世界の終わり、正しくは始まり(前編)
幼い頃は、よく夢を見ていたような気がする。
今でももちろん夢はよく見るけれど、幼い頃の夢はもっと夢らしい夢で、不条理に不条理を重ねたような、多分この世に存在しないものばかりが横行しているような、そんな夢だったと思う。
知らない人に会う程に、知らない場所へ行く程に、夢は夢らしさを失ってゆく。
血が通っているのだと、ぼくはそれを見て思う。
昔夢で見たあの人に血は通っていなかったけれど、昨日夢で見たあの人にはきっと血が通っていて。
昔夢で見たあの場所に血は通っていなかったけれど、昨日夢で見たあの場所にはきっと血が通っていて。
切れば流れてしまうかのように。
絞めれば止まってしまうかのように。
吊せば落ちてしまうかのように。
狂えば溺れてしまうかのように。
喰えば汚れてしまうかのように。
どくんどくんと、脈打ちながら夢の中を駆け巡り、
知らない筈の人に、知らない筈の物に、知らない筈の場所に、知らない筈の声に、
血が通っていて、血が通うための血管があって。
血管があって、血管があって、血管があって、血管があって、
欠陥があって。
——駄人間は騒がしいねえ——騒がしいのが駄人間なんだねえ———
ぼくの知らない誰かが何かを言う。
昔見た夢を、唐突にぼくは思い出す。
歪んだ世界の中にぼくは一人いて、そこは上も下も右も左も不愉快さを示す波長のように歪曲して広がっていて、だけれどぼく自身も歪んでいてそれが世界の歪みと噛み合わずに不安定な気持ちにさせられる。
身体をうまく支えることができず、ぼくは無様に顔から歪みの中へどちゃりと突っ込む。歪みに身を任せ、ぼくは底の方へずぶずぶと沈み込む。口や鼻孔から不快な何かがぼくの中へとずるずる流れ込んでゆき、脳髄や内臓をぐちゃぐちゃにかき回す。
脳髄に流れ込んだ何かはぼくに映像を幻視させる。それは自分のよく知る人や物や場所で、それによりその何かが自分の記憶であることを悟り、同時にここが自分の頭の中であることに気付いて悲鳴を上げそうになる。しかし喉の奥まで入り込む記憶の波でそれもできない。
いつのまにか辺りは血で真っ赤に染まっていて、歪みの波長がくっきりと見えるようになっていてそれがぼくの歪みを更に増長させる。ぼくの身体は流れ込む血と頭の中身により膨張し破裂寸前で、それはぼくに死を幻視させる。
やむをえずぼくは自分の頭に腕を突っ込んで、中で溺れている自分を掴んで引きずり出す。腕を引き抜いた途端に頭の中身がそこからどばばばと一斉に噴出し世界を埋め尽し、再びぼくはぼくの中へと溺れ、現実は夢へと回帰する。
——やっぱり駄人間は駄人間だよね——煩いしでかいし面倒くさいし——ていうか可愛くないし———
ぼくの知らない誰かが何かを言う。
ぼくの知らない声で何かを言う。
ぼくは今、ここが夢の中じゃないことを理解していて、だけどここが何処なのか、どうして自分がここにいるのかは全く理解していなくて、その上でぼくは、自分が今ここにいるということを現実として受け入れている。
示された線の上を歩くように、はっきりと。
——影谷蛇行———!
ぼくの知らない誰かが、ぼくの知らない声が、
——なんで生きてるのがお前なの——影も形も残さず葬ったのが、あの時の私の筈なのに———!
ぼくの知らない人が、ぼくの知らない声で喋る。
あの人たちに、血は通っているのだろうか?
今いるここに、血は通っているのだろうか?
今のぼくに、血は通っているのだろうか?
身体が動かない。固定されたように、針で縫われたようにぴったりと。
歪んでいない。
今のぼくは、世界と平行に立っている。
——ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ———!!?
ぼくの知らない誰かが、ぼくの知らない声で叫ぶ。
——い、痛い——痛いぃ——何で、何でだよおぉ——アイツが痛いのじゃなくて僕が痛いっ——なんで僕がいたい———!!
ぼくの夢が、いつかこの真っ赤な血で満たされたならば、それはきっと全てを洗い流してしまうだろう。
ぼくの知らない彼も、ぼくの知らない彼女も、
いつかどこかへ立ち去ってしまった彼も、
いつかどこかへ逝き去ってしまった彼女も、
いつかどこかへ過ぎ去ってしまった時間も、
いつかどこかで欠けてしまった自分も、なにもかも全て。
現実と変わらぬ夢に、意味などあるのだろうか?
あの人たちに、血は流れているのだろうか?
あの人たちは、血を流しているのだろうか?
