佐太大神(サダオオカミ)

出雲国風土記に登場する出雲の四大神の一。
秋鹿郡佐太御子社(現在の佐太神社)の祭神。

物語

出雲国風土記の島根郡加賀神崎条*1に佐太大神の説話が記載されている。

加賀神崎は佐太大神の産まれたところである。神崎は、現在の島根県八束郡島根町に潜水鼻という岬があり、そこのことかといわれている。そこには3方向に開いた洞窟がある。
佐太大神が産まれるときに、その母神のキサカイヒメが弓矢を失くしてしまった。そこでキサカイヒメ?は「私の子供が麻須羅神(勇敢な男の神)の子であるのなら、失くした弓矢よ、出てこい。」と願った。そうすると、水の流れによって角の弓矢が出てきたが、「これではない。」として、捨ててしまった。
次には金の弓矢が流れてきた。それを取って、「暗い岩屋であることだ。」と言って、岩屋を射通した。
そうして出来たのが加賀神崎である。

風土記の記述ではこの洞窟の近くを船で通るときには、大声を出さなくてはいけない。もし静かに行くと、旋風が起きて船が転覆するとの信仰があった。




その性格について

佐太大神については、多くの性格が指摘されている。
太陽神・・・辰巳和弘・吉井巖
漁撈神・・・水野祐
農耕神・・・加藤義成・佐藤四信・吉井巌・水野祐
蛇神・・・吉野裕子・辰巳和弘

太陽神としての性格は、日光感精神話との関連によって、説明されることが多い。
洞窟を女陰に見立てて、そこを貫く光る矢を男性に見立てるのは、『応神記』のアメノヒボコ?の伝承に見られる。

 新羅国に一つの沼あり。名は阿具奴摩と言ひき。この沼の辺に、ある賤しき女昼寝しき。ここに日虹のごとく輝きて、その陰上に指ししを、またある賤しきをとこ、そのさまをあやしと思ひて、つねにその女のわざを伺ひき。かれ、この女、その昼寝せし時よりはらみて赤玉を生みき。

女神が窟を射抜いて、子供が麻須羅神であるかを確かめるのは、日光感精神話のバリエーションの変形であろうとする。
農耕神としての性格は、加藤義成が、国引き神話に見える「狭田国」と関連付けて、「山間に開拓した細長い水田」の意としている。また、吉井巌は「さ」を播磨国風土記?の「サヨツヒメ」と結び付けて、農業神としての性格を強調している。『出雲国風土記註論』では、なぜ誕生地が海なのかが説明できないとして、この見解については否定的である。代わって『出雲国風土記註論』は、「サタ・サダ」は「岬」のことだろうとする。大隈半島に佐多岬、愛媛県に佐田岬などがあるという。
また、水野祐は漁撈神から農業神にかわっていったとしている。だが、「キサカイヒメ?」や「航海のまじない」の記述があることや、アメノヒボコ?もまた瀬戸内海や日本海を遍歴する航海神の性格を持つであろうことを考えると、佐太大神は農業神ではなく、あくまで漁撈民の神であったとしたほうが、正しい理解だと思う。
また、吉野裕子はカカを蛇の呼称とし、加賀崎のカカを蛇から取られたのではとしている。現在、佐太神社での大祭で、海蛇が奉斎されることをみると、首肯できるかと思う。


参考文献

「佐太大神――古代出雲における太陽信仰――」 吉井巌 1970年
『風土記の考古学*古代人の自然観*』 辰巳和明 白水社 1999年 
『蛇 日本の蛇信仰』 吉野裕子 法政大学出版局 1979年
日本文学大系『風土記』 秋吉吉郎 岩波書店 1958年
新編日本古典文学全集『風土記』 上垣節也 小学館 1997年
講談社学術文庫『出雲国風土記』 荻原千鶴 講談社 1999年
『標註古風土記出雲』 栗田寛・後藤蔵四郎 大岡山書店 1931年
『出雲国風土記参究』 加藤義成  原書房 1962年
『出雲国風土記註論 嶋根郡巻末条』 (調査研究島根古代文化センター報告書25)島根古代文化センター 二〇〇四年

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2005年12月14日 16:43

*1 佐太大神の記述は、風土記中2ヵ所(加賀郷条・加賀神崎条)に登場する。だが加賀郷条での記述は早い段階で脱落したものを、後世になって加賀神崎条の記事によって補訂されたという説がある。(平野卓治・荻原千鶴)ここではこの説を取り、加賀神崎条の記事だけを取り上げる。