Mystery Circle 作品置き場

なずな

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nightstalker

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Last update 2008年04月12日

巡花~幾度もの春を数え  著者:なずな



「ときどき、冷たくなった手を、あなたの背中に回して温めてもらったわね」
春めいた陽射しに自分の手をかざし、しげしげと見つめていたセツは、ハジメに向かって頬を赤らめて微笑んだ。
ハジメも今ではもう慣れて、ただ「うむ」と言って頷いて見せる。少しだけ祖父の元市に似せて。
セツは縁側の座椅子にちんまりと座り、幸せそうに茶を啜っていたかと思うと、いつの間にかこっくりこっくりと眠っている。
涼子が気が付いて、ひざ掛けを持って近寄ると、セツはゆっくりと頭を起こした。
「行ってらっしゃい。あなた、お弁当は持ちましたか」
元市が丹精込めて作った庭。沈丁花の香りに誘われて庭に出たハジメの背中に、セツが声を掛けた。

大学とバイトの合間に病院に行って、そんな話を祖父の元市に伝える。それがハジメの日課だ。
母の涼子は家で、セツのことを見ていなくてはいけないから、病院通いはほとんどハジメの分担になっている。
 ─婆ちゃんが元気で毎日笑っていて、昔の思い出を語ることであんなに顔が輝くのなら、それもいいじゃないか、
たとえ、婆ちゃんがもう誰が誰だか解らなくなって、俺と爺ちゃんを混同してるとしても。

セツと一緒に長い道のりを歩んできた元市が病の床で聞いて喜ぶならと、ハジメは定期便のように「その」話を送り続けていた。
話を聞きながら元市が頷く以上のことをしないのは、照れているのだとハジメはその頃思い込んでいたのだ。
 ─もともと無口なじいちゃんだったし。

 *
セツが頬を染め、思い出に語る「あなた」の全部が全部、イコール元市ではないということが発覚したのは、
まさにその「手を背中に回して温めて・・」の話の後だった。
その話を詳しく聞こうと、冷やかしぎみに、
「背中で温めるってさ、なぁ、爺ちゃん、どんな風よ、こうかぁ。それともこんな?」
ハジメが一人二役で実演して見せると、元市はハジメから視線を逸らし曇り空が広がるだけの大きな窓に顔を向けて、ぽつりと言ったのだ。
「・・・ワシは・・知らん」

一瞬冗談かと思ったが、元市の様子に笑い事で済まない何かがある気がして、ハジメは出しかけた笑いを急遽引っ込めた。
照れてるという風でもなく、ましてやセツのように記憶があやふやになった訳でもない。
まくらの上で首だけ動かしハジメの方に向き直ると、元市はへの字に結んだ口をゆっくり開いた。
「恋愛映画に行ったのも、洒落たレストランの思い出も、ネッカチーフのプレゼントも・・」
確かに爺ちゃんのキャラじゃない。
「ワシじゃない。それは・・・」
じゃあ、誰だよ?
「それは、アレの若い頃の想い人だ」
ふぅ・・とため息ついて 元市はハジメに語り始めた。


 *
「小さな頃から近所でな、ずっと一緒におったし、周りからも当たり前のように許婚扱いにされてたしな。
そのまま波風立たず すんなり夫婦なって、一緒に歳を重ねることしか考えておらなんだ」
夕闇迫る病院のベッド。もともと小柄だった元市は 病のせいで筋肉も落ち、ますます小さくなった。
若い頃からずっと同じの角刈りの頭髪も、すっかり白くなっただけでなく、地肌が透けて見えている。
贔屓目にも男前とは言い難いが、笑うと愛嬌のある四角い顔も 何だかどんよりくすんで見えた。
院内は夕食の匂いが仄かに漂い、沈黙の間に 配膳車の軋む音とスリッパのペタペタいう音が聞こえた。
隣のベッドの老人は小さな鼾をかいて眠っている。