——しね———
ぼくの知らない人たちの首が吹っ飛ぶ。上部を失ったそこから大量の血が鮮やかに噴き出す。それを見て、ぼくは少し安心する。
あの人たちには血が通っている。赤い血がいっぱい、流れて噴き出て飛び散る程に。
ぼくはぼくの知らない人たちに感謝する。彼らが流した血は、決して無駄なものではなかった——それを彼らに伝えてあげたいとぼくは思うが、彼らの頭部はもう既にこの世のものでなくなっていて、ぼくの声はもはや彼らには届かない。
彼らの首を飛ばすくらいなら、ぼくの首を飛ばせばよかったのに——
——道具をくれてやる———
ああ。
——情報もくれてやる。6時間毎に誰が死んだかを———
声が、
——その度に、お前らをこれから送る場所も狭くなっていく———
ぼくの知らない声が、
——殺しあえ。殺し合いに乗らなければ……24時間後に皆殺し、だ———
ぼくの知らない誰かの声が、
声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が、声が。
——送ってやる。殺し合いの場所に———
視界が歪む。夢の中のように。夢の中から現実へ堕ちるように。
ゆりかごだ。
これからぼくたちが向かうのは、きっとゆりかごの中なんだ。
ゆりかごの大きさは一人分。
中に留まれるのは一人だけ。
だからぼくらは落とし合う。
互いに互いを、外へと蹴落とす。
自分の場所を守るため。
安息の場所を守るため。
ぼくたちは醜悪に、貪欲に、残虐に、滑稽に、脆弱に、盲目に、放縦に、
汚れて歪んだ血に溺れ、現実を真っ赤に染めあげる。
現実がゆっくりと暗転を始める。ぼくの知らない誰かが消えてゆく。
溶暗する世界の中で、ぼくは静かに目を閉じる。
ゆりかごの中で、ぼくはどんな夢を見るのだろうか——?
◆ ◆ ◆
ベッドの上で、ぼくは閉じていた両目を開く。
「………」
蛍光灯から注がれる光をわずかの間、両目で受けとめてから、ぼくは半身だけを起こし、自分の周囲を見回す。
全体的に白さが目立つ部屋だった。先程までいた場所のように徹底した、偏執的なまでの純白ではなく、単に清潔な印象を抱かせる程度の白さ。
ベッドの脇にはキャビネットが置かれ、その上には花瓶と、空っぽのバスケットが乗せられている。花瓶を少し傾けてみる。こちらも空っぽのようで、一滴の水すら入っていない。
四方の壁のうち、ぼくから見て左手に窓が、右手にドアがそれぞれ備え付けられている。ドア側の壁際に置かれているのはステンレスのロッカー。さらにそこに立て掛けられるようにして置かれている、何脚かのパイプ椅子。
ベッドから立ち上がり、窓の方へと寄る。カーテンを開けると、外の闇夜を透かして黒く染まった窓ガラスの表面が、ぼくと部屋の様子をうすぼんやりと映しているだけだった。
「………」
首にそっと手をやる。指先が、金属に触れたときのような、冷質な感覚を脳に伝える。
窓に映る自分の首筋は、無機質なデザインの首輪によってぐるりと覆われていた。
首輪は装飾品として用いられるものと、犬や猫を管理する目的で使用されるものとに分けることができる。
ぼくの首を覆っているこれは、その見た目だけで後者の意味を持つものだということが理解できる。それが人間の首に装着されているという光景は、見ているだけで窮屈な印象を抱かされる。
カーテンを閉じる。窓に映った自分がいなくなり、夜の闇も見えなくなる。部屋の中にまた白さだけが戻る。
「………実況中継、終了」
窓の方を向いたまま、ぼくは再びベッドの上へと、仰向けに倒れるようにして身体を預ける。
ぐ、と軽く伸びをして、自分の脳細胞が覚醒していることを確認。さらに自分の右頬をつねって、そこに痛みがあることを確認し、ついでに自分が生きていることを確認。よし、とぼくは一人うなずく。
「オーケイ——大丈夫」
何が大丈夫なのか自分でもよくわからなかったが、ついさっきまで、何か相当な勢いで大丈夫ではなかったというか、自分がかなりまともな状態ではなかったような、そんな気がしている。
何か難解で、抽象的で、意味不明なことを、だけど明らかにどうでもいいことを延々と頭の中で巡らせ続けていたような記憶が僅かにあるのだけれど、その内容が一向に思い出せない。
あの、妙な場所で見聞きしたことははっきりと憶えているのだけれど、その時に自分がどんな精神状態でそこにいたのかは、抜け落ちたように記憶の外だった。
夢から覚めた時の感覚に、それは似ていた。
「夢じゃあ、ないんだよなあ………」
夢だと思った方が、むしろ正常だと判断されるような状況ではあったけれども。
正直夢だと思ってしまいたいけれど。ちょうどベッドの上だし。
「そういえば、怪我——」
ぼくは自分の身体を探る。着ているのは普段着のTシャツとジーンズ、そしてジャケット。ベッドに寝ているのに、きちんと履かれたスニーカー。
