Mystery Circle 作品置き場

黒沢柚月

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nightstalker

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Last update 2007年10月08日

月夜 著者:黒沢柚月


もっと驚いたのは、知っていながら彼が今まで黙っていたことだった。
いきなりガツン、と殴られたかのような衝撃が走る。


「――何故、黙っておられたのですか」



月が哭く。



彼女の口から堰きるようについてでた言葉は、受け取る者のないままにこぼれ落ちた。
彼女は考える。言葉を捜し、一言一言を紡いでいくまでの時間がひどく長く感じられる。
目の前にいるのだ。私にとって最も遠く、最も近くに心を寄せたその人が。


「ご察しのとおり、私は貴方のようなお方の隣にいるべき人間ではございません。
姉のような才能も、学歴も、人としての魅力もない。ただ、――ただ、貴方にお近づきになりたいがために、貴方との見合いを控えていた姉と入れ替わったのです」


彼の目は穏やかな灯りを宿しながら、それでも何も語ろうとはしない。
沈黙に促されるように、彼女は再び口を開いた。


「姉には、想い人がおりました。決して叶う恋ではありません。ですが、姉は見合いを受けることを拒みました。
――たった一人の愛すべき人のために、他の人間を切り捨てていたのだと思います……それは、私にとっても分からない感情ではないのです。
私にも、お慕いしている方がおりましたから。」


それが貴方です、と心の中で付け足して、切なさに胸が締め付けられる。
ずっと心の片隅で、想い続けてきたのだ。――愛しい、愛しい人。



幼い頃、父親の書斎から見つけた一冊の本に、彼女は束の間の幻想をみた。
かつてない世界を知り、惹き付けられている自分に、甘い陶酔を覚える。
この物語の書き手は誰だろう。この方はどんな瞳で世界を見ているのだろう。
長い間、会わずとも恋した彼を想い、その小説を抱えて生きてきた彼女にとって、悩む姉に見せてもらった縁談相手の写真は魅惑そのものだったのだ。


手にした写真に写っていたのは、かつて彼女を虜にさせた彼その人だった。


とても繊細で、良い文章を書かれる方よ。私なんかとは大違い。
姉は言った。
「だけど、お受けするわけには行かないの…こんなに浮ついた状態で、他の人を見る事は私には無理だもの」
同じ作家仲間の伝で縁談話を持ち込まれ、いつものように困惑する姉を前に、彼女は口走った。




―――…お姉さん、お断りするなら、代わりに私の写真をお送りしてよ。




姉は目を見開いた。
両親も反対しないはずがなかった。
姉は姉だから選ばれたのだ。作家としての道を進んでいた姉だからこそ、幸福へと導くような縁談が舞い込んできたのだ。
彼女はそれを承知で、彼への想いを形にしようと考えた。
私はお姉さんのような才能や美しさは持ち合わせてはいない。
『―――でも、お会いしたい。』
ただその一心だった。




「貴方の元へ送られたのは私の写真だったはずです」
声が微かに震えた。
罪悪感以外の何者でもない。愛する人を騙した、当然の結果だ。
「…何故、姉のものと2枚届いたと、最初から入れ替わっている事に気づいていたと、仰って下さらなかったのですか…?」
最後は泣き声混じりだった。
「お気づきになっていたのなら何故、ずっと私を愛して下さったのですか…?」



月が哭く。



「僕はねぇ、」
風が伝えたのは、常に変わらぬ彼の穏やかな声だった。
「人間を書きたかったんだ」


「僕の趣味は、言うなれば人間観察だ。その人の中に隠されていた良い部分を書き出そう、そう思ってもの書きになろうと決めた。
時には奥深くにある醜さも見えたよ。僕の元へ2枚の写真が届いて、君と初めて出会った時には、『あぁ、僕は騙されたのかな』とも思った。
でも…やっぱり僕が作家だからかな。何でか創作魂が疼いてね…これも小説に出来るかな、などと考えてしまったんだ」
彼はゆっくりと笑って彼女を見た。
あぁ、この瞳だ。この瞳が広大な世界を言葉に変えていった。私はこの瞳に魅せられたのだ。



「最初は試しだったんだよ?でも、二人で川淵を歩いたり、こうして他愛もない話をしてるうちに、
小説のネタだということを忘れるくらい夢中になった。まぁ、恋愛なんて我を忘れてのめり込んでこそ愉しいものだよねぇ」


「――私は貴方が好きです」


彼女が呟いた。


「でも、私は貴方を騙した…明らかに、私に否があります。私の馬鹿げた身勝手さが、貴方のような方に迷惑をおかけしたのです。迷惑なんて小ささではありません…」


だが、今の私は確かに満たされている。
彼女は罪悪感と緊張でつぶれてしまいそうだった。愛する人を前に、このまま死さえも受け入れてしまいそうだった。
罪のある私を愛してもらえた。
愛してもらえた。
それだけで十分なのだ。



「・・・っ」



小さく嗚咽がもれる。



「・・・貴方の恋愛遍歴を潰して、まだ酔い痴れていたいと望む私がいます。私は…私は、自分が嫌いです…っ」



可笑しそうに彼の目が細くなった。だんまりと夜の闇が2人を包む。
僕たちは何を問題としていたのだろう?
闇を前にしたら、すべては虚無に還るじゃないか。



「酔い痴れちゃえばいいじゃない」



月が哭いた。



「いい月だねぇ…まるで貴女の名前のようだね、美月」


涙が溢れて、一筋の道を刻む。
夜空にとろりと溶けた満月が、幸せそうにその身を燻らせた。
彼女は想う。
これを幸福と呼ばずして、なんと呼ぶのだろう。
彼から私にむけられる怨嗟があるとすれば、それは無言の他にないのだから。





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