Origin ~THE BLACK BLOOD~

トライデント=コーザー=ヴァーミリオン、本編以前のエピソード0的な何か
SSスレに投下したものを一部修正したものです

実験的に、今回は全文「一人称視点文」で書いてみる事に挑戦
そうしたら予想以上に難しかった。主観視点は難しいのか、単なる技術や経験の不足なのか……



呼び止める声に背を向けて、俺は道へと歩を進める。
背中から俺を明かりで照らすのは、か細く存続してきた孤児院だ――――俺も一時期、世話になっていた場所だ。
置いてきたのは現金3000000。『寄付』ではない。『礼』と『謝罪』、そして『手切れ金』だ。
俺との関わりが知れたら、ここにだって迷惑がかかるだろう。だからもう2度と、俺からは接触しない。
第二の……いや、本当の故郷の『ヴァディス郷』の道を、俺は1人で歩く。

――――世の中にはクズが多すぎる。ああやって、日々を真っ当に生きようとしている人間たちを押しのけてしまうほどに。

繁華街に差し掛かり、全く無意味な喧噪に包まれながら、俺は不機嫌に歩き続ける。
雑踏の中の1人に過ぎないはずの俺でも、そうした面を見せていれば、狙いを定めてくる人間は確実に現われる。
……男が1人、隣を並んで歩調を合わせながら、なんやかんやと声を掛けてくる。
やれ「今夜はお得」だの「あなたを癒す」だのと……要するにこの男は『ポン引き』と言う事か。
俺みたいに仏頂面をぶら下げている人間は、餌をちらつかせれば食ってかかってくると踏んでいるのだろう。
実際、それは間違いでもないのだろう。よほどの聖人君子ならいざ知らず、不機嫌は何らかの形で発散しなければ、容易に拭い去る事は出来ない。
そこに女を宛がって金を稼ごうと言うのは、下衆の手口としては儲かる方なのだろう。それはよく知っている。

――――知っているからこそ我慢がならない。その浅はかさを以って、俺に近寄ってくるな――――

「失せろ、忌々しいクズが……!」

並行してきた男の足が止まる。数瞬置いて俺の背中に悪態が叩きつけられる。
こんな拒絶のされ方をした経験はほとんどないのだろう。男なら誰でも女に靡くとでも思っているのか?
……当然男にも興味はない。そんな反吐の出る倒錯趣味があってたまるものか。本来『病気』と言うべきものだろうに。

溜まった苛立ちを洗い流す様に、何度も何度も呪いを掛ける様に繰り返してきた事を、今またもう1度リピートする。

――――俺がクズ共を始末する。『悪』を許さない人間はここにいるのだと、知らしめてやる。
――――他でもない『人間の悪』を、同じ『人間』である俺が、殺戮してやる。この命の限りに。
――――この意志だけは、絶対に曲げはしない。

呪いの様な誓いの言葉を、心の中で反芻しながら、俺はふとした気まぐれを起こした。
そうした突拍子の無さは、人間本来のバイオリズムなのだろうか。それとも単純に、俺が自分で分からないほど尋常ではない気分だったのだろうか。

なんで俺は『こう』なったのか。自分の過去を、自分の存在から現在にまで連鎖している『因果』を、振り返りたくなってしまった。
別に意識しなくても足は勝手に進んで行く。繁華街を抜ける進路を取りながら、柄にもなく俺は昔の事を思いだしていた。



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「おかーさん、またおしごとにおでかけするの?」
「勝手に出歩いちゃダメよ。さっさと早く寝ちまいなさい。それと、この前みたいに昼間に起こすんじゃないよ!」

最初にそれに気が付いたのは、俺が学校に通う様になってからだったか。
母親は、いつも午後から家を出て、俺が起きる頃に帰って来る。俺が学校から帰ると眠っていて、夕方に起きた母とほんのわずか会話するだけ。
帰ってきた母親は、どこか上機嫌だった。だが昼間に目が覚めると、不機嫌に声を荒げて、平手で頬を張られる。

「眠いのが分かんないの!? ジュースなら台所の買い物袋の中にあるから、勝手に飲みなさい!!」

学校に通うまでは、それが当たり前の事なのだと、俺は思っていた。世の中を計る尺度など、身近に存在しない世界に生きていたからだ。
今から思い返せば、なんて分かりやすい環境だったのかとも思う。第三者から見れば、答えそのものの様な生活だっただろう。

「良い? あの子と一緒に遊んじゃダメよ? それとあの子の家に遊びに行くのもダメ」
「なんで? トライデントくん、ともだちなのに」
「なんでも! あの子のママは悪い人だから――――…………」

俺自身は特に何でも無かった。幸いな事に、同級生たちもそうだった。だが――――同級生たちの親、そして教師。要するに『大人』は違っていた。
自分でも、良く悪童に成らなかったなと思うほど、あの頃の俺は普通の子供だった。少なくとも性格の上では……。
幼いながらに、俺は確実な『疎外感』を感じていた。そう呼び習わす事は出来なくとも、そう呼ぶのが妥当な漠然とした違和感を。
そしておぼろげに理解した。その理由は、俺にではなく、俺の母親にあるのだと言う事を。

――――ぼくはなにもわるくないのに、なんで『わるいこ』っていわれるの?

