末路(順)《前編》
現在の
羽川翼は羽川翼であって羽川翼でない。
その所以はもちろん、
時宮時刻の施した想操術である。
殺意の増幅、戦闘意欲の増大、思考の短絡化、肉体的リミッターの解除。「殺し名」に匹敵せんばかりの度し難さを、今の羽川は会得している。
いや、むしろ失ったというべきか。
現在、羽川翼の持つ武器はふたつ。全身武器にして変幻自在のからくり人形、日和号こと微刀『釵』。絶対の切れ味を誇る日本刀、斬刀『鈍』。
どちらも持ち主の腕前と使いようによっては一個兵器にも相当する武器である反面、普通の人間が気軽に扱えるほど行儀の良い代物でもない。
そんな武器を羽川がふたつ同時に使いこなせているのも、ひとえに『時宮』の成せる業、と言える。
ただし、そんな羽川を時宮の単なる傀儡として見るのが正しいかといえば、そう断言はできない。
西東天は、羽川の特殊性が一般人の尺度からしか認められないものだと指摘した。
時宮時刻は、羽川に想操術を施しはしたものの、直接の支配下に置こうとはしなかった。
どちらにしてもそれは、羽川の能力が戦闘においてそれほど特出したものではないと見限った上でのものであったのだが――しかし。
鑢七実、
とがめ、
否定姫、そして羽川翼。
ゲーム開始から現在時点まで、およそ六時間弱。その間に時宮時刻と関わってきた者のうち、羽川翼だけが唯一、想操術による支配下に完全に陥りきっていない――という事実を踏まえた上でなお(時宮時刻はそれを自らにかけられた制限のせいであると解釈していたが)、彼らの指摘、選択が妥当なものであったと言えるかどうかは、疑問を挟む余地があると言わざるを得ない。
羽川翼。
彼女もまた、怪異という名の異常に関わりをもった人間のひとりであり、十分に異常と呼べるだけの資格を持つ人間だったということ。そしてそんな彼女に、『呪い名』という厄介な属性をもつ人間のひとり、時宮時刻が先に関わってしまったということ。
それを見逃してしまったことは、西東天にとって取り返しのつかない失点となる。
◆ ◆ ◆
それは時間にしてものの数秒程度の出来事だったにも関わらず、奇野にはその一連の流れが、数十秒から数分にも渡るゆったりとした映像のように見えていた。死の間際、時間の流れがゆっくりに感じるという一種陳腐ともいえるシチュエーションを、奇野は現在進行形で体感していた。
エレベーターの天井をぶち抜いた日和号がボックス内部へ一直線に落下してくる間、奇野が背を預けているエレベーターの扉が静かなモーター音とともに開き始めていた。ひどく緩慢に、永遠に開ききらないのではないのかというくらいの速度で。
着地の音とともに奇野の正面にそびえ立った日和号が、四本の腕を同時に構える。握られているのは、当然のように刀。四本が四本とも妖しげな光を放つ鋭い刀身とは対照的に、奇野を見据えるその眼は最初から何も映していないかのように冷徹。
背中に感じている扉の開きが、片手が通るくらいの間隔にまで広がる。片手だけしか通らないということはつまり全身は通らないわけで、全身が通らないということはつまり逃げ道にはなり得ないということで、今の状況は言うなれば日和号が刀を振り下ろすのと扉の隙間が奇野の通れるくらいの隙間にまで広がるのとどちらが先かで逃れられるか否かが決定されるという場面であるわけなのだが、これはどう考えても刀のほうが間違いなく先に来るだろうと、奇野の感覚ではたっぷり十秒もの時間をかけて冷静な分析がなされる。実際には、それはコンマ一秒にも満たない極小の時間の中での思考であったのだが。
ぐぉんと、空気を歪ませる音とともに、四本の刀が一斉に奇野へと斬りかかる。
避ける余地などあるはずもない。速度的にも、空間的にも。
