猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

犬国奇憚夢日記外伝04

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 外伝第4話 良い夫婦の日特別

 


 晩秋のスキャッパー地方。午前5時30分。
 まだ暗い執事公室の目覚ましを止めるのはマサミの役目。


 大きなベットの隣で寝ていた妻カナは末っ子の出産以来、慢性的な貧血と低血圧で寝起きが悪い。
 母親にしがみ付くようにして眠る子供達を起さぬようそっと妻だけを起こし、自らの身支度を整える。

 

 およそ10年の月日を費やして建てられた新紅朱館の執事公室は、旧館の手狭で急ごしらえの設備だった部屋とは雲泥の差だ。
 執事公室の中央にあるリビングは縦横20m程の広さがあり、ちょっとしたホテルのロビーのような雰囲気である。
 そして、リビングを挟みおよそ12畳間のサイズになるマサミ夫妻の寝室と、ほぼ6畳間の子供部屋が分かれている。
 もっとも、まだ10歳にならない娘麻耶と末っ子の忠人は、まだまだ妻のその向こうで甘えて寝ているのだった。

 

 公室の入り口から見てリビングの奥には簡単なキッチンと洗面台。
 そして大浴場の小上がり風呂をそのまま持ってきたかのような家族風呂。

 例えて言うならヒトの世界の郊外型高級マンションから一世帯分を抜き取って、それがそのまま新紅朱館へ収まったようなものだ。

 

 ルカパヤンでヘッドハンティングしたヒトの建築士が綿密な計算を繰り返して作ったこの巨大な建物は、地上8階地下2階に及ぶこの獣人達の世界でも中々類を見ない規模でこの地に姿を現した。

 紅朱館裏手にある巨大なボイラー室は、スキャッパーの泥炭を棒状に切り出した無尽蔵ともいえる燃料を気前良く焚き続けており、紅朱館の各部屋へ高圧低温と低圧高温に分かれた2種類の蒸気を24時間供給している。
 執事公室では、この各部屋を結ぶスチームパイプの熱を使ったスチームヒーターと湯沸かし器があり、これでマサミの家族は自分達の部屋に居ながらふんだんにお湯を使って髭を剃り、歯を磨き、顔を洗う事が出来る。

 

 起床より約20分後。

 身支度を整えて朝一番のコーヒーを入れるのもマサミの役目。
 しかし、ここ数年はアカシアの蜂蜜をたっぷりと入れたホットミルクになっている。
 洗面台の隣、やっと起き上がったカナはパウダールームの3面鏡を使って髪をとかし、ぱっぱとメイクをしているのだった。

 

「ミルク置いておくよ」
「うん、ありがとう」
「子供たちを頼む」
「うん」

 

 準備するカナの耳元でそっとささやいたマサミは、子供達を起さないようにそっとドアを開けて部屋を出る。

 最初に向かうのは紅朱館の統合キッチン。

 近隣からの観光客を受け入れるレストラン「スキャッパー」や、2箇所の喫茶室。
 紅朱館に詰め働くスタッフや騎士団の為の食堂。
 それら全てに供食するための巨大な設備は、専用のボイラーと大きなオーブンを備えた重要な設備だ。
 不寝番の火守担当が一晩中管理するそこは火災の発生要因が一番強い場所でもある。

 

「変わりない?」
「あ、おはようございます執事長。はい、異常ありません」
「初期消火資材の準備は?」
「もちろん抜かりありません」

 

 敬礼し応えるイヌのスタッフに笑顔で頷いてマサミはキッチンを立ち去る。

 その次に行くのは主アリス夫人と館主ポール公の寝室。
 腕にはめた精工舎製の時計を見ながらドアの前でその時を待つ。

 数年前。ルカパヤンで買い求めた自動巻きのクロノグラフは恐ろしいほどの精度で時を刻んでいる。
 アリス夫人とポール公の夫妻がマサミ夫婦に贈ったプレゼントは、代々受け継がれる物にしたいというマサミ自身の希望によってこの腕時計になった。