あの頃の俺の気持ちを、今の俺が代弁してやるとするなら、恐らくこんな所なのだろう。

「トライデントくん。もうぼく、きみといっしょにあそぶのはやめるよ……」
「……ぼくのこと、きらいになった?」
「う、うん……」
「そうじゃないよ。フォスルくん、フォスルくんじゃなくて、フォスルくんのおかーさんがぼくのことをきらいなんだ」
「えっ……ゃ……!」

……それを止めてしまってからは、すっかり衰えてしまったが、少なくともあの頃の俺には、人を見る目があった。
ずっと母親の顔色を窺いながら生活してきたのだ。何を考えているのかは分からなくとも、「どんな気分で」「何をしようとしているのか」ぐらいは読みとれた。
今でも、人と真っ当に向かい合う生き方をしていたなら、そうして人を見る目を養う事も出来たのだろうが、今さら詮無き事だ。

――――それとも、ある意味『天才』だった父親の影響で、早熟していただけなのだろうか。もしそうなら嘆かわしい話だ。

「フォスルくんはぼくのこと、きらいじゃないよね? たぶん……」
「う、うん。きらいじゃないよ」
「ならいいよ。フォスルくんがおこられたらいけないから……たまに、ちょっとだけあそんでくれたら、いいよ」
「うん……ごめんね……!」

自分のこんな境遇を思い返すと「子供の純粋さは何物にも代え難い」と言う言葉にも、頷けると言うものだ。
大人たちの圧力のあった環境を考えれば、俺は信じられないくらい幸せに過ごせていたのだろうから。



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「お母さん! もうお酒飲んで寝るのは止めてって言ってるでしょ!?」
「うるさい! あたしに指図すんな! 生意気だよあんた!!」

変化があったのは、9歳ぐらいの頃だった様に覚えている。
相変わらずの生活、相変わらずの周囲。だが、俺は変わる。子供はあっと言う間に成長し、大人の考えを超えて発達もする。
段々と同級生たちも俺を敬遠する様になり、俺自身も、それが何でなのか、理解し始めていた。
昔ならいざ知らず、当時でも情報と言うものは、知ろうと思えば大抵の事はすぐに知る事が出来る。
俺はそれを知りながら、どうしようもなく黙り続け、その代わりに「俺自身が舐められない様に」児戯ながらも虚勢を張る事を覚えていた。
だが、確かあの日……俺はとうとうそれを母親に対してぶつけたんだったはずだ。今日みたいな気まぐれか、何かの拍子で……。

「お母さん……だらしないよ、ひどいよ……『淫売』、してるんでしょ……?」
「……は?」
「……俺までね、俺まで、不潔なガキ扱いされてんだよ、分かる? ……母さんのせいで俺、ハブにされてんだよ……!?
 仕事の後で、妙に期限良いのはそれが理由だったんだろ……だから夜の仕事なんだろ……! そんなに「良かった」のかよ!? 畜生!!」

……正直に白状すると、こんな事を言いながらあの頃の俺は、まだその完全な実態を知ってはいなかった。何が「良かった」のか、良くは分かっていなかった。
完全に、聞きかじりの文脈の上での理解でしかなかった。ただそこに「恥ずべき事だ」と言う認識をプラスしただけの……。
ともあれ、俺はハッキリとそれを叩きつけた。抱えに抱え続けてきた鬱憤が、あの時に噴き出したのだろう。

――――最初の楔が外れたのは、あの瞬間だったに違いない。母親の平手が、俺の横っ面を叩きつけた、その返答が。

「っっっ!!」
「お前なんか、お前なんか生まれてこなきゃ良かったんだ! あたしの邪魔をされるぐらいなら、さっさとオろしておけば良かったんだ!!」

執拗に、何度も。俺の頬を鞭の様な平手が叩きつける。母親の怒号はその後も続いたが、それ以外は流石に覚えていない。
――――ショックだったのだ。「生まれてこなきゃ良かった」の一言が。気がつけばぐらつき始めていた左の奥歯が、それに追い打ちを掛けた。

「――――っがぁッ!!」
「きゃ……!?」

舐められない様に、虚勢を張っていた空度胸が、この時に本物になったのだろう。その時の俺に「反撃する」と言う発想を与えてくれた。
母親を突き飛ばして、家を飛び出す。母親も母親で、虚をつかれた様子でキョトンとしながら尻餅をついていた。
その間、俺は公園で時間を潰していた。何するでもなくただじっと。そうやって過ごす事に、もう既に慣れてしまっていた。

――――そうしながら、俺はやはり幼心にだが、ハッキリと悟ったのだ。母親とは、もう他人同然なのだと。

日没ごろに家に帰る。鍵がかかっているのは想定内だった。だったら窓を破れば良い。どの道もう帰って来ない決意は着いたのだから。
相当に荒れたのだろう。室内はいつにも増して滅茶苦茶な事になっていた。そうでもしなきゃ、やってられなかったのだろう。
着替えと食料と防寒具、そして現金の類をあるだけ持ち出して、俺は玄関からではなく、窓からそこを後にした。

――――最初で最後の家出。もう2度とは帰って来ないと、何度も何度も繰り返しながら、俺は走った。舌で押し抜いた奥歯をその場に吐き捨てて。



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……子供の本格的な家出と言うのは、大変な難行軍だった。何度も何度も、連れ戻そうとするお節介な大人たちが現われ、その度に逃げ回らなければならない。
冗談じゃない、あの家にいる限り、俺はいつまでも「汚れたガキ」でしかいられないと言うのに。
アテがあった訳じゃない。ただ違う自分を、違う生活を、違う環境を求めていた。そうすれば、自分は「汚れたガキ」にならずに済むと信じて。

「……今日はここかな」

路地裏にゴロンと寝そべりながら、誰にともなく呟く。持ち出した金も何時か無くなるのは、子供にだって分かる。と言うより既に半分になってしまった。
ならば宿など取っている場合ではない。無論、大人の視線は避けなければならない。もはや、完全に野宿が当たり前になっていた。
アテの無い旅でも良い。とにかく少しでも遠くまで逃げられるのならば――――しかし、そろそろ金が無くなる。どうすれば良いのか?
――――そんな事をぼんやりと考えながら、いつしかウトウトとなり掛けていた頃合だった。

