〇 ショーペンハウアー

カントの現象と物体との二元論に対し、フィヒテシェリングヘーゲル等はこれを克服するため、
理性一元論をとった。これに対して、ショーペンハウアーは、現象と物自体の区別を承認する。
ショーペンハウアーによれば、物自体は意志であるとされる。
世界は意識の仮現にすぎないのである。


〇 『意志と表象としての世界』 ショーペンハウアー

『意志と表象としての世界』は四編に分かれている。
第一編は現象としての世界である。
これはカントの認識論をショーペンハウアー流に展開させたもので、世界が現象であることを論証する。
第二編は意志としての世界である。
意志は世界最深の本質である。
意志とは、もともと衝動や欲求であり、タンタルス的な悩みが意志であり、
充たされることは永久にありえない。
第三編は芸術論である。
芸術によって、意志は自己を超脱して平安になる。
第四編は永久的解脱である。
これは結局、意志の断滅によって達成される。
意志がある以上、われわれの悲劇は耐えることがない。


〇 意志

人間が生きていく根源は知でも理でもない、盲目的な意志である。
知や理は単なる案内人にすぎなく、我々は生きなければならないのであって、
意志がその根本にあるのである。
したがって、意志こそが人間の本質であるといえる。
意志は死によって、むしろ、一層新しい意志へと移る。
再生せんとする意志である。
そして、それをつかさどるものが生殖である。
生殖によって、意志は死を克服するのみならずさらに飛躍する。
意志を客観化したものが生殖であり、それゆえ、生殖は意志の焦点であって、
知の代表物である頭脳と正反対の極をなす。

意志はあらゆる生命および、無生物の本質であり、人間の意志であるから、
世界の本質もまた、意志でなければならない。

意志は、カントが説いたような時間・空間・因果関係というアプリオリな形式を
通じて初めて現象になって現われるといえる。
では、個々のいろいろな姿、形を持った個物体はいかにして成立するだろうか。
彼は、世界の根底としての意志が、個物界に転ずるための介在原理として
個物を転じる。現的意志は、イデアを通して個別化し、
個別化した意志は時空などの形式によって下界を算出する。


〇 厭世主義

世界の本源が意志であるとすれば、世界は苦の世界でなければならない。
意志は欠乏を意味し、その働きは常に欲求として現われるのみならず、
意志そのものは、盲目的、非理性的であり、限度はなく、不満は永久である。
生きることは苦痛である。
欲望は欲望を生んで、結局、果てしない欠乏と苦難が続く。
その上、意志は高等なものになればなるほど、多くの苦痛を持ち、人間がその頂点である。
また、人間の中でも知のあるものは、さらに多くの苦痛を感じる。
智慧とは、盲目性を脱却する知性の働きである。
こうして智慧の力によって、たとえ一時的であるにしても、我々は意志を制御することができる。


根本的な意志の征服はいかにして可能だろうか。
第一に、意志は生殖本能によって、もっとも強烈に現れるから、生殖意志を完全に遮断する。
第二に、利己心の絶滅である。
童貞、素食、清貧が完全なる意志制御の三大要件である。




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最終更新:2007年10月04日 23:51