 

 マサミがドアをノックするのはル・ガル王政公国標準時で午前6時ちょうど。
 数年前までは1分前にカナがお茶を運んできていたのだけど、最近はキックがその役割をしていた。

 

「マサミ様、おはようございます。今朝は寒いですね」
「あぁキックさん。おはようございます。冷えますね」
「婦長様は平気ですか?」
「えぇ」

 

 5秒前、マサミの手はドアの前にかざされる。
 4.3.2.1・・・・・

 コンコン・・・・ ガチャリ

 

「おはようございます」

 

 毎朝きっかり同じ時間にやってくるマサミに合わせ、その数分前にはアリス夫人とポール公も目を覚ましている。
 だが、自室へ主を起しにやってくる執事の為に、ベットの中でその時を待っているのも彼らなりの優しさの一つだった。
 キックはややぬる目のお茶を注ぎ夫妻へカップを手渡す。

 

「マサミ、カナは大丈夫?」
「はい。今朝も起きられました」
「そう・・・・ よかった」

 

 アリス夫人から見てもカナの衰え方は尋常ではなかった。
 繊細な両手の指は全部の関節が赤切れを起し、美しいロングの黒髪は白髪が混じって灰色になりつつあった。

 

「キック。水場担当は抜かりなく仕事をしているか?」
「はい、御館様。婦長様の手を煩わせる事はありません」
「うむ」

 

 過日、ポール公はネコの国から霊薬を混ぜ込む効果満点のハンドクリームを取り寄せた。
 ネコの国の物価と照らし合せても決して安くは無い品物なのだが、カナは一言『勿体無い』と言って使わないでいた。

 それだけではない。
 王都へ上がったアリスが衣装屋に命じたのは、ヒトの手にも合うシルクとカシミアの手袋。
 保湿効果と保温効果を持つ美しい風合いなのだが、『これは他所行き用ですね』と言って衣装箱に入れてしまった。

 いい歳になってきたメルが城下の商人に頼んで探してもらったウール100%の暖かなワンピースですら『年上のメルさんが着て下さい』と受け取らない。

 

  ―― みんなあなたを心配してるの!

 

 見るに見かねたアリスに叱られようやく受け取って使い始めたとは言え、それでもカナの体が衰えていくのは止められなかった。

 

 洗濯も調理も巨大な館内の清掃も、常に先頭に立っていたカナの姿はもう無い。
 今は日中に数人の若いイヌを連れて見回りを行い、後進を育てるだけになっている。

 

 そう・・・・
 もう長くない・・・・

 皆、気が付いている。

 

  ―― まだ・・・・ やり残した事が沢山あるから

 

 そう微笑むカナの顔には深い皺が見え始めていた。

 

 

 

 8時。
 スロゥチャイムファミリー勢ぞろいで朝食をとった長男アーサーが、複数の護衛を付け自分の兄弟達と共にマサミの息子達をまとめ、城下の学校へと出かけていく。

 

 かつて、ヨシとマヤに荷物を持たせ手ぶらで帰ってきたアーサーを、父親たるポール公は公衆の面前で殴り倒した事が有る。
 殴り倒すだけでなく、腰から下げていた馬上鞭で血を流すまで叩き続け『愚か者!』と叱責した。
 幼いマヤがアーサーにしがみ付いてポールが鞭を振るえなくなるまで殴られて以来、アーサーは次期領主といえ全ての事を自分で行うように躾けられていた。

 

 今日は学校で馬術の訓練があるのだろうか。
 一番幼いヘンリーとタダが体のサイズに合わない馬の鞍を抱えてヨタヨタと歩いている。
 アーサーはその二人の鞍をひょいと持ち上げ、自分の鞍と一緒に抱えて歩き始めた。

 

  ―― 良いかい?アーサー。貴族とは誰かの苦しみや悲しみを肩代わりする義務を負っている。
  ―― だからその分、普段は良い暮らしが出来るし、民衆より恵まれた食事をし、暖かく眠れるのだ。
  ―― わかるかね 貴族は常にそれを忘れてはいけない。何時であっても忘れてはならない。そう言うものなのだ。