「――――こんな所で何してるんだ?」
「!?」

声を掛けられて俺は飛び起きた。また『補導』とやらか、あるいは金目当ての誰かのどっちかだろうから。
目に入った相手の風貌が、尚更それを確信に変える。服装は普通だが、どこか痩せ気味で厳しそうな顔つきの中年。
ただ、それにしては静かな眼だった。本当に「静かにじっと見つめてくる」と言う言葉がぴったりに思う様な――――。

「っ、家に帰る気なんかねぇぞ! あんな『ビッチ』と一緒にいたら、俺まで迷惑するんだからな! ぶん殴られるのもごめんだ!」

――――良くない言葉を、その旅の中で俺は覚えてしまっていた。ここら辺から俺は捻くれ始めたんだろう。
それが「『あの女』みたいな女を指す罵倒語」であると知ってから、俺はその語を反芻し、母親に当てはめ続けていた。
そうでもしなければ、到底恨みは晴れなかったのだ。心の中での「ささやかな復讐」ぐらい、誰だってする事だろう?

「……ふむ……」
「……?」

その中年の顔が、すっと静かに――――それまでよりももっと『静かに』なっていく様な気がして、俺は戸惑った。
経験から言って、普通の大人ならここから声を荒げて手を掴もうとしてくるものだ。「馬鹿な事を言うな。さあ一緒に来るんだ!」みたいな事を言って。
――――その『静けさ』が、妙に怖かった。同時に、何か惹きつけられる。そんな自分に更に戸惑い、俺は逃げる事を忘れていた。

「……本当に家に帰る気が無いのなら、私と共に来なさい。もう逃げ回る必要はない。
 ……ただし、もう『ビッチ』等と言う、汚い言葉を使うのは止めるんだ。それこそが、君の心を汚くする。」
「……ぅ……!」

それは恐らく、初めての「叱られた」体験だった。母親の様に「怒鳴り散らされる」のではなく、権威者として「叱責する」というのは、ああいう事なんだろう。
静かで、それでいて重いその言葉が、今まで経験した事の無いほど、俺の心を揺さぶったのだ。
あの静けさを持つ者こそが、人を真に叱り、導いて行く事の出来る存在なのだろう。
……戸惑いながらも俺は、行くあての無い事だし、連れ戻そうとはしない様だしと、何も言わずに後をついて行った。

――――ヴァディス郷『オルガ私設孤児院』。後に俺の保護者代わりになるその中年が、その孤児院の院長先生なのだと知ったのは、20分後の事だった。



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――――孤児院で過ごした5年間は、恐らく最も充実した時間だった。
無論、裕福な孤児院などほとんど存在しえない。曲がりなりにも良い稼ぎだった母親との生活に比べて、ひもじい思いをする事は多かった。
だが、それでも俺は満たされた。もう『売女のガキ』などと言われる事はないのだから。
いや……『貧乏人』とか言われる事は多くなって辟易したが、そこには同じ孤児院の仲間たちがいた。それだけで案外耐えられるものなのだ。
意外だったのは、孤児院と言って、両親と死別した子供と言うのは、案外多くはないと言う事だった。
むしろ、俺みたいな『事情』を抱えた奴が、両手では足りないくらいに数えられる。そうした連中を院長先生は見つけ出し、そして保護して親と交渉の末に預かる。
院長先生が何を考えてそれをしているのかは分からないが、ともあれ同じ様な仲間と、正しく導いてくれる大人がいると言うのは、心から安心できる環境だった。

初めは中々打ち解けず、1人で静かに過ごしていた俺も、やがてはそこの仲間たちと一緒に、ささやかに笑える時が訪れた。
だが……漠然と予感はあったのかもしれない。釈然としない違和感を――――「何かが違う」と言う感覚を、俺は時折己の中に垣間見ていた。
父親の事を思う時、その感覚は頻出した。似た境遇の仲間たちとは、そんな事も夢みたいに語らう事もあるのだ。

――――あんなろくでなしと結ばれた様な男なら、変わらずろくでなしなのだろうが、少しでもまともであってくれたら……その時は、親として仰ぎたい。

そんな願いを、『運命』とやらは知ってか知らずか。14歳の時に、俺は『彼女』と出会う事になるんだ。

「遅くなっちまった……――――あれ……?」

ヴァディス川の川漁師の手伝いをしている内に、すっかり暗くなってしまった道を、俺は早足で孤児院へと急いでいた。
もしその出会いが無ければ、俺はいずれさっきの『違和感』を忘れて、中学卒業と共にヴァディスの漁師見習いとしてでも、働きに出ていたのだろうが。
――――物陰に、身を潜める様にして、女が倒れている。この辺では滅多にある事ではない。わずかな躊躇の後、俺は近づいて行った。

「……大丈夫か?」
「……ぅ……!?」

完全に身を投げ出す様にして倒れていたのは、恐らく俺より少しだけ年上の女だ。
暗い中でもサングラスを掛けていると言う事は、あるいはずっと倒れていたのかもしれない。とりあえず抱き起そうとしたのだが。

「……さ、触らないで!」
「……ッ。……別に何もしない。ただ、こんな所で倒れている人を、そのままにしておく訳にもいかないだろう?」
「っ、だ……大丈夫よ。それより……あたし『毒女』だから……下手に近づくと、あんたの方が大変に……なるわよ……?」
「……?」

世の中には、いわゆる普通の人間とは一線を画する異能者がいる事も、それがプラスばかりではないと言う事も、俺は知っていた。
だから、その言葉の真意を測りかねて混乱していた時間も、ごく短い物で済んだのだろう。とりあえずそう言う体質なのだと言う事で、折り合いはついた。