身体は普通通りに動き、どこにも異常は見当たらなかった。
普段着、普段通りの身体。
「………ええと」
ぼくは覚醒状態の時でさえ頼りのない自分の脳細胞を可能な限り動員させ、ここ最近の自分の記憶を探る。
数日前、とある場所でとある人物ととある理由でちょっとした殺し合いを演じたぼくは、その結果というか代償として、全身のいたるところに打撲、
骨折、挫傷、腱断裂など数々の重軽傷を負い、もうぼくにとっては既に別荘のようにもなってしまった、この病院へと搬送されたのだった。
医者から全治二ヶ月を言い渡され、それから何日かの間をこのベッドの上で、暇を持て余しつつも安静に過ごしていた。
それで確か——つい先日、面会謝絶が解除されて——それで、崩子ちゃんがお見舞いに来てくれたりして——春日井さんとか、みいこさんとかの近況を教えてもらったりして——奈々見からのお見舞いの品を貰ったりして——らぶみさんと遊んだりして———
「——で、今に至ると」
………。
うーん。
ここまでの記憶が確かならば、このベッドの上のぼくは当然普段着などではなく、入院患者用の患者衣だったはずだ。そのうえ身体の半分以上をギプスやら包帯やらコルセットやらでがっちり覆われていたはずだった。
それが今は服装どころか、折れていたはずの両腕も、外れていたはずの肋骨も、切れていたはずのアキレス腱も、裂けていたはずの右頬までも、全てが全て、きれいさっぱり元通りに治ってしまっている。
完治だった。
全快だった。
全身隈無く異常なしだった。
「ラッキー………で済ませていい問題じゃねえよな、これは」
入院開始から二ヶ月どころか、まだ一週間もたっていない。いくらぼくが怪我の治りやすい体質だからといって、現実的にどう考えてもおかしい。
サイヤ人とかじゃないんだから。
「でも——治ってるものは治ってるんだから、仕方ないよなあ……」
仕方ないで済ませてよい問題でもないのだろうが。
かといって、今のぼくの状況を「仕方ない」以外のどんな言葉で処理しろというのだろうか。
入院してたら誘拐されて重傷だったけど全快していて呆然としてたら殺人しろと強要されて往生してたらまた病院まで送還されました。
どこの不条理小説のあらすじだ。
ふと思い立って、ぼくは衣服のポケットの中を探ってみる。腕時計も携帯電話も、哀川さんから譲り受けたあの刀子もなく(どれも普段から持ち歩いているわけではないけれど)、すべて空っぽだった。
私物の中で手配してくれたのは、衣服だけだということか。
かといって、着のみ着のまま放り出された、というわけでもないようだけれど——。
ぼくの寝ているすぐ横、枕元に置かれているデイパック。
これがおそらく、「あっち側」から与えられた———
「………しかし——」
これは、どこの用意した展開だ?
この場合、誰の、と言うよりも、どこの、と言った方が、恐らく適切であると思う。
どこが、どんな理由で、こんな展開を用意しているのか。
正直、想像すらつかないと言っていい。
現実味がない、脈絡がない、突拍子もない、必然性が見えない。
ないない尽くしで意味がわからない。
いつだったか、気を失って目が覚めたらなぜか女装させられていた、というシチュエーションを経験したことがあるが、あれ以上に意味不明な状況だ。
………いや。
あれはあれで、十分過ぎるくらい意味不明ではあったけれど。
………
水倉神檎、と言ったか。
知った名前ではないが、いったい何者なんだろうか。
いったい、何の目的でこんなふざけたことを実践しようとしている?
戦闘に秀でた者を選抜するための、実戦による試験? あるいは何らかの研究目的——例えば、あの斜道興壱郎研究所で行われていたような実験の類をここで行おうとしている?
………違う。
それだと、わざわざぼくがここに召集された理由が説明できない。
そうだ、それだ——。
そもそも、何でぼくが?
入院中の、全治三ヶ月の重傷患者を、わざわざその怪我を非常識に回復させてまで、こんなところへ強制的に連れてくる、その理由は一体なんだ?
ぼくをこのゲームに参加させる必要があった?
ぼくのことを知った人間が? ぼくと因縁のある人間が采配を?
「………」
心当たりが、あるとするなら———
「………まさか…」
………まさか、あの男か?
八月の半ば、何の前触れもなく出会った、一人の男。
彼はぼくに、運命の話を語った。
偶然のない運命、必然しかない運命。
逃れようのない運命の肯定、代わりの効かない存在の否定。
絶対の運命論者。
世界の終わりを見たいという、最悪の思想の持ち主。
世界という物語において、読者の側でありたいと望む、究極の意味での傍観者。
人類最悪の遊び人と名乗り、そして、
哀川潤を自分の娘と呼び、
ぼくを、己の敵と呼んだ、あの男。
ぶるり、と身体が震える。
恐怖が、全身を巡るのを感じる。
あの男が、この状況の裏側に…?