 

 家庭教師としての立場も有るマサミはアーサーにそう教えている。
 かつて、ジョン・スロゥチャイムはこの世界へ来たばかりのマサミにそう教えたのだった。
 誰にも恥じる事の無い立派な生き方をする。

 アーサーの心に根を下ろしたプリンシプル。
 行動原則の根幹はマサミが植えつけて行ったものだ。

 

 

 

 10時。
 マサミは執務室で所領の経営を行っているアリス公爵とポール公の補佐を勤めている。
 午前中の慌しい時間が終わり一息つく時間。そこへお茶を持って現れるのはカナ。
 一日のうちで最初にカナの顔をアリスやポールが見るのはこの時間だ。

 

 コンコン ガチャリ

 

「執務中に失礼いたします」

 

 まだ幼い見習いメイドが緊張しながらお茶のトレーを持っていた。
 そのトレーの上で上等なカップへ優雅にお茶を注ぎ、小さなビスケットを添えてテーブルへと下ろす。
 今日もカナの手には純白の手袋があった。指先だけはどんなに化粧をしても誤魔化せない。
 刻まれる幾つもの深い皺こそが、今までのカナの人生そのもの。
 その全てを包み込む手袋こそ、カナの主の優しさなのだろう。

 

「カナ。お腹は大丈夫なの?」
「えぇ、ご心配なく」

 

 心配そうに言葉を掛けるアリス夫人にカナは笑ってこたえた。
 クンクンと控えめに鼻を鳴らすポール公の眉が僅かに歪む。

 

「・・・・また血の臭いがするな。本当に大丈夫か?」
「御館様。女とはそう言うものでございます。どうぞ、ご心配なく・・・・」

 

 二つの月が引き起こす強い潮汐力の関係で、第1世代のヒトの女は月経で命を落とす事も有る。
 子宮内からの大量出血による急性失血でのショック死。
 タダの出産がかなりの難産だった関係で、カナの胎内には浅からぬダメージが残っている。
 1年に4回の両方とも満月になる月の生理は、文字通り命懸けだ。

 

「やはり臭いますか? 生臭いですよね。申し訳ありません」
「気にするな。それよりも、頼むから無理をしないでくれ」

 

 心からの言葉でそう懇願するポールの言葉に、カナは優しく笑みを浮かべるだけだ。

 

  ―― ヒトはそれほど長生きじゃないですから

 

 口癖のように言うカナの言葉は、裏を返せば人生の終点を覚悟していると言うことだろう。
 そんなやり取りを眺めるマサミの顔は、僅かに苦悶の表情を織り交ぜた悲しみの笑いだった。

 

 

 

 12時。
 午前中の課業はここまで。
 マサミが配下のイヌを使って資料の山や報告書を綺麗に片付けるなか、カナはアリスの肩へ薄手のカーディガンを掛けている。
 いつの間にか領主夫妻の昼食は紅朱館のレストランから城下のカフェやレストランに変わっていた。

 夏でも涼しい冷涼気候のスキャッパーだが、晩秋とは言え日中はそれなりに暖かい。
 しかし、フリルの付いた厚手のエプロンとワンピースのスタンドの襟がちらりと見えるだけの肩掛けをカナは羽織る。
 さらに、手の甲が半分も隠れる豪華なレースの飾りが付いた袖の先へシルクの手袋をはいて、アリスのカバン持ちをしている。

 かつてはカバンが膨らむほどに色々と持ち歩いたものだが、今はカナが持って歩きやすいように荷物は最小限だ。
 緩やかな秋の日差しを浴びて暖かな大通りの、ちょっと小洒落たオープンカフェの店先にアリス公爵は陣取った。
 湯気の溢れるスープパスタとパンをちぎって浮かべた暖かいかぼちゃのポタージュで昼食となる。
 その間にも領民がやってきては挨拶をしていくのだから、おちおち食事もしていられない。
 しかし、衰え行くカナの為に、常に暖かく滋養の有るメニューを選ぶのは、領主夫妻の優しさなのかもしれない。