「……別に問題ない、俺の事なら。もし俺に何かがあっても、あんたが気に病む事はない。それはその言葉を無視した、俺の責任だからな」
「え……ゃ、ちょ……!」

言うだけ言って、俺はその女を担ぎ上げた。プリンセス・ホールドなのはこの際、我慢してもらおう。背中におぶるのは……なんと言うか、なるべく避けたい。

「ちょ、待って、離してよ!」
「良いから大人しくしてろ。病人が暴れるな……、……ッ」

人1人を担ぎ上げると言うのは、大変な作業なのだ。変に暴れられるとこちらが苦しい。
歯を食いしばりながら、何とかそばの公園のベンチまで彼女を運び、介抱する事が出来た。俺のプライドと彼女の対面を保ち切って。



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――――結局、彼女が動けるようになるまで待って、俺たちは別れた。それくらいで済むなら、ちょっとしたお説教を喰らってお終いで済む話だ。
だが、翌日……学校からの帰り道、どうした事か彼女は俺の通り道に待ち伏せしていたのだ。

「……あんたは」
「あの……夕べはありがとう。それで、その……身体、大丈夫なの?」

相変わらずサングラスを掛けたままで、何故かバツが悪そうな様子で彼女は俺の体調を確かめようとする。
そう言えば昨日、自分の事を『毒女』だとかなんとか言っていたが……。

「大丈夫も何もないだろ。別に普通だ。あんたの勘違いだったんじゃないのか?」
「え……!?」

彼女は、酷く驚いた様だった。しかし驚かれてもこちらが困るだけだ。結局、俺の身体はどこもおかしくなっていないのだから。
いや、昨日のお説教がわずかに腹に据えかねて、多少寝不足にはなっているが……。事情があったと言う事で、その程度で済んでいる。

「……本当に、何でもないの?」
「だからそう言ってるだろう……!?」
「――――ッ!」

しつこく問いかけてくる女に、俺もいい加減うんざりしてきてたのだが、次の女の行動にはこっちが面食らう事になった。
ニヤッと口元に笑みを浮かべると――――その女、いきなり俺に抱きついてきたのだ。

「な、ぁ……!?」
「嬉しい……! 昨日は、本当にありがとう!
 君だけなんだよ……死んじゃったママ以外であたしに触れて、何でも無かったのって! 本当に、初めて!」

……どうするべきか分からずに、俺は完全に固まっていた。いや、気持ちの上ではどちらかと言えば不快だった。こんなの、不躾極まるだろう。
だが、気持ちは不快な癖に、何故か不思議とそれを行動に移す気になれなかったのだ。相手が女で年上なんて、どう対応すべきか分からない。

「……んー♪ 人って、やっぱりあったかぁい……」
「……………………」

……いや、正直な事を言ってしまえば、なんだかんだといっても、結局俺は『中坊のガキ』だったと言う事なのだろう。
女性の身体の暖かさ、柔らかさ、甘い香り……完全に、俺はドキドキしてしまっていた。胸が高鳴り、顔が熱くて、眼が泳ぐ……情けない。

「……あたし、アコーディオン。アコーディオン=キュリオス=グリーン……君、名前は?」
「……ト、トライデント……トライデント=コーザー=ヴァーミリオン……だ」

彼女――――アコーディオンと恋仲になるのに、そんなに時間は掛からなかった。
無論、みんなに冷やかされ、孤児院の先生たちには「おやおや」と言った態度を取られたが、別に誰も何も言わなかった。
共同生活でも、恋ぐらい経験しても良いだろうと、恐らく院長先生がそう言ってくれたのだろう。
何より、あの瞬間の笑顔……本当に、抑圧から解放された久方ぶりの笑顔なのだと見て取れたから、俺も気になっていたのかもしれない。
いつか、俺もそんな笑顔を浮かべた事があったのだから。



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孤児院の手伝いがあったりして、アコーディオンとはそんなに頻繁に会える訳ではなかった。それでもアコーディオンは、ずっと俺を待っていてくれた。
そこまで俺が、彼女にとっての『特別な存在』なのだと言う事は、不思議と俺に嬉しさを感じさせた。
誰かのオンリーワンでいる……それは、今までに感じた事の無い類の喜びだったと記憶している。

だが――――半年後、俺が15歳になった時、それに見事に水を差してくれるアクシデントが、久しぶりに舞い込んできた。

「トライデント……お母さんが、病気で入院したそうだ。……もう、永くは無いらしい」
「……それが、何か?」

院長室に呼び出された俺を待っていたのは、院長先生からのその言葉だった。俺はうんざりこそすれ、驚いたりうろたえたりする事はなかった。
もうあの『売女』と俺は他人だ。別にどこでどう死のうが構わない。どうせあんな生活を続けていたら、いつかこうなるのは目に見えていた事だ。

「……会って、話したい事があると言ってきた。……会いに行ってあげなさい」
「……今更何を……俺は嫌ですよ、先生……」
「……そう言うと思っていたよ。それは分かっている。だが……これは1つのけじめだ。今更だからこそ、会う事に意味はある。
 文句を言いに行くとでも思いなさい。そうして会えば、必ず何らかの感慨が湧いてくると言うものだ。……行ってきなさい」
「……分かり、ました……」

俺にとっての親代わりなのだ。その言葉を無碍にする訳にはいかない。それに、この人の言葉の重みは、最初に会った時から逆らえそうもない。
どんなふうにして痛罵してやろうか……むしゃくしゃした思いを抱えたまま、俺は出かける準備に取り掛かった。



「……待ってたよ、トライデント……」
「……ぅ、ぁ……ッ」

問題の病院。その病室に足を踏み入れて、6年ぶりに母親の姿を見た時、俺は言葉が出なかった。同時に、院長先生の言葉がやはり真実である事を思い知らされた。
――――あの、俺を歯が折れるまで引っ叩いて見せた母が、死にかけている。今更ながら、俺は記憶の中の母親の容姿が、人並み外れて優れていた事を思い出す。
淡褐色の肌に、くっきりしつつも極端の無い様に丸みを残していた顔立ち、服の上からでも見てとれる、肉感的な体つき……。
さぞ娼婦としてもてはやされたのだろうその身体は、生気無く横たえられていて……何より、肌が完全に萎れていた。
何がショックと言って、その肌の色の悪さがショックだった。上質なコーヒー豆みたいだったその褐色の肌は、泥の様な汚らしい黒ずみになっていたのだから。