世界の終わり、物語の終わり。
既に、始まっているというのか……? だとしたら、この状況こそが———
「……まさかな」
何にせよ、今は情報が少なすぎる。結論どころか、まともな推論すら立てられる段階ではない。
大体、主催者側の説明が大雑把すぎるのが問題なんだ。
あの妙な形のジャケットの男、説明役とか言って、ろくな説明も寄越さないまま終わってしまったような気がするのだが。奇声あげて喜んでただけじゃないか。
知らない人間をあまり悪く言うのも何だが、もう少しまともな人間を起用できなかったものかと問いたい。
その後に聞こえてきた声だって、雰囲気ばっかおどろおどろしくて、実際大した説明したわけじゃないしな……情報が足りないというより、言葉が足りないというか、はっきり言って不親切すぎる。
この状況で不親切も何もないだろうが、なんというか、主催者としての責任というか、そういう最低限のものは守ってしかるべしなんじゃないかと思うのだけれど。
真面目にやる気あんのかと言いたい。
説明役が率先して殺されるとか、どれだけいい加減なのかと。
「狂ってるよなあ……どいつもこいつも」
何だってこんな、悪趣味なことばっかり考えるんだ。
バトルだとか、ゲームだとか、正気で言ってるつもりなのか。
ぶっ壊れている。
人間としてぶっ壊れている。
狂うなら、よそで勝手に狂っていてくれよ。
勝手に狂って、勝手に壊れてりゃいいんだ。
ぼくを巻き込むな。支配者気取りの倒錯者が。
「戯言だよ……本当」
枕元のデイパックを見やる。ぼくは一瞬、それを引き裂きたい衝動に駆られる。それは怒りよりも、恐怖に近い感情だったと思う。
もしかしたら無関係なのかもしれない。ぼくとは無関係の誰かが、ぼくとは無関係の目的でやっていることで、ぼくはいつもの通り、脇役にすらなれないエキストラとして、予定調和の一部分として、漠然とただここにいるのかもしれない。
だとしたらまた、ぼくはいつも通りの道化だ。
踊って踊って、踊り狂って果てるだけの。
身体は動く。頭も働く。行動するなら、必要なのは心構えだけだ。
動くことに、意味はあるのか?
ぼくの行動に、意義はあるのか?
——そんなことは——
あの男の声が脳裏に響く。耳元で、囁くように。
——どちらでも、同じことだ——
「………逃げるわけには、いかねえよな」
ぼくは立ち上がり、そして心を構える。
踊れというなら、存分に踊り狂ってやる。
踊らされるのには、とうの昔に慣れている。
ただし、そう簡単には死んでやらない。鬼が出ようが蛇が出ようが、潔く殺されてやるつもりなんてない。
生き残ってやる。
無様に踊って、無様に生き残ってやる。
そう心に誓って、ぼくはデイパックに手を伸ばした。
◆ ◆ ◆
「動かないで」
ぼくを最初に迎えたのは、冷徹に響く声と、鋭くも乾いた破裂音だった。
デイパックの中身を一通り確認し、病室を出たぼくは、まず軽く病院内を探索してみることにした。廊下は誘導灯の明かりが薄く照らしており、懐中電灯なしでも歩けないことはなかったが、一応デイパックから取り出しておく。
深夜の建物の中、部屋の中をひとつひとつ検分していくその様が何となく空き巣でもしているように思えて、後ろめたい気持ちが少々ないでもなかったが、そんな余計なことを考えていたのは最初の内だけだった。
病院内の様子にこれといって違和感らしきものはなく、廊下の様子も他の病室も、ぼくの見知っているそれとほぼ変わりはなかった。
ただし、ある一点を除いては。
ほんの今先刻までぼくが入院していたはずのこの病院、極めて普通に、医療施設として機能していたはずの、この病院。
人が、どこを調べても見当たらない。
病室はどれも初めから使われていないかのように整然としており、人の気配など、欠片程も感じさせないくらいに静然としている。
さながら廃墟のような、沈黙とは別の呼吸なき静寂。
空き巣の真似というなら、確かに空き巣のいる場所にふさわしい。
空っぽの建物。空っぽの静寂。
「勘弁してくれよ………」
情けない話だが、早くもここから逃げ出したい気分だった。
正直に言えば、何となくどこかで予想していた可能性では、あったのだけれど。
本当、どこなんだよここは………。
どうやったらこんな事が可能になるんだ。陳腐な魔法じゃあるまいし。ミラーワールドか。
「………魔法、か」
主催者側の人間が、そういえばそんな言葉を使っていた気がするけれど。
まさか、ぼくの怪我やら病院の人間やら、すべて魔法の力でどうにかしたとでも言うのだろうか。どこぞのパラレルワールドに召喚したとでも吐かすつもりなのか。
馬鹿かと。
おそらくはこの不可解な状況について不要に探られないように『魔法』という言葉を用いて濁したつもりなのだろうけど、やはりそのあたりの考えも杜撰だ。そんなもので誤魔化される人間がそういるとでも思っているのか。