 

「カナ、寒く無い?」
「大丈夫ですよ。お陰さまで暖かいです」
「そう・・・・」

 

 柔らかく陽の当たる店先のテーブルが空いたお皿ばかりになると、店主は腕によりを掛けて拵えたデザートを用意する。

 

「婦長様。当店の新作です」

 

 緊張の面持ちで用意したデザートを最初に食べるのはいつもカナ。
 彼女が『ウン』と認めれば、そのメニューはレストランスキャッパーのメニューに加えられる。
 城下の飲食店にとって最高の栄誉。ヒトの女の婦長の口はイヌの鼻並みに誤魔化せない。
 冷たい白銀に輝くスプーンがそっと皿に伸びる。

 毒々しい青なのだが、それは青芋を使ったケーキだとひと目で分かる代物だった。

 

「・・・・いかがでしょうか」

 

 モグモグと舌先で味を確かめるカナの表情は硬い。
 やや落胆の色が見える店主だが、黙ってお茶をカップへと注いだ。
 湯気の昇るカップを口へ運び一息つくカナ。

 

「店主さま。このケーキの味はお茶まで含んでの計算ですね?」
「はい、その通りです!」

 

 狙いを読み取ってくれたと理解した店主に笑みが浮かぶ。しかし・・・・

 

「これ。お茶以外で食べるお客様はどうしますか?」
「あ・・・・」

 

 しょんぼりと落胆する店主だが、アリスは気にせずデザートにスプーンをさした。

 

「味自体は悪くないんだけどしつこいかな。お茶を飲んでさっぱりすると青芋の後味が出てくるのね」
「えぇ、そうですね。ですから、お茶以外、そうですね、コーヒーとかで食べるお客様には意図が伝わりません」

 

 ガックリとする店主が居た堪れないのか。
 マサミはポール公へアイコンタクトを送る。

 

「店主」
「はい、ポール様」
「後日、再度婦長を連れてくる。その時に挽回せよ。そうだな、1週間後でどうだ」
「がんばります!」

 

 力強く答えた店主にマサミが囁く。

 

「冬のメニュー変更まで時間が有りません。頑張ってください」

 

 暖かな店先で店主が一人、燃え上がっていた。

 

 

 

 14時。
 昼食後の午睡は午後の能率アップの為にマサミが始めてた日課だが、それも14時まで。
 14時から17時までの3時間は来客の対応でてんてこ舞いになるか、さもなくば南部方面軍の関係者と様々な打ち合わせが行われる。
 地域軍統帥代行権を持つ公爵だが、そもそも軍の最高責任者は大将軍であり、そして王位イリア姫だ。

 

 領主はあくまで代行であり、命令ではなくお願いでしかない。それゆえ、時には軍幹部に様々な便宜を施す事も有る。
 もっとも、その南部方面軍総監がアリスの父ジョン公の育てたバウアー将軍とあっては、無理難題を押し付けられる事は極稀だ。
 様々な陳情や訴訟事を持ち込む客に混じりフラリと現れるバウアー老は、いつもの様にポールを叱責し帰っていく。

 

「ポール、大丈夫か?」
「・・・・今日のお説教は効いたぜ」

 

 先般の演習で平原戦闘における深々度穿孔突破戦術の指揮を執ったポールだが、その本当に細かなミスまで全部書き上げたメモを手渡し、この戦闘を実際にやった場合、おそらくネコの国ならこの程度、トラの場合ならこの程度。
 そう記載された予想被害のメモは戦慄に値するものだ。

 

  ―― 手痛い犠牲を出さぬように面ではなく点で突破を図る戦術だ。
  ―― これでは安心して兵も戦えん。士官学校の戦術解析なら落第どころか退学ものだな。

 

 ひとしきり叱責した後は学校から帰ってきたアーサーとタダに剣術の稽古を付けて帰っていく。
 孫好きの好々爺といった風体の将軍とて剣を握れば一人の戦士。
 容赦なく剣を振り、寸止めを繰り返しながら戦い方を教えている。

