隠元隆琦(1592~1673)
- 中国福建省出身で、黄檗山にて出家し臨済宗の教えを受け、四十六歳で黄檗山満福寺住職となった。六十歳を過ぎて、当時の明は北方民族の進入により寺院の多くが焼かれたとき、日本の長崎にある興福寺の僧侶から日本に正統な禅を教えて欲しいという要請を受ける。承応三年(1654)に、20人の弟子を引き連れ来朝。その風貌は白く長い髪と髭、さらに爪までが長く伸びていたという。
- しかし、隠元を受け入れようとしていた寺(妙心寺)で、長老による受け入れの抵抗が起こり、また幕府も渡来僧の動静を警戒していたことにより、隠元は摂津(大阪府)の普門寺に留め置かれる。
- 隠元のもたらした教えは、当時の日本にとって斬新かつ新鮮なものであったとされる。唐音による『読経』音楽的な『梵唄』。また阿弥陀の縁起分や小経を読誦するやり方は『念仏禅』を広めた。そして戒律の重視、今まで日本では受戒会が行われておらず、それを遺憾に思った隠元は『広戒法儀』と呼ばれる著書を出版。寛文三年(1663)日本初の戒会をひらいた。
- 隠元がもたらした物は仏教にとどまらず、宇治萬福寺の建築様式、後に茶道にも発展する普茶料理、書画や煎茶。他にも西瓜、蓮根、孟宗竹なども、隠元がもたらした物であるとされる。またインゲン豆やインゲン豆腐、インゲン帽子、インゲン頭巾なども、隠元の名にちなんで付けられている。
《参考》
学研発行 仏教人物の事典
最終更新:2006年12月25日 01:54