いくらぼくでも、さすがにそのラインまでは許容できないぞ………。
ワンフロア分の室内をあらかた検分し終えたところで、ぼくは早々に探索を打ち切った。これ以上ここにいると吐き気がしそうだ。早く外へ出てしまいたい。両手はなるべく空けておきたかったので、懐中電灯はデイパックに再び仕舞う。
とにかく、色々と不可思議なことに関してはすべて保留にしておく。さっきも思ったが、情報が足りな過ぎる。結論を出せる状態では、今はない。深く考えるだけ泥沼だ。
階段を降りて、正面入口の方へと足を進める。深夜の病院を歩き回るのは、こういう状況でなくとも落ち着かないものがある。
ロビーの前まで来たとき、ぼくはふと思う。もし実際、他の人間に出会った場合、ぼくはどう動くべきなのだろうか。今のぼくと同じく、この無機質な首輪に捕われている人間に出会ってしまった場合に。
ベタだが、まずはこちらに害意が無いことを伝えてみるべきか? もしぼくと同じく、本人同意確認無しの強制連行によってここにいる人間ならば、それは十分有効な手段のはずだ。
相手が、まともに話の通じる人間であったなら——だが。
結局のところ、行きあったりばったりで臨むしかないのか……。まあ、いつも通りではあるのだけれど。
「………玖渚の奴、今頃どうしてるかな———」
玖渚の無邪気な笑顔を、ぼくは思い浮かべる。
ぼくが今、どんな状況に置かれているのかをあいつに話したら、一体どんな顔で、どんな感想を聞かせてくれるだろうか。
きっとあいつは、いつも通りに笑顔でいるのだろう。
楽しげに笑って、愉しげにはしゃいで、ぼくの話を喜んで聞いてくれるのだろう。
愉快な御伽話を聞く、幼い子供のような顔で。
「……戯言か」
ぼくは軽く溜息をつく。これもまた、余計な思考だろう。
——この状況で、一瞬でも思考の箍を弛めてしまったのは、よくない選択だったかもしれない。
結果的に、それは油断と同義だったのだから。
正面入口から外へと出ようとしたその時、ぼくの感覚器官が何かを捉えた。
背後から感じる、暗い視線のような何か。
密室の中で感じる微風のように、その気配はぼくの首筋をぞわりと粟立たせる。
「動かないで」
反射的に振り返りそうになったぼくを、立て続けに発せられた二つの音が固定した。
冷徹に響く『Freeze』の声と、『ぱぁん』という、鋭くも乾いた破裂音。
破裂音の方だけが、静寂の中に木霊する。世界で唯一の音であるかのように、くっきりと響く残響音。
緊張が、全身を一気に支配する。
「『動いてもいいけど、とても危険よ』、というのが正しかったかしら」
か細い、しかし明瞭に聞こえる声だった。若い女のものらしき声だが、異様なほどに温度を感じさせない。
「念のため言っておいてあげるけど——もし勝手に動いた場合、あなたの頭蓋骨がほんのちょっと風通しの良い感じになっちゃう予定だけれど、それでもいいなら、どうぞご自由に。それが嫌だというのだったら、まず両手をゆっくり、頭の高さまで上げなさい」
「………」
銃声、という単語が、遅ればせながら頭によぎる。
ぼくは黙って、言われた通りにする。
「賢明よ」
ひた、ひた、ひた、ひた、と。
一歩一歩、こちらへ向けて近づいてくる足音。
「病院って無くてはならない場所だけれど、現実としてやっぱり、人が助かるだけの場所じゃないのよね………生きて病院を出ていく人とそうでない人、どっちの方が多いのかしらね。結構真面目に気になるわ」
気配が、ぼくのすぐ背後まで近づく。
「無事に病院を出るために、患者として最低限すべきことって何かしら?」
ごり、と、後頭部に何かが押し当てられる感触。ひんやりとした、金属を思わせる感覚。
「『いうことをきいて、おとなしくしておく』——子供でも、それくらいわかるわよね?」
………やれやれ。
敵の策略にあっさりと嵌ってしまった正義の味方のような心持ちで、ぼくは小さく溜め息をつく。
どうにもぼくは、先手を取られるのが得意な質であるらしい。
◆ ◆ ◆
ドラクエを始めとするロープレの主人公は、仲間を後ろにぞろぞろと引き連れて歩く陣型をとっていることがよくあるけれど、あれを見て、数多のモンスターともタメを張れる武闘家や魔法使いとかを自分の背後にぴったり付かせておいて、主人公は不安にならないものかと思う。
背中を預ける、と言えば格好良く聞こえるのかもしれないが、あの世界、そう簡単に信頼関係が築けるほど一筋縄でいく物ばかりではないだろう。モシャスやメダパニなどその筆頭だ。
最たる所はパルプンテといったところか。
勇気ある者と書いて勇者。なるほどその通りだと、ぼくは勝手に納得する。主人公に必要とされるのは能力でも血筋でも伝説の剣でもなく、信じる心なのだろう。多分、きっと。
「私の指示する以外の行動はとらないこと、私の許可なく口を開かないこと。この二つさえ守ってくれれば、無駄に脳漿が流出するようなことはないから、肝に命じておきなさい」