「……あたしも、疲れてる……だから、すぐに本題に入るよ……あんたの父親、誰かを教えてなかったから……」
「……!?」

意外な言葉だった。こんな女なのだから、俺の父親が誰かなんて、到底分からなくなっていると思っていたのに。
その為に俺を呼んだのか……。聞きたい様な、聞きたくない様な、ざわざわする胸の内を感じながら、俺は黙って続きを促す。

「あたしが……わざわざ子供を産んだのは、変だって……多分、分かってるでしょ……?」
「……あぁ。商売女に、子供なんて邪魔なだけだ。俺の事も「産まなきゃ良かった」なんて、言ってくれたよな?」

軽く嫌味を挟みながら、俺は相槌を打った。こんなものじゃ済まさない……ジャブを打った心境で、俺は次のストレートの機会を待つ。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



「……いや、良かったよ……あんたがいれば……あの人は、助けてくれるかもしれない……」
「……!?」
「……あんたのお父さんはね……実は、凄い人なの……あたしの病気さえ、治してくれるかもしれない……」
「……誰なんだ、一体……?」

母の言葉から、その人物像を想像するのは難しい。本題に入ると言いながら、くどい言い方をしやがって……。
言葉のストレートを放つのは一時手控えて、俺は話題のストレートを母にもう一度促す。

「……あんたのお父さんは…………カノッサ、機関の……」
「っ、あ……!?」
「機関の、お偉い科学者…………ぐ、グラトン……グラトンって言う、お爺さん…………会って、連れて来て……!
 その為に、あんたはいるんだから……! こんな時の、為に……!」

――――何を言ってやがるこの死にかけは?
父親が? 機関の? しかも爺? この女、爺と商売して『種』を確保したってか? 俺を産んだ理由は、単なる連絡通路だってか?

「――――――――っざけんな!!!」

もうそれ以上、1秒だってその場にいるのは耐えられなかったし、嫌味なんて言ってやる余裕は無かった。
ド直球、捻りも何もあったもんじゃないストレートド直球の怒号を叩きつけて、俺は病室を飛び出す。
――――錯乱しかけた頭が、色んな思考を中途半端に繋いでは、ぶつぶつと断線させる。
尊敬できる父親? 機関のどこが真っ当なんだよ? 俺は単なる道具? 損得勘定で俺は生まれた? 今あの女の為に動く理由があるのか?
分からない、分からない、分からない、分からない――――――――。



「……トラ君、何ボーっとしてるの……こんな所で」
「……あ、アコード……」

放心状態でヴァディスに帰ってきて、無感動に川を眺めていたら、いつの間にかアコーディオンが側にいた。こんな事にも気付かないとは……。

「……何でもない。ちょっと、母親と……」
「……何でも無いはず無いでしょ? 今のトラ君、鬼でも見た様な凄い顔してる。変な隠し事は無しって、ね……前に言ったでしょ?」
「……それは」
「君のママと何があったのかは、別に詮索しない。でも、本当に尋常じゃないよ、今のトラ君は……どうしたの、教えて?」

……アコーディオンが嘘や隠し事が嫌いなのは、俺だってもう良く分かっている。女性付き合いに不慣れなせいで、その事で怒らせた事が、何度あった事か。
……特別だと思ってくれるのだからこそ、尚更これを隠す訳にはいかない。話した事でこの関係が悪化するなら、その時はその時だ。

「……実は――――――――」

腹を括って、俺はアコーディオンに、ついさっきあった事を話す。どうせ本当かどうか分かったもんじゃないと言う、ある種の開き直りをしながら。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



「…………」
「……どうせ、あの女の法螺だよ。自分を大きく見せる為に、適当なビッグネームと関係があった~なんて語るなんて、良くある事さ。
 まして、本当にそう言う事しがちな人種に含まれる訳だからな……母親だったあの女は……。」

口でそう言うと、本当にそれが真実な気がしてくるから不思議なものだ。
死ぬ間際に『箔』が欲しくなって、ついでに俺を機関に関わらせて、道連れにしようとする――――あり得ない話じゃない。

「……本当に、そうかな……」
「……どうした、アコード……?」

自分の心を、自分の言葉で宥めるのに一杯一杯だったのに、俺は気づいた。ここで初めて、アコーディオンの様子がおかしい事に気付いたのだから。

「……本当に有名人の名前を語るなら、さ……そんな悪人の事じゃなくて、もっと本当の意味で『ビッグ』な人にしない?
 それに、『機関のグラトン』って言って、そんなに有名な人でもないよ。その名前を知ってて、出せるって言うのは、きっと関係があったんじゃ……」
「……それは、そうだが……――――アコード、どうしたんだ……?」

アコーディオンの言葉も尤もだ。だがそれよりも、俺はアコーディオンの様子の方が気になっていた。
――――どこか、悩んでいる様に見える。それは俺の言葉そのものではなく、自分の事の様に――――。

「……トラ君! ハッキリさせよう。検査、受けようよ!」
「は……っ、検査って、一体……!?」
「死んじゃったパパの『伝手』で、そう言うのを調べてくれる所があるの! 無理やりにでもお願いする!」
「ちょ、ちょっと待て! 俺の身体だけ調べても、そこの関係性なんか……!」
「『サンプル』はあるの! 良いから早く!!」

