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リアルについて

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リアルについて

Seibun Satow

Dec, 7. 2010

 

『乱』観て、偉い時代劇の作家、池波正太郎がぼくと喧嘩したの。これで喧嘩したのね。淀川さん、『乱』はいいけど、濠がないじゃないかとおったのね。そんな見方してもろうたら困るんだ、黒澤明の映画は。そんなこと関係ない。ぼく、黒澤さんに、濠がない、言われた人あったよ、言ったら、「バカだね。山の城には濠がないんだよ。だれがそんなこと言った」。

淀川長治『淀川長治映画塾』

 

 最近、「リアル」が映画やテレビ・ドラマ、小説で求められている。けれども、そうだと評されている作品は、往々にして、細部へのこだわりは認められるものの、「リアル」を感じさせない。1890年代、尾崎紅葉と硯友社が写実主義を掲げていたが、それは着物の縞柄や髪の結い方を精緻に描写するだけのことである。今の動向はそうした歴史を思い起こさせる。そういった作品は「新硯友社」と呼ばねばなるまい。

 

 久保智祥記者は、20101241031asahi.com配信の「中ぶらりん、でもリアル 『ニセ医者と呼ばれて』堺雅人」において、堺雅人のインタビューを引きながら、次のように述べている。

 

 いま、37歳。若くもないし、老人でもない。若作りもできるし、老成したふりもできる。「どっちもいけそうな感じがしてて、でも、リアルはどっちでもない。そこに30代後半から40代の真骨頂というか、そこでしかできない自分の姿があるような気がして、そこから目をそらさないようにと思っています」

 そんな「中ぶらりん」が生む「リアル」を時代が求めているからか。

 

 堺雅人の意見は「リアル」が何たるかをわかっているけれども、それをどのように把握するかをつかんでいないことを告げている。彼はリアルはそれならではの固有さであると認識している。しかし、30代後半から40代の「真骨頂」、すなわち固有さをその前後の年代の否定によって規定している。これは、ルネサンスを定義する祭に、中世でもなく、近代でもない時代とするようなものだ。本質を捉えられていない。久保記者もそれをまったく理解していない。

 

 「宙ぶらりん」なのは、何も、30代後半から40代に限らない。思春期も、子どもでもなければ、大人でもない時期であり、「宙ぶらりん」である。もちろん、30代後半から40代と思春期は違う。こうした曖昧な規定にとどまってしまうのは、ライフサイクル全体から相対化してこの年代を考えていないからである。30代後半から40代は、習得した能力を発揮して社会に貢献し、子どもや後輩など後世代の指導・育成に携わると同時に、変化の激しい現代では、過去の経験や知識だけでは不十分であり、新しい状況に対応するように絶えず自己革新しなければならない。この年代はアイデンティティを更新し続ける必要があり、そのため「宙ぶらりん」と感じられる。

 

 取材・体験したことをそのまま表わせば、リアルになるわけではない。情報を整理し、それぞれの持つ意味を分析、全体像を浮かび上がらせる作業の成果がリアルをもたらす。リアルは相対化への意志によって把握される。それには、体系的な知識と解剖学的な認識が不可欠である。その際、対象の内部と外部ならびに一般性と個別性の相対化の作業が行われる。こうした相対化の認識を持って臨めば、その演技はリアルになる可能性がある。

 

 内部を相対化するためには、外部と比較して、それを対象化する必要がある。内部領域には特有のリテラシーとコミュニケーションが共有されている。それは内在化されていて、内部では意識されていないことも少なくない。医師のリアルを把握するために、看護士と比較するのはその一例である。患者が複数の症状を訴えたとしよう。看護士はそれぞれに対処する。他方、医師はそれをもたらしている原因をできる限り少なく探る。即応性では、医師は看護士に劣るが、治療は、前者が後者よりも根本的である。医療現場では両者は共同しているが、リテラシー・コミュニケーションはそれぞれ特有である。

 

 ニセ医者と言えば、手塚治虫は『ブラック・ジャック』の「古和医院」において、無医村で医療を続ける老ニセ医者を描いている。古和医師は、バセドー氏病の患者に難しい甲状腺(部分)摘出手術を行い、成功する。ところが、術後、患者はショック症状を起こしてしまう。彼は医学の専門教育を受けていないため、体系的知識に乏しく、その疾病に関する留意点が頭に入っていない。ブラック・ジャックの助言によりことなきを得る。去りがけに、この天才外科医は老医師の活動に敬意を表しながら、教育歴を語る祭には気をつけたほうがいいと伝える。彼の挙げた出身大学に戦前は医学部はなく、またインターン制も戦後に始まった制度だからである。一年後、BJは、ある街で、その大学の医学部で勉強する古和医師と偶然再会する。手塚治虫によるこの描き分けは見事である。

