ロドリゲスwiki

魔法とアルゴリズム

最終更新:

o-rod

- view
だれでも歓迎! 編集

魔法とアルゴリズム

Seibun Satow

Oct, 26. 2010

 

「もう新作はだめだ」。

九代目市川団十郎

 

 長い伝統を持ち、一般に「古典」と称される芸術には、しばしばその枠にとらわれない大胆な「アドベンチュラー(Adventurer)」、すなわち冒険者が登場する。スーパー歌舞伎の三代目市川猿之助がその恒例である。歌舞伎以外にも、他の民族音楽やポピュラー音楽、現代音楽とコラボレートする雅楽器演奏者、ポップ・アートやイラストレーションなどと接近する書道家も活躍している。彼らはいずれも高度な身体性が要求される伝統的な技術を習得し、その上で、ジャンルを越境する冒険に挑んでいる。

 

 しかし、こうした試みは非常に刺激的で、興味深いものの、多くの場合、そこから後継者が出現していない。それらは彼らの感性に依存しており、「フォロワー(Follower)」、すなわち追随者にとって共有することが困難な「魔法(Wizardry)」である。とり入れたところで、「二番煎じ」のそしりを免れ得ない。その意味で、この冒険者は系譜の上で孤独であり、乗り越える世代がいないのだから、古びない。見事な花が咲いても、種を残さない。

 

 古典には、長年に亘って蓄積・形成されてきた規範がある。送り手と受け手がその共通理解を共有することで芸術のコミュニケーションが成り立つ。しかし、アドベンチュラーはそれを無視する。そのため、前知識を持たない門外漢にとってはとっつきやすお。

 

 共有が難しい以上、この冒険的試みは、その分野の可能性の拡大にはつながらず、変化ももたらさない。近代では独自性や個性が評価され、また大衆化・グローバル化に伴い門外漢が増えたため、一般からはアドベンチュラーが賞賛される。中には、権威への反発からこの逸脱者を支持するケースもあるだろう。もっとも、それらは、往々にして、過大評価である。とは言うものの、アドベンチュラーはそこに刺激を与え、活性化させるという意義を持っている。アドベンチュラーは、その意味で、不可欠の存在である。

 

 アドベンチュラーが創造的でありながらも、共有を持ち得ないのは、本質を見抜いていないからである。その分野と時代的・社会的現状を鋭敏に認識した上で、行われる試みはプラクティカルである。反面、対象の意味や価値など本質への関心は低い。対象の背後に潜む可能性を読みとることは好まない。感性に依存すると、直観が後退する。アドベンチュラーはタブーに兆戦し、それを超えることもしばしばである。けれども、それは、その分野の体系的な強固さを前提にしているため、断片的で、整合性・総合性に欠ける。しかも、独自性を追求するあまり、いつしか、冒険自体が目的となり、本末転倒してしまうことも少なくない。アドベンチュラーとリスク・ラバーは紙一重である。

 

 フォロワーが「類型的表現者」だとすれば、アドベンチュラーは「刺激的表現者」である。しかし、彼らではその分野を変革できない。

 

 それを担うのが「イノベーター(Innovator)」、すなわち革新者である。イノベーターはアドベンチラーとフォロワーヲつなぐ。アドベンチュラーは、独創性に欠け、定型的だとしてフォロワーを軽蔑しがちである。しかし、その分野の豊かさはフォロワーが支えている。イノベーターは自らの試みによって多くのフォロワーを排出する。アドベンチュラーは活性化させてくれる反面、それに対抗できるイノベーターが生まれないと、その分野の土壌がやせ細る。

 

 イノベーターが提示するのは魔法ではなく、「アルゴリズム(Algorism)」である。それを用いると、誰でもその革新さを具現するのが可能であり、しかも、拡張すれば、多種多様なヴァリエーションを編み出せる。イノベーターは対象の可能性を顕在化させ、具体的に形式化する。それは新たな組織化の方法論である。アルゴリズムが共有されることで、その分野の可能性が拡充する。アルゴリズムを発見し、それを公開する表現者がイノベーターである。その分野の真の魅力を味わうには、イノベーターを吟味することが欠かせない。

 

 こうした「共有的表現者」の代表は黒澤明や手塚治虫である。彼らが示したアルゴリズムは歴史を変えている。殺陣シーンに効果音が初めて入ったのが黒澤明監督の『用心棒』であり、大きな瞳の中のキラキラ輝く星が最初に登場したのは手塚治虫の『リボンの騎士』である。真の独創性は共有的表現、すなわちアルゴリズムを創出することである。たんに真新しいものや新奇なもの、個性的なものを創作することではない。

 

 こう考えてくると、2009年の二代目林家三平の襲名ほど滑稽なものはない。初代林家三平はまさに不世出の偉大なアドベンチュラーであって、彼の芸を継ぐことは不可能である。あの襲名は冒険ではない。ただの無謀だ。

〈了〉

参照文献

渡辺保他、『新訂表象分化研究』、放送大学教育振興会、2006

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

記事メニュー
目安箱バナー