「………」
やばいのは脳なのに、肝に命じるとはこれ如何に。
とりあえず、ぼくに主人公の資質はないということで。
今後ろにいるのは、味方どころか全力で敵なのだけれど。
「両足だけ動かすことを許可するわ。私の指示する通りに歩きなさい」
実に寛大な処置により、ぼくはとりあえず不快な病院から外へと出ることができた。これも退院の内に入ると言うのならば、ぼくの退院歴の中で最も殺伐とした退院と言える。今すぐにでも病院へUターンさせられそうな状態なのだから。
言われた通り歩き出そうとすると「ちょっと待って」とおもむろにデイパックを引かれた。何かと思っていると、背中のあたりでごそごそと探るような気配を感じる。ぼくのデイパックの中身を漁っているらしい。
ややあって、右手に何かが握らされる。さっき仕舞った懐中電灯だ。「何か見つけたら即座に報告なさい」とのこと。探検隊の先頭を切って歩く勇気ある少年かぼくは。最初の落とし穴に落ちて忘れた頃に復活してくればいいのか。
内心だけで愚痴っていても仕方ないので、懐中電灯を点灯させて再び歩き出す。街中だというのに、明かりと呼べるものは何一つなく、本当に懐中電灯の光だけが頼りといった感じだった。
はっきり明かりの着いた建物はひとつも見当たらず、街灯さえも眠ったように機能していない。
それだけではない。街の全体に、あの病院内で感じたのと同じ雰囲気が漂っている。無人を示す、無呼吸の静寂。
異常なのは、やはりあの病院だけではなかったか………。
本当、悪趣味な真似をする。
「最初に会ったのが、あなたみたいな大人しそうな人で良かったわ。おかげでこうして、安心して話ができるものね」
ああ、極めて安心だろうね。あなたの方だけは。
彼女はぼくの姿を見つけてからずっと、一階の廊下の端でぼくが降りてくるのを待ち伏せていたらしい。どこでぼくの姿を見たのかというと、ぼくが病室でカーテンを開けた時、病院の外から偶然それを見たのだとか。
あの時ぼくの方からは暗闇しか見えていなかったけれど、当然外から見れば電気の着いた部屋の様子など丸見えだったわけで、つまりあの時、ぼくは相手に向けて一方的に姿を晒していたという訳だ。
間抜けすぎる。
と、彼女は楽しそうに言った。
「魚の死骸が窓に張り付いてるのかと思ってびっくりしたわ。そんな感じの顔してるんだもの」
どんな感じの顔だ。魚の死骸みたいな顔って。
いや、似たようなことを言われたのは、何回かあるけれど。
「殺し合えなんて、いきなり言われた時はタチの悪い冗談かとも思ったんだけど——まさかいきなり、こんな物騒な物持たされるなんて思わなかったわ。本気みたいね、このゲーム。素敵なくらい趣味が悪いわ」
ぼくも確かに思っていなかった。初っ端からこんな物騒な目に遭うなんて。
聞くところによると、彼女もぼくと同じ『参加者』の一人で、自分の知り合いもまた、同じくここへ連れてこられているらしい。その知り合いと合流することが当面の目的だということだ。
で、なぜかぼくはこの扱い。
挨拶なしでハチの巣にされなかっただけ良かったのかもしれないけれど。
「一応言っておくけれど」声をわずかに厳しい調子にして彼女(彼女、でいいはずだ)は言う。
「私が慈悲や温情なんかであなたを生かしておいていると思っているなら、それは大きな間違いよ。あなたの一言一句、一挙手一投足があなたの死亡理由になり得ることを、よく自覚しておきなさい」
容赦のない台詞だった。
自分の処遇を『まだ良かった』なんて思っていた矢先だっただけに、釘を刺されたような気分だった。
「あなたがするべき行動は、私の身を第一に守ることのみ。軽虚な思考も行動もいらない。それは同時に、あなたの身を守ることにもなる。簡単でいいでしょう?」
要するに今のぼくは、防御壁または囮として使用されているという立場なわけだ。
相手がもし飛び道具を使ってきた場合——いや、射程範囲の短い武器だったとしても、『遮蔽物』が自分の前にあった場合、当然のこと安全性は増す。遠目にも夜目にも目立つ懐中電灯を構えている状態の人間ならば、それはさらに恰好の標的。
防御壁&囮。もう響きだけで嫌だ。
『無敵状態発動、ただし谷底へ向けて落下中』みたいな?
……………駄目だ。調子出ない。
しかし彼女は、こんな状態で本当に自分の身を守れると思っているのだろうか…?
ぼくが周囲を警戒するのはいいが、代わりに彼女はぼくに対して武器を向け続けなくてはならないのだから、えらい非効率だ。お互いに自分の武器まで自由に使えない状態をわざわざ作っているようなものじゃないのか。
もしかしたら彼女は、ぼくに対して警戒心を偏らせすぎているんじゃないんだろうか。敵はぼくだけではないと頭ではわかっていても、今現在の『目の前の敵』であるぼくの動きを封じることに集中してしまい、他のことに目が行かなくなっているんじゃないか?