刀の閃きのひとつひとつまではっきりと視界に収めたその瞬間、頭頂部に異様な風圧を感じる。ぎゅうん、と頭上で何かが高速で通り抜けてゆく感覚。同時に、平衡感覚を失いかねないくらいの勢いで耳をつんざく、強烈な破裂音。
何かと思う間もなく、日和号の身体が突如として床から浮き上がり、背後の壁へと向けて大仰に吹き飛ぶ。エレベーター全体がひしゃげるのではないかというくらいの衝撃とともに、背中から壁に叩き付けられる機械仕掛けの肢体。それでも律義に振るわれた刀は、まとめて虚しく空を斬った。奇野はもちろん何もしていない。スローで再生される目の前の光景を、ただ呆然と観賞しているだけである。
そこで奇野は自分の頭上、両腕が通るくらいにまで開いた扉の隙間から、黒光りする細長い物体が差し込まれていることに気付く。それがライフルの銃身だと理解するまでに、奇野は体感時間でまた十数秒を必要とした。
立て続けに二発、三発と放たれる銃弾。その銃声に合わせて、弾かれたように跳ね上がる日和号の身体。いや、実際にこれ以上ないくらいに弾かれてはいるのだけれど。エレベーター全体も同様にがくんがくんと振動し、故障しやしないかと無駄な心配を煽るが、すでに天井に大穴が空いている状態なので、あれに比べれば大したことはないだろうとこれまた無駄な結論をつける。
頭部と胴体に、合計で四発の弾丸がぶち込まれたところで、等間隔で放たれ続けていた銃声がぴたりと止む。さらに扉が完全に開ききり、背もたれを失った奇野はエレベーターの外へと仰向けに転がって、後頭部を床に激突させる。痛みは感じなかったが、代わりに映像のスロー化が解除され、通常の時間感覚を取り戻す。
仰向けに寝転がった姿勢のまま、奇野はそこにいる人物を視界に映す。
両手で抱えるようにしてライフルを構えたその人物は、日和号に合わせた照準をそのままに薬莢をリジェクトする。空薬莢が奇野の頭のすぐ脇に落ち、冷えた音が鼓膜を叩いた。
標的が再び動き出さないことを確信したのか、その人物はようやく構えを解き、ライフルを下ろす。足首まで届く長い黒髪をふわりと揺らし、奇野のほうに視線を移す。
「大丈夫ですか、生きてますか、奇野さん」
奇野を真上から見下ろしながら、
萩原子荻はそう言った。
投げかけられたのはたったそれだけの問いだったが、今の状態では逆に「俺生きてるのか?」などと問い返しかねないような気がしたので、とりあえず沈黙することを選ぶ。
しかし子荻は、そんな奇野の様子から何を感じ取ったのか「どうやら、大丈夫のようですね」と軽く微笑みながら言った。
そうか大丈夫なのかと、それを聞いてこの上なく他人事のような感想を抱く。
いつまでも起き上がらない奇野に差し出されたのは、なぜか手ではなくライフルの銃身だった。
奇野は何も言わなかった。
「いやあ、間一髪でしたねえ」
日和号をエレベーター内に残し、場所を移動する。依然として閉じ込められている状態なので建物の外に出ることはできないが、移動した先はある意味、外とも言える場所だった。
屋上である。
ふたつ隣の建物にいたはずの子荻がなぜここまで移動してこれたのかという奇野の疑問に対し、子荻は事なげに「屋上から飛び移ってきました。建物どうしが近接しているので、わりと簡単に移動してこれるんですよ。気付かなかったんですか?」と言った。
気付かなかった。というか、屋上があるという可能性すら失念していた。
そう言われてみると、あたかも間を飛んで移動するための配置であるかのように、すべての建物が数珠繋ぎに連なっているように見える。子荻は外から見た時点で、その可能性に思い至っていたらしい。
だったら教えろよ。
「ううん……何か面白いものでもあれば見っけもの、とは言いましたけど、予想以上に面白いものが引っ掛かっちゃいましたね……まさかあれほど危険な存在が潜伏していたなんて」
「や、無表情でライフルぶっ放しまくる人も大概に危険だけどな……」
