日本神話
足り無い部分はすぐに書き足しますので、ご容赦を。byダンの花
倭建御子・日本武尊(ヤマトタケル)
古事記のヤマトタケル
誕生~少年時代
景行天皇の皇子として生まれる。幼名を「ヲウス」といった。
天皇の命により会食をしない兄「オホウス」を呼びにいくが、勢いあまって兄を殺してしまう。
西征
兄を殺すほど強い性格を父に嫌われたヲウスは西の熊襲、クマソタケル(熊曾建)兄弟の征伐を命じられる。
クマソタケルの宴にヲウスは女装して忍び込み、兄を刺し殺す。続いて弟も切り殺すが、その前に勇敢さを称えられ「倭建御子」の尊称を受ける。
宮への帰りの道中には山、川、海峡の神をやわす。
出雲建(イズモタケル)の征伐にむかう。
初めヤマトタケルはイズモタケルの友人に成りすまし、心を許して川遊びをしているときにイズモタケルの刀を木刀に代えてしまう。その上で決闘をしてイズモタケルを叩き殺してしまう。
倭姫からの贈り物~
東伐
死後
日本書紀のヤマトタケル
日本書紀のヤマトタケルは日本武尊と表記されている。
大まかな流れは
古事記と同じだが、異なる点も見られる。
詳しく書く。
風土記のヤマトタケル
ヤマトタケルは
風土記の中でも確認できる。
出雲・常陸・肥前の国々の風土記の中に姿を見せ、尾張・陸奥・美作・阿波の諸国の『逸文』にも姿を留めている。
風土記の中でも特に注目されるのはヤマトタケルが天皇として扱われていることがあるということである。
『
常陸国風土記』では倭武天皇と表記されている。起源説明説話と共に井戸を掘ったとの話がいくつも残っている。
『
阿波国風土記』逸分では倭健天皇命と表記され、井戸を掘ったという説話がある。
このことから地方ではヤマトタケルが天皇と同一視されることもあったということができる。
参考文献
『風土記説話の古代史』 瀧音能之 桜楓社
最終更新:2005年07月30日 18:28