 

 特有のリテラシー・コミュニケーションによって養われてきたため、その内部には共有された固有の認知傾向が生じる。もちろん、個々のばらつきは認められるけれども、それはある範囲内に収まる。リアルはこれを具現することであって、細部はそれを補強するために追及されるべきである。

 

 次に、一般性と個別性の相対化をフジテレビ系で放映中の『フリーター、家を買う。』を例にとって考えてみよう。この作品は、一般性を踏まえないで、個別的事例があたかもその代表例であるかのごとく登場してくる。

 

 主人公は、就職したものの、自主退職して、フリーターになっている。これはフリーターの中では少数派に属する。2003年の内閣府の発表によれば、非正規雇用者の増大は、若者の意識変化によるのではなく、主に企業が求人を絞ったのが原因である。若者が自分探しに走った性で、非正規雇用が増えたというのはまったくのデマである。

 

 彼の母親はうつ病という設定であるが、映像を見る限り、それはあまり一般的ではない。まず、担当の医師は彼女や家族に笠原の7原則に則って臨んでいない。うつ病で最も警戒しなければならないのは自殺である。それを配慮するために、自殺しないことを約束させるなど7原則が必要である。また、DSM-Ⅳで示される標準的なうつ病エピソードが乏しく、隣人の嫌がらせなどストレッサーも非常に明確である。さらに、抗うつ薬──日本では睡眠薬を併用するのが通常──は効き目が現われるのが遅いわりに、副作用は早く出る。医師も患者も家族も、投薬開始から効果が認められるまでは注意が要る。これらは精神医学の専門書を開けば、知ることができる。

 

 うつ病は自殺衝動が強いことは確かであり、意識しないまま、自殺を行っているケースも少なくないと推察されている。しかし、彼女が行ったリストカットはその患者ではあまり一般的ではない。自殺方法は死への決意の強弱を示す合図である。これは法医学の書籍に言及されている。最も強いとされるのが飛び降りである。マンションの10階から飛び降りれば、確実に死ねる。逆に弱いとされるのが睡眠薬の過剰摂取である。発見が早ければ、助かる見込みがある。リストカットも強くはない。うつ病患者は、そのため、リストカットをあまり選ばない。

 

 以上のように、このドラマには標準的ではない事例に覆われている。もちろん、それがまったくないとは言えない。けれども、制作者がそれぞれについて調べていないと判断するのが妥当だろう。現実にフリーターで悩んでいる人やうつ病で苦しんでいる人から、稀なケースを選んで描いては世間に誤解が生じると抗議されたら、これでは納得のいく説明ができない。一般的ではない事例を頻出させることで物語を展開しなければならない理由が、そこから見出すことができない。フリーターもうつ病も、結局、巷で話題になっているから使っただけで、たんなる口実にすぎない。フリーターもうつ病も非常に身近な問題であるのに、あまりにも意識が低い。

 

 こうした必然性を欠く個別性への逃げは。恣意性を正当化しているにすぎない。リアルに反するのはこの恣意性、すなわち思いつきと思いこみである。リアルが求められている時代と言いながらも、これが蔓延している。体系的知識とかに某学的認識の乏しさによる相対化の不徹底がこのフェイクの原因である。しかし、警戒すべきは、こうしたバッタ物の流行ではない。歴史を見ると、ある認識が隆盛すると、必ずそれへの批判運動が起きる。いずれリアルに対する反発が生まれるだろう。けれども、リアル自体がこの有様である以上、その批判も建設的なものになりえない危険性がある。

 

 新硯友社作品はうんざりだ。もっと体系的に勉強しろ!

〈了〉

参照文献

手塚治虫、『新装版ブラック・ジャック7 』、チャンピオンコミックス、2005

淀川長治、『淀川長治映画塾』、講談社文庫、1995

久保智祥、「中ぶらりん、でもリアル 『ニセ医者と呼ばれて』堺雅人」、asahi.com2010124

http://www.asahi.com/showbiz/tv_radio/TKY201012040122.html

 

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