二人同じ高校を卒業してから、元市は家業の植木屋で修行に入り、セツは大きなビルの電話交換手になった。
「ハイヒール履いて、綺麗な色のスーツ着て、くりくりっと、こうパーマかけて・・そりゃあ、眩しかった」
元市の脳裏には、若い頃のセツがくっきり浮かんでいるのだろう。
「惚れ直した?」
ハジメの問いかけに元市はちょっと目線を外し「うむ」と言った。
顔が赤いのは夕日のせいだけじゃなさそうだ。

「その会社にいたのが 沢原という上司でな・・」
セツの若い頃の姿をまだ想像しかねているハジメに、元市は更に続けて言った。
「妻も子もいるその上司に、よりにもよってセツは熱を上げよった」
「熱・・上げたって、それ?」

「婆さんがお前に重ねているのは ワシよりきっとその男なんだ」


 *
帰宅したハジメの話を聞き、涼子は目をまん丸にして絶句した。ひとり娘である涼子も初耳の話だった。
植木職人見習いの元市は、セツの入社以来「背が高くてスマートでハンサムでダンディなサラリーマン」沢原の話を毎日のように聞かされた。
実際、セツが沢原に会うためにお洒落して出かけて行くのを 元市は剪定中の木の上から何度も見送っていたという。
「ワシは洒落た事ひとつ出来ん、この通りの無骨者だしな。背も、はぁ・・伸びんかったし」
「でも、結局爺ちゃんと結婚したんだから・・」
「うむ・・・」
「一時の憧れとかだったんじゃないの?」
セツが贅沢したりお洒落して外出したがったりする様子を、ハジメは見たことがない。
思い出すのは毎朝元市に弁当を作って渡すところや、休日に二人でTVの時代劇を見る姿だ。炬燵の上には蜜柑とかりんとう。
渋めのお茶を啜りながら 次に咲く庭の花のことなんかを語らっている二人の姿だった。
「・・・・アレは・・いつも笑っとった。何の文句も言わず連れ添ってくれた。」
けど、ずっと気にはなっていたのだ。正論言って沢原から無理矢理引き離した自分のことを本当は怒ってたのではないか。
沢原のことを・・心のどこかで忘れられずにいたのではないか。
元市は、ぼそぼそとそんな風に言い 大きなため息をついて布団を頭まで被って黙ってしまったのだった。


「ふうん、おセッちゃんも 結構やるじゃない」
台所からいきなり声がした。驚いて見ると奈央が冷蔵庫を覗いている。
「あっ、小母さんの肉じゃが、残り発見。いいなぁ、きっと今日は煮魚だ。あ、これ早く使わなきゃダメだよ、きゅうり萎びかけ」
「他人んちの冷蔵庫、勝手に物色すんな。大体いつからそこにいたんだよ。週末でもないのに」
「何よ、帰ってきたら悪い?あは、ハジメちゃん子供ぉ。プリンにこんなことして、そこまで好き?」
ハジメ用、とマジックで大きく書いたプリンをつまみ出し きゃははと笑う。素っピンだとてんで幼い顔のくせに、いつも人をガキ扱いする。
「婆ちゃんに解るように書いてんの。そんなこと言うならオマエ絶対に食うなよ」
「やだ、3コパックじゃない。一個くれたっていいでしょ」

短大を卒業して家を出て、望んで一人暮らしを始めたくせに、奈央はいつも週末には戻って来ていた。
元市が建てた敷地内のアパートに子供の頃越してきた奈央。父親と二人で、引越しの挨拶に来た時のことをハジメは覚えている。
人見知りの激しい、口数の少ない女の子だった。セツが奈央の頭を撫ぜて「いつでも遊びにおいで」と言うとコクンと頷いた。
それから少しずつ奈央はハジメの家族に馴染み、父の帰宅までの一人きりの長い時間を、元市の仕事を眺めたり、セツと縁側で茶飲み話をして過ごすようになった。
夕方になると涼子と一緒に料理をしては、出来た料理を小鍋に入れて 家に帰っていった。
「小母さんに教えてもらった料理作るとね、父さん凄く喜ぶんだよ」