突然、火のついた様に捲し立てるアコーディオンに、俺は完全に圧倒されていた。こんな反応が返ってくるなんて……何かがおかしい。
俺を恐れるか、軽蔑して逃げるか。逆に聞き流すか、受け入れてくれるか……そのどっちかしかないはずなのに。
アコーディオンのこの態度は……まるで、何かの『使命感』じみたものだ。
無理やりバスに連れ込まれた俺は、目的地に到着するまで、逆にアコーディオンに声を掛ける事が躊躇われてしょうがなかった。



着いた先は、確かにちんまりとした個人研究所の様な所だった。アコーディオンはそこの白衣の男と、挨拶もそこそこに交渉に入っている。

「……まあ、素人に毛が生えた様なものだから、余り期待はしないでよ?」
「はい、すみません。突然押し掛けて、こんなお願いをしてしまって……」
「まぁ、そこは君のお父さんで慣れっこさ。……で、調べて欲しいって言うのは『彼』の?」
「はい……あの子が、『私と遺伝子情報が共通していないか』、それを調べて欲しいんです」

…………? 何を調べて欲しいって? アコーディオンの話していた内容が、少なからず俺を混乱させる。話が変わっていないか?

「じゃあ、ちょっとだけ注射で血を抜かせてもらうよー。消毒をするから腕を出してね。余り腕は良くないから、動くと痛いと思うよ?」



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



……結局、そのまま俺は採血されて、待たされる事になった。確かにあまり良い注射の腕では無かった。結構ジクジク痛むぞ。
アコーディオンは、その白衣の男と共に別室で調べる手伝いをしているらしい。待たされたまま、俺は尚も分からなかった。
俺とアコーディオンの血を調べて、なんで俺の父親が分かるんだ……?

「……あー、待たせたね。トライデント君だっけ?」
「……はい」

白衣の男が部屋に入ってきて、俺は椅子から立ち上がる。後ろからはアコーディオンがついて来て……妙に、表情が暗い。

「結果から言うと、君たちの遺伝子情報には、確かに一定の共通性があったよ。ここの粗末な機材で分かる位だから、結構近いんじゃないかな?」
「は、はあ……」
「良かったなぁ、アコーディオンちゃん。君にも年下とはいえ、身寄りが居たんだよ。おじさんも安心したよー」
「は、はい……ありがとうございます……!」

話が良く分からないが、分からないなりに驚かされる。
アコーディオンが、俺と近い血族? 血の繋がりがあった? ……全く意外な、考えもしない話だった。

「じゃ、じゃあ……私たち、これで……」
「ああ、せっかくの仲間なんだ。仲よくするんだよー」

バツが悪そうなアコーディオンと共に、何が何だか分からないままその研究所を後にする。男の言葉が妙に耳についた。

「……どういう事なんだ、アコード?」
「……ごめんね。トラ君には言って無かったよね? もっと仲良くなってから、ちゃんと話すつもりだったんだけど……
 ……はは。トラ君の事、恋人として好きだったのに……親戚、かぁ……」

虚しそうなアコーディオンのその表情は、俺が初めて見るものだった。空元気の様なものが垣間見える。流石に、それは分かる。

「……実はね。あたしの祖父が……ママのパパが、その機関の『グラトン』って、科学者なの……!
 ……最悪な、悪魔……パパも、あたしも、地道に調べて……とんでもない人物だって、知ってる……!」
「…………ッ!?」

――――不思議なほど早く、その意味する所は頭が理解した。だが、認めたくなかった。何の冗談だ、それは……。

「……おい、つまりそれは……」
「トラ君、あたしの叔父さんなんだよッ! だからあたし達の血が繋がってたんだッ! もう、間違いないんだよッ!!」
「ッッ!!」

辛さを吐き出す様な、アコーディオンの絶叫が耳を突き刺す。同時にそれは、俺の心をも突き刺していた。
――――あの女の語った事は、嘘でも何でもない事実で。俺の父親は、世界に仇成している、最悪の悪人で……そして、俺たちの関係は、その為に壊された。

「――――――――ふざけるんじゃねぇぇぇぇぇぇッッッッ!!」

血が沸き立つ様な怒りとやり切れなさが、俺の腹の底から突き上げられて、叫びとなって飛び出た。
世界は、そんな俺たちを嘲笑っているのだろうか……雨が、ポツポツと俺たちの身体を叩いていた。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



(母親はクズだった。父親はもっとクズだった。俺は、母親がそんなクズだったから産まれる事になったんだ……)

――――アコーディオンは、その後辛そうに『グラトン』に関する情報を俺に伝えてきた。知っておいた方が良い――――それは彼女の信条だ。
だが、知って何になるんだ。俺の絶望は、益々深まっただけだった。無論全てが真実ではないのだろうが……間違いなく、大悪党なのは事実だ。

(ふざけんな……てめぇはそこに立って、日の光浴びてりゃ良いんだから楽なもんだよなぁ……何も考える必要なんざ無いんだから……!)

――――森の中で、俺はもうすぐ卒業する中学の授業をサボりながら、側に生えている木にさえ怒りをぶつけていた。
そうでもしなきゃやっていられない。俺は本当に、何のための命だったって言うんだ?
親の道具でしかなく、互いにその気も無かったのに、恋人を裏切る事にさえなって。こんなの……あんまり過ぎるじゃないか。
結局俺は『売女の子供』だった。いや、それにすらもう戻れない……まごう事無き『悪魔の子供』である事が、もう確実なんだから。
俺が何をしたって言うんだ。俺はこんなポジションで産まれてきたくなんて無かったと言うのに。

(てめぇ……てめぇに突っ込んで、この頭かち割ってやろうか? それとも、その枝で首を吊ってやろうか?)