 

「マサミ殿、そなたの息子はヒトの割りに筋が良い。きちんと教育すれば剣闘士になれるな」

 

 ヒトの世界の立体的な戦術を教えているマサミにとってすれば、切られて果てる可能性を持つ剣闘士など慮外も慮外だろう。
 褒められ喜ぶ義人に、ある程度の距離から威力の有る銃で撃てと教える父マサミ。

 

「やばいと思ったらまず逃げろ。人の世界じゃこう言うんだ。36計逃げるに如かずってな。勝ちが見えないなら一旦退却だ」

 

 そんな卑怯な事が!と訝しがるフェル・バウアー将軍にマサミは平然と言った。
 死ぬのが自分だけなら名誉の為に死ねますが、巻き添えで死ぬ者は良い迷惑ですよ。
 みんな生活があるし家族があるし。それに、死んで花実が咲くものかってね。
 重要なのは勝つ事だと思うんですよ。卑怯と言われようが汚いと言われようが。

 まずは生きなきゃ。

 そっと笑みを添えるマサミの言にバウアー老は二の句をつけ損ねてしまったようだった。

 

「マサミ殿・・・・ いや、それも正論か。この歳になってもまだまだ学ぶ事が多い」
「いえ。本来ならば将軍の言われる事が正当です。ですが、我々ヒトは守るべき名誉を与えられてませんから」
「そうだな。奴隷階級は名誉を守る必要などないからな」

 

 マサミの哀しそうな眼差しに、バウアー将軍は肩をポンポンと叩く事しか出来なかった。

 

「いつの日か。ワシの目がまだ黒いうちにそんな世界が来るといいな」
「来てもらわねば困ります」
「そうだな。そなたの息子や孫たちがヒトの名誉を守るために命を賭して闘うだけの価値を認識出来る時代が・・・・」

 

 

 

 17時。
 学校から帰ってきた子供たちの世話をしていたカナの所へメルがやってきた。

 

「婦長様。今、アリス様のところへお客様がお見えになりまして、今宵は歓迎会をされるとの事です」
「え?どちら様ですか?」
「執事様が言われるに、ルカパヤンの方との事です」
「・・・・そうですか。聞いてませんね。どちら様でしょう」

 不思議がるカナだが、メルは気にせず続けた。

「執事様が会場を設営されているので、婦長様はご家族に正装をさせてご自身も正装してお待ちになるようにとの事です」
「はい。承知しました。夫にそのように伝えてください」
「承りました。カナさん、今日は一番良い服を着て待っていた方がいいみたいですよ」
「え?じゃぁ・・・・ 誰だろう?」

 

 ニコッと笑ったメルは軽く会釈して公室を出て行った。
 埃に汚れた子供たちを風呂に入れて着替えさせたカナは、自らも上等の衣装を出してドレスアップしている。
 その着飾った姿に麻耶だけでなく義人も忠人もニコニコしていた。

 

「お母様、凄く綺麗!」

 

 鏡に映る自分を見ながら、カナは改めて白髪交じりの髪を気にしていた。

 

「仕方がないわね。白髪染めなんて無いし」

 

 苦笑いするカナを子供たちが目を輝かせてみている。
 その後ろ。唐突に部屋のドアが開きマサミが入ってきた。

 

「カナ、俺の出してくれたか?」
「そっちに出てるわよ~」
「すまんすまん」
「ねぇ。お客様って誰?」

 

 ニヤッと笑ったマサミは軽くウィンクして着替えている。
 背の高いマサミが三つ揃えの背広に袖を通し、サテンの蝶ネクタイをきりっと締めれば、その姿はいずこかの紳士だ。
 見事にオールバックの頭髪へ櫛を入れて崩れぬよう整えると、子供たちの肩に手を置いて言った。

 

「今日は大事な日だ。粗相をするんじゃないぞ」

 

