役小角(えんのおづの、えんのおづぬ)


役行者(えんのぎょうじゃ)、役優婆塞(えんのうばそく)とも。
修験道の始祖とされる。奈良時代の山岳修行者で、葛城山周辺の山林で修行していたらしい。実在を示す正史は『続日本紀』がのみであるが、その中ですでに神秘的な力を体得していたとされている。『続日本紀』における記述は以下がすべてである。

(文武天皇三年五月)「役君小角、伊豆島に流さる。初め小角葛城山に住し呪術を以て称さる。外従五位下韓国連広足(からくにのむらじひろたり)これを師とす。後、その能を害み讒するに妖惑をもってす。故に遠処に配す。世に相伝へて言く、小角よく鬼神を役使し、水を汲み薪を取らしむ。もし命を用いずんば、すなわち呪術をもってこれを縛す。」
(原文は漢文体。書き下しは岩波書店「新日本古典文学大系『続日本紀』」を参考にした)

讒奏による罪状は「妖惑」、すなわち怪しげな言説をもって民衆を惑わしたということになっており、これは「僧尼令」に基づくものである。実際のところは中央集権化や仏教の国家統制などと関わる政治的な問題が背景にあったのであろうが、記録にない以上は今となっては分からない。

史実はともかくとして、この記述はさまざまにふくらまされて説話化していった。『日本霊異記』『今昔物語集』『三宝絵詞』などにみられるものがそれである。
それらによると、概ね次のような点が骨子となっている。

役小角は修行の利便のために大峰山と金峰山の間に橋を架けようとして鬼神を使役したが、葛城山の一言主(ひとことぬし)は自分の姿が醜いのを恥じて夜だけ働こうとした。しかし小角は許さず、明王の呪法をもって一言主を呪縛してしまった。これを恨んだ一言主は貴族の夢に現れ「役小角は神通力で天皇に災いをなそうとしている」と告げ、このため小角は伊豆に流されることとなった。

なお、役小角は修験道の開祖とされるだけあって、全国の霊山は多くが役行者の開山と称している。もちろん、交通手段が乏しい奈良時代にあって東北から九州までの山という山に彼が登っていたとは、常識的には考えがたいのは言うまでもない。

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最終更新:2005年07月29日 08:18