相手が人間でなかったとはいえ、あの躊躇の無さはそれなりに恐ろしいものがある。
自称一般人はどこへ行った。
「とりあえず、助かった。ありがとな」
特にひねりもなく直球で礼をいう奇野に対し、子荻は「礼には及びません」とほとんど事務的に返し、
「それより、いったい何があったのか聞かせてください。なるべく詳しく」と訊いてくる。
「あー……えっと、」
詳しくと言われても、自分自身よく理解できていない。
奇野はタイル敷きの屋上に腰を落ち着け、記憶を整理しながら説明モードに入る。
四階の廊下であのからくり人形めいた物体を目撃してからエレベーターでの急襲に至るまで、結局は見たままのことをそのまま話す。パソコンに表示されていた意味不明の文章と、出入口となる扉がロックされていたことも含めて。
奇野が話す間、子荻は口を挟むことなく聞いていた。考えをまとめるためか、時折目を軽く伏せるような仕草を見せる。「大体、そんな感じだったんだが」と奇野が締めると、伏せていた目を上げ、与えられた台詞をそのままなぞるような調子で、
「なるほど」
と、言った。
「遠隔操作のからくり人形……レーダーでは探知できない敵、というわけですね、ふむ」
顔のない敵ですね、と子荻は言った。
「まあ、そっちの驚異は一応、排除できたけどな。ただ、出入口のほうはロック状態のままだろうから、いま問題なのはむしろそっちの方だぜ」
扉は閉ざされたままだ、と奇野は言った。
「どうせ外から見た時点で気付いてるんだろうけどよ、この建物、非常口どころか窓すらないしな。建築法とかどうなってんだよ。唯一の出入口押さえられちまったから、もう完全に内密室状態だ。ピッキングでどうこうできる扉でもねえし」
「電子のピッキングという言葉もありますけど」
「できんのかよ」
「できないですけど」
じゃあ言うな。
「奇野さんはどうすべきだと思いますか? この密室状態に対して、何か考えはありますか?」
「え?」急に問われて、奇野は返答に窮した。自分が意見を求められる側になるとは思っていなかったからだ。
「あー、そうだな……」言い淀みながら奇野は、こいつが目の前にいると自分は何も考えなくていいような気分になるな、と何となしに思っていた。
今の状況で、それは軽く流していい感想ではなかったのに。
「――そうだ、外出られないのならいっそ、この中でしばらく籠城作戦とるってのはどうだ?」
明らかに今思いついたといった感じの意見に、子荻はまた「なるほど」と相槌を打つ。
「あの人形ぶっ壊したから、中にいてもしばらくは安全だろうし。窓も非常口もなくて扉もロックされてるってことは、逆に考えりゃ外からも侵入されにくいってことだしな。周りには城壁っぽい壁もあるし。おお、考えれば考えるほど籠城にうってつけじゃねえ? ここ。何かもう出たくなくなってきたなむしろ」
「なるほど」
「まあそりゃ、いつまでも籠ってるわけにはいかないだろうけどさ。――あ、そうだ、待ち伏せりゃいいんだよここで、あの戦闘メイドロボ放った奴を。多分そいつは、俺らが全員あの人形に殺られてるのを期待してるだろうから、殺られたふりをして中に潜んでおく。そしてそいつがやって来たら――遅かれ早かれ人形を回収するために戻ってくるだろうからな――その時には入口のロックも解除せざるを得ないだろうから、そこを待ち伏せてふん捕まえればいい。そうすりゃ外にも出られる」
「なるほど」
「この屋上で見張ってれば、誰か来たらすぐわかるしな。へへ、自慢じゃねえが、一方的な待ち伏せなら得意分野だ。ようやく敵に対してイニシアティブが取れるぜ。また生け獲りにするか? それとも今度こそ――っておい、何食ってんだ」
いつのまにか子荻は、何やら四角い緑色の塊を片手に持ち、もぐもぐと頬張っていた。
「ういろうみたいですけど」
「……ういろう?」名古屋銘菓の?