 うん!と頷く子供たちに笑みを浮かべ立ち上がったマサミはカナの手を取って部屋を出た。

 

「どこへ?」
「領主公室だ」
「歓迎会は?」
「まずは公室へ」

 

 不思議がるカナをよそに、マサミは子供たちに目をやりながら歩いていた。
 途中、館内ですれ違うスタッフが「おぉ!」と声をあげる程に着飾る執事と婦長の夫婦。
 ある意味、動く高級品のヒトがもっと高級に見える瞬間だった。

 

 


 18時
 領主公室ではアリス夫人がポール公と待っていた。
 反対側にはルカパヤンからやってきた数名のヒトの男たち。

 コンコン

 ドアのノックと共にマサミの声がする。

 

「アリス様。お待たせしました」

 

 ガチャリとドアが開き中へと歩み進むマサミ。
 続いて部屋へと入ったカナは苦笑いを浮かべた。

 

「なんだ、誰かと思えば・・・・」
「びっくりした?」
「急なお客様で正装と言われたので」

 

 してやったり!と言う笑みを浮かべるアリス夫人。
 ポール公も笑っていた。

 

「カナ。マサミも。日頃から世話になるな。今日は俺とアリスからの心ばかりの礼だ」
「実は俺もさっきポールに聞いたんだ。俺の与り知らぬ客が来るなんてとびっくりしたが」
「まぁこういう物は驚かしてやらんと詰まらんからな。さぁ、並んだ並んだ」

 

 マサミの家族を急かすポール公。
 領主公室に来ていたのは、ルカパヤンからやってきた写真屋だった。

 

「さて。では撮らせていただきますよ! よろしいですかな?」

 

 大きな背景ロールを天井からぶら下げ、フラッシュバルブをくっつけた照明傘をいくつも並べた写真屋の男が笑っている。

 

「今日は何の日で写真なの?」

 

 カナが尋ねるように声を出す。
 その声に答えたのはアリス夫人だった。

 

「良い夫婦の日よ。写真撮るのはタダ君が生まれた時以来でしょ!」

 

 アシスタントの指示した線にマサミの家族が揃った。

 

「忠人。強い光が来るがびっくりするなよ」

 

 忠人は振り返って頷いた。
 その背中をカナがそっと押す。

 

「前を向きなさい」

 

 再び揃った家族。
 写真屋の向こう側でポール公がアリス夫人と共に笑って見ていた。

 

「はい、では撮りますよ~! 目をつぶらないでくださいね!」

 

 ボン!

 

 5つのフラッシュバルブが同時に光り、そのシーンを初めて見たと言って良い忠人は新鮮に驚いている。
 マグネシウムの爆ぜる臭いと瞬間的な眩さに子供たちは自然と笑顔になった。

 

「はい、もう一枚撮りま~す。いいですかぁ?」

 

 どこか抜けた調子の言葉にカナも笑みを浮かべる。
 そんな写真技師の声に、マサミはそっとカナの肩を抱き寄せた。

 

 ボン!

 

「はい、お疲れ様でした」

 

 冠布から顔を出した技師がニコリと笑いながらフィルムを引き抜いている。

 ヒトの世界から落ちてくる写真道具などは下手なものより余程高級品だ。
 魔法や魔道具で動作するこの世界の記録道具と異なり、化学変化を使って生み出される一瞬の芸術。
 当然、たった一枚の写真とて、下手をすれば家が一軒建ちかねない程の金額になる事もある。

 

「もう一枚撮れるかしら?」

 

 片付けを始めようとしていた技師にアリス夫人は声を掛けた。

 

「えぇ・・・・ あと一枚でしたら何とかなりますが・・・・ スペアのフラッシュバルブがあと一回分ですから何とか撮れます」
「そう。じゃぁもう一枚撮ってくれる?」
「はい」

 

 再び支度を始めた技師がいそいそと動き回るなか、アリス夫人はマサミの子供たちを呼んだ。

 

「こっちにいらっしゃい。お父さんとお母さんだけで撮りますよ」

 

