そして。
そして、その部屋に余韻だけが残った。
ついさっきまで演奏されていた、音楽の残滓だ。
文字通り鼓膜を太鼓にするような、つまり耳の中で演奏された様な、そんな錯覚さえ抱いてしまう音楽である。
びりびり、とは違う。
ぶるぶる、とも違う。
強いていうならば、いんいん、と。または深々と、といった具合にその音楽は演奏されていた。
だがそれはもう無い。
無いのである。
終わったのだ。
後に残されたのは、僅かばかりにそれを匂わせる余韻だけだった。
余韻だけが、その部屋に響いている。
いんいん、と。
深々、と。
だが、あるいは、もしこの場面に、たった今に聴衆が来たと仮定するのならば、その人々はこう言うだろう。
――余韻? 冗談じゃない、これが演奏なんだろう?
そんな風に言うに違いない。
そんな風に言わせるに違いない。
この余韻は。
ひょっとしたら、本演奏を聴いていた人間でさえも、まだ演奏の最中なんじゃないか、と思わせてしまうに違いない。
それだけ、それだけこの余韻は、
「悪くない」
そう、悪くない。
響く感じが。
浸透する感じが。
まるで体が水を吸うスポンジになった様な気がして。
心や感情の波が凪いでいく。
意思が平静になっていく。
これが音楽の醍醐味か。
心に作用するそれ。
だから。
だから。
そう、本当に、
「――悪くない」
これを再び行う事が出来たのならば。
これを再び感じる事が出来たのならば。
零崎一賊の一人であり、また三天王の一角。
『少女趣味』、そう呼ばれた少女限定の殺人鬼。
つまりはこの
零崎曲識――生き返るのも、そう悪くない。
女性を思わせるウェーブのかかった長髪が、背中と前後になって、腰掛ける椅子の背もたれを挟んでいる。普段着にして戦闘服でもある燕尾服は皺一つない。日常的に着ていれば自然と身に付く座り方だった。
仰向けになる様にして、端正な顔立ちが、その一室の天井を見上げている。
曲識は喋らない。
余韻は響いている。
それが終わるのを待っているのか。
曲識は喋らない。
事実、彼の薄い唇が開いたのは、余韻が終わって数秒後だった。
「殺し合い」
零崎曲識という人間は、否、殺人鬼は音使いである。
それも催眠効果も衝撃波も、時と場合によっては楽器を武器にする事も出来る、音を使ったプレイヤーとしては異常と言っても良い実力の持ち主である。
だからこそ、その美声は、武器として磨き上げられたものなのだ。
声である以上、さっきまで演奏されていた音楽ほどではない。しかしそれでも、聴いてしまえば聞き惚れる、聴き続ければうっとりしてしまう、それこそ楽器と呼ぶに値する音色なのである。
「バトルロワイアル、総当たり戦、虐殺、謀略、謀殺、裏切りと友情……それが、僕に押し付けられた現状」
つらつらと、美声に似合わぬ殺伐とした単語を並べる曲識であった。
「だが零崎一賊である僕にとってそれは元より日常的なものであり、それを押し付けられたのだと言っても、悪くない」
だからそれは気にならない。
気になる事は別にあるのだ。
曲識がらしくもなく取り乱し、今の今まで鎮静効果の音楽で感情を抑えた、それだけの事実がある。
まず第一に、
「どうして僕はここにいるのだろう」
敢えてここで注意させて頂きたい事であるが、まかり間違ってもこの言葉は、彼が殺し合いの場にいる事に困惑しているのではない。これまでの彼の挙動と地の文を読めば、賢明な読者諸君は言うまでもないだろう。
だからこれは、どうして自分が生きてこの場にいるのだろうか、という意味なのだ。
「僕は確かに死んだ」
覚えている。
忘れる筈が無い。
死んだ瞬間だから、なんて安っぽい理由じゃない。
死ぬ寸前に彼女が現れてくれたからだ。
そんな彼女が自分を殺してくれたからだ。
赤過ぎるほどに赤い彼女が。
《人類最強》
哀川潤。
彼女が、殺してくれたから。
だというのに。
どうして。
どうして。
ああそうだとも、どうして、
「どうして僕は……生きてしまっている?」
あそこで死んだから。
あそこで死ねたから。
だから僕は。
だからこそ僕が――零崎曲識だというのに!