もう、自分自身さえ嫌だった。死ぬ事しか考えられなかった。その癖、何事も無い様にのほほんと過ぎていく時間が、耐えられなかった。
晴れた空を見上げる――――あの空から投げ出されれば、俺は死ねるだろう。
堅い大地を見下ろす――――この地面が割れて飲み込まれれば、俺は死ねるだろう。
――――自分自身さえ憎みたくなってくる。そうでもしなければ、本当に心が壊れてしまいそうだった。

(ふざけるな……本当に俺が何をしたって言うんだ!? これは罰なのか!? だったら俺じゃなくてアイツらにでも下しやがれよ!!
 神も仏もあったもんじゃねぇ……こんな残酷な運命、あってたまるのかよ!!)

許せない。本当に許せない。神や悪魔が居るのなら、今すぐここで殺してやる。今の俺なら、神や悪魔だって殺してやれる。
だからさっさと責任者出て来い。殺してやるから……――――本当に、殺してやるんだ。

「……は、ははは…………」

――――怒りは、いつまでも持続できるものじゃない。冷めてしまえば、後は自分の無様さを思い知らされるだけだ。
いっそ夢みたいに、全てが醒めてくれれば良いと言うのに……現実は現実で、厳然とそこに存在する。
幸せってなんだっけ? 生きる意味ってなんだっけ? ……誰か、教えてくれ……誰か……。
それとも本当に、俺は死んだ方がマシなんじゃないだろうか? アコーディオンが『毒女』どころじゃない。俺こそ『毒男』じゃないか。
悪意が結実したからこそ、俺は産まれてきた訳で……。考えれば考えるだけ無駄なんだぞと言わんばかりに、涙がとめどなく溢れてきた。

(……悪意の、結実?)

それを無駄じゃなくしてくれたのは、たった1つの小さな閃きだった。世界がクソに見えてくる中で、俺は立ち止まって考え直す事が出来た。

(……俺が恨むべきなのは、運命なんかじゃない。生まれてきた事が問題なんじゃない……そうやって俺を『産んだ』のが問題なんだろ……!?)

閃きは、行き詰ってぐちゃぐちゃになった頭をスッキリさせてくれる切欠だ。絶対に無駄にするものか。その瞬間、俺はひたすらに思索を深める事を決めた。



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(……父親は、世界を苦しめてる。母親は、俺に悪意を持っている……だから、俺はダメなんだ。だけど、そうじゃない……はずだ)

上手く言葉に出来ない。それを上手く言葉にしなきゃならない。今を諦めたら、俺はもう本当に死にたくなる――――そんな直感があった。

(俺は……俺は、何も悪くない。そのはずだ! 色々スれはしたけど、人を傷つけたりした、つもりは無い……!
 悪いのは、アイツらなんだ。だから、俺が苦しんでる……でも、それっておかしいだろう?)

まるっきり、それは中学生の勘違い哲学みたいなものだ。だが、それは俺には必要で……そして今、大事な何かが見つかりそうなのは事実だ。

(俺が苦しむのは『運命』なんかじゃない。『悪い奴』が居るからなんだ……! 原因と結果……『因果関係』だ……!
 誰かが悪いから、誰かが悲しむ……良くある話じゃないか。俺の場合もそうなんだ……親がどうだろうが、俺が責められる謂われは無い……!
 でも『良くある話』なんだ……じゃあ、諦めるしかないのか?
 ――――でも、その『良くある話』を、みんな放っときっぱなしにしてるだろ? ……あって良いのかよ、そんな事……!)

絶望が、憎しみにすり替わっていく――――『悪』への憎しみに。怒りは、人間の精神の持つ、もっとも危険で強いエネルギーだ。

(……やってやるさ。それが俺の『復讐』だ。俺は放っておきはしない。誰かを……『謂われの無い誰か』を苦しめる様な『悪』は、俺が絶対に……!
 ……やれる。やれるさ。アコーディオンの言葉が、確かなら……。そしてそれは、俺だけの、俺だけにしかない、俺だけにしか出来ない、オンリーワンだ)

――――それは、確かな萌芽だった。その後の俺の全てを決定した、その最初の一歩だった。
それから、折に触れて常に反芻し、更なる思索を重ね、自分の人生を自問する、その最初の一歩だった。
『悪』は、理由の如何を問わず皆殺しにする。その、最初の一歩だった。



「院長先生! ……我儘を言いますが、俺はここを出ます! やらねばならない事があるんです!」
「……藪から棒に……っ、お前……何かを決めた様な、そんな目をしているな……だが、それは危険な目だ。私には分かる……何を、勘違いしてしまったんだ?」

孤児院に戻った俺は、一も二も無く院長室に飛び込んだ。院長先生は相変わらずの静かな顔で、俺に向かいあった。
相変わらずの厳粛さだ。しかし俺はもう折れない。確かに己に決めた事がある。「筋金が通った」とでも言えば良いんだろうか。今ならこの重み、耐えられる。

「何も言えません。そして、中学を出たら、恩返ししたいと思ってましたが、それも出来ないかも知れません。
 本当に無礼で、不躾で、恩を仇で返す様な真似だって事は分かっています。でも、それでも俺は、俺にしか出来ない事を見つけたんです」
「……………………」

あの厳しく静かな目が、俺を覗き込んでくる。だがもう一度言おう――――俺はもう折れない。ハッキリと、対等に立ってみせる。俺だけの人間の価値を以って。

「……今私が何を言っても、もう無駄な様だな……分かった。その決意があるなら、もう一度ちゃんと『けじめ』をつけてきなさい」
「え……?」
「話そうと思っていたところに君が来た……。お母さんが亡くなったそうだ。前回は中途半端だったのだろう?
 ……これが本当に、君とお母さんの『最後の最後』だ。葬儀も挙げずに火葬するらしい。その場にだけは、出席しなさい
 そして然る後……出発しなさい。自分の足で生きていく、その覚悟が出来たんだと言うならな……それが実を結ぶ事を、私は祈ろう……」
「……ありがとうございます! 出来ないかもしれない、なんてさっきは言いましたが……必ず、この6年間のご恩は、お返しします……!」