 はーい!
 元気に声を出して忠人と麻耶が走っていった。
 義人は一回振り返って両親を見たあと、そっと兄弟の後を追った。

 

「では改めまして! もう一枚! よろしいですか?」

 

 マサミはすっとカナの背中に回ると、自分の胸の前で妻を抱きしめた。
 その太い腕にカナがそっと手を添える。

 

「今日はいい日ね」
「あぁ。ヒトの世界じゃ写真がこんなに貴重じゃないからな」
「写真って良いものね。気が付かなかったわ」
「この世界じゃヒトの世界の便利さが身にしみて分かるよ」

 

 カナを抱きしめるマサミの腕に、いつの間にか痩せ細ってしまった妻の骨の軋みが伝わる。

 

  ―― ・・・・痩せたな。
  ―― いや、痩せさせてしまったな・・・・・・

 

「でも、幸せよ。あなたと一緒に居られるから私は幸せ。」
「そうか。俺もだ。幸せだよな」

 

 自然とこぼれる柔らかな笑みに写真技師が冠布から顔を出した。

 

「実に良い表情ですね。撮りますよ!」

 

 ボン!

 

 遠い日。街の映画館で見たワンシーンのように、全てがスローに見える。
 写真技師とアリス夫人が何事かを話している。
 綺麗に着飾った妻を子供たちが嬉しそうに見ている。

 

 そして

 

「マサミ。良い夫婦だな」
「ありがとう。俺は良い主に拾ってもらったよ」
「そうだな」
「おいおい。ポール・ゴバーク・スロゥチャイムもまた我が主ぞ?」
「そうか、知らなかったよ」

 

 はっはっは!と笑いながらポール公は写真技師に白紙の小切手を渡した。
 アリス夫人も見ている前で技師は金額を書き込み、そこにアリス夫人が決済のサインを入れた。

 

「マサミ!写真が届くのは一ヵ月後だ。楽しみにしていろ!」

 

 まるで我が事のように喜ぶアリス夫人の笑顔に、マサミは何か急に不安めいたものを感じるのだった。

 

 

 

 21時
 写真の後、そのままの姿で夕食をとるマサミの家族。
 今日は子供たちを連れて城下のレストランへとやってきた。
 アリス夫人がマサミに手渡したのは一枚の招待状。
 城下の商工会がマサミ夫婦の為に用意した良い夫婦の記念日チケットだった。

 

「執事様。いや、マサミさんと呼ぶべきですね。おかげさまで良い夫婦の日と言うイベントも広まってきました」
「これは当商工会からのお礼です。どうぞごゆっくり」

 

 会頭と議長の挨拶を受けて席に付いたマサミの家族。
 子供たちも含めて外で食事を取れるヒトの家族が、この世界に幾つあるだろうか。

 

「ここまでやってきた事は無駄じゃなかったわね」
「あぁ、これもカナのおかげだよ。ここまでこれたのは全部」
「ありがとう」

 

 マサミとカナのグラスにワインが注がれた。
 子供たちのグラスにはリンゴのジュースが。

 

「じゃぁ、いいか? 乾杯」

 

 家族揃って食事に出るのはこれが最後かもしれない。ふと、そんな気になったマサミの目がカナを見ている。
 子供たちのおいしい!と言う言葉に目を細めるカナを見ながら、マサミはグッと涙を堪えていた。

 

「カナ。来年も来ような」
「・・・・うん。大丈夫」

 

 たまらず外を向いて涙を我慢するマサミの目に、滲んだ二つの月が写った。
 やや欠けている月の光りが降り注ぐ街に冬を告げる風が吹いている。

 

「冬が来るな」

 

 ゆきだるまー!
 そんな声を上げる忠人にカナが笑っている。

 

  ―― 来年もこうやって過ごせたら・・・・・

 

「大丈夫よ。まだ死なないから。この子が分別付く歳まではね」

 

 マサミの苦悩を見透かしたかのように、カナは静かに笑うのだった。

 

 

 犬国奇憚夢日記 外伝第4話 了 

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