「デイパックの中に食料とは別に入っていたんです。五色セットで。食べますか?」
「や、いらね……」
この状況でよく落ち着いて食えるな……この娘。
緊張感の欠片もなしかい。
てか、何故にういろう?
「頭を使うには糖分が必要ですからね――あ、どうぞお気になさらず、続けてください」
「……えっと、」何話してたんだっけ。「――ああ、だからやっぱり、しばらくはここに立て籠るのが得策だと思うんだよ。得策ってか、そうせざるを得ないんだろうけど」
さっきの襲撃ではっきりした。こちらとしては警戒に警戒を重ねた上で行動していたつもりだったのにも関わらず、裏をかかれるどころか、文字通り一段階上からの奇襲をくらう形になってしまった。
一筋縄ではいかないにもほどがある。
「ここに来る途中であんたが話してた理屈もまあ、わからなくはないんだけどな――」
機動力と情報力を駆使し、フィールドの状況を可能な限り把握しておく。地形効果を活かした策を常備しておきたい子荻にとって、それは確かに必要な下準備だと言えよう。今のところ、ほとんどのエリアが地図の上でしか確認できていないのだから。
しかし最初からわかっていたことではあるが、それは必然的に、相応のリスクを伴わざるを得ない策でもある。
子荻の持つ簡易レーダーは、情報力という点ではかなり有効な武器だと言える。だがそれをもってしても、危険を完全に察知することはできない。
下手に動き回るのが危険なのは当然のことだが――
上手に立ち回ったところで、危険なものは危険なのだ。
未知のフィールドを駆け回ることによって得られるリスクとリターン。それを天秤にかけた場合、どちらのほうがより高いウェイトを示すのかは実践してみるまでは知る由もないが、少なくともここから動かないことによって得ることのできるリターンははっきりしている。あわよくばまた一人、敵を仕留めることができ、新たなアドバンテージを獲得することもできる。
ならばこの条件でわざわざ外に出ようとする必要性はないというのが、奇野の考えだった。
それは奇野らしいといえばらしい、逃げの思考であったのかもしれない。だがそれを踏まえた上でも、理屈が通っていないわけでもないし、間違った策というわけではないはず。
そう思っていた。
「残念ですが、」
しかし子荻が返したのは、曖昧な相槌でも肯定の返事でもなく――
「少なくとも現時点では、その案を採用するわけにはいきません」
にべもない、否定の言葉だった。
「現時点では……? なんだそりゃ、ひとところに留まるには早すぎるとか、またそういう話か?」
「いえ、そうではありません。奇野さんの案ではつまり――」どうやら今度は、子荻が説明モードに入る番らしい。「この建物を、私たち以外の何者かがすでに一度は侵入し、建物ごと密室に仕立てあげるほどの細工が施された、この研究施設を根城にしてその何者かを待ち伏せる――ということになります。敵がここに仕掛けたのが、あの得体の知れない人形だけだと今の時点で断言できますか? 他に何らかの罠が残されている可能性がないと、はっきり言うことができるでしょうか? そんな場所を根城にするというのは、ひとつのリスクと言えるのではないですか?」
「……いや、そりゃそうだろうが――」
「考えが穿ちすぎている、と言いたげな顔ですね」
奇野の反論を、子荻は先回りして制する。
「まあ実際、穿ちすぎな考えなんですけどね。穿ちすぎな上に偏りすぎ。今のは単に、こういう考え方もあるという例のひとつとして言っただけです。……ああ、ごめんなさい、別に意図的にもって回った言い方をしているわけではないのですけれど。ちょっとある人の影響で――いえそれはいいとして」こほんと、軽く咳払い。「結論だけはっきり言ってしまうなら、この場所にはまだ、私たちにとって危険となる存在が残されています。それを排除するまでは、悠々と腰を落ち着けて待ちの姿勢、というわけにはいきません」