「……………………」
心当たりは、ある。
どうして自分が生きているのか、その心当たりが。
その言葉を真に受けるなら、だが。
死んでも生き返らせる事が出来ると言った、その言葉を真に受けるなら。
あいつの言った事を信じるのだとしたら、だが、曲識はとある理由によって信じる事にしている。
故に、こう言える。
それが出来る存在を一人だけ知っている、と。
「
水倉神檎」
あの光だらけの部屋で、何十人も集められた部屋で、魔法なる力で自分達の身動きを封じて、影谷蛇之なる人間の口を借りて自分達に殺し合いを押し付けた――およそ人と思えぬ、何か。
殺す事も。
生かす事も。
生き返らせる事も。
出来ると言った何か。
曲識も暴力の世界に身を置いて長いが、水倉神檎という名前は過分にして聞いた事が無い。だがそれでも曲識は彼の言った事を信じている。
それは、あの時聞いた水倉神檎の声にそれだけの力を感じたから。
ではない。
「アスと……レンがいた」
あの部屋にいた人間は、どうやら面識のある者同士である程度まとめられていたらしい。見せしめの様に殺された奇抜な衣装の集団、彼等と同じ様に、自分の周囲には同じ集団に属する者達が立っていた。
それがアス、『愚神崇拝』ことシームレスバイアスと呼ばれる零崎軋識である。
それがレン、『自殺志願』ことマインドレンデルと呼ばれる
零崎双識である。
二人は、『少女趣味』ことボルトキープとしてトキと呼ばれる自分も含め、零崎三天王と呼ばれるプレイヤーである。また血ならぬ流血を分けた『家賊』であり、他の零崎と一線を引く本当の意味で家族だった。
そんな二人が、あの部屋にいたのだ。
軋識は、まあ良い。
彼は曲識が死なせない為に逃がしたのだ。その代わりに曲識は死んだが、哀川潤と再会出来たのだからそれは悪くない。彼があの部屋にいたのは、逃げた後に水倉神檎に捕まったとも考えられる。
問題は、双識が生きてあの場所にいた事だ。
「僕はお前が死んだと思っていたよ」
橙色の暴力。
軋識がそう称した、まるで哀川潤のようなそれに、零崎一賊の殆どが殺された。それから逃がす為に自分は戦い、軋識を逃がした。
だがその時、双識は現れなかった。
零崎一賊の長男、実質的なリーダー、零崎で唯一『人間としての名前』を持たない、最も零崎という家賊を愛する男。そんな男が『橙色の暴力』の時には現れなかった。
だから曲識は、あれが現れる以前にどこかで死んだのだと思ったし、軋識もそう思っていたらしかった。
「けれども、生きていた」
零崎双識は生きていた。
生きてあの部屋にいた。
もしも水倉神檎が人を生き返らせられないなら、双識は生きていたにも関わらず、零崎一賊の危機に現れなかったという事になる。家賊の危機に何も行動しなかったという事になる。
零崎双識という、あの男が。
それは認められない事で。
同時に有り得ない事だった。
だから曲識は、自分がこうして生きている事と合わせ、それらを理由にして水倉神檎の言葉を信じている。
水倉神檎。
奴には、人を生かすも殺すも、生き返らすも出来るのである、と。
そして、それ故に曲識は遂行すべき目的が生じるのであった。
「レンとアスが死ぬとは思わない」
だが、
「だからと言って彼等の危機を放置するほど……僕の性根は、悪くない」
ランドセルランドの時の様に。
双識が匂宮の分家に狙われた、時の様に。
たとえ家賊の安全を確信していたとしても、その危機を放置するほど曲識の心は――鬼ではない。
それに、まだあるのだ。
曲識には、もう一つやりたい事がある。
第二の、または、第一の目標が。
「……彼女が」
いたんだ。
「彼女が」
あの部屋に。
「哀川潤」
見たんだ。
双識や軋識ほど近くはない、だが確かに、彼女の姿を見たのだ。
自分を殺してくれた、大人になった彼女の姿を。
《人類最強》、その赤過ぎるほどに赤い赤を。
「……彼女も、この殺し合いに」
巻き込まれているのだろう。あの場所にいたという事は。
彼女が死ぬ、その未来は、双識や軋識以上に想像出来ないものだ。勿論、だからと言って彼女の危機を見過ごすつもりはないが。
だからこその、もう一つの目的だ。
「会いたい」
哀川潤と、再会する。
双識と軋識、それに加えて彼女も探す。
それこそが。
生き返ってしまった。
自分に出来る事、するべき事、だ。
「哀川潤」
再び曲識は呟く。
哀川潤。
哀川潤。
哀川潤。
哀川潤!