いつだっただろう、奈央ちゃんもかわいそうだよねぇ・・と涼子がふと漏らしたのをハジメは思い出す。
母親が浮気して出て行ってしまったのだと後から聞いた。残された父娘が引っ越さねばならなかった事情までは解らない。
酷いよね、その相手も相手だわ・・。
あの時、婆ちゃんは何と答えたんだっけ・・ハジメは記憶を辿って考えた。
お人良しで子供好きだったセツが、そんな奈央の話を聞いて 何も感じない訳がない。

「会社なんかにいるとね、相談に乗ってくれたり傍でさり気なく助けてくれる男が 良く見えちゃったりするんだ」
奈央が慣れた手つきで食器棚から皿とスプーンを出しながら呟いた。
「妻がいるとか子供がいるとか、そういうこと考える前にね、自分といる時間だけがその人の全てみたいに錯覚するの」
プリンを皿に出してるだけなのに、その真剣な横顔は何だろう。
素顔の横顔を見ながら くっきりメイクした「仕事用」の顔をハジメは思い浮かべる。奈央はその、作った顔を「戦闘モード」と呼んだ。
「思いが募り出してからやっと気が付くんだ。見えてなかった色々なこと」
「何だよ、解ったようなこと言って・・それ、誰の話だよ」
大体そんな深刻な話じゃなかったかもしれないし・・ハジメがセツのことを思って言葉を返すと
「解ってなんかないよ。どうしたらいいのか・・解らないよ」
ドンと奈央がテーブルを叩いた。てらてらと光るカラメルシロップを載せたまま、プリンが揺れた。
奈央の態度に驚いて、ハジメが口を開こうとすると
「『遊んでるだけの学生さん』には・・解らない・・ってことよ」
奈央はすぐにいつもの小生意気な言い方に戻り、大きく掬ったプリンを口の中に放りこんだ。
流し込み、呑み込んでしまいたかったのは何だったのだろう。奈央の抱えているものが気になったが
涼子が様子を伺う気配を感じ、ハジメは元市とセツの話に戻した。
「オレはともかく、爺ちゃんは『遊んでるだけの学生』なんかじゃなかったよ、少なくとも」

「あら、看護婦さん いつもお世話さまでございます」
時代劇の主題歌を口ずさみながらやって来たセツが暖簾越しに台所を覗いて、奈央に深ぶかと頭を下げた。
「あら、おセツさん、お加減はいかがですか。」
奈央が調子を合わせて 脈でも診るようにセツの腕を取る。
「おかげさまで 調子はよろしいです」
セツは人懐っこい笑みを満面に湛えて、奈央にいつもと同じような身体の具合の話をし始めた。
奈央は気長にセツの話に付き合ってくれる。
「有難いわね。奈央ちゃんが来てくれて」
涼子はセツの嬉しそうな顔を見て、つぶやいた。


奈央はいつの間にか家に戻ったようだ。白いコブシの花越しに見えるアパートの、奈央と父親の住む部屋に温かな色の明かりが灯っている。
セツは相変わらず能天気な様子で 大音量を流してTVを観ていた。


 *
「まさかねぇ・・」「ハジメって意外と背が高いよね」「いや、そんなことは・・」
涼子は独り言を言いながら 押入れを探して古いアルバムを出してきた。 
セツの若い頃の写真を眺めては 鏡で自分の姿を見、次にハジメを上から下までまじまじ見つめる。
セツがハジメの支えで歩く時などに、嬉しそうな顔をして寄りかかるその姿を見る目も少し変わった。
昼のドラマ好きの涼子の気にしそうなことは ハジメにも想像できる。 
ちょっと話が飛びすぎなんじゃないの?そんなことも容易に言い出せず、ハジメは涼子の視線をかわす。
ハジメはハジメで、病身の元市にあんな話をして散々傷つけていたのかと思うとすっかり気落ちして、見舞いに行く足も重い。

