藤本敦士(ふじもと あつし)
- 背番号10
- 1977年10月4日生まれ
- 兵庫県明石市出身
- 右投左打
- 小学生のころにソフトボールで兵庫県大会優勝。育英高では主将を務める。
- その後亜細亜大に進学するも、椎間板ヘルニアを患って1年余りで中退。当初はスポーツへの復帰も危ぶまれたが、賢明なリハビリの末に復帰した。
- そのころ、実家の焼き鳥屋の常連だった「どんでん」こと岡田彰布に紹介されて進学したのが甲賀総合科学専門学校だった。
- 学校を卒業後はデュプロで活躍。当時阪神の監督だったノムさんの目に留まり、2000年ドラフト7位で阪神に指名され入団した。
- 4位赤星、ハァ?事件が起こったのがこのドラフトである。ちなみにSUN者はドラフト1位指名だった。
- ルーキーイヤーは、同じく新人だった沖原佳典(阪神→東北楽天)のケガに伴って一軍昇格。このころは左打の俊足、小柄の身長、背番号からよく赤星憲広に間違われていたらしい。
- 2002年に背番号を56から9に変更。開幕スタメン出場を果たした。翌2003年には規定打席到達に加えオールスターゲームにも出場。矢野輝弘と恐怖の下位打線を組んでリーグ優勝に貢献した。
- 鳥谷敬の加入した2004年以降は本来のショートに加えセカンドを守る機会も増えてくる。2004年はアテネオリンピック日本代表に選出されるも、帰国に大きく調子を落としてしまった。2005年は関本健太郎とのポジション争いを演じる。
- 2006年はオールスターゲームに出場してMVPを受賞。2002年にフレッシュオールスターMVPを受賞しているためダブル受賞となり、蓑田浩二(元阪急ほか)・石井浩郎(元近鉄ほか)・青木に続いて4人目となる快挙を成し遂げた。しかしシーズンでは打率.237と不調に苦しんだ。
- 2007年はシーズンを通して不調に陥る。さらに2008年には濱中・吉野誠←→阿部健・平野恵一のトレードで平野が正二塁手に定着したこともあり控えに甘んじる結果となった。
- さらに2009年にクレイグ・ブラゼル(現千葉ロッテ)の加入でさらに出番が減少。この年国内FA権を行使、kzのケガで即戦力の遊撃手を欲していた東京ヤクルトが獲得した。
- 移籍初年度の2010年はレギュラーを期待され、開幕スタメンこそ荒木に譲ったものの序盤は活躍。
- しかし中盤以降打率を落とし、攻守に乱調をきたしたため後半は主に二軍暮らしに終始する。
- 2011年は開幕二軍スタート。川端の離脱から6月に一軍昇格を果たし、もりすけとともにスーパーサブとしてチームを支えたが、拙守が響いて再び二軍落ち。
- 2012年は主に代打、ファースト、指名打者として出場。畠山の故障から3番・一塁スタメン出場もあった。
- 2013年は二軍暮らしが続く。
最終更新:2013年07月17日 15:26