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――――火葬場には、誰もいないと思っていた。思った通り、火葬を受け持ったらしい係の2人を除けば、母の知り合いなんて1人もいなかった。
だが、意外な事に……アコーディオンが来ていた。どこで聞きつけたのかこの女は……。

「アコード……まだ俺に、会いに来てくれたのか?」
「……なんだかんだ言ったって、トラ君はトラ君だもん。言ったでしょ? ママとトラ君は、あたしには特別な人なんだって
 それに、パパ譲りの情報収集力、舐めないでよね? トラ君の予定は調べようと思えば思うままにって、ね
 ……叔父さんでも構わないもん。ただ、側にいて欲しい……ダメかな、『叔父様』?」
「……その呼び方、止めてくれ……」

そう言いながらも、俺は微かな嬉しさを自覚する。全部を知った上で、それでも会いに来てくれたのだ。こう言っては何だが、嬉しくないはずがない。
……アコーディオンが、グラトンを良く思っていないのは俺も知っている。それなら、俺のこれから歩む道も……拒まずについて来てくれるかもしれない。
それに特別だと言うなら、俺は特別であり続けよう。多少、その形が変わろうと、意味する所は大して変わりはしないはずだ。

「あの……ご遺族の方、ですよね?」
「あ……えぇ、一応は。何か……?」

火葬場の職員らしい男が、どこか困惑した様子で声を掛けてくる。子供2人だけと言う状況だ、おかしくないはずがない。
だが……その男の言いたい事は、そう言う事ではないみたいだった。

「お母様の遺体の火葬、終了したのですが……妙な事になってまして、是非確認をと思いまして……」
「妙な事?」
「えぇ、今遺骨を引き出します……少々お待ち下さい」

通常なら、ここから形ばかりの遺骨拾いをして、骨壷の完成を待つだけなのだが、そう言う訳にはいかなかった。
焼き上がった遺体の元に通された俺たちは、すぐにそれを知る事になる。

「……妙な金属球が、こんな風に遺体の中に3つもあったんです。普通だったら考えられません。なにか、心当たりはございませんでしょうか……?」
「これは……?」

確かに、母親の腹部の辺りに、3つの金属球はあった。何事かと手を伸ばした――――その時。

「う、わっ……!?」「な、なにこれ!?」

突然、紅く紋様を描く様に光が走ったと思うと、その金属球は俺の側にふわっと浮かび上がった。
俺が戸惑っていると、金属球は目の前に浮かびながら、綺麗に整列をする。何事かと視線を逸らすと、それに追随するように追いかけてきた。

「……これは、俺に合わせて動いてるのか……? ――――あぁ、そうか……俺が母親の身体の中に置き忘れてきたんだな……これは、俺の――――」

異能――――果てない力を発揮する、能力者。15年遅れて、俺は改めて自分がそうである事を知った。
運命なんて、あるはず無い。だが、こうした巡り合わせは、確かに運命と人に呼ばれても仕方ないのかもしれない。

――――改めて、俺は俺の道を生きていく為に、今、生まれ変わるんだ――――――――。



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(……思えば、色んな事があったもんだ……)

昔を思い出している内に、繁華街を抜け、いつの間にか倉庫街まで歩いて来ていた俺は、そこで回想を打ち切る。
もう妙な気まぐれも、その役目を終えた様で、俺は平静な心境に居た。それよりも――――。
この界隈は、人目を避けて何かをするのに最適なのだ。特に、搬入・搬出が終わったこういう時間は。

(…………思った通り、何か聞こえたな……!)

悲鳴、そして怒号。俺は即座に金属球――――『エターナルトライアングル』を展開させ、静かに急いで走った。
――――見れば、4人ほどの高校生が、1人を組み伏せ、好き放題に殴り、蹴り、タバコの火を……なんと頭髪に押しつけている。

――――到底、許されるもんじゃない。殺すには十分過ぎる獲物だ。

「――――そこまでだ。クズ共」

言うが早いか、俺の『エターナルトライアングル』は射出され、4人の頭を叩きつけた。
血みどろになって崩れ落ちる4人に、ボコされていた1人は悲鳴を上げながら後ずさる。
俺はわざと足跡をつけながらその被害者に歩み寄る。第三者の痕跡を残さなきゃ、このいじめられっ子が被疑者になってしまう。

「……さっさと病院に行け。そしてこいつらの同類がまだいるなら伝えろ。「俺に殺される前に、馬鹿を止めるんだ」とな」

そう伝えて、半分服も脱がされていた学生が、ガクガク震えながら頷いて見せた時、うぅ……と小さな呻き声が、倒れた身体から聞こえてくる。

「……くそ。まだ生きているのか……」

――――社会と言うものは、多くのものを内包し、そして覆い隠してしまう。
――――大衆は、その中で仮初の日常を甘受し、零れ落ちていく涙に見向きもしない。
――――理由もなく流される涙などない。そんな当たり前の事でさえ、忘れ去ってしまうのだ。
――――自分たちは、涙を流したくはないから。それに気付かないふりをしていれば、社会は勝手に回るから。

――――その涙を流させているものは何だ? その中に、悔恨と無念とを溶かし込んでいるのは?
――――俺はその答えを知っている。誓って俺だけは、確実に知っている。
――――『悪意』によって流された涙を、『無関心』によって『無かった事』になんて、させるものか。
――――俺がやらなければならない。俺が『人間』であるからこそ、『人間』として、やらなければならないのだ。

「ぅ、ぅあ、ぅ……た、ぅ……たす、け……」
「――――――――死ね」

――――止まりはしない。俺の命が朽ち果てる、その瞬間まで――――。

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最終更新:2014年11月28日 00:26