「あった、この人だわ きっと。」
涼子が、OL時代のセツの写真を見つけ指差した。背の高い繊細な雰囲気の男性が、若い女子社員に囲まれて笑っていた。
丸顔で健康的な若い頃のセツ。人懐っこそうで根っから陽気な雰囲気を差し引けば 顔のつくりは涼子にそっくりだとハジメは思う。
茶の間からは TVの音声と共に、大好きな俳優の台詞にひとつひとつ返事をするセツの声が聞こえて来た。
「どれどれ」
用事に立った涼子と入れ違いに、縁側からひょいと奈央が入ってきて、一緒にアルバムを覗き込んだ。
「お前、まだ帰ってなかったの。休暇だなんて言ってなかったくせに」
ハジメの言葉を無視して、奈央は勝手に他のアルバムをめくっている。
あれ、と思ったのはその日の奈央がちゃんとした洋服を着てメイクをしていたからだった。

「仕事 行くつもりだったんじゃないの?」
「うん。今日こそ行こうと思ってた」
何でもなげな言い方で答えはしたが、昨日の会話といい、奈央が何かで相当参っていることはハジメにも解った。
「行ってないの?行かなくていいの?・・行けないの?」
小学校に馴染むまで、いつもハジメが迎えに行って一緒に登校した。あの時も奈央は朝、いつもこんな不安げな表情をしていた。

「仕事・・行くのもなんだけど、その後マンションに帰りたくないの。帰ったらダメなの」
奈央が急に幼い子供のように途切れ途切れに話を始めた。
元来 奈央は話下手な女の子だった。先回りして聞いてやらないと、自分のことを上手く語れない子だった。
見た目がすっかり変わって大人っぽくなっても、やっぱり昔のままの奈央がそこにいた。
「来ちゃうの。あの人が来ちゃったら・・。」
「来たら嫌な奴?来て欲しくないって言うのに来るんだ?」
違う、違うの、と奈央が激しく首を横に振る。
「・・・・喜んじゃうの。そんな自分が嫌なの」
「奈央?」
「もうやめようって決めたのに、ダメなの。」
「ダメって決めたのに、用意してるの。冷蔵庫をいっぱいにして。気取ったデザートなんか並べて、ハーブ添えたパスタなんか作って」
無理に笑おうとした奈央の瞳が ゆらゆら揺れた。
「お母さんに捨てられて自分がどれだけ寂しかったかとか、解ってる。相手を離婚させたいなんて絶対に思わない。」
ぐいと握ったこぶしで拭くから、マスカラの黒が目元から頬に線を引いた。
「本当はハジメちゃんちの冷蔵庫の中身みたいなのが 大好きなの。大好きなのに。」
しゃくりあげた奈央はもう止められなくなっって、おんおんと泣き始めた。
誰かに苛められた時、悲しかった時、セツに背中を撫ぜられて泣いていた奈央の姿を思い出した。
そろそろと、奈央の背中に手を回す。奈央の温もりがハジメの手に伝わった。

 *
アルバムと一緒に出てきた 古い年賀状の束。その中にOL時代の友達らしき人の名前と電話番号を見つけた。
「あたし、この頃のセッちゃんのこと、知りたい」
いつ抜き取ったのか、奈央がセツの若い頃の写真を一枚持って 眺めながら言う。
「ねぇ、会いに行っちゃいけないかな、この中の誰かに」
「亡くなっているかもしれないよ。婆ちゃんがあれだもの、たとえ会えたとしても記憶に期待できないかもしれない」
奈央は何を聞き出したいんだろう。聞き出したとして、それは奈央のためになるものなんだろうか。
それより爺ちゃんの慰めになるものなんだろうか。
「セッちゃんともっと話が出来たら、一番良かったんだけどな」
ふらりと一人で出て行こうとするセツを呼び止める、涼子の声が庭まで響いていた。