うーん。
ぼくは聞こえないように小さく唸る。ぼくは別に、闘うつもりなんてないんだけどなあ……。
その意思を彼女に伝えらればいいんだろうけど、もしぼくの思う通りの警戒心を抱かれているのだとしたら、そんな言葉、耳も貸してはくれないだろう。最悪、それが裏目に出て取り返しのつかないことになる可能性だってある。
エンカウント時についての懸念が、見事的中したということか………。
ままならないなあ、相変わらず、色々と。
とりあえず、今は様子を見るのがベストなのか…? 優位に立っているせいか、向こうからはよく喋ってくれているし、このまま話を聞くことで突破口を見つけるのがいいのかもしれない。
様子を見つつ、相手の警戒心が薄まってきたところを上手く狙って、そして———
「……痛ぁっ!!」
視界が一瞬暗転しかけ、思わず声を上げる。一瞬遅れて後頭部に感じる鈍痛。さらに一瞬遅れて殴られたのだと理解。何故に?
「とぼけても無駄よ」背後から掛けられる、氷点下のように冷えきった声。「あなた今、私を妄想の中で手籠めにしようとしていたわね」
「………………」
………えええ?
「声しか知らない相手を手籠めにしようとするなんて、随分と器用な真似をしてくれるじゃない。童貞野郎の一念岩をも通すとはよく言ったものだわ。李広も形無しね」
聞いたことねえぞそんな格言。
「声だけで満足できる人間なんて声だけ与えられて生きていればいいのよ。生身の肉体に触れる権利なんて統べからく排除すべきだわ。ドラマCD
でも聴いて一人で悦に浸ってればいいのよ。特に五月発売予定のやつとかを買って聴いていればいいのよ。10枚くらいまとめ買いして配っていればいいのよ。布教すればいいのよ」
待て待て待て待て。
なんなんだこれ。変な方向に話が行ってないか。
「どうせドラマCDなんて放映開始までの繋ぎ役でしかないのよ………絵が出来るまで音で繋ごうって魂胆なのよ………下巻が発売延期になった
しわ寄せよ………どうせ買わないのよ………別に期待してないからって買わないで、ニコでうpされたら結局聴くのよ………どうせそんなんばっかりよ………初回特典とかで集客するしか手はないのよ………」
ほんとに何を言ってんのこの人。
声がどんどんやばい感じになっている。
返事がやばい。生ける屍のようだ。
「冗談は置いておくとして」
冗談だったらしい。
冗談で済まされる話だと思っているらしい。
「これ以上不埒な妄想を働かせるのは許さないわよ。次に変なことを考えたら、その腐った妄想ごと、あなたの脳細胞を根こそぎ死滅させてあげるから、そのつもりでいなさい」
後頭部に加えられる圧力で、頭蓋がみしみしと鳴る。痛い痛い痛い。
……この人、ぼくの思考の中まで難癖をつけてくるつもりでいるのか?
ていうか、完全にいいがかりだし。それは被害妄想という名の不埒な妄想と呼ぶべきじゃないのか。
「あなたの脳内がわかりやすいだけの話よ」
さらに失礼な台詞を連ねる彼女。
「底の浅い人間の脳内なんて、その気になれば記憶の底まで把握できるわ。あなた子供の頃、ピンセットの先端コンセントの穴に挿入してショートさせたり、乾電池を火にくべて爆発させてたりして遊んでたでしょう。根暗のする遊びは皆ワンパターンね」
しねえよそんなデンジャーな真似。遊びで済むか。
まあ、ウォッカを壜イッキたことならあるけど。
「何それ、馬鹿じゃない。向こう見ずな人間のすることはこれだから。脳も焼け爛れてて当然ね」
余計なお世話だ………ってあれ!? 会話成立してる!?
喋ってないのに!
本当に脳内把握されてる!?
「馬鹿ね、ただの冗談よ」
いや、だから冗談で済ませていい話じゃないって!
「冗談が通じない人ね。ジョークも教養の内なのよ? 紳士の嗜みとして扱われているのよ?」
今のはジョークでなく悪ノリというやつだと思ったが。
「仕方ないわね、教養に乏しいあなたのために特別、私が世界一面白いジョークを聞かせてあげるわ」
…世界一とか銘打ってる時点で、既に聞く気が失せるんだけど。
「林の中にいた二人のハンターのうち、一人が突然倒れました。倒れた友人を見ると呼吸が止まっているようで、すでに死んでしまったのではないかと片方のハンターは考えました。
そこで彼は携帯電話を取り出し、救急センターに電話しました。
ハンター『友人が死んでしまった。どうすればいいんだ?』
オペレーター『OK、落ち着いてください。私が何とかしましょう。まず彼は本当に死んでいるんでいるか確認できますか?』
しばし沈黙が流れた後、銃声が聞こえた。
バン!