《人類最強》、そう呼ばれる彼女だが、だが曲識が始めたあった時はまだそう呼ばれていなかった。それどころか、自分の名前すらも持っていないようですらあった。
しかし、後に彼女が《人類最強》哀川潤という名前を手に入れた、それを知った時。
ああ、そうだろうな。
彼女ならそれもありだろう。
そう思った。
そう思えるだけの少女だった。
それでこそが、
「哀川潤」
だから曲識は、少女しか殺さない事を決意した。
彼女を。
彼女の鮮烈な赤を。
自分の深い所に刻んだから。
零崎一賊唯一の菜食主義者、『逃げの曲識』、《少女趣味》。
どう呼ばれようと気にならなかった。
「そうだとも」
僕が生きているのなら。
君が生きているのなら。
僕と君が、離れ離れなら。
ああ、そうだとも。
「《少女趣味》に戻るのも――悪くない」
僕か。
君か。
死が二人を分つまで。
少女だけを殺すのも悪くない。
「レン。アス。哀川潤」
君達を探す。
彼等と合流する。
彼女と、再会する。
それこそが曲識という生き返った殺人鬼の目的――!
ああ本当に、
「――悪くない!」
だから曲識は出発する事にした。
だから動き出す事にした。
だから席を立った。
だから。
だから。
だから。
だからだからだから、だからこそ――このピアノバー・クラッシュクラシックを出ていく事にした。
「やはりこれも……水倉神檎の力と納得するべきなのだろうな」
曲識が音楽家として手に入れた、念願の居城。
そして今、あの光だらけの部屋から送られた先でもあった。
視界の先にあるドア、その向こう側がクラッシュ・クラシックのあるあの街だとは思っていない。人間を蘇生したり瞬間移動させたり出来る存在だ、建物をまるごと別の場所に移す事ぐらい出来るのだろう。
人が生き返るのも、瞬間移動されるのも、自分の居城が何故かここにあるのも、全てが異常事態だ。
「しかし僕は……返す返すも零崎だ」
殺し合いは日常。
殺人は本能。
人を見たら殺そうと思え。
押し付けであっても悪くはない。
曲識は席を立ち、視界の先にあるクラッシュ・クラシックのドアへと歩み寄っていく。
先ほどまで使用していたグランドピアノ、鍵盤を隠す蓋の下ろされた巨大な黒い塊を背後にして、席を立ったのだ。
革靴の固い足音が連発する中、ふと曲識は思う。
「……そういえば、人識はいるのだろうか」
それは自分と同様に零崎に属する殺人鬼、しかし曲識達とは一線を画する少年だった。顔の半分に入れ墨を入れ、髪をまだら模様に染めた風貌。双識が弟としてやたら構うので、曲識は彼と付き合いがあった。
「僕がいて、レンがいて、アスがいて、哀川潤もいて……ならば人識がいても悪くはない」
あの部屋にいた時は魔法なる力で身動きを封じられていたため、誰がいたのかまでは正確に把握しているわけではない。ただ、偶然なのか図られたのか、三人は見えたが人識の姿は確認出来なかった。
だから、ひょっとしたら人識がいるかもな、とは思う。
「いるのなら、助けてやるのも悪くない」
曲識にとって、家賊として適用されるのは双識と軋識だけで、人識はそれほどの重要人物ではない。
ただだからと言って見捨てるほどの間柄ではないし、死ねば双識も何か思うだろう。ならば、いるという確証があった上で余裕があるならば、ついでに助けてやるのも悪くない。
「最後に見た……あいつの変わり様にも思う所があるしな」
と、言った言葉が反響して顔面に返ってきた。
元々大して長くもない道のりだ、曲識の目の前にクラッシュ・クラシックのドアがある。考えている間に到達したらしい。
「この向こうが、殺し会いの場か」
あの部屋にいた人間、正確には把握出来ないが、およそで50人前後といったところだろうか。
見せしめに殺された奇抜な格好の集団、忍者であるらしい彼等の生き残りもそれなりに出来るプレイヤーに見えたし、加えてここには零崎一賊三天王が勢揃いしている。
水倉神檎は制限や支給品があると言ったが、その程度で覆るなら世界は4つに分かれない、曲識はそう思う。
「誰も死ななければ皆殺し、か。だからと言って僕は主義を曲げるつもりは無いが……まあ、もう誰かが死んでいても可笑しくはないだろうな」
ただまあ、
「念の為……少女がいたら一人ぐらい殺しておくとしよう」
うん。
「零崎を始めるのも、悪くない」
そして。
零崎曲識という名の、『少女趣味』と呼ばれるその殺人鬼は。
ピアノバー・クラッシュクラシックのドアノブを握り、その扉を開いた。