ハジメ自身もこのままでいられない気がして、迷いながらもセツへの年賀状を抜き出し、順に電話を掛けてみることにした。


 *

「沢原課長・・ああ、いい男だったわよ」
白髪を淡い紫に染めた春子さんは 自身がカラオケ教室をやっているという喫茶店で会ってくれた。客は年寄りばかりだ。
想像したよりずっと元気そうで、記憶もしっかりしている。
年賀状に書かれた電話番号からやっとコンタクトを取れた人が紹介してくれた、当時のセツの同僚だった。
「面倒見が良くてね、よく食事に連れて行って頂いたりしたわ。」
セツのアルバムにあるのと同じ写真を 自分のバッグから出してきて、懐かしそうに目を細め
「セッちゃんと?特別な関係だったかどうかは私には解らないわ。噂は確かにあったけどね。でも沢原さんは皆の憧れだったのよ。」
ほっとしたような、気が抜けたような不思議な気分だった。
当たり障りのないセツの若い頃の話から、春子さんの身の上話に話は流れ、合間に春子さんの歌まで聞いた。
3曲目がやっと終わった後、
「そうそう、セッちゃんはあの植木屋さんと結婚されたんでしょ?」
春子さんはソファに腰を下ろしながら思い出したように言った。
「爺ちゃ・・祖父をご存知なんですか?」ハジメが膝を乗り出した。
「覚えているわ、会社に乗り込んでらしたのよ。すごい剣幕で。こう、沢原さんの襟首つかんでね・・『セツを誑かしてるのはお前か』ってね」
仕事着の法被着て、鋏持って オフィスビルに乗り込んだ・・じいちゃんの雄姿・・ハジメは想像する。
「女の子たちはね、皆 恋に恋する年頃だったのよ。」と春子さんは笑って言った。
「『恋に恋する』?」
それまで黙っていた奈央が身体をぴくりと動かし、春子さんの言葉を繰り返した。
「そう『大人の恋』。身を焦がすような強い想いとか 醜い嫉妬とか道徳の教科書には書けないような、そんな恋も含めてね」
春子さんの視線が奈央からハジメにゆっくり向けられ、もう一度奈央に戻った。
「あんなに大事に思ってくれる人が空気みたいにずっと傍にいて。ふふ、セッちゃんも贅沢ね。」


問われるまま、ハジメが今のセツの状況を話すと、春子さんはしゃんと座り直して聞き入ってくれた。
「どんな風にボケたいとかボケたくないとか、私たちもよく話すのよ。」
周りのお年寄りの客に目をやりながら 
「やたら疑い深くなったり 恨み言言うようになっちゃう人も多いけど・・こればっかりは自分ではどうしようもないのね。
だけど、セッちゃんみたいに幸せな思い出話ばかりできて、にこにこ笑っていられるのって、素晴らしいじゃない?」
 ─沢原さんとの思い出も嫌な終わり方をしていたら、こんな風には残らないわ・・
春子さんはそう言って、ハジメの背中をポンポンと励ますように叩き、薄い色の付いた老眼鏡の中で、ふんわりと笑った。
「きっとセッちゃんの人生は今までずっと 心穏やかで幸せだったんだと思うわよ。」

誰との思い出だか、こんがらがって解らなくなっても?
こんがらがった頭のせいで、大事な人を傷つけちゃっても?
そんな疑問も頭をかすめたけれど春子さんまで傷つけそうで、ハジメもそれ以上は言えなかった。
「有難うございます。そうだったら、いいな、って心から思います」
春子さんはハジメの顔をじっと見て、満足そうに頷くと 大事な秘密を打ち明けるように小声で言った。
「いいお孫さんね、ここにやって来た時の顔つき、あなた、本当にあの時の『植木屋さん』そっくりだったわよ。」
そして別れ際、始終別のことを考えていたように見えた奈央の手を取って 
「貴女もね、ちゃんといい恋をしなさいね。寄り道さえも、懐かしい思い出にできるように」
春子さんはかみ締めるように言った。
「セツさんが貴女に言ってくれるとしたら、きっとそんな言葉だと思うわよ」