ハンター『OK、次はなにをすればいい?』」
「………………」
………あれ、終わり?
期待していたわけではないけれど、笑えないどころか、笑い所がどこなのかすら、まったく理解できなかったぞ………? ステイタスの高いジョークは、理解することすら難しいのだろうか……。
ぼくが無反応なのを受けてか、後ろから大げさなくらいのため息が聞こえてくる。
「これを聞いても笑えないなんて……あなた、本当に駄目ね。ドブネズミ以下の価値の無さね。むしろもうドブね。汚水にまみれてミズゴケの世話にでも勤しんでなさい」
結局罵倒で締めくくられた。
もういいや……何かもう、どうでもいいや………。
こっちは何一つ喋っていないのに、遠泳でもした後のようにしんどい。精神が見事に擦り減らされている。何だこの能力。
今までのパターンからして、銃弾の一発くらいは覚悟していたつもりだったけれど、見ず知らずの相手(まさに文字通りの表現)から、こんな罵利雑言の雨嵐に晒される羽目になるとは思わなかった。
何か、やたらと罵倒し慣れてる感じだし。
朽葉ちゃんにちょっと似ている。
そんなことをしている内に、病院からだいぶ離れた所まで来ていた。話に気を取られていたせいか、先程から辺りに広がっている不自然さに、ぼくは気付いていなかった。
人の気配がまったく感じられないのはさっきまでと変わらなかったが、今ぼくが見ている景色は、ぼくのよく知る京都市内のそれではなかった。
道を違えたとか、そういうレベルの話ではない。
見たままを言うなら、時代が違う。
建物をはじめ、さっきまでアスファルトの上を歩いていた時とはまるで違う雰囲気の、時代劇の中のような町並み。
…一般的なイメージでいうなら、こっちの方が京都っぽいと言えるのかもしれないけれど。
京都にも、こんな景色の場所は恐らくない。
……そういえば、病室の中でデイパックの中身を確認した際、京都市内ならば地図を見る必要はないかと判断して、そのままデイパックの中に入れたままにしておいたのだっけ………。
どうやら、とことんぼくの予想以上の異常事態であるようだ。
それとも、ぼくの予想力が貧困なだけなのか……?
まあ、異世界に召喚されたとか、自分で言ってたんだれど……。
とりあえず、京都じゃないんだな………ここ。
道がわかれる度、後ろから進む方向を指示される。その明確な指示から察するに、彼女のほうはどうやら向かうべき場所がはっきり決まっていて、そこに至るまでの道筋も把握しているようだ。
……知り合いを探している、とか言っていたっけ。
それはいいのだけれど、その目的を達した後、ぼくはどういう風に扱われる予定なのだろうか。このまま遮蔽物として扱われ続けるのか、それとも———
初めの時点で既に生殺余奪の権を握られていただけに、その可能性は妥当といっていいものだとは思う。だけどぼくは今、彼女に対してそれほど恐怖と呼べるようなものを感じているわけではなかった。
脳で理解し、肝に命じて、それでもなお。
別に、こういう状況には慣れている、だとか、こうして窮地に立たされるのは初めてじゃない、みたいな、あからさまに格好つけたようなことを言うつもりは毛頭ない。
そんなのは、自分の経験が特別な物だと過信して、他人より多くトラウマを抱えていると勘違いしている人間の台詞だ。
大怪我の元の、生兵法。
ぼくが恐怖を感じていない——感じきれていない理由。
それは、殺意を感じない、ということ。
仮に、あの殺人鬼のような圧倒的な殺意を、五臓六腑に浸透するほど純粋で暴力的な殺意を、こうしてすぐ背後から放たれ続けていたとしたら、ぼくは既に正気を保ってはいなかっただろう。
彼女が放っているのは殺意ではない。
これは多分、敵意の方だ。
びりびりと、びしびしと、叩き付けるように放たれる敵意。
一切の遠慮なく、包み隠そうとする気配すらなく。
初対面の人間に対して、ここまで無遠慮に敵意を放てるというのは、もはや才能と呼べる領域ではあるのだけれど——。
それでもやはり、足りない。
敵意だけでは、恐怖を感じるには物足りない。
この敵意が、ぼくに対する攻撃意識でなく、単なる防衛本能によって生じているものだとしたら、なおさらだ。
慣れているつもりは、別にないけれど———
初めてじゃないのは、否定できることじゃない。
「あなた、こういうのって初めてじゃないのかしら」
結構びっくりした。思わず相槌を打ちそうになった。
「こういう時の反応って、人によって微妙に違うものなのよね——大袈裟に脅えて見せたり、努めて冷静でいようとしたりする場合もあるけれど」
他でもやってるのか、こういうこと。
「あなたの場合、何ていうのかしら。慣れている——というより、鈍磨してるって感じがするわ。あの阿良々木君でさえ、こんな希薄な反応じゃなかったのに——」
淡々と紡がれる言葉。
そっちが鈍磨してるんじゃねえのかよ。
最終更新:2009年04月16日 21:05