「あの人形以外に――か?」
いまいちピンと来ていない奇野の様子に、子荻がわずかに目を細める。上から見下されていると錯覚してしまうような、ある意味威圧的ともとれる視線。口のほうでは相変わらずういろうをもぐもぐしていたが。
「常識で考えてください、奇野さん。いくら電子回路で制御された扉だからといって、それを遠方から操作してロックする意味がありますか? いくら遠隔操作が可能な人形だからといって、必要以上に離れた場所から操作する必要がありますか?」
「……?」
何を言わんとしているのかよく理解できなかった。
考える必要はないと言わんばかりに、子荻は即座に解答を口にする。
「あの人形の『操縦者』は、この建物の内部にいます」
「…………は?」
「私たちを襲撃する機会を、今なお窺い続けていることでしょうね。あの人形を破壊して、危険は去ったと油断している、私たちを」
「…………」
入る時には開いていたはずの扉が、いつの間にか閉ざされていた。
なぜか。その扉の近くにいた誰かが、扉を閉じたから。
うまく回避したはずのからくり人形が、退路を絶つように先回りして襲撃してきた。
なぜか。人形を操作する人間がすぐ近くにいて、先回りするよう操作したから。
至極、あたりまえの考えだ。
複雑に考えずとも、簡単に出せる結論。
実際、奇野も一度はそう思ったはずだ。扉のロック機能が作動していたことや、からくり人形の早すぎる対応に対して、「あり得ない」と感想を述べたはずだった。
ならばなぜ、『操縦者』がこの付近にはいないと思ったのだったか?
なぜ、すべての仕掛けが遠隔操作によるものだったと結論付けたのだったか?
「それは……あんたが――」
子荻が、ここには誰もいないと言ったから。
参加者の位置を探ることのできる簡易レーダーを持つ萩原子荻が、このエリアには自分達以外に誰もいないと、そう言ったから。
常識で考えろ、と言ってはいたが――、
その常識的な考えを否定したのは、他ならぬ子荻自身のもたらした情報ではないか。
「あれは嘘です」
子荻は普通に言った。
「…………おい」
「騙していたことについては謝ります。だけど奇野さん、私は別に裏切りを図ったつもりはありませんし、最低限、危険な目には会わせないよう努めたつもりではありますので、そこはどうかご理解を」
ご理解をって、つもりばっかりじゃねーか。
しかしその言葉を聞くに至って、奇野はようやく子荻の意図を理解した。
奇野が日和号に襲撃された時、別の建物にいたはずの子荻が都合良くエレベーターの前に現れ、その窮地を救った。
なぜか。
子荻が最初から、奇野の動向を監視していたから――ではないだろうか。
正確に言うなら、奇野を狙ってくるであろう、この建物内部に潜んでいた何者かを、だ。
屋上を利用して建物間を移動できることに気付いていた子荻は、奇野たちより一足先に建物の中に入った後、おそらくはすぐに屋上へと向かい、奇野のいるこの第三研究棟へと移動してきたのだろう。
誰がどの建物を担当するのか、指示したのは子荻だった。「先客」がどの建物に潜んでいるのかは、レーダーで把握していたはずだ。
「先客」が屋上ルートに気付いていたかどうかは定かではないが、他の人間が来た際にまず注意を向けるとすれば、正規の入口から入ってきたほうの相手、つまりは奇野のほうであることは容易に想像がつく。相手の側としては、奇野たちがバラバラに建物の中に入ってきたのをいいことに、一人ずつ順番に各個撃破する作戦だったのだろう。