 ─もう十分だ。爺ちゃんは婆ちゃんのこと本気で守ろうとしたんだし、婆ちゃんはそれに応えたんだし。
婆ちゃんは幸せ者で。今もふわふわ幸せで。
母さんは気づいてないのかもしれないけど、爺ちゃんのアルバムに挟んであった、宴会の時女装した姿は、まんま、母さんだったんだ。これだけは間違いない。
「今度 病院に行く時はさ、婆ちゃんがよくオレに言う『あなた、お弁当持った?』とか『あなた お風呂先に頂きましたよ』とか
そういう普通の言葉の方を沢山 爺ちゃんに伝えてやろう。」
帰り道、奈央に向かってハジメはそんな事を話し続け、奈央はずっと黙って聞いて、コクンコクン静かに頷いていた。
朝に出てきたのにもうすっかり日は暮れている。街灯の明かりを受けて早咲きの桜が ぽおっと薄いピンクに透けていた。


「中学の時だったかな、あたしが先輩に振られた時セッちゃんがね、言ってくれたことがあるの」
「婆ちゃんが?」
「一番自分を大事にしてくれる人を見間違ったらダメなんだよって。」
「そんなことあったっけ?」
奈央の片思いも、奈央の失恋も、ハジメは全部知っていた。
「でもその時、あたしは自分のことより、離婚した母さんと父さんのことを 思い出してしまってね。
ああ、うちの親はきっと『見間違って』結婚してしまったんだ・・って言った。」
何だ、婆ちゃん 慰めになってないじゃん・・ハジメは思う。
「悲しくなって泣きだしたら、セッちゃんおろおろしてしまってね
子供を悲しませたらいかん、どんなことがあっても子供を不幸にすることだけはいかん・・って自分の頬っぺた両手でパシパシしながら、庭先を行ったり来たりして、最後に『ごめんよ、ごめんよ』ってぎゅうぎゅう抱きしめてくれたの」
ああ、婆ちゃんらしいや。ハジメはセツの丸っこい顔と血色の良い頬を思った。

「セッちゃんのその言葉、そのまんま、あたし自身に言わなくっちゃいけない」
ぽつりと言ってから、奈央はその後ずっとずっと空を見上げて歩いていた。
足元危ないじゃない・・・ハジメが手を伸ばし肘を掴むと、ふわりと奈央が身体の重みを預けて来た。
「お父さんがいて、ハジメちゃんちが隣にあって・・セッちゃんや、ハジメちゃん達がいたから、寂しいことや悲しいことがあっても、あたしは全然不幸じゃなかったよ」



 *
ユキヤナギの溢れる出すような白い塊の向こう、奈央が手を振っている。
奈央達の住むアパートとの間の、伸びすぎた生垣を手入れしようかと、ハジメは庭に出たところだった。
「明日から仕事、行くよ」
「おう。助けがいるなら遠慮せずに言えよ。乗り込んでビシッとキメてやるから。襟首掴んでさ」
「有難う。でも 自分のことは自分でカタつける。ちゃんとやったらまた戻ってくる」
奈央は「戦闘用」にきっぱりメイクした顔を、くしゃりとさせて笑った。
「お父さんを宜しく。無事任務終了したら報告に来る。ご褒美にプッチンするプリン、冷蔵庫にいっぱい入れておいてね。」

シザーハンズみたいに植木を動物の形に刈り込めないかな、帰ってきて爺ちゃんたまげるだろうな、なんて考えていると
いつの間にかセツが後ろに立っていて、ハジメの手元を熱心に見つめていた。
今のオレは婆ちゃん、誰に似てる? 婆ちゃん、今誰がそばにいて欲しい? 
ハジメが振り返ってセツの顔を見ると、セツは童女のように目をくりんとさせて夢みるように言った。
「今年も花の季節がめぐってきますのね、あなた」
ああ、そうだね。ほんとうだね。季節は巡り、順に花が咲くんだね。
庭石に寄り添うようにワスレナグサの小さな花が揺れている。
以前に球根を植えたまま特に世話もしないのに、また水仙が黄色い花を咲かせている。
セツの銀色に光る髪を、柔らかな春の風がふわり揺らした。




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