なり姉なりが・・・・」
 
 勇気を持って口を開いたのはヨシだった。
 その姿にアリス夫人が笑みを浮かべる。ポール公もニヤリと笑った。
 マサミの遺した子供達は立派に育っている。それが嬉しかったのかもしれない。
 
「ヨシ君。君のその問いはもっともだが・・・・ 安心したまえ」
「安心・・・・ですか?」
「あぁ、そうじゃ。君達の知らぬ兄弟は・・・・ オオカミの集落にはおらぬよ」
 
 途端にホッとしたような表情を浮かべるヨシとタダ。
 しかし、それぞれの隣に座るリサとミサは複雑な表情だった。
 
「あの、酋長様」
 
 恐る恐る口を開いたのはミサ。
 
「それじゃぁ・・・・サリナさんは・・・・」
 
 悲しそうに頭を振った酋長は深い溜息をひとつついてミサをジッと見つめた。
 
「サリナは・・・・執事殿との後に別のヒトの男との間でも子を生した。しかし、その子も・・・・もう月へと旅立ってしまった・・・・」
 
 重い空気が場を包む。
 かつて、ヨシは父マサミに問うた事がある。
 まだ見ぬ地、オオカミの集落とはどんなところか?と。
 マサミはしばらく考えて答えた。あそこは『死』の色濃い地だ・・・・と。
 その生活圏があまりに厳しい環境故だろうか。生死の境目へと容易に立てる場所なのかもしれない。
 
 だからこそ、新たな命を生す営みが重要な意味を成すのかもしれない。
 次の世代を欲しがったサリナの思いがアリス夫人にはよく分かっていた。
 
「あの、酋長様。ひとつご教示ください」
 
 話の流れを黙って聞いていたマリアだったが、何を思ったのか澄んだ声で切り出した。
 
「魔道士ウィルケアルベルティといえば、覇王リュカオンに楯突き自ら滅んだと聞きます。その偉大な魔道士がなぜ種族の壁を越える
魔法薬まで作って子を生す事を望んだのでしょうか?」
 
 その問いの意味するところはアリス夫人も良く分かる事だし、出来る事なら自らも求めたいものだった。
 もしこの場にマヤが居たならば、きっと同じ問いをしただろう。
 
「マリア君。その意味はわしも知らないのじゃよ。しかし、理由はすぐに思いつくじゃろうて」
「あの時代にもヒトが・・・・ウィルケアルベルティに従うヒトが居たのでしょうか・・・・」
 
 酋長は少し考えるような素振りを見せたのだが、ややあって何か言葉を組み立てたようだ。
 
「それはどうかは知らぬ故、明言できる事ではない。しかし、例えそれがヒトでなかったとしても、種族の壁を越えて子を生す意味は
有ろうかとわしは思う。覇王と呼ばれたリュカオンは何を思って世界侵攻を始めたのだろうか。今言われるように、単なる征服王であ
ったなら話は早いじゃろうて。しかし、ウィルケアルベルティはリュカオンの師であり弟子であり友であったと言い伝えられておる」
 
 思わぬ話の展開にヒトの子供達は聞き耳を立てて黙っていた。
 それぞれに思う事があるのだろう。
 そんな子供達を見ていたポール公は何かを思い出したように口を開いた。
 
「かつて、領主とはどうあるべきか?とマサミがアリスに説いた事が有る。それを俺も聞いていた。いま、酋長殿の話しを聞いていて
やっとマサミが何を言いたかったのか、理解する事が出来たよ」
 
 ほほぉ・・・・
 そんな表情でポール公に目をやった酋長。
 隣ではアリス夫人と子供達が笑っていた。
 
「ヒトの世界の遠い昔。同じヒト同士でありながら民族が違うだけで争っていた時代があったそうだ。夥しい血が流れ、世界は騒乱と
怨嗟に満ちていた。その頃、ヒトの世界に小さな国を持つ王が二人居たそうだ。たくさん王が居た中の二人といって良いだろう。片方
の王は王位を捨てヒトに生きる道を説く事で世界を救おうとした。もう片方の王は、他の国を征服し王の中の王となって世界を束ね救
おうとしたそうだ。ウィルケアルベルティとリュカオンの関係は、実はそんなものじゃないのだろうか・・・・」
 
 抑揚の無い声で語るポール公の言葉に酋長はウンウンと頷くばかりだった。
 あの時、マサミが何を言いたかったのか。その答えを自分なりに導き出すことこそが問題の本質。
 ポール公が真に言いたい事を理解したのは人生のベテランだけだったのかもしれない。
 
「マサミが夢見た事は、実は単純で簡単な話しなのよ。要するに、すべての種族が笑って生きていける世界を作りたかったのね」
 
 アリス夫人がその場の話を〆るように語った言葉。
 それはマサミだけではなく、彼を取り巻いた様々な種族の者達が同じく夢見たものなのだろう。
 今日、スキャッパーの社会は様々な種族が暮らす複合民族都市になりつつあった。
 