その作戦を、子荻は逆手にとるつもりだった。
奇野を仕留めようとしたところを、その隙をついて逆に討ち取ろうというのが、子荻の策戦だったはずだ。
要するに、奇野を囮として使用したのだ。
敵を欺くにはまず味方から。その格言を地で行くような策戦。
しかしそこにはひとつの誤算があった。言うまでもなく、日和号の存在である。
まさか戦闘仕様のからくり人形などというとんでもない代物を持ち出してこようとは、いくら何でも計算外だったのだろう。レーダーで探知することのできない日和号の存在は、結果としてこちら側を後手に回らせた。子荻のほうが先に日和号の標的とならなかったのは僥倖と言えるのかもしれないが、あと一歩遅かったら、あの場で本当に斬殺されてしまうところだった。
しかし――と、奇野は思う。
この場合、日和号の存在を差し引いた上でも、囮というのは本当に有効な策と言えるのだろうか? 仮に有効だったとしても、奇野たちに作戦内容を説明しなかったメリットというのは、果たしてあったのだろうか。
敵が潜んでいるとはいっても、こちらは三人も数がそろっている上に、相手がどこにいるのかも最初から知れているのだ。事前に三人で打ち合わせた上で決行していれば、もっとスムーズに操縦者本人をあぶり出せたように思える。いっそ真正面から堂々と攻め入っていたところで、こちらの武力を考えれば勝てていたかもしれない。
物量に物をいわせるのも策略の内だ。
なのにこの少女は、全員に単独行動をとらせる方向を選んだ。
なぜか。
……ひょっとして子荻は、奇野が窮地に陥ることまでも予想済みだったのだろうか?
もとより囮役に、危険と犠牲はつきものだ。もしかすると、相手の力量を確認するまでは「戦う」という選択肢すら、彼女の中では未定だったのかもしれない。奇野には及びもつかないような最悪の可能性まで想定した上で、自分達を当て馬として送り込んだのではないだろうか。
施設の入口で、罠が仕掛けられていないかどうか確認するために、奇野を先に行かせたように。
「……あんたは、」
言いかけた奇野の口に、ひょいと、ういろうの欠片が放り込まれる。ねっとりとした練菓子独特の風味が口腔内を支配する。
「『絶対に、私を疑うことをやめないでください』」
優しく、囁くような声色。
「私はそう言ったはずですよ、奇野さん」
「…………」
本当のことを言わなかっただけ。子荻はそう言っていた。
自分の目でレーダーを確認しようとしなかったのは、奇野自身の選択。
何の異常も知らされなかったことを、何の異常もないことだと思っていたのもまた奇野自身。
それが迂濶なのかと問われれば、正直わからないと答えるしかないが――
疑っていなかったのかといえば、疑っていなかったのだろう。
おもむろに、子荻はライフルとデイパックをを掴んで立ち上がり、そしてなぜか不敵に微笑む。
「先手は向こうに取られてしまった感じですけど、カウンターを決めたこちらの方が状況的には有利。そして向こうには、二度と先手は取らせません。ここからはずっと私たちのターン。今度こそは本人自らに攻めてきてもらいます」
その声に揺るぎはなく、むしろ活き活きとしている。
「次が本番で、そして決着です。正々堂々手段を選ばず、真っ向から不意打ってご覧にいれましょう」
「次が本番――ね」
奇野もまた、同調するようににやりと笑う。
「この状況でもまだ『策』があるっていうわけだ――いいぜ、乗ってやんよ。ただ今度はちゃんと、俺にも内容を聞かせてからにしてくれよ。心臓に悪いのはもう勘弁だ」
「ええ、それはもちろん」
そして子荻は、笑顔のままに言った。
「囮作戦を続行します」
「…………」
ええー。
最終更新:2010年01月24日 22:02