「アリス様。いまのロッソムは父の夢見た世界なのですね」
 
 タダはふと気が付いたようにそう言った。
 
「そうね。マサミは今もあそこからこの街を見ているわよ。カナと一緒にね」
 
 アリス夫人がふと目をやった先。
 丘の上にあるマサミとカナの墓が様々な種族の墓と並んで紅朱舘を見下ろしていた。
 
「でも、据え膳食わぬは・・・・ってよく言っていた父がサリナさんと事を交えなかったのは以外ですね」
 
 ヨシは半分笑ってそう言った。
 その言葉にリサも釣られて笑いそうになった。
 
「ヨシ、実はな・・・・」
 
 ニヤリと笑ったポール公。酋長も笑っていたのだがアリス夫人だけはジロッとポール公を見た。
 その表情に一瞬口ごもったポール公だが、気を取り直して言葉を出す前にアリス夫人が言葉を継いだ。
 
「マサミがここへ帰ってきたときにね、私とカナにそう報告したのよ。そしたらね、カナが怒り出してね」
 
 アリス夫人は楽しそうに目を細めて語っている。
 しかし、ミサにだけはどこと無く事務的な口調に聞こえた。
 
「そこまで誘って断られる女の惨めさ・・・・カナさんはそう言いたかったんですね」
 
 マリアはまるで我が事のように残念そうな表情で言った。
 その言葉にヨシが一瞬だけギクッとしたような表情を見せた。
 
「まぁ、どれ程の種族がいようとも、所詮この世は男と女だ。色々あるんだろうさ」
 
 ちょっとだけ厭らしい笑みを浮かべたポール公がヨシをジロリと見ながらそう言った。
 
「サリナさんにちょっとだけ同情します。酋長様もお辛いかと思いますが・・・・」
 
 マリアの言葉に見え隠れする棘がヨシをチクチクと刺している。
 どうしたものかと困った時に額を擦るのはマサミの癖の一つだった。
 居た堪れない雰囲気で針の筵をジッと我慢するヨシは額を手で擦っている。
 その姿にアリス夫人もポール公も目を細めていた。
 
「それ故、わしは今も思うのじゃよ。ヒトと言う種族は本当に義理堅く、そして、忠誠を示す生き物じゃ・・・・とな」
 
 オオカミが山から持ってきた滋養茶を啜りカップを下ろした酋長は同席するオオカミたちに目配せした。
 
「領主アリス殿、ならびに館主ポール殿。また来年、この場にてゆるりと言葉交わそうかと存ずる」
「そうですね。秋の収穫祭にも遊びに来てくださいね」
「酋長殿。妻と待っておりますぞ」
 
 場の終わりを感じ取ったヨシ達がスッと立ち上がってアリス夫人やポール公や、そして、オオカミの酋長の椅子を引いた。
 
「では、失礼する」
 
 あらかじめ荷物をまとめておいた踊り子達と共にオオカミの一団が紅朱舘を後にした。
 大手門前でそれを見送る紅朱舘の住人達。
 マサミが暗闇を突いて走った峠の道も、今では大きく拡張し整備され冬でも安全な往来が出来るようになっていた。
 茜の空に二つの大きな月が昇り始める頃になれば、街道となった峠道へ騎馬兵が明かりを燈して歩く。
 それはまるで光の帯のようになり、峠を越えて消えていた。
 
「ヨシ、夏前にオオカミの集落へ行くぞ」
「御館様、私をお連れになるのですか?」
「あぁ、そうだとも。それまでに子を生しておけよ」
「はい?あの、お言葉の意味が・・・・」
 
 ヨシの頭をポンポンと叩いたポール公はリサに目をやった。
 
「お前とリサの間の子に腹違いの兄なり姉なりを作るわけにはいかんだろう」
 
 その言葉にウフフ!とリサは笑った。
 
「ヨシさん。オオカミの集落にもヒトが居るかもね」
「あぁ、彼らにも次の世代を残さねばな。責任は重大だ」
「はぁ・・・・・」
 
 気の抜けたような声で答えるヨシ。
 その姿を見て、アリス夫人は優しく笑っていた。
 
 ――マサミ。私達だけの秘密。まだバレてないわね。
 ――オオカミの酋長は上手く振舞ってくれたわよ。安心して・・・・
 ――でも、カナと喧嘩するかしらね。あなたはカナにだけは弱かったから。
 
「アリス様。余りおなかは減っていませんが夕食にしましょう」
 
 油断して丘を見つめていたアリス夫人は、ヨシに不意に声を掛けられ驚いている。
 その仕草がちょっと大げさだったのをリサは不思議がっていた。
 
「ヨシ。食事の前に風呂を済ませましょう。そうしたら少しお腹が減るわね」
「承りました。すぐに支度します」
 
 腹に右手をあて会釈したヨシは、その場に居たリサやタダやミサにテキパキと指示を出すと、紅朱舘の中へすっ飛んでいった。
 その後姿を追うアリス夫人の隣にポール公が寄り添う。
 
「そろそろヨシにも教えねばならんな」
「えぇ、でも、まだ良いわね。やがてあの子も現実の重さに耐えられるようになるわ」
 
 紅い月と蒼い月が夜空に寄り添って浮かぶ宵の口。
 遠い日の記憶を手繰り寄せるように空を見上げたアリス夫人。
 深い溜息を一つ付いて目を閉じたのだが・・・・・・
 その眦から一筋の涙が流れて落ちた。
 
 第8話 了